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安政大津波の碑

2017-10-15 | Weblog

『安政大津波の碑』

道頓堀川西端、大正大橋の東詰め北側に

「大地震両川口津浪記」と書かれた石碑がある。

約160年前の大阪を襲った大津波の犠牲者の慰霊と

津波を後世に引き継ぐ目的の石碑である。

以下に読みやすい現在の語句に直して記載し、

後世の子孫に伝える一助にでも・・・。

 

嘉永7年(1854年)6月14日午前0時頃に大きな地震が発生した。

大阪の町の人たちは驚き余震を恐れながら4~5日の間不安の夜を

過ごした。この地震で三重や奈良では多くの死者が出ていた。

同年の約半年後にあたる11月4日(5ヶ月後)午前8時頃と、

翌5日の午後4時頃に再び大地震が起こる。家々は崩れ落ち

火災が発生した。同日の日暮れ頃に、今度は雷のような音と共に

一斉に津波が押し寄せてきた。

安治川はもちろん、木津川の河口まで山のような大波が

立ち東堀まで1.4mの深さの泥水が流れ込んだ。

安治川、木津川に停泊していた大小の船の錨や、とも綱は

切れ、川の逆流と共に流された。安治川橋、亀井橋、高橋

水分橋、黒金橋、日吉橋、汐見橋、幸橋、住吉橋、金屋橋

などの橋は全て津波により崩れ落ちてしまった。

道頓堀川の大黒橋では大きな船が横転し川を堰き止めた

為、船は小さい船を下敷きにして橋に乗り上げてしまった。

大黒橋から西の道頓堀川から木津川などの南北を貫く

川筋は一面に船の山が出来川岸に造られた小屋は

流されてきた船によって壊され助けを求める人々の声が

付近一帯に広がったが救助することもできず多数の人々

が犠牲になった。

その昔、宝永4年(1707年)10月4日の大地震の時も

小舟に乗って避難した人が多く水死した。(今より310年前)

長い年月が経ち、この事を伝え聞き、警鐘する人が

居なかった。今また同じように多くの人々が犠牲に

なってしまった。

今後もこういう事は起こりうるので、地震が発生したら

大津波が起こることを十分に心得ておき、船での避難は

してはならない。また火事が発生するので「火の用心」が

肝要である。お金や大事な書類も被害の無いように

保管しておき、船は静かな流れの所につなぎ直すか

陸の高い所に上げて運び津波に備えるべきである。

津波は沖から波が来るだけでなく、海辺近くの海底や

海辺の田畑などから、吹き上がってくることもある。

今回の地震で大和の古市では池の水があふれだし、

家を数多く押し流したのもこれに似た現象で、

海辺や川や池のそばに住む人は用心が必要である。

津波の勢いは普通の高潮とは違うことを今回被災した

人々は分かっているが、後世の人は十分に心得て

おきなさい。犠牲になられた方の冥福を祈り、つたない文章

であるが、ここに記録しておくので、心ある人は、時々、

碑文が読みやすいように墨を入れ、伝えていってほしい。

安政2年(1855年)7月 建立

 

この碑は、2006年に大阪市有形文化財に指定され

記念碑保存運営委員会の方々が石碑に墨を入れ続けて

いる。


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