行雲流水の如く 日本語教師の独り言

30数年前、北京で中国語を学んだのが縁なのか、今度は自分が中国の若者に日本語を教える立場に。

中国の「外」ではなく「隣」にあった日本の存在意義

2017-02-23 22:07:56 | 日記
「日本」という国号が中国なしにはあり得なかったのと同様、今の中国も日本なしには存在しなかった。近代以降の活発な人的交流、反作用としての抗日戦争勝利、改革開放への経済援助だけではない。中国が「真ん中の国」であっても、「国の中の真ん中」であっても、周辺がなければ存在しない。その中にあって、唯一漢字を受け入れ、言葉の交流を続けてきた日本の意義は大きい。

冗談半分に言う言葉がある。「中華人民共和国のうち、『中華』以外は日本人がつくったものだ」。近代以降、西洋概念の翻訳は日本が中国に先んじた。中国の古典に通じた日本の知識人が、漢字の原義を踏まえながら創意工夫の末、多くの西洋言語を翻訳し、漢字を共有する中国がそれを輸入した。中国にとっては、漢字の「逆輸入現象」だった。

実際、英語と中国語の翻訳は中国にわたった宣教師がまず取り組んだ。英語と中国語の辞書としては、モリソン『英華字典』(1822)、ロブシャイド『英華字典』(1866~69)、ウィリアムズ『英華字彙』(1844)が知られている。「people」の訳は「百姓」が圧倒的に多く、ロブシャイドにならった井上哲次郎編『訂増英華字典』(1844)でようやく「人民」が登場する。

「共和(republic)」制には、日中とも頭を痛めた。なにしろ君主をいただかない制度が想像つかない。日本では江戸末期の1845年、学者の箕作省吾が地理書『坤輿図識』で最初にオランダ語から「共和」と翻訳した。中国の西周時代に存在した「共和」を取り込んだものだ。もちろん王制下なので、現在使われているよう「民衆による政治」の意味ではなく、王室の腐敗に際し、二人の政治家が共同で政務をつかさどったことによる。

こうして生まれた「人民共和国」を、中国共産党は国名として採用したのである。日清・日露戦争での日本の勝利が引き金となって、日本への中国人留学生が殺到し、日本人が漢字に訳した和製漢語の「自由」「憲法」「社会主義」「資本主義」など約1000語がそのまま中国に逆輸入された。多くの西洋学術書は、日本語から中国語に翻訳された。



毛沢東は1942年、陝西省延安で行った演説「党八股に反対しよう」の中で、

「われわれは外国の言葉を無理に取り入れたり、乱用するのではなく、外国の言葉のなかのよいもの、われわれに適するものを吸収しなければならない。それは、中国語の語彙では足りないからである。現在、われわれの用語のなかには外国からたくさんのものが吸収されている。たとえば、今日開いている幹部大会の『幹部』という二字は、外国から学んだものである」

と語っている。「幹部」もまた和製漢語だ。抗日戦争中ではありながら、言葉の輸入についてこだわりのない態度を示したことは評価されてもよい。1949年10月1日、天安門広場で「中華人民共和国」の建国を宣言したのも毛沢東である。毛沢東は「外国」としか言っていないが、漢字を共有する日本以外はあり得ないことだった。

「外」と言うと、内外を分断し、自分以外の世界を示すだけにとどまる。だが「隣」と言い換えれば、境をはさんでかかわりあう関係になる。「日本」、「中国」の言葉の成り立ちからも、そんな関係を思い描くことができる。

「日本」という国の名前をきちんと説明するためには・・・

2017-02-23 10:44:55 | 日記
日本語を習う外国人から、「日本」は「にほん」なのか「にっぽん」なのかと聞かれ、即答できる日本人は相当の勉強を積まなくてはならない。「大日本帝国(だいにっぽんていこく)」が国名を変更して以来、各方面が議論を重ねてきたが統一見解はない。二つの発音を持つ国名は世界にも例がないし、漢字の読みが多様であることを説明するためには、文字の伝来・受容から始めなくてはならないので、容易な仕事ではない。それを特異だと感じるか、多様なユニークさだととらえるかによって、日本文化に対する認識も大きく分かれる。

645年から始まった大化改新で「日本」が正式な国号となったことは教科書に書いてある。当時は「やまと」とも呼ばれ、それ以前は、「大和」「倭」などの漢字があてられていた。「日本」への固定は、統治者の漢字表記に対するこだわりがある。「日」は唐代に伝わった漢音では「ジツ」、それ以前の呉音では「ニチ」と読まれる。「ニチ」にならったのは、呉音が日本人により親しみやすい語感を持っていたことを意味する。

日本が「日の本(もと)」、太陽の昇る場所を意味することはだれでもわかる。視点は日本の西側に置かれている。中国から見ているのだ。統治者のこだわりとはここにある。すぐに思い浮かぶのは、607(推古15年)、聖徳太子が遣隋使の小野妹子に持たせた手紙の文言である。

「日出処天子至書日没処天子無恙云々」(日出ずるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや・・・)



隋の煬帝は、中国の皇帝にしか使われない「天子」を、東方の小さな島国の当主が名乗ったことに対し激怒する。だが、聖徳太子は太陽の運行を用い、朝貢関係ではない対等の関係を築くことにこだわったのだ。「日出ずる」日本は、「日没する」中国がなければあり得ない。つまり「日本」という国号は、隣にあった大国の中国によってもたらされたものだということになる。

日本に文字のなかった時代、中国が与えた名が「倭」である。蔑視が含まれているというが、それほどとは思えない。周辺の少数民族に対しては「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」と、けものを連想させる言葉が与えられているが、「倭」は「にんべん」である。白川静『字統』によれば、「委は稲魂(いなだま)を被って舞う女の形で、その姿の低くしなやかなさまをいう」とある。米文化がこんなところにも顔を出してと思えば、実に興味深い。

実際、3世紀末に書かれた『魏志倭人伝』には稲作や養蚕を含め、日本の風俗について詳細な記載がある。見たものをそのまま伝えようとする努力が感じられる。

「其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當脆拝。其人壽考、或百年、或八九十年」(集まりの際は、父子・男女の区別がなく、人々は酒を好む。長老に対しては、手を打って、うずくまり、拝むようにして敬意を示す。長寿で、百歳や九十、八十歳の者もいる)

また、「女は慎み深く、嫉妬しない。盗みはなく、争い事も少ない」との記述もある。

その後、漢字が伝わり、「倭」が「日本」を名乗るようになると、中国はそれをすんなり受け入れた。8世紀半ばのこと。遣唐使としてわたり、そのまま長安で官吏として要職にあった日本の阿倍仲麻呂が帰国することになった。交遊のあった詩人の李白は詩を送り、「日本の晁卿(ちょうけい=仲麻呂の中国名)」 帝都を辞す」と詠んでいる。

西安の公園には、李白の詩を刻んだ阿倍仲麻呂の碑が建っている。



同じように「中国」もまた、どんなに厄介ではあっても、日本という隣人がいなければ今の姿はないことを、次回は書いてみたい。相互に意識しあい、学びあい、影響を与えあい、ともに歩んできた関係であることがよくわかる。