新華社の禁止用語リストに民族団結を乱す蔑視的な表現があったが、それは同時に、民族蔑視の感情が根強く残っていることを物語る。民族間で領土と人民を奪い合った歴史がある以上、そう簡単に反目の感情が消えない。日中間の戦争の記憶と同様だ。
北京西郊の円明園近くに「騒子営(saoziying)」と呼ばれる村がある。モンゴル族が打ち立てた元朝時代、当地には多くのモンゴル軍兵士が駐屯していた。王朝が元から漢族の明に移ると、漢族はモンゴル族への蔑視をこめてこの地を「騒韃子」と呼んだ。モンゴル民族はまたの名を「韃靼(タタール)」といった。漢族は、文化水準が低く、衛生的でない彼らを軽蔑し、乱れていることを意味する「騒」を頭につけたのだ。それが伝わり現在の「騒子営」になった。
天津にも同じ地名があったが、1984年、民族団結の基本政策に反するとして、音の似ている「稍子営(shaoziying)」に改名した。北京でもしばしば論争が起きる。2009年には、北京市の人民代表大会で「北京の地名を美化する」との名目で、差別的な地名や下品な地名などを改めるべきだとの建議もされたが、名前が背負った歴史文化の保護を主張する学者も多く、結論は先送りされている。
辺境の地にも、漢族が他民族を支配し、領土を拡大していく過程で、民族蔑視的な地名が生まれている。それをいち早く指摘したのが、1935年、まったく知られていなかった中国西北部を旅した『大公報』特約記者の范長江(1909-1970)だ。後に『人民日報』社長も務め、中国メディア界の草分け的存在とされている。1935年5月から10か月間、四川省成都から陝西、青海、甘粛、内モンゴルを馬やいかだを使いながら踏破し、同紙に連載した。
連載をまとめた『中国的西北角』が1936年8月、中国で出版され、早くも38年1月には日本の改造社から邦訳『中国の西北角』(松枝茂夫訳)が出た。漢族のほか回族、チベット、ウイグル、モンゴルと他民族が暮らす地を通るたび、彼は生活習慣の違いと同時に、民族間の偏見、不和が深まっている現実を目の当たりにした。
甘粛の甘谷を訪れ、土地の元の名が「伏羌(フーチャン)」だったと知る。羌人と呼ばれるチベット人を征服し、村を築いた際の名だ。そこで彼は言う。「かかるチベット人を侮辱した地名は、このうえ存留せしめてはいけないと思う」。蘭州の北方にある永登という村は、元の名を「平番(ピンファン)」といった。「チベット人を平らげる」の意味で、やはりチベット人の土地を平定したものだ。近くの川も「平番河」と名付けられた。彼は「これらの地名の上に、不平等な民族関係の意義が十分に流露している」と書いた。
民族の団結にかける范長江の思いは強い。当時としては破格の高い認識だったはずだ。
「中国の伝統的民族政策は、すべて相互の圧迫関係の上に建築されてきた。青海の回族と漢族とは自ら『中原人』と称している。それは『文化民族』という意味だ。しかもチベット人を称して『番子(ファンズ)』といい、蒙古人を『韃子(ダーズ)』といっている。彼らに対してはただ束縛征服し、これをしていわゆる『中原人』の統治に帰せしめるという一点張りで、民族平等の思想に基づいて共同の解放を謀ろうということをしない」
「青海の漢人と回人は、いずれも自ら『中原人』と称して、チベットと蒙古人を蔑視し、これを『番子』『韃子』と呼んでいる。それというのが、蒙・蔵人の生活は比較的遅れていて、アタマも単純だから、商業取引の上では、わけもなく人に騙されるのだ。彼らは蒙・蔵人と交易する場合、公平に取引することはめったにない。十中の九まではペテンにかけ、そうすることを『番子をつかまえる』とか『韃子をつかまえる』などといっている」
私がこの約70年後、甘粛や青海、四川のチベット人居住区で聞いた話もこれと酷似している。地名を変えただけで容易に解決できるものではない。范長江が26歳の長旅で残した民族政策の精神を最後に記す。
「民族団結の真の方法は、各民族の平等なる連合である。いわゆる民族平等の真義は、政治上では『比例的平等』、文化経済上では『発展機会の平等』だ。かくして各民族の圧迫は始めて不可能となり、生存上たがいに依存しあうことが絶対必要となり、経済的にも自然な融通、文化的にも自然な交流が行われるようになる。かくしてかならずや鞏固なる団結が成立し、充実した斬新なる文明が育まれるであろう。しからざる限り、中国における民族の大分裂は遠からぬ将来において必至であると記者はひそかに恐れる次第だ」
平等で公平な社会をいかに築いていくか。蔑視用語の問題をたどったが、やはり根本の問題に立ち戻るしかない。
北京西郊の円明園近くに「騒子営(saoziying)」と呼ばれる村がある。モンゴル族が打ち立てた元朝時代、当地には多くのモンゴル軍兵士が駐屯していた。王朝が元から漢族の明に移ると、漢族はモンゴル族への蔑視をこめてこの地を「騒韃子」と呼んだ。モンゴル民族はまたの名を「韃靼(タタール)」といった。漢族は、文化水準が低く、衛生的でない彼らを軽蔑し、乱れていることを意味する「騒」を頭につけたのだ。それが伝わり現在の「騒子営」になった。
天津にも同じ地名があったが、1984年、民族団結の基本政策に反するとして、音の似ている「稍子営(shaoziying)」に改名した。北京でもしばしば論争が起きる。2009年には、北京市の人民代表大会で「北京の地名を美化する」との名目で、差別的な地名や下品な地名などを改めるべきだとの建議もされたが、名前が背負った歴史文化の保護を主張する学者も多く、結論は先送りされている。
辺境の地にも、漢族が他民族を支配し、領土を拡大していく過程で、民族蔑視的な地名が生まれている。それをいち早く指摘したのが、1935年、まったく知られていなかった中国西北部を旅した『大公報』特約記者の范長江(1909-1970)だ。後に『人民日報』社長も務め、中国メディア界の草分け的存在とされている。1935年5月から10か月間、四川省成都から陝西、青海、甘粛、内モンゴルを馬やいかだを使いながら踏破し、同紙に連載した。
連載をまとめた『中国的西北角』が1936年8月、中国で出版され、早くも38年1月には日本の改造社から邦訳『中国の西北角』(松枝茂夫訳)が出た。漢族のほか回族、チベット、ウイグル、モンゴルと他民族が暮らす地を通るたび、彼は生活習慣の違いと同時に、民族間の偏見、不和が深まっている現実を目の当たりにした。
甘粛の甘谷を訪れ、土地の元の名が「伏羌(フーチャン)」だったと知る。羌人と呼ばれるチベット人を征服し、村を築いた際の名だ。そこで彼は言う。「かかるチベット人を侮辱した地名は、このうえ存留せしめてはいけないと思う」。蘭州の北方にある永登という村は、元の名を「平番(ピンファン)」といった。「チベット人を平らげる」の意味で、やはりチベット人の土地を平定したものだ。近くの川も「平番河」と名付けられた。彼は「これらの地名の上に、不平等な民族関係の意義が十分に流露している」と書いた。
民族の団結にかける范長江の思いは強い。当時としては破格の高い認識だったはずだ。
「中国の伝統的民族政策は、すべて相互の圧迫関係の上に建築されてきた。青海の回族と漢族とは自ら『中原人』と称している。それは『文化民族』という意味だ。しかもチベット人を称して『番子(ファンズ)』といい、蒙古人を『韃子(ダーズ)』といっている。彼らに対してはただ束縛征服し、これをしていわゆる『中原人』の統治に帰せしめるという一点張りで、民族平等の思想に基づいて共同の解放を謀ろうということをしない」
「青海の漢人と回人は、いずれも自ら『中原人』と称して、チベットと蒙古人を蔑視し、これを『番子』『韃子』と呼んでいる。それというのが、蒙・蔵人の生活は比較的遅れていて、アタマも単純だから、商業取引の上では、わけもなく人に騙されるのだ。彼らは蒙・蔵人と交易する場合、公平に取引することはめったにない。十中の九まではペテンにかけ、そうすることを『番子をつかまえる』とか『韃子をつかまえる』などといっている」
私がこの約70年後、甘粛や青海、四川のチベット人居住区で聞いた話もこれと酷似している。地名を変えただけで容易に解決できるものではない。范長江が26歳の長旅で残した民族政策の精神を最後に記す。
「民族団結の真の方法は、各民族の平等なる連合である。いわゆる民族平等の真義は、政治上では『比例的平等』、文化経済上では『発展機会の平等』だ。かくして各民族の圧迫は始めて不可能となり、生存上たがいに依存しあうことが絶対必要となり、経済的にも自然な融通、文化的にも自然な交流が行われるようになる。かくしてかならずや鞏固なる団結が成立し、充実した斬新なる文明が育まれるであろう。しからざる限り、中国における民族の大分裂は遠からぬ将来において必至であると記者はひそかに恐れる次第だ」
平等で公平な社会をいかに築いていくか。蔑視用語の問題をたどったが、やはり根本の問題に立ち戻るしかない。
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