初めに、結論を書くと、徳川将軍に「聖君」などいません。もともと「聖君であることを求められていない」からです。「名君」であることは多少重要でしょうが、「聖君であれ」とは誰も思っていないでしょう。そもそも天皇が存在するわけで、聖君は「天皇の役割」ということかなと思います。
なぜ聖君という言葉を持ち出したかというと、朝鮮王朝では、やたらと聖君であることを求められるからです。少なくともドラマではそうなっています。でも朝鮮王朝にもきっと聖君なんていないでしょう。「王」ですから、現実は聖君でいられるほど甘くないのです。
さて、徳川15代の中の名君は誰か。といっても普通の日本人は15人の名前を暗記で言うことはできないでしょう。私もできません。4代とか6代とか7代とか10代とかあまりに影が薄いのです。
初代徳川家康、、、まあ彼は別格でしょう。創業社長ですから、まあ名君なんでしょうが、いろんな意味で別格です。ちなみに神君とよく言われます。とにかく別格です。
2代徳川秀忠、、、3代家光の功績とされていることの半分以上は、秀忠の功績です。実際に幕政改革行ったのは家光で、しかも秀忠の死後ですが、秀忠が用意した方針のもとに行ったともいえます。秀忠はドラマではよく描かれませんが、きわめて有能な人だと思います。もしくは有能な部下を使いこなした人です。
3代徳川家光、、、いろいろ功績があるとされていますが、半分以上は親父の功績です。というか死んだ親父の作ったレールのうえに成り立った功績だと思います。有名なわりにはドラマの主役になることが少ない人です。「将軍家光忍び旅」とか、古いところでは「家光が行く」がある程度です。大河では「葵 徳川三代」があって、一応主人公の一人です。
4代徳川家綱、、、病弱で早死にしています。影が薄い人です。それでも幕府が成り立ったのは、すでに合議制でうまくいく組織になっていたからでしょう。おじさんの保科正之の補佐があったことも幸いしました。保科さんは秀忠の隠し子です。保科さんは実質的には大老でした。後半は酒井忠清が権勢をふるいます。家綱の時代から「文治政治」が始まったという評価もあります。
5代徳川綱吉、、、ドラマにはよく登場してました。赤穂の討ち入りがあるからです。最近は「忠臣蔵」が流行らないので、あまり登場しません。家光の子で、家綱の弟です。犬公方とかいう別名もあります。いままで馬鹿にされて描かれることが多かったせいで、「実は名君だった」なんて新説も出ています。経済的には徳川の黄金時代です。裏を返せば、彼ぐらいから財政が傾きます。
6代徳川家宣、、、、家光の子で早死にした徳川綱重の息子です。綱吉の「おい」ですね。新井白石を登用しましたが、「在位がわずか3年」です。影が薄い。「いえのぶ」と読みます。
7代徳川家継、、、六代家宣の息子です。7歳で没しています。子供です。
8代徳川吉宗、、、徳川本家の血筋が絶えたので、紀州徳川から将軍になりました。暴れん坊将軍です。中興の祖とされてますが、彼がやった享保の改革はほぼ失敗しています。御三卿(御三家ではありません)の元を作った人です。いろいろやったけど失敗で、まあ名君とは言えないかな、と思います。幕府財政はよくなりましたが、要するに年貢を増やしたからです。商品経済の発達についていけなかった人です。
9代徳川家重、、、八代吉宗の長男です。体が弱い。言語が不明瞭であることなどで「有名?」です。15年在位しましたが、前半6年は吉宗の大御所政治です。
10代徳川家治、、、「いえはる」です。在位が長く26年も将軍をしていました。田沼政治で有名?です。つまり商品経済の発達になんとか対応しようとした政権です。
11代徳川家斉、、「いえなり」です。10代家治の子ではなく、吉宗の四男である徳川(一橋)宗尹(むねただ)の孫です。50年も将軍をしてました。前半は寛政の改革を行いましたが、後半は「無駄遣い老人」となりました。幕末、幕府の財政が傾いていたのはこの人の責任でしょう。50年の将軍在位は「ダントツの1位」ですが、ドラマの主役になった記憶はありません。
12代徳川家慶、、「いえよし」です。天保の改革で財政引き締めを目指しましたが、時すでに遅し、、でした。蛮社の獄はこの人の時代です。1853年にペリー来航、その年の夏に亡くなっています。
13代徳川家定、、、知的障害を持っていたと言われます。篤姫さんの夫です。父親の家慶には30人ぐらい子供がいましたが、この人しか成人しなかったようです。政治は阿部正弘→堀田正睦→井伊直弼が担いました。もっとも多難な安政期に5年ほど在位しました。
14代徳川家茂、、、「いえもち」です。紀州徳川から将軍になりました。12歳ぐらいで将軍になり、20歳で亡くなっています。後半は徳川慶喜が将軍後見職でした。幕末ものには必ず登場しますが、これといった「見せ場」がない人です。若すぎました。
15代徳川慶喜、、、一橋慶喜です。一橋家の始祖は8代吉宗の子の徳川宗尹です。つまり基本は吉宗の血筋なんですが、この人は養子で、水戸家の人です。在位は1年でした。いろいろなドラマで「これでもか」というぐらいひどく描かれます。が、彼がいなければ明治維新はもっと悲惨な内乱になっていたでしょう。維新最大の功労者だと言われることもあります。司馬遼太郎さんはそう思っていたようです。
ということで、名君はまあ「家康、秀忠、慶喜」の3人だと私は考えます。逆に一番トンデモないやつは「11代徳川家斉」でありましょう。
なぜ聖君という言葉を持ち出したかというと、朝鮮王朝では、やたらと聖君であることを求められるからです。少なくともドラマではそうなっています。でも朝鮮王朝にもきっと聖君なんていないでしょう。「王」ですから、現実は聖君でいられるほど甘くないのです。
さて、徳川15代の中の名君は誰か。といっても普通の日本人は15人の名前を暗記で言うことはできないでしょう。私もできません。4代とか6代とか7代とか10代とかあまりに影が薄いのです。
初代徳川家康、、、まあ彼は別格でしょう。創業社長ですから、まあ名君なんでしょうが、いろんな意味で別格です。ちなみに神君とよく言われます。とにかく別格です。
2代徳川秀忠、、、3代家光の功績とされていることの半分以上は、秀忠の功績です。実際に幕政改革行ったのは家光で、しかも秀忠の死後ですが、秀忠が用意した方針のもとに行ったともいえます。秀忠はドラマではよく描かれませんが、きわめて有能な人だと思います。もしくは有能な部下を使いこなした人です。
3代徳川家光、、、いろいろ功績があるとされていますが、半分以上は親父の功績です。というか死んだ親父の作ったレールのうえに成り立った功績だと思います。有名なわりにはドラマの主役になることが少ない人です。「将軍家光忍び旅」とか、古いところでは「家光が行く」がある程度です。大河では「葵 徳川三代」があって、一応主人公の一人です。
4代徳川家綱、、、病弱で早死にしています。影が薄い人です。それでも幕府が成り立ったのは、すでに合議制でうまくいく組織になっていたからでしょう。おじさんの保科正之の補佐があったことも幸いしました。保科さんは秀忠の隠し子です。保科さんは実質的には大老でした。後半は酒井忠清が権勢をふるいます。家綱の時代から「文治政治」が始まったという評価もあります。
5代徳川綱吉、、、ドラマにはよく登場してました。赤穂の討ち入りがあるからです。最近は「忠臣蔵」が流行らないので、あまり登場しません。家光の子で、家綱の弟です。犬公方とかいう別名もあります。いままで馬鹿にされて描かれることが多かったせいで、「実は名君だった」なんて新説も出ています。経済的には徳川の黄金時代です。裏を返せば、彼ぐらいから財政が傾きます。
6代徳川家宣、、、、家光の子で早死にした徳川綱重の息子です。綱吉の「おい」ですね。新井白石を登用しましたが、「在位がわずか3年」です。影が薄い。「いえのぶ」と読みます。
7代徳川家継、、、六代家宣の息子です。7歳で没しています。子供です。
8代徳川吉宗、、、徳川本家の血筋が絶えたので、紀州徳川から将軍になりました。暴れん坊将軍です。中興の祖とされてますが、彼がやった享保の改革はほぼ失敗しています。御三卿(御三家ではありません)の元を作った人です。いろいろやったけど失敗で、まあ名君とは言えないかな、と思います。幕府財政はよくなりましたが、要するに年貢を増やしたからです。商品経済の発達についていけなかった人です。
9代徳川家重、、、八代吉宗の長男です。体が弱い。言語が不明瞭であることなどで「有名?」です。15年在位しましたが、前半6年は吉宗の大御所政治です。
10代徳川家治、、、「いえはる」です。在位が長く26年も将軍をしていました。田沼政治で有名?です。つまり商品経済の発達になんとか対応しようとした政権です。
11代徳川家斉、、「いえなり」です。10代家治の子ではなく、吉宗の四男である徳川(一橋)宗尹(むねただ)の孫です。50年も将軍をしてました。前半は寛政の改革を行いましたが、後半は「無駄遣い老人」となりました。幕末、幕府の財政が傾いていたのはこの人の責任でしょう。50年の将軍在位は「ダントツの1位」ですが、ドラマの主役になった記憶はありません。
12代徳川家慶、、「いえよし」です。天保の改革で財政引き締めを目指しましたが、時すでに遅し、、でした。蛮社の獄はこの人の時代です。1853年にペリー来航、その年の夏に亡くなっています。
13代徳川家定、、、知的障害を持っていたと言われます。篤姫さんの夫です。父親の家慶には30人ぐらい子供がいましたが、この人しか成人しなかったようです。政治は阿部正弘→堀田正睦→井伊直弼が担いました。もっとも多難な安政期に5年ほど在位しました。
14代徳川家茂、、、「いえもち」です。紀州徳川から将軍になりました。12歳ぐらいで将軍になり、20歳で亡くなっています。後半は徳川慶喜が将軍後見職でした。幕末ものには必ず登場しますが、これといった「見せ場」がない人です。若すぎました。
15代徳川慶喜、、、一橋慶喜です。一橋家の始祖は8代吉宗の子の徳川宗尹です。つまり基本は吉宗の血筋なんですが、この人は養子で、水戸家の人です。在位は1年でした。いろいろなドラマで「これでもか」というぐらいひどく描かれます。が、彼がいなければ明治維新はもっと悲惨な内乱になっていたでしょう。維新最大の功労者だと言われることもあります。司馬遼太郎さんはそう思っていたようです。
ということで、名君はまあ「家康、秀忠、慶喜」の3人だと私は考えます。逆に一番トンデモないやつは「11代徳川家斉」でありましょう。