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残雪の槍ヶ岳を望む≪1≫

燕(つばめ)と書いて「つばくろ」と呼ばれている山旅です。

北アルプス入門の山としても有名な、燕岳は、遠望するとあまり冴えない山ですが、いざ登って見ると、
独特の花崗岩に覆われた、美しい山容に心を奪われてしまいます。
今はJRと会社名が変わり、当時は国鉄大糸線・有明駅が燕(つばくろ)岳への登山口である。
夏は多くの登山者で賑わう、有明駅前からバスに乗車、終点の中房温泉で下車する。
中房温泉は、北アルプス中房渓谷の奥、標高1462mの高所にある秘湯である。
燕岳への登山路は、合戦橋のたもとにある売店の横からすぐ登り始める。
登り始めるとすぐ雪路となり、針葉樹林とカラマツの造林地を30分ほど登ったところが第一ベンチ。
登路はしだいに急登になっていき、やがて第二ベンチに辿り着く。
合戦尾根
第二ベンチから合戦小屋までは90分の道のりであり、急斜面の尾根につけられた直登の連続になり、
じっくりあせらず自分のペースで高度を稼ぐ。やがて合戦小屋に到着する。
合戦小屋からしだいに視野が開け、高度を稼ぐうちに、
左手に表銀座コースの尾根を隔て、槍ヶ岳の尖峰が姿を現す。
槍ヶ岳・遠望
燕岳の独特な花崗岩群は雪に覆われて、一部分しか見る事が出来ない。
夏場なら登山路のあちらこちらに高山植物が咲き乱れていることだろうが、
雪の下で、その日が来るのをじっと待っているのだろう。
もうすぐ燕山荘
やがて、燕山荘直下の中房川の斜面をトラバースすれば、燕山荘前の稜線にひょっこり出る。
今夜は、燕山荘がねぐらとなる。

撮影:1981(昭和56)年4月29日(リバーサルフィルムよりスキャン)。
記述:2006-02-18 12:38:00
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尾瀬に花咲いた日 1980・・

つばめおもと(燕万年青)
つばめおもと(燕万年青)
リュウキンカ(立金花)
リュウキンカ(立金花)
みつがしわ(三槲)
みつがしわ(三槲)
遥かな尾瀬
遥かな尾瀬

遥かな尾瀬に入山。
最初は、大清水から尾瀬沼に入り「燧ケ岳」に登った後「至仏山」を経由して、
鳩待峠に出るコースを辿り、尾瀬ヶ原を縦横無尽に歩き回る。

撮影:1980(昭和55)年6月4日~6日。
記述:2005-08-24 23:00:00
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尾瀬の花旅≪3≫

尾瀬の画像ではよく、朝もやが風景に溶け込み幻想的な世界が見られますが、
今回の山旅は、天候に恵まれ、、雨のひと粒も降らずに助かりました。

これから、山ノ鼻小屋を後に至仏山の登りにかかります。
至仏山は、向かいあってそびえる燧ヶ岳とは対照的に、なだらかな女性的な姿をしています。
至仏山
樹林帯の登りが始まり、山頂近くには、残雪が豊富なため道が常に湿り、場所によって、
沢のように水が流れている所もあります。

さんかよう (山荷葉)
メギ科サンカヨウ属の多年草。山地から亜高山帯の林の中に生え、高さは50~60センチになります。
茎の上部に2個、深い切れ込みのある大きな葉をつけます。茎の先に白色の六弁花を咲かせます。
山荷葉
ひめしゃくなげ(姫石楠花)
躑躅(つつじ)科。春、ピンク色の壷形の花が下向きに咲き女性に人気があるそうです。  
姫石楠花
こぶし(辛夷)
木蓮(もくれん)科。
昔の人はこの花の開花時期から農作業のタイミングを判断したり、
花の向きから豊作になるか否かを占ったりしたそうです。
つぼみが開く直前の形が子供のにぎりこぶしに似ているところからこの名前になったようです。
辛夷
至仏山の頂上からは、遠く北アルプス・南アルプス・中央アルプスを始め、
八ヶ岳・日光連山の雄大な眺めが手に入れられます。
山並み遠望
しばし展望を楽しんだ後には、小至仏山から小山沢田代を経由、鳩待峠を目指して下りの道を急ぎます。
鳩待峠よりバスに乗り、沼田経由で帰阪の途につきました。

撮影:1980(昭和55)年6月6日。
記述:2006-03-15  21:06:00
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尾瀬の花旅≪2≫

尾瀬沼は、はるか昔、燧ヶ岳の噴火により尾瀬を流れる川がせき止められできたものだそうです。
標高1,600mほどの澄みきった湖面 は、名峰燧ヶ岳の雄姿を映す鏡のようです。
周囲約6kmの岸には沼を1周する木道が敷かれ、水辺に咲くミズバショウなど季節の花を楽しみながら、
2~3時間で湖畔めぐりができるようですが、長蔵小屋を出発後しばらく湖畔の道を歩き、
浅湖湿原から分岐している、燧新道の登りにかかる。この道は燧ヶ岳への最短距離である。
しばらくは、原生林の中の道が続き展望はまったくきかない。
かなり歩いたところようやく登りらしい登りになり、足元に深々とした森が広がり、
その向こうに尾瀬沼が光っている。
2時間ほどで、最高峰の柴安(しばやすぐら)と三角点のある爼(まないたぐら)に到達する。
柴安から燧ヶ岳双耳峰のもう一方の俎を望む。
燧ヶ岳・俎
尾瀬で唯一、尾瀬沼・尾瀬ヶ原が同時に望める展望台で雄大な景色を堪能していました。
頂上から見晴新道を下り、宿泊施設が立ち並ぶ見晴十字路に出て尾瀬ヶ原、高山植物の散策が始まります。

今回の山旅は、なんと言っても高山植物が咲き乱れる尾瀬ヶ原が魅力です。
尾瀬といえば「水芭蕉」を思い浮かべる方が大勢おられると思います。
これから百花繚乱のお花畑のなかの水平道を歩きます。

みずばしょう (水芭蕉)
サトイモ科ミズバショウ属。寒冷地の湿地や湿原に生え、大きな葉は「バショウ」に似ています。
5月から7月ごろ、白い花を咲かせます。花弁のように見えるのは仏炎苞(ほう)で、本当の花は
中心の黄色い円柱状の肉穂花序にあります。
水芭蕉
しょうじょばかま(猩々袴)
百合科の多年草。日本各地の山地で少し多湿なところにはえる。
和名は花を猩々(しょうじょう;猿の一種)の赤い顔,葉の重なりを袴にみたてたものということです。
猩々袴
りゅうきんか(立金花)
キンポウゲ科リュウキンカ属の多年草。沼地や湿地に群生し、水芭蕉の咲く頃、一緒に咲きそろう。
名前は、金色のような黄色の花が立っているように見えるところからきているようです。
立金花
たてやまりんどう (立山竜胆)
リンドウ科リンドウ属の多年草。日本海側の亜高山帯から高山帯の高層湿原に生え、
高さ5~10センチになります。「ハルリンドウ」の高山型変種で、
葉や花茎の数が少ないのが特徴で、茎の先に淡青色の花を咲かせます。
立山竜胆
みつがしわ (三槲)
竜胆(りんどう)科。氷河期の遺存植物で、寒冷地の湿地や河川などの浅い水中に生えます。
太い根茎は匍匐して群生し、高さは20~50センチほどになります。
葉は長楕円形で3出複葉です。4月から7月ごろ、総状花序をだし白い花を咲かせます。
三槲
つばめおもと (燕万年青)
ユリ科の多年草。山地帯から亜高山帯の林の中に生え、高さは20~30センチになります。
葉は根生葉で、「オモト」に似ています。6月から8月ごろ、花茎を伸ばして白い花を咲かせます。
果実は秋に藍色に熟します。名前は果実の色が、ツバメに似ることからきているようです。
燕万年青
今日は、至仏山の裾野に建つ山ノ鼻小屋で泊ることにする。
尾瀬ヶ原の山小屋は、環境保全のため入浴時は石鹸とシャンプーが禁止となっていますが、
山小屋でお風呂に入れる事は有り難いことです。

撮影:1980(昭和55)年6月5日 (リバーサルフィルムより)。
記述:2006-03-05  15:00:00
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尾瀬の花旅≪1≫

例年より一週間ほど早く梅雨に入った6月3日、大阪・・22時10分の「きたぐに」で出発。
翌朝、10時前に上越線の沼田駅に到着、そこからさらに2時間強ほどバスに揺られ、
尾瀬の玄関口の一つである、大清水に到着した。遥かな尾瀬に入山。
初めての尾瀬は、大清水から尾瀬沼に入り「燧ケ岳」に登った後「至仏山」を経由して鳩待峠を辿る。

大清水でバスを降り、一ノ瀬へ向かう。広く白い車道と平行して木立の小道が付けられている。
静かな森の中の旧道は木もれ陽も美しく、小さなせせらぎの多い道である。
木もれ陽の路
高度を稼ぎながら、やがてなだらかな、展望の開けた尾根へ飛び出す。
ゆるやかな道を、右手に日光連山の山を眺めながらなおも登ると三平峠に着く。
小休止の後、一気に尾瀬沼を目指して下る。やがて、木の間越しに、キラリと輝く尾瀬沼が現れ、
向こう側に明るい尾瀬が待っていることを教えてくれる。
尾瀬沼
下ってきた尾瀬沼のほとりは意外なほど明るく、沼の向こうには燧ケ岳がそびえている。
尾瀬沼の向こうに燧ケ岳
三平下の尾瀬沼山荘から、沼に沿って東へ進む。
木道を辿る先には、今夜の宿泊を予定している長蔵小屋がある。
尾瀬沼の落日
長蔵小屋すぐ裏は尾瀬沼の畔で、燧ケ岳の向こう側に沈む夕陽を撮るには絶好のポイントである。

撮影:1980(昭和55)年6月4日 (リバーサルフィルムより)。
記述:2006-03-03  23:00:00
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残雪の穂高≪3≫

昨晩は、早めに眠りに就いた甲斐もあり5時に起床。
天気は快晴に近く、逸る気持ちを抑えながら手早く朝食を済ませる。
アイゼンを装着し、サブザックを担いでテントを後にする。
アズキ沢よりザイティングラードに取り付き、急な斜面を登り高度を稼ぐ。
ザイティングラードも半分ほど登ると傾斜が一気に強くなる。
涸沢カール
夏場には高山植物が咲き乱れる場所だが残雪に覆われている。
振り返ると、眼下には涸沢のテント場が小さく見える。
涸沢カール
10時過ぎ白出のコルに到着、穂高山荘の前で小休を取る。
山荘を右手にして目を上に移せば奥穂高岳への雪面が威圧感を持って迫ってくる。
奥穂高岳
2段ある鉄梯子と上部に横たわる雪面を見上げると、まだまだ技量不足の気がして、びびりながら・・回れ右をする。
奥穂高岳は諦め穂高山荘を左手に見ながら転進し30分ほどで涸沢岳に到着する。
空は晴れ渡り展望も良く、しばらくは遠くに聳え立つ槍ヶ岳を眺めて、時の経つのも忘れるほどであった。
槍ヶ岳遠望
槍ヶ岳遠望
白出のコルに戻り大休止を取った後、ザイティングラードを下る。
ほぼ一日中天気が良く、春の陽射しが雪に乱反射して肌を焦がすようであった。
テントに戻る途中、顔が火照って日焼けをしたようで熱を持ち始め雪で顔の火照りを取る。
涸沢カール
丸一日、雪上で過ごしテントに辿り着く。
乱反射した陽射しが相当強かったようで雪目の症状が出て、涙が溢れ痛み出す。
ビニール袋に雪を詰め、目を冷やすと痛みは少しだけだが和らいだ。

翌日は、テントを撤収して上高地に下山し松本経由で帰阪の途に着く。

撮影:1980(昭和55)年4月29日 (リバーサルフィルムより)。
記述:2006-04-15  17:55:00
訂正:2008-04-18
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残雪の穂高≪2≫

シュラフ(寝袋)に潜り込んだものの、夜行列車で寝不足のまま6時間以上も歩いたので、
疲れの為かなかなか眠りに付けず、テントにあたる風雪の音を聞きながらうとうととする。
夜半から風雪が強まり、フライシートが風に煽られ続ける。
時間の経過と伴に、ますます風雪が強まり午前4時頃になると猛威を振い始めた。

テント設営時に風除けブロックを作らなかった事のつけが回ってきた。
突如、強風に煽られテントが持ち上げられ身体が宙に浮いた・・。
外は暗闇で風雪が猛威をふるい続けテントの補強すら侭ならない。
いつ強風にテントごと、吹き飛ばされても不思議ではない状況に陥ってしまった。
自然の摂理を甘く見て、白い罠に嵌ったようだ。そしてその時、開き直った。

いつの間にか寝入っていたようで、空が白み始める頃になって目が覚めた。
テントのファスナーを開けて、見上げると青空が広がっていた。
相変わらず風は強く吹いて、ガスが瞬く間に流れ過ぎていく。

風雪が吹き荒れた一夜が明けると、雪は完全に降り止み、流れ去る雲の合間に青空が顔を覗かせる・・。
涸沢カール
朝食を済ませテントを移動させ、昨晩のようなことがないように、
雪を掘り起こしテントの周りにブロック状に積み上げる。

天気が回復しつつありお昼を済ませた後に、軽装でテントを後にする。
涸沢のテント場より北穂高岳・北穂沢を登ってみる。
夏場は足元がガレているのだが雪に覆われ歩きやすい。
翌日には、白出ノコルを登る予定で丁度良い足慣らしになる。
いくらか高度を稼ぐと、眼下に涸沢のテント場が小さく見える。
涸沢カール・テント場
雲が広がり始め、テントに戻るため来た道を引き返す。

ザイディングラードが、傾きかけた陽に照らされ一日の終わりが近いこと知らせてくれる。
涸沢カール・テント場

夕刻になり穂高連山が落陽を受け真っ赤に染め上がる。
涸沢カール
明日は、晴れ上がってくれることを願いつつ早めにシュラフに潜り込む。

撮影:1980(昭和55)年4月28日 (リバーサルフィルムより)。
記述:2006-03-29  23:06:00
訂正:2008-04-18
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残雪の穂高≪1≫

大阪発、21:43「ちくま3号」の夜行列車で一路信州へ向かう車上の人となる。
JR松本駅で、松本電鉄に乗換え、新島々からはバスに揺られ、
朝まだ早い上高地バスターミナルに降り立つ。
殺風景なバスターミナルを後に、河童橋で身支度をしながらも、穂高連山の眺めに見入る。
ゴールデンウィークも間近で、鯉のぼりが揚げられていました。
峻険な岩峰群からなる穂高連峰は、日本第3位の標高3,190mの奥穂高岳を中心に、
北穂高岳(3,106m)、涸沢岳(3,110m)、前穂高岳(3,090m)、西穂高岳(2,909m)、
などで形成されており、一般にそれらを総称して穂高岳と呼ばれている。
河童橋のたもと・穂高連山
ここから、約6時間の行程で、穂高連山に囲まれた涸沢カールを目指します。
梓川左岸の小梨平を過ぎ、森林の中の気持ちよい一本道を一時間足らず歩くと明神に着く、
小休止の後、元牧場の徳沢へ一時間足らずで到着する。そしてもくもくと歩を進め、横尾に到着。
少しずつ天気が下り坂に向かっているようで、雲行きがあやしくなるものの、梓川に架かる
本谷橋を渡り、井上靖「氷壁」のリメイク版の舞台となった屏風岩の裾を捲くように涸沢への登りが続く。
屏風岩
横尾から2時間ほどの行程で、本谷出合いに到着、雪上で大休止を取る。
ここからは、雪上を直登することになり、気にかかっていたお天気が崩れ雪が降り出す・・。
時々、ガスが流れる間に、前穂高から奥穂・北穂の手前に目指す涸沢カールが見え始める。
涸沢カール
涸沢カールにたなびく鯉のぼりが見え隠れするものの、
さすがに一日歩き続け、疲れが出てきたのか身体か思うように前に行かない。
ようやくのことで、涸沢のテントサイトに到着するも、雪が本降りになり・・、
慌ててテントの設営をするが、風除けの雪ブロックを作ることも出来ずにテントを張り終え、
踊り込むように中に入り暖を取る。今夜は雪上のテント泊まりになる。
夕食は疲れの為か、極少量のクリームシチューとパンを腹に収める。
この夜半に思いもよらぬ事が起こるとは知る由もなくシュラフ(寝袋)に潜り込み眠りにつく。

撮影:1980(昭和55)年4月27日 (リバーサルフィルムより)。
記述:2006-03-23  22:00:00
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いつか歩いた八ヶ岳 ≪2≫

黒百合ヒュッテは厳冬期にも関わらず満員で、夜行の疲れが取れぬままに朝を迎えた。
小屋を一歩出れば雪面に輝く”朝日”が今日の始まりを伝えてくれる。
紺碧の空の元、気温-14℃、スパッツ、アイゼンの装備を着け、眼前に聳え立ち雪煙の舞う天狗岳の山肌に取り付く、
中山峠からの強風が身を刺す、体感温度がどんどん下がっていく。
厳冬期・八ヶ岳
急な北斜面ではさらに風が強まる「風の呼吸」に合わせ、止んだ時に一歩一歩確実に足場を固めながら歩む、
頂上直下の岩場を無事通過し「天狗岳」頂上へ到着。
厳冬期・八ヶ岳
「大地を生命とするものの幸福」など強風の中・・感じる事すら出来ずに居た、
だが、素晴しい天候に恵まれ、赤岳・北アルプス・南アルプスの山々が、荘厳な姿を見せてくれる。
低温と強風で展望を楽む事すら難しく、足の感覚が無くなりつつあり30分程で、下山にかかる。
途中両足を登山靴の上からピッケルで叩いても感覚が戻らず、血行障害を起こしていたようだ。
もう少し低温の状態が続けば、凍傷になっていただろう。
黒百合ヒュッテで身体を休め、体温が戻ってから下山をする。
歩行し易い道で気持ちが良く、あっという間に渋ノ湯に着いた感じだ。
バスの時間待ちを利用して渋ノ湯温泉で冷え切った身体を暖める。
バスで茅野へ出て、行きとは反対にがら空きの「ちくま4号」で大阪に帰り着く。

回想:
厳冬期登山を終え、自分の身体について考えた。
体感温度が-20℃を下回ると、血行不良を起こし、凍傷の危険性を持つ身体であると。
以後の山行で体験を生かして、体調に気を配り、装備に工夫を凝らし、今の所重大な局面には出会っていない。

撮影:1980(昭和55)年2月10日
記述:2006-01-22 15:00:00
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いつか歩いた八ヶ岳 ≪1≫

日本には四季がある、北アルプスの山々に訪れるていたのは三つの季節で、
冬季の登山は怖さが先立ち挑戦出来ぬままであったが、未知の銀世界への想いが断ち切れず・・。
26年前 1980年に、最初で最後となりそうな「厳冬期登山」をやってしまいました。

装備・交通・その他の登山条件は良くなったが、冬山の自然条件まで好転したわけではなく、
低温、強風、多雪など、どれ一つ取ってもごまかしのきかない厳しい自然条件を持っています。

その時の山行は、北八ヶ岳に聳え立つ「厳冬期・天狗岳」を目指しました。
八ヶ岳連峰は、本州のほぼ中央の長野県と山梨県とにまたがり形成されており、
南八ヶ岳と北八ヶ岳とに分けられています。

二月の連休に合わせ出発、大阪駅には電車出発の2時間前に到着するが、
既に多くの人達が乗車時間待ちの行列を作り、座席の確保を目指していました。
夜行列車、22時20分「ちくま5号」での座席は確保できたものの、
通路には人と荷物が溢れかえっていて、大半はスキー客、登山者は数えるほどだった。
厳冬期・八ヶ岳
寝不足のまま「塩尻駅」で乗り換え7時前、夜の明けやらぬ八ヶ岳の重要な登山基地「茅野駅」へ到着。
渋ノ湯へ向かうバスの中では眠りをむさぼっていました。
9時渋ノ湯を出発、真新しい雪が、足の下で”キュ・キュ”と鳴り自然と足の運びも早まる。
約一時間で賽ノ河原へ出る。一面の雪原に所々岩が顔を出していた、太陽の光が雪に反射して眩しい位であった。
さらに雪を被った樹林の中を進み高見石小屋に到着、早めの昼食を取り体温の低下を防ぐ、気温-7℃。
低温ながらも穏やかな天候に恵まれ、急勾配の山肌を喘ぎながらも”中山”の頂上に到着する。
雲の切れ間から”天狗岳”が望む事ができる。
急な雪面を下ると、後はなだらかな雪道が黒百合ヒュッテまで続いていた。今夜はここで宿泊。


撮影:1980(昭和55)年2月9日
記述:2006-01-07 15:25:00
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