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大縦走も終わりに近づき・・

槍ヶ岳から穂高までの縦走は、ほぼ完結し残すは「穂高」山めぐり。

北穂高岳から雲海の彼方に、富士山を望む。
北穂高岳より・富士山
北穂高岳より縦走路を振る「槍ヶ岳」。
槍ヶ岳
北穂高小屋を後に南峰の岩稜をペンキでつけられている標識を見落とさないようにトレースする。
最低鞍部の涸沢のコルを下る。最低のコルからいよいよ涸沢岳の登りにかかる。
涸沢槍を捲き涸沢岳までがこのコースの最大の悪場である。
足元に注意し、ペンキの標識、踏み跡などをしっかりと確かめながら、ルートを外さないように登ってゆく。
涸沢槍も緊張して登るのでいつの間に通り過ぎたかわからないくらいだった。
涸沢岳の登りには鎖、針金が取り付けられているが、あまり頼る事無く登りつめる。
信州側を見下ろせば色鮮やかな涸沢のテントが直下に眺められる。
やかて眼下に穂高岳山荘の屋根が見え、ガラ場を下れば山荘のある白出乗越につく。
奥穂高岳への登りは、岩稜に取り付き落石を起こさないように一歩づつ高度を稼ぐ。
やがて奥穂高岳(3,190m)頂上に辿り着く。富士山、南アルプス北岳につぐ我が国では第3の高峰である。
展望は360度で日本中部の山岳が一望に見渡せる。
南側の眼下には上高地方面が開けて、はるかに梓川の渓流、河童橋、上高地の建物の屋根などが見える。
さらに右手には焼岳、乗鞍岳、御岳がゆるやかな裾わひいているのがかすんで見え、
西穂への縦走路に立ちはだかる岩稜ジャンダルムは圧倒的な山容で主峰奥穂高岳の前衛の役割を果たしている。
また主峰奥穂高岳をとりまく穂高連峰は東北方に前穂高、縦走してきた涸沢、北穂高と、
峻嶮な岩峰群を連ねているが、これらを眺めながら、山岳の魅力を満喫する。

山旅の最終章に近づき、疲れが少しずつ溜まっていたのか、
稜線で、ザックを枕にし昼寝をしていた姿を想い浮かべると、そのころから「変なヤツ」だったようです。

翌日、上高地に下山「梓川と穂高連峰」
梓川と穂高連峰
5泊6日「表銀座・槍ヶ岳・穂高連峰」の山旅はこれで完結しました。

撮影:1978(昭和53)年7月29日
記述:2005.09.10
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雲上のプロムナード、、北穂高へ・・

盟主槍ヶ岳を後にして北穂高へ向かう。

縦走路を振り返れば槍ヶ岳。
槍ヶ岳を後に
北穂高岳への路・・大キレットを仰ぎ見る。
北穂高岳へ・大キレット
北穂高岳への路・・やせ尾根が続く、飛騨泣きの噞。
北穂高岳・飛騨泣き

槍ヶ岳から穂高への縦走路は、かつては岩登りの経験豊富なベテラン級のコースであったが、
近年は登山路も整備され、安心して縦走できるようになった。
槍ヶ岳山荘を出て少し下りると飛騨乗越である、ここは日本でいちばん高い峠だともいわれている。
大喰岳・中岳・南岳と距離を稼ぐ、振り返ると槍ヶ岳の穂先がしだいに遠くなってゆく。
南岳を過ぎると、いよいよ大キレット(両側がスッパリと切れ落ちた鞍部)の下降である。
無事に大キレットを通過したと、、ほっとする時もなく、
北穂高岳の登りにかかると、このコース最大の難所『飛騨泣きの噞』。
昔、猟師がここを通過するのに最も難所で泣き所だったという場所である。
右手の滝谷の恐ろしい岩壁をのぞくと吸い込まれそうな感じである。
あせらず登りきると北穂小屋の前に飛びでた。
今夜の宿は 北穂高小屋 。
宿泊の手続きをしている時に、一昨日とは比べ物にならない程の雷雨と共にヒョウも降ってくる。

撮影:1978(昭和53)年7月28日
記述:2005-09-04 12:00:00
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盟主槍ヶ岳・・

縦走路に聳え立つ槍ヶ岳。
槍ヶ岳・晴渡る縦走路
盟主槍ヶ岳。
盟主槍ヶ岳
眼前に聳え立つ槍ヶ岳は、文政年間、播隆上人が開祖とされている。
ヒュッテ西岳を後に水俣乗越へ下る。
最低鞍部に辿り着けば、いよいよ東鎌尾根の急登が待ち構えている。
悪場には鎖や鉄ばしごが架けられ、着実に高度を稼ぐ。
今夜の宿は「槍ヶ岳山荘」ホテルの名前を付けても良さそうな山荘である。

撮影:1978(昭和53)年7月27日
記述:2005-08-27 15:00:00
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朝焼けの槍ヶ岳・・

槍ヶ岳・モルゲンロート(常念小屋よりの遠望)
槍ヶ岳・黎明
雷雨の後、喜作新道から、、天上沢に架かる虹。
槍ヶ岳目前・雷雨後の虹
山の朝は早い。
午前中の天候はまずまずで、常念小屋から横通岳・東天井岳・大天井岳までは起伏の少ない展望の良い尾根路を順調に進むが、大天井ヒュッテで休憩をしている時、雷雨になる。
小止みになった頃合を見計らい喜作新道に歩を進めるが、途中でまたもや雷雨に出合い金属類を身から離す、鉄則通りザックを遠くに置きくぼ地に身を隠す。
雨雲が通り過ぎれば、天上沢に架かる虹を望むことが出来る。
今夜の宿は「ヒュッテ西岳」雷雨に足止めされた人達も多数、身受けられた。

撮影:1978(昭和53)年7月26日
記述:2005-08-27 13:00:00
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常念岳、、燃ゆる・・

北アルプスの人気コース「表銀座」を、、歩いていた。。
北アルプス南部

槍ヶ岳の落日(常念小屋よりの遠望)
槍ヶ岳・落日燃ゆる
常念岳・燃ゆる。
常念岳・燃ゆる
当時の国鉄大糸線・豊科駅に降り立ち、バスが乗り入れていない「一ノ沢」までタクシーに乗り向かう。

一ノ沢からは河原に降りて沢沿いに登り、
途中から樹林帯のあまり展望の良くないコースをもくもくと高度を稼ぐが、
夜行電車の座席下にグラントシートを敷き寝たものの寝不足気味で・・、
樹林帯の平坦な所を選び、、昼食後・・1時間ばかり昼の時間を摂る。
夕立に見舞われて目を覚まし、再び歩き始める。
15時前、胸つき八丁といわれる急斜面を登りきると常念乗越である。
乗越からは槍・穂高連峰の景観が展開する。
今夜の宿は少し南側に下った樹林に囲まれた「常念小屋」である。

撮影:1978(昭和53)年7月25日
記述:2005-08-27 12:00:00
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憧れの北アルプスへ

白馬の山旅 (1977.8.15~8.18)

日本北アルプス(飛騨山脈)は、岐阜・長野・富山三県に跨る「三俣蓮華岳」において、主稜線を二分し、黒部川を挟んで立山連峰と後立山連峰が対峙しつつ北へ伸びている。その一つ後立山連峰の北部に位置するのがこれから向かう白馬連峰である。

白馬大雪渓

21時46分「くろよん」は、大阪駅を出発、山旅の体力を保つため、高鳴る想いを胸に、眠りにつく。 松本駅到着前に目覚める、目的地は白馬駅、朝焼けの蝶ケ岳・常念岳・大天井岳が前方に堂々とした姿を現わしてれた。

車窓の左手に北アルプスの山々が、現れては飛び去るうちに白馬駅に到着。 駅ホームに降り立ち山並みに目をやる、右手から白馬三山(白馬鑓ケ岳・白馬杓子岳・白馬本峰)・唐松岳と、待ちに待った憧れの北アルプス、その眺めは言葉で表せなく文字にすれば陳腐となる、、素晴しい。 白馬駅からバスで小一時間、猿倉に到着。 ブナ林を抜け、車道を通り約一時間で大雪渓が見え隠れする、白馬尻小屋を通過し雪渓の末端に到着、これから登る大雪渓を眺めながら、小休止を取った。 白馬大雪渓は、剣沢、針の木雪渓と並ぶ日本三大雪渓の一つである。

白馬大雪渓

アイゼンを装着するかどうか悩むが、雪の状態を確認しつつ、必要となった時に装着する事にして雪渓を歩み始めた。

雪渓の登りでは、晴れたかと思えばガスに包まれながら、スリップをしつつも着実に高度を稼ぎ、二時間弱で葱平にたどり着く、雪渓と右岸に聳え立つ杓子岳の天狗菱を眺めながら昼食を兼ねて大休止を取終える頃には、汗が引きウィンドブレーカーをザックから引っ張り出して着込むほどの風の冷たさを覚えた。 約一時間休憩後にジグザグ道を登りだし、登山道の両側に高山植物が姿を見せて、しばし疲れを癒してくれた。 途中何度も歩みを止めながらもようやく、丸山と白馬岳の鞍部に出て、右手の白馬山荘にたどり着きザックを下ろし、宿泊の手続きを済ませた。

サブザック一つ持って、白馬岳頂上へ出かける。 頂上では、天気に恵まれ、日本海・黒部湖・眼前には立山連峰・明日の縦走路上に杓子岳・鑓ヶ岳と、山頂から360度の展望を心行くまで堪能した。

白馬岳~日本海側を望む

《白馬の山名》白馬岳は「ハクバ」と呼ばずに「シロウマ」と読む。

それはこの山名が雪形の代馬(しろうま)に起因しているからである。 この雪形は5~6月頃、三国境と小蓮華山の東端の二ヶ所に現れる。 これを畑仕事と関連させて農事暦とした。 即ち苗代、あら代などシロ掻きをする頃に現れる「ウマ」という意味である。

翌朝は幸運には恵まれず残念ながら、ガスに包まれた小雨模様、3,000m級での雨・・。 天気予報を確認すれば大雨の心配は無さそうで、「また・・ここまで来て」、、と言う思いあり、天狗山荘まで行き、天候が悪くなりそうならエスケープルートで鑓温泉経由で下る事を頭に入れて、6時50分に白馬山荘を出発した。

杓子岳・鑓ヶ岳を目指し時々雨も止み剣岳方面も見渡せ、岩とハイマツののんびりした道に歩を進める。

杓子岳

危険な箇所も無く天狗山荘手前で、鳥の鳴き声「雷鳥」だ!。夢中でカメラを取り出し、シャッターを切っていた。 天狗山荘に到着、約一時間休憩の後に天候の心配も無く、唐松岳に向かう事にした。 天狗ノ頭を過ぎ天狗の大下りを終わり、一息就く間もなく、不帰(かえらず)のキレットに立つ、 前方に不帰ノ嶮・第2峰が行く手を遮るようにそそり立ち、見上げた時、思わず帰りたくなったと言っても過言ではなく私に取っては「帰りたいキレット」と呼びたいくらいであった。

不帰ノ嶮

雨に濡れた難所の岩肌に取り付く、第1峰から第2峰へと、ハシゴや針金を伝いながら一手・一足と濡れた岩場を這い登る、時には岩場が切れ落ちている所も在り足が竦むが、飛び移る様に進む、唐松岳手前のコルから山荘が見えたときは思わず「見えた!」と叫んでいた。

小雨の中、白馬山荘を出てから9時間・・やっとの思いで唐松山荘にたどり着く事が出来た。 宿泊手続きを済ませる前に、一休みしていると一日雨に濡れた体が寒さのため震え出し、慌てて小屋に入り濡れた下着を替えた、ようやく一心地つく。 夕食はカレーライス一杯、飲み水は無く「1L・100円」(湧水・雨水だろうと思え)で売っていたが、雨水をコッヘルに取りラジュースで沸かし水筒に入れて取っておいた。 後立山連峰の縦走は雨の山旅であったが、終わりを告げようとしていた、明日は下山・・嬉しいような、心残りがあるような気持ちで・・。

翌朝曇り空の中、唐松山荘を6時30分に出発、八方尾根を下るがガスが出て八方池からの展望は全く効かず、ガスの中を黙々と下った。 八方に下山したら、雨は降っておらず比較的良い天気であった。

「下山の後・・・」 後立山連峰の縦走後に「上高地」に行って見たいと計画を立てていた。

上高地・河童橋

その日の内に「上高地」に入る、あいにくの雨模様・・。河童橋近くの「五千尺ロッヂ」に宿泊手続きを済ませる事ができた。 翌日は雨も上がり、田代池・大正池と巡り、梓川のほとりで「お昼寝」を楽しんでしまいました。 憧れの北アルプス・後立山連峰の縦走・上高地と・・小雨の中濡れた岩場をよじ登り、よくぞ無事であったと。


回想:
その後、厳冬期「逗子開成高校、八方尾根・大量遭難事件」は痛ましく今でも心に残っている、、合掌。

撮影:1977(昭和52)年8月15日~18日(白馬・不帰ノ嶮)
撮影:2005(平成17)年9月21日(上高地・河童橋)
記述:2021-03-26 14:00:00



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山に魅せられるきっかけとなった大杉谷。

山に魅せられる。 (1975.10.30~11.1)

1975.10.30
大台ヶ原は大峰と共に近畿の屋根といわれる。大台ヶ原の雨は定評がある。雨に会わなかったといえば、本当にされないほどである。
年間雨量5,000ミリを越え、日本一ともいわれている。
これらの地域は大杉渓谷を含め、全て吉野熊野国立公園に指定され、特別保護地域としてこの山地特有の豊富な森林美が保護されているのは有り難いことと言わねばならない。

奈良県・大和上市駅で特急電車から降り立てば空は曇り、幾分ゆううつなままバスに乗り換えて目的地へ向かう。
時には車同士がすれ違うにも一苦労する、道幅の狭い旧道を目的地へ、大台ヶ原ドライブウェイでは、バスが喘ぎながら、ガス(霧)を裂くように進む。
山上駐車場に着きバスから降り立てば、思わず身をすくめる程の寒さが出迎えてくれた。

大台ケ原の名物・・「大台教会山の家」田垣内政一(今は亡き)の話を聞きたく、宿泊の手続きを済ませ、軽装で必要最小限の荷物を持ち、山上周遊に出かける。

尾鷲辻から牛石ガ原そして、大蛇嵓(だいじゃぐら)へとたどり着く、思わず息をのむ、という言葉はその景色のためにあるかのごとく、言葉が出なくなるほどの光景が広がる。
紅葉に染まる大蛇嵓

名の通り”嵓が横たわり大蛇がせり出す”かの如くの場所から望む、景色は例えようの無い素晴しさである。
雲海を眼下に、峪を隔て釈迦ガ岳・仏生ガ岳・弥山・大峰山、綿々と続く山並みに言葉も無く見入ってしまった。この一瞬が後に”山と生きる”事になるとは、思いもよらず。

大蛇嵓を後に、一般ハイカーの通常ルートから外れ、中の滝が眺められる滝見尾根を下るが、踏跡もまばらな路で、ガスが湧き上がり引き返す時間が迫って来たので、元来た道を登り返す、教会へと無事辿り着き約3時間の山上周遊を終えた。
夕食後に、大台ケ原の主”田垣内”さんが語る、伯母峰峠の妖怪・一本足ダタラの話を聞き、時の立つのを暫し忘れてしまうほどであった。

1975.10.31
翌早朝、寒さと雨の音で目を覚ます、時計を見ると6時前、雨か・・・・? 朝食後、小雨の天気に、出発か?帰阪か?と思案をする。
泊まり合せた3パーティーの内1パーティーは帰阪、天気予報を確認し、大杉渓谷への思いが断ち難く、約2時間遅れの出発となった。

小雨の中、大台ヶ原の最高峰”日出ガ岳”での展望は諦め、小休止の後、大杉渓谷を目指しひたすら下り続ける。
途中、堂倉小屋にて休憩を取り、目指すは”大杉渓谷”歩みを進めるうちに水音が少しづつ大きくなる、突然目の前に”堂倉の滝”滝しぶきと暴音とで出迎えてくれた。
堂々たる姿に見とれてしまう。 これからは、滝吊橋の連続になる。

隠滝・光滝と連続して現れ、吊橋は通行(重量)制限で、一人だけ渡る注意書きもある。
小雨が降り続ける中、七つ釜の上部に達する、いよいよ大杉渓谷の懐へ。
いくつかの吊橋を渡り最深部の、七つ釜吊橋を渡りながら”七つ釜”の眺めを振り返る。
感動を超え神秘ささえ漂った。程なく今夜の宿、桃の木小屋へ到着する。
山の掟を若干無視した行動で、教会山の家から桃の木小屋へ、登山パーティーが「峪を下っている」の連絡を受けていた様子で、「後の1パーティーは?」と・・。
少し遅れ1パーティーが到着した。この日小屋には他2~3パーティーが泊まり合わせた。
七つ釜の滝

1975.11.01
2泊3日の山旅、最終日・・他のパーティーは先行し、小屋を最後に出発、平等嵓・にこにこ滝を過ぎ、猪ガ淵に到着、昨日からの雨も上がりようやく青空が見え出した。
両岸絶壁の中に蒼く澄んだ水を満々と貯えた光景は、今までとは違った景観であった。
大杉渓谷・緑の瀞

右手に千尋滝を眺めつつ大日嵓近くの川原にて昼食後、宮川ダム観光船の乗船場所へ、ダムの水位により乗船場所が変わり、この時は幸いに第一乗船場で出発間際の船に間に合った。
この後何度か、大杉渓谷を下ったが、渇水期には乗船場が下流へ変わり、一度乗り遅れ”大杉”まで歩いた事もあり、自然の摂理にただ脱帽。


回想:
大杉渓谷の吊橋で、過去”一部の無頼者”により「吊橋の崩壊落下」事故が発生「人数制限を無視した行ない」の結果であった。その後、数年「吊橋」の補修・改修により登山道が閉鎖された事は、遺憾である。


撮影:1975(昭和50)年10月30日~11月01日
記述:2021-03-28 14:00:00



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