先日の「親鸞展」で気にかかっていた「松虫・鈴虫」について調べてみました。
松虫、鈴虫の 剃髪の図
松虫鈴虫は京都の今出川左大臣のお姫様でしたが、あんまり美しいものですから、
上皇様のお耳に入り、 御所に入って上皇様の身の回りのお世話をすることになりました。
初めのうちは、上皇様にもかわいがられ毎日が楽しくてたまりませんでしたが、
日が経つにつれて ほかの官女たちに妬まれて意地悪をされるようになりました。
上皇様がお庭で呼んでいらっしゃると言われて急いで行ってみると誰もいなかったり、
お風呂に入るように言われたので入ると水だったり、それはだんだんひどくなりました。
松虫鈴虫は、何度か夜の庭で泣き明かしましたが、とうとうがまんできなくなり、出家して尼さんになろうと決心しました。
そうすれば、意地悪されることもなく安らかな毎日が送れると思ったからです。
承元(建永)の法難
建永元年(1206年)、後鳥羽上皇が熊野神社参詣の留守中に、上皇が寵愛する「松虫」19歳 と「鈴虫」17歳 という側近の女性が、
御所から抜け出して「鹿ケ谷草庵」にて行われていた念仏法会に参加する。
安楽房遵西と住蓮房の『六時礼讃』の美声が、世を憂いていた松虫と鈴虫を魅了し出家を懇願する。
安楽房と住蓮房は、上皇の許可が無いため躊躇するものの、二人の直向さを受け、剃髪を行う。
『愚管抄』によれば、更に彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを上皇不在の御所に招き入れ、
夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたとされている。
法難
松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことに加えて、男性を自分の不在中に御所内に泊めたことを知った後鳥羽上皇は憤怒し、
建永2年(1207年)2月、専修念仏の停止を決定。
住蓮房・安楽房に死罪を言い渡し、住蓮房は六條河原において、安楽房は近江国馬渕にて処される。
住蓮房、辞世の詠
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極楽に生まれむことのうれしさに
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身をば仏にまかすなり希里
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安楽房、辞世の詠
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今はただ云ふ言の葉もなかりけり
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南無阿弥陀仏のみ名のほかには
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その他に、西意善綽房・性願房の2名も死罪に処される。
同月28日、怒りの治まらない上皇は、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子を流罪に処した。
法然は、土佐国番田(現、高知県)へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県)へ配流される。
この時、法然・親鸞は僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」の俗名を与えられ、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)を与えられる。
しかし法然は土佐まで赴くことはなく、円証(九条兼実)の庇護により、九条家領地の讃岐国(現、香川県)に配流地が変更され、
讃岐で10ヶ月ほど布教する。
その後、法然に対し赦免の宣旨が下った。しかし入洛は許されなかったため、摂津の勝尾寺(大阪府)で滞在する。
ようやく建暦元年(1211年)11月、法然に入洛の許可が下り、帰京できたものの、2ヵ月後の建暦2年(1212年)1月25日、死去する。
建暦元年(1211年)11月、親鸞に対しても赦免の宣旨が下る。
親鸞は、法然との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。
雪解けを待つ内に法然は亡くなり、師との再会は叶わないものと知る。
親鸞は、子供が幼かったこともあり越後に留まることを決め、後には東国の布教にも注力することになる。
その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防で念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられて
います。両姫ほ墓は 京都「安楽寺」にあるという。
光明防(生口島)
松虫、鈴虫は今出川左大臣の息女で姉は19才、妹は17才、共に容色優れて麗しく、後鳥羽上皇に召され,殊のほか寵愛されましたが、
法然上人の弟子住蓮・安楽の六時礼賛の美声に感激し、密かに宮中を出て仏門に入り、
名も妙智、妙貞と改め、朝廷の追補を逃れ如念尼公の袖にすがり当地へ同行したといわれております。
その頃京都では法然上人は念仏信仰を説き庶民の尊信を集めていましたが、朝廷からは異端の教義を説くものとして罰せられ、
松虫、鈴虫事件とも連座して流罪を命ぜられました。
法然上人は備前備中を経て四国讃岐へ渡る途中、この寺に居られる如念尼公の招きにより御来島、
しばらくご留錫、尼公、松虫、鈴虫や里人に親しく仏法を説かれたと伝えられております。
粉川の隠れ家でこのことを伝え聞いた松虫と鈴虫は、役人の手がここへも延びてくるだろうと思うと恐ろしくてたまらなくなり、
粉川の近くの加太の浦から船に乗って、生口島の光明坊へ逃げてきました。 都から遠く離れたこの光明坊までは、役人の手も届きません。
生口島 光明防にあるお墓
後から調べて 「そうだったんだ」と・・・もっと前もって知って行けばよかった!と
いつものことながら後悔しています。