goo blog サービス終了のお知らせ 
不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

邪馬壹国は、始まりの国であり満たされた壺である

2013-01-18 15:16:30 | 邪馬壹国

 
Dscf4394
                12_2  ___2
Saburou Uemori
           かごめかごめの真実とは

 

 

 

 

邪馬壹国は兵庫、京都、大阪、奈良、にまたがる国だった!

魏志倭人伝に記載されている情報をもとに境界国をなぞると、邪馬壹国(しゃもいっこく)は丹後半島を含む兵庫県但馬、丹後、丹波地方から摂津、大和へとつながった国土であり、行政府の首都が纒向(奈良)であり、女王卑弥呼が住む聖地は、兵庫県の中央に位置する、播磨風土記で表記される埴岡の里、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがる地域で、居城はである。

邪馬壹国の女王卑弥呼が居た埴岡の里(兵庫県生野、神河町)・栗への朝見ルートは、高句麗、現在の中国遼寧省鞍山市の道教の故郷、千山から神の故郷、蓬莱()を経由して朝鮮半島に沿いながら現在の釜山あたりから対馬、壱岐、を経由して呼子(佐賀県)に宝船を呼び込みます。ここまでは神で来ますが、お一人の神様は、神を呼子に降ろして定期航路を帰ります。降ろされた神は、陸路、吉 岡 そして津まで宝物を運んで行きます。 津からは神が物部氏の船に乗せられて関門海峡を下して宇佐八幡の神様にご挨拶して、それから瀬戸内へ入り、中国山脈のって山の大門 まで20日を要して到着します。ここからさらに10日かかってたどり着く所がの神えびす様の総本社 がある西宮です。ここで検品を済ませ、三つの御竜車物を乗せて、塚を通り、三田、篠山、春日を経て知山に着き、粟鹿を通って南下し、シオン(聖地)と呼ばれていたイヤ(生野)へとやってきて最終地点である(神河町)へとたどり着きますが、ここが女王卑弥呼の居城でした。西宮からここまで陸路1ヶ月を要した。

女王卑弥呼への朝見ルートは地名に福の一文字が残る、福の神のルートである。

そして卑弥呼のお墓は、779mの山頂にあった。

 邪馬壹国の国土図と呼子(佐賀県)からの女王卑弥呼の居城までの道程図

Img1161513200001

高句麗にあった千山から、千ヶ峰の麓の卑弥呼の居城への上陸地点までの海路図

Img1161513500001

 

女王卑弥呼の居城が、埴岡の里の栗である証。

 グーグルマップの3Dで、旧約聖書にある生命の樹(カバラ)の法則に則り発見された、八幡山を中心に半径10km内に山を使って造形された壮大な地上絵群との位置関係図

Dscf8201

1・・八幡山(カゴメ紋の中心点)  2・・卑弥呼の墓  3・・男性シンボル              4・・女性シンボル  5・・鳥  6・・鳥  7・・亀  8・・奴婢  9・・大亀

10・・龍(玄武)  11・・

A ・・絶峯御林(イエス・キリストを祀った地下神殿)

B ・・古城山御林(モーゼを祀った地下神殿)

C ・・生野に残る古地図の二つの御林と、卑弥呼の墓を教える三角形が交わった点

D、E、F ・・ 人工的ポイントの山

12 13 ・・メノラー(神の木)

14 ・・ ひょうたん

・・・

1 八幡山

Dscf6246Dscf5342_3Dscf5549_2


Dscf5334

2 卑弥呼の墓

Dscf5263_2Dscf5351_2Dscf5332Dscf5345


3 男性シンボル

Dscf6145_4

4 女性シンボル

Dscf6163_6

 6 鳥(鶴) ・ 9 大亀 

Photo_7

10 龍(玄武)

Photo_9

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女王卑弥呼への朝見ルート

2012-11-07 23:12:35 | 邪馬壹国

邪馬台国新論発表

 

邪馬台国の謎、完全解明

 

邪馬台国の女王卑弥呼が居た埴岡の里(兵庫県生野、神河町)への船のルートは、高句麗、現在の中国遼寧省鞍山市の道教の故郷、千山から神の故郷、蓬莱()を経由して朝鮮半島に沿いながら釜山あたりから対馬、壱岐、を経由して呼子に宝船を呼び込みます。ここまでは神で来ますが、お一人の神様は、神を呼子に降ろして定期航路を帰って行きます。降ろされた神は、陸路、吉 岡 そして津まで宝物を運んで行きます。 津からは神が物部氏の船に乗せられて関門海峡を下して宇佐八幡の神様にご挨拶して、それから瀬戸内へ入り、中国山脈のって山の大門 まで20日を要して到着します。ここからさらに10日かかってたどり着く所がの神えびす様の総本社 がある西宮です。ここで検品を済ませ、御竜車に物を乗せて、塚を通って、三田篠山を通って春日から知山を通り、粟鹿を通って南下し、シオン(聖地)と呼ばれていたイヤ(生野)へとやってきて(神河町)へとたどり着きます。西宮からここまで陸路1ヶ月を要します。 女王卑弥呼の祈り場は、ユダヤの二人の大王が祀られた、絶対の王様イエスキリスト(絶峯御林)とモーセ(古城山御林)を見つめる、ヤハウェの神を祀る八幡山 が祈りの場であり山門でした。

女王卑弥呼への朝見ルートは福の神のルートでした。

そして・・、ハウェ を崇める神の国ヤマト(大和)の国でした。Imgy081903310001Photo_6

 

Imgy072218130001Photo_2

 

Photo_3

Dscf4126_6伊勢神宮(内宮)から鶴と亀や龍(玄武)などの地上絵が造形された生命の樹の中心ライン上にある千ヶ峰が指し示している先は、千山(中国遼寧省鞍山市)です。「千山へ行きませんか」と誘われて、そして導かれるように・・千山へ行ってきました。もう2回も連れて行かれました。

   カバラが指し示す千ヶ峰の先は、道教の故郷 千山です。

Dscf3440 Dscf3439 Dscf3386 Dscf3402 Dscf3355 Dscf3391 Dscf3331 Dscf3472 Dscf3469_2 Dscf3421 Dscf3394 Dscf3423 Dscf3442 Dscf3441 Dscf3438 Dscf3451 Dscf3450 Dscf3449 Dscf3448 Dscf3447 Dscf3446 Dscf3445 Dscf3444 Dscf3443

 

 

 

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間違いなく隠岐の島へ呼ばれていました

2012-09-09 21:25:23 | 邪馬壹国

2012年9月6日(木)


隠岐の島の大満寺山へ登り、やはりそこからは想像していた通りの、私には人工的山が視界に飛び込んできました。一つは、方角から四国の足摺岬、もうひとつは対馬でした。


神戸に帰り地図上に線を引くとどうでしょう、正三角形を二つ組合せた奇麗な菱形の図形が描けました。


PhotoPhoto_2Dscf6902Dscf6901Dscf6900


Dscf6890Dscf6877Dscf6927


Dscf6919


Img9091747260001


ガイドの野津さんに4:00頃、春日橋のバス停で見送られてポートプラザ前に着いたのは丁度夕方の5:00頃でした。夕食までにはまだ時間があるので、タクシーで玉若酢神社、水若酢神社へと案内してもらいました。目的は、その神社の近くに古墳群があるとのことで、その日のうちに御霊にご挨拶をすることにしました。


玉若酢神社


Dscf6943Dscf6944_3Dscf6946Dscf6948Dscf6947Dscf6952_2


Dscf6952


Dscf6950Dscf6961Dscf6958Dscf6953Dscf6959Dscf6955Dscf6960Dscf6956Dscf6954


水若酢神社


Dscf6962Dscf6971Dscf6973Dscf6969Dscf6967Dscf6966


Dscf6974


Dscf6974_2Dscf6975_2Dscf6964


Dscf6963Dscf6972_3


夕食の時間前にはお風呂に入って汗を流すこともでき、丁度7:00には夕食の席に着くことができました。前日は相部屋での食事でしたが、この日は別の部屋に通されて私一人のはずなのに、何か大勢さんの宴席によばれているような不思議な感覚でした。山の精霊や御霊さんたちにご挨拶も終わっての安心感からなのか、御霊さんたちに「ようこそ遥々おいで下さいました、どうぞどうぞ!」とビールを勧められたせいなのか、一人のはずなのに、大びん2本も飲んでしまいましたぁ。 そこへ・・


「今日、タクシーに乗られましたか!?」とご主人。


「はい、乗りましたが・・」と私。


電話に出ると、「隠岐の島のこといろいろ話が聞けるかも・・」というお誘いで、「じゃ~8:30に来てください!」とお願いして、行ったお店ではピンクの物体を出してパワーバランスや味比べの実験に「何ですかぁこれ!」と、これだけで時間が経ってしまい、そうしているとお客さんがドド~~ッ!と増えてきたのでおじゃますることにして、女将さんに地図を書いてもらったお店に行ったら又、同じことをやっていましたね。


「大西さんですか、じゃここに立ってもらえますか」と、隣のダンディな男性にカウンターの中かな眺めているチイママに向かって立ってもらってパワーバランスをやっている私でした。


「おお!! 何コレ!?」 と、たわいもない遊びで時間が過ぎ去った隠岐の島の夜でした。


大西さん、ありがとうございました!


翌朝、どうしても気になって仕方なかった伊勢命神社へ松浜のご主人にお願いしてレンタカーを借りて行くことにしました。


伊勢命神社


Dscf6976Dscf6977_2


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南 灘   ・・ 南の謎

2012-08-28 15:13:24 | 邪馬壹国

庵月へ行って分かったことは、神崎郡神河町にある八幡山を取り囲む集落に猪篠(いざさ)という地名がありますが、字こそ違いますが伊笹(いざさ)という地名や長谷という地名も共通してあります。

そしてイザサには古い古い歴史があるようです。

偶然でしょうか・・。偶然ではないようです。

そして庵月さんにいただいた香住観光協会発行の「御崎 平家村のおはなし」を読むなり、??

んん??! 

・・・公家の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)という人は、老中と共に船に乗っていくことにしました。

「この壇ノ浦よりも遥かに壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮していけるだろう」 という記載箇所がありますが、壱岐・対馬は壇ノ浦からに位置します。

南北がまるっきり逆に言われています。

・・・

ふと思ったのは、魏志倭人伝の南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。

・・・

遥か南に・・を 遥か難に・・ と書き変えたら 間違いでもありません。

難して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。・・と書けばこちらも問題ありません。

魏志倭人伝の書き手も平家の伝記を書いた人も、難と南の文字を書き違えたのか、その時代の人達は東西南北の概念に共通性が無かったのか、またまた思いこんでしまう私でした。

Img8281402400001

Img8281403360001_2

Img8281403530001

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊都国(いづこく)+投馬国(つまこく)=伊投媽(いづも)

2012-05-23 23:07:49 | 邪馬壹国

2012年5月23日(水)

朝から倉庫の片づけをし、在庫を調べると底をつきそうな気配なので、ピンクのテラファイトを久々に組み終わってホッとすると、夕方の6時ぐらいになっていました。疲れと安心感からか、意識を失ったように椅子に座ったままの昏睡状態から目が覚めた時には、8時を回っていました。

 

目が覚めるなり・・

「出雲のイヅモは 伊投媽 と書きます。伊都国投馬国を合わせた国が出雲(伊投媽)の国ですと・・」 ??  んん ??

魏志倭人伝

6.伊都国 戻る
東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。 官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸がある。 世々王がある。みな女王国に属している。(そこは帯方)郡使が往来す るときつねにとどまるところである。
7.奴国 戻る
東南(行)して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。 百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。 二万余戸がある。
8.不弥国 戻る
東行して不弥国(筑前の国、糟屋郡の宇瀰、いまの宇美町付近) にいたる。百里である。官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)という。千余戸がある。
9.投馬国 戻る
南(行)して投馬国にいたる。水行二十日である。官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかりである。
10.邪馬台国 戻る
南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳(なかて)という。七万戸ばかりである。
35.一大率 戻る
女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。
(倭)王の使が京都(魏の都、洛陽)・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、(帯方)郡の使が倭国に(いたり)およんだときは、みな津(船つき場)に臨んで 伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王(のもと)にいたらせるときに、差錯(不足やくいちがい)がないようにする。

Img3101111120001

 

 

 

 

 伊王島 島 大王崎 を底辺とした二等辺三角形の頂点に出雲大社があります。

出雲を投媽と書いて・・ みると・・。 そして 伊勢神宮のにも共通した意味があるようです。

  なるって、誰のことでしょうか。

 ・・・

 夢と言いますか、お告げといいますか、 忘れないうちにとここに書いてみました。

投馬国が吉備王朝のように言ってますね・・、私には最初から総社宮が物部王国(吉備王朝)の総本宮だと教えていますが、出雲の国譲りと邪馬台国の謎をキッチリ教えてくれているようです。

伊王(伊投媽の神)が築きあげた瀬戸内海の制海権を三角形の図は表しているようです。

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

邪馬台国へのルート、何も矛盾はありません

2012-05-20 22:14:27 | 邪馬壹国

Dscf5225_4     邪馬壹国ここをクリック

紀元前より中国では、司南(指南器)指南魚などと、方位磁石はありましたが、真北と磁北が違うことが当時分かっていたのかどうかは疑問です。

現在は日本の場合、方位磁石の針は真北より西に偏りますが、このことを西偏角といい、東へ偏ることを東偏角といいます。その偏りと角度は場所によって異なりますが、必ず真北と真南を指す場所が、偏角0ラインです。

その偏角0ラインの地球儀から、この地球誕生の謎も推測できそうです。Dscf5224_3

Dscf5226
Dscf5227
Dscf5228
Dscf5229
Dscf5230

 

偏角地球儀をつくってみました。

Img5190935210001

 八福神が乗った宝船を対馬、壱岐を通って呼子に呼び込みます。ここで宝物を担いで草木が生い茂る獣道のようなところを通って吉(糸島市)まで行きます。そこから那の津、岡へ来ます。福岡から津に到着しますが、呼子から福津まではわざわざ陸行です。福津港は物部王国への重用要な港であり、毎日、倭国へ出入りする船を対馬見山から監視していました。その官の責任者はタマ(玉)と呼ばれていました。現在その対馬見山の麓にある神社の名が、冨士白神社で、お稲荷さんを祀っていますが、秦氏物部王国は、完全に北部九州と瀬戸内海を収めていましたから、戦略的に関門海峡へは海外からの船は一切通さなかったことでしょう。ですから、邪馬台国への詳しい地図も手に入らないわけですね。

現存する世界最古級の世界地図混一疆理歴代国都之図にも瀬戸内海の存在はありませんし、日本列島の向きも90度時計まわりに回転した姿で描かれています。この地図も先行した地図を参考にして新たな情報を描き加えたものとしたら、元図の地図系図をたどると邪馬台国の時代に行き着くことでしょう。宝物とともに宝船に乗せられた漢からの使者七福神様が知らされている地図情報からすれば、目的地まで連れられて行くだけですから、福津から船で南行して20日で物部王国の総本部である総社宮への入り口である福山市の大門にある惣堂神社で報告を済ませ、そこから又南行して10日で邪馬台国の女王が住む西の宮への上り口、西宮に着き、そこから上陸し、知山を通り、女王様がいる埴岡の里山門まで一か月でしたと、魏志倭人伝に記されたことには何も矛盾はありません。

漢からの使者七福神様は、「船は東へ東へと進んだんだけどな~~??」と祖国へ帰って報告しても、元図が元図ですから、魏志倭人伝には南へ南へとしか書けなかったのでしょうね。

我が国の礎を造った物部、秦氏は、素晴らしい戦略家だったようですね。

ちなみに、長さ(距離)の単位ですが、(り)は、尺貫法における長さの単位であり、現在の中国では500m、日本では約4km、朝鮮では約400mに相当するようですが、当時の中国での1里は50mだったと推測できます。

(後日、対馬の発着港が特定できて、一里は77mに特定)

女王卑弥呼おばさんが居た邪馬台国とそのルートは・・

Img3101112160001

 

Photo_3


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸記者クラブへ情報発信

2011-09-02 20:46:36 | 邪馬壹国
                       
 
                                                     邪馬台国

Dscf4394
Saburou Uemori
   

邪馬壹国は兵庫、京都、大阪、奈良、にまたがる国だった!

魏志倭人伝に記載されている情報をもとに境界国をなぞると、邪馬壹国(しゃもいっこく)は丹後半島を含む兵庫県但馬、丹後、丹波地方から摂津、大和へとつながった国土であり、行政府の首都が纒向(奈良)であり、女王卑弥呼が住む聖地は、兵庫県の中央に位置する、播磨風土記で表記される埴岡の里、現在の兵庫県神崎郡神河町と朝来市生野町にまたがる地域で、居城はである。

邪馬壹国の女王卑弥呼が居た埴岡の里(兵庫県生野、神河町)・栗への朝見ルートは、高句麗、現在の中国遼寧省鞍山市の道教の故郷、千山から神の故郷、蓬莱()を経由して朝鮮半島に沿いながら現在の釜山あたりから対馬、壱岐、を経由して呼子(佐賀県)に宝船を呼び込みます。ここまでは神で来ますが、お一人の神様は、神を呼子に降ろして定期航路を帰ります。降ろされた神は、陸路、吉 岡 そして津まで宝物を運んで行きます。 津からは神が物部氏の船に乗せられて関門海峡を下して宇佐八幡の神様にご挨拶して、それから瀬戸内へ入り、中国山脈のって山の大門 まで20日を要して到着します。ここからさらに10日かかってたどり着く所がの神えびす様の総本社 がある西宮です。ここで検品を済ませ、三つの御竜車物を乗せて、塚を通り、三田、篠山、春日を経て知山に着き、粟鹿を通って南下し、シオン(聖地)と呼ばれていたイヤ(生野)へとやってきて最終地点である(神河町)へとたどり着きますが、ここが女王卑弥呼の居城でした。西宮からここまで陸路1ヶ月を要した。

女王卑弥呼への朝見ルートは地名に福の一文字が残る、福の神のルートである。

そして卑弥呼のお墓は、779mの山頂にあった。

 邪馬壹国の国土図と呼子(佐賀県)からの女王卑弥呼の居城までの道程図

Img1161513200001

高句麗にあった千山から、千ヶ峰の麓の卑弥呼の居城への上陸地点までの海路図

Img1161513500001

 

女王卑弥呼の居城が、埴岡の里の栗である証。

 グーグルマップの3Dで、旧約聖書にある生命の樹(カバラ)の法則に則り発見された、八幡山を中心に半径10km内に山を使って造形された壮大な地上絵群との位置関係図

Dscf8201

1・・八幡山(カゴメ紋の中心点)  2・・卑弥呼の墓  3・・男性シンボル              4・・女性シンボル  5・・鳥  6・・鳥  7・・亀  8・・奴婢  9・・大亀

10・・龍(玄武)  11・・

A ・・絶峯御林(イエス・キリストを祀った墓(推定))

B ・・古城山御林(モーゼを祀った墓(推定))

C ・・生野に残る古地図の二つの御林と、卑弥呼の墓を教える三角形が交わった点

D、E、F ・・ 人工的ポイントの山

12 13 ・・メノラー(神の木)

14 ・・ ひょうたん

・・・

1 八幡山

Dscf6246Dscf5342_3Dscf5549_2


Dscf5334

2 卑弥呼の墓

Dscf5263_2Dscf5351_2Dscf5332Dscf5345


3 男性シンボル

Dscf6145_4

4 女性シンボル

Dscf6163_6

 6 鳥(鶴) ・ 9 大亀 

Photo_7

10 龍(玄武)

Photo_9

12  メノラー(神の木)   12,13 一対のメノラー

Photo_11Photo_17

13  メノラー(神の木)

Photo_15

14 ひょうたん

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする