山陽道(西国)第39回目(松子山峠~湯坂温泉)
2014.6.10(火曜日) 曇り
6月2日、九州地方と山口が梅雨入り(去年は5月28日)。平年より4~5日早いそうだが、梅雨入りと同時に九州南部、四国地方はゲリラ豪雨で被害が続出した。梅雨の合間、定刻の電車に乗って10時47分白市駅に着く。むかしは下関―糸崎間の電車が主流であったが、最近は下関―岩国 岩国―広島 広島―白市、糸崎間と小刻みになり長距離電車が少なくなった。タクシーで前回の終点、前田道路(株)「やくしばし」前で下車したのが11時15分。急な下り坂を歩いて行くと左手に「交通安全」と刻まれたお地蔵さんがあった。前回迷った松子山峠の出口(本郷から来ると入口)だが、一歩さんは「最初の二軒の家(二軒目には見事な土蔵の蔵がある。)の間に裏の畑に通じるような坂道がある。この坂道こそが旧山陽道だ」と書かれてある。家は全部で三軒。やっと松子山峠の出口を発見する。
やくしばし 二軒目の土蔵のある家 これが旧山陽道だ
今回は「銀山橋」付近まで長い下り坂である。坂を下って行くと、東広島市と竹原市の市境にかかる手前(市境の標識はない)の街道右側に「旧山陽道茗荷清水(みょうがしみず)跡」の石碑があり、その横に「音に聞こえしみょうがの清水 三原御前酒におとるまい」と刻まれた石碑もある。以前は水が湧きだす所に小屋が建てられていたらしいが、いまは小屋がなくロープが張られている。少し行くと右側に「これより旧山陽道 田万里往還」と書かれた木の道標があり、その先に「向かいの棚田 風呂ヶ迫縄文遺跡」と書かれた案内板があったが、どれが遺跡なのかはっきりしなかった。田万里から横大道の街道筋には、整然と積み上げられた石垣が多く見られる。この地域には江戸時代の石垣も多く残されているらしい。
茗荷清水跡の石碑 田万里往還 向かいの棚田が縄文遺跡? 石垣が多い
田万里の峠道は山裾をくるくると曲がり長い。道幅も狭くかなり急な坂道である。かつては、中国駅伝の難所で、本郷から上がって来ると心臓破りの丘であったらしい。(下りばかりなので、かなり足に堪える)暫く行くと、右側に石立神社がある。「寛延4年(1627)大きな岩が割れて崩れ落ちた。被害はなかったが住民は神徳を感じ新たに祠堂を建てて祀った」とある。小さな小川の袂に「赤瓦釉薬西条来待のルーツ 油土製造 福田家水車跡」と書かれた案内柱があった。(銀山橋の袂にも案内柱がある)
田万里の峠道 石立神社の鳥居と祠堂 水車跡
街道筋を歩いていると、茱萸(ぐみ)の木に小粒だが紅色の綺麗な実が沢山なっている。おいしそう!(2年前 貰って食べた事を思い出した)銀山橋付近(田万里町堀坂)で街道は国道2号線の下のトンネルを通り、一時国道の北側に出て、すぐにまた、トンネルをくぐって南側に戻り西に進む?(西条から歩けば本郷は東になると思ったが、西に進むとは・・・すっかり方向音痴になった。)のんびりとした田園風景を眺めながら歩いていると、どこの田圃や畑にも猪防御用の電線棚があり、猪捕獲用ワナがある。
茱萸の実 銀山橋付近 猪防御用電線棚 猪捕獲用ワナ
田万里川の流れに沿って、街道もカーブを描く。左手には国道2号を隔てて田万里小学校が見えてきた。その先、T字路の入口に「藤ヶ平古城跡」「畠谷坂のお地蔵さん」と書かれた木の案内板があり、道の反対側に祠があった。前に案内板が立っているが、字が消えていて読めない。「これが畠谷坂のお地蔵さんかね!」「イヤ違うんではないの!お地蔵さんにしてはただ石を置いただけだし」とひと議論。暫く行くと、左手に西立寺があったので立ち寄った。静かで心休まるお寺だ。明治時代最初の小学校が置かれていたと案内表示がある。
田万里小学校 畠谷坂のお地蔵さん? 西立寺
田万里に入ると旧山陽道関係の表示が沢山あって助かる。一歩さんの話によると、地元の方が公民館活動として表示をしてくださっているそうだ。西立寺のすぐ先、左手にオオバサンと呼ばれている小さな祠があり、その近くに「黄幡坂一里塚跡」と表示された木柱がある。この下り坂は黄幡坂と呼ばれているそうだ。そこから、5分程度下って行くと右手に「原翁頌徳碑(天保五年建立)」の案内板と石碑がある。
オオバサン 黄幡坂一里塚跡 黄幡坂 原翁頌徳碑
道なりに歩いて行くと、右手に「瀧ノ荒神社・荒神ノ瀧」と書かれた案内柱があり、山手に祠と少し奥に瀧が見える。その先、「これより東 市荒神まで 田万里市」と書かれた案内板がある。四日市(西条)から次の宿駅である本郷までは、距離が6里(24Km)あり、西国街道の中でも、最も長丁場で急坂の道が続く旅人泣かせの個所だったとか。田万里市はほぼその中間にある「間宿」で、茶屋などが並び小休所として賑わった。「行程記」にも「この所よき茶店多し」と記されている。本陣の伊藤家には大名が泊まったといわれている。
荒神ノ瀧 瀧ノ荒神社と案内柱 案内板 頼杏坪の歌
田万里市に入ると左手に本陣の伊藤家がある。板壁に「明治時代最初の郵便取扱所、後の郵便局跡」の表示がある。その隣に「旧山陽道 市恵美須神社」があり、田万里小学校初代高橋校長の顕彰碑もある。 街道は田万里市の東のはずれで急に右に大きく曲がっている。宿場町の出入り口にはこのような「鉤辻の道」が多く見られ、宿場町の防衛のために設けられたものだともいわれている。この右折する角の家は江戸時代の旅館の後で「旧山陽道田万里市 旅館跡(宿屋)」と書かれた表示もある。
本陣伊藤家(明治時代最初の郵便取扱所) 顕彰碑と恵美須神社 鉤辻の道と旅館跡
鉤辻の道は大きく右に曲がりすぐ左折するが、その右側の山手に市荒神社があり、その下に「これより西 市頭橋まで 田万里市」と書かれた案内板がある。ここが田万里市の出口である。間(あい)の宿は最近歩いた一貫田(西条~海田間)にもあった。その先、右手に「往還の名水 茗荷の清水」と書かれた案内表示があり、清水が湧き出していて、透き通った池(水溜り?)に小さな魚が泳いでいた。少し行くと、右側に小さな祠が2つ並んでいる。地蔵さんの祠の方に板が打ち付けられて、字が書かれたと思われるが、消えていて読めない。多分「いぼ地蔵」と思われる。
市荒神社 市出入口の案内板 茗荷の清水 いぼ地蔵では?
ここで時刻が13時15分、今日は国道2号線沿いのレストランで昼食の予定。お店は左手の田圃の向うに見えているが、そこに至る道が見つからない。地図を見ると竜王神社の方に行けば国道に出られそうなので歩いていると、街道筋の民家の庭に歌碑があった。残念ながら誰の歌なのかわからない。街道を左折して橋を渡ると、「竜王神社前」のバス停の所に出た。レストランに向って国道沿いを歩いていると、「ラストエンペラー愛新美術館」があったが、廃館になっていた。
レストランはあるが 民家の庭に歌碑 竜王神社前のバス停 愛新美術館
街道に戻ったのが14時20分。道なりに行くと右手の畑で菊の栽培が行われている。出荷の都合か品種が異なるのか、茎の長さが違っていた。その先、「旧山陽道 これより田万里往還」の表示がある。ここが田万里の出口である。西野町の大橋で田万里川を渡り、国道を横断して末京に入るが、信号機の手前右角の家の門に「むかえる」と書かれた蛙の石像がある。母蛙の上に子蛙がいて合計六匹。成程、蛙が六匹で「むかえる」か。
菊の栽培 田万里の出口 蛙が六匹「むかえる」 大橋の信号機
末京に入ると、左手民家の石垣の所にお地蔵さんがある。(昭和45年9月建之)と刻まれている。 石垣の角に「西野小学校跡」の表示がある。ここ末京も石垣が沢山ある。末京集会所の辺りから、右手向うに湯坂温泉の賀茂川荘が見えてくる。街道の右側は、一段低い所を国道2号線が走り、その向こうを賀茂川が流れる。賀茂川が南に曲がり、田万里川と分離する手前に湯坂温泉賀茂川荘がある。
民家前のお地蔵さん 西野小学校跡 末京の石垣 湯坂温泉賀茂川荘
街道は日当たりがよく、北側を山に遮られているからか、冬でも山中の割には暖かいらしく、バナナによく似た芭蕉の木がある。生き生きとして生命力を感じさせる。時刻は15時30分。帰りの電車も気になるので、街道を外れ国道沿いのコンビニに行く。そこからタクシーを呼び16時前に白市駅に到着する。
芭蕉の木 コンビニで今日は終了 白市駅
今日のコースは7.5Km (広島県の計94.6Km 総計259.7Km)
参加者 S夫婦とM夫婦の4人
白市駅を16時30分の電車に乗り帰宅。
今回はJR西高屋駅をショートパス
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