五月四日未明おじいちゃんが天国へ旅立ちました。
病名がわかったのが2ヶ月前のことです。もっとも箸が持ちにくいなどの自覚症状は一年前からありました。
筋萎縮性側索硬化症、現代の医学では治らない難病でした。
半年から一年の間には自発呼吸が難しくなるでしょうと言われていたのですが、おじいちゃんの場合は進行が思ったよりも早く、3月は週末だけ家に帰るような生活で自分で歩くことも出来たのに、4月に入ってからは歩行も困難になり、あっという間に起きることも出来なくなりました。
そして口からものを食べることも出来なくなり、鼻からチューブで流動食を入れていました。
おばあちゃんは、そのやり方を一生懸命に覚え「家に帰ったら私がやるからね」と在宅介護の準備もしていました。
日に日に弱っていく様子は毎日見ていてもわかるほどで、退院はまだまだ出来ないだろうと思っていましたが、まさかこんなに早くお別れの日が来るなんて誰も考えもしないことでした。
喉に穴を開けて呼吸器をつければ延命できたのですが、おじいちゃんは最初からそれを拒否していました。
勿論自分の病名も知っていたし、進行性のもので治らないことも承知してのことです。
おばあちゃんは、どんな姿になっても生きていてほしいと言いましたが、ガンコなおじいちゃん嫌なものは嫌といったら曲げません。
おそらくそうなったら家族が苦労するのはわかってる。おばあちゃんにそんな苦労はかけたくなかったんだろうなと思います。
亡くなる少し前、まだ話が出来る時に主治医の先生がもう一度確認しました。おじいちゃんは呼吸器と聞いただけでもう手を振り否定したそうです。
死を覚悟したのでしょうか。呼吸器を付けないことがどういう意味か知っていたはずなのに。
私たちが「おじいちゃん、もう駄目かもしれない」と思うより前からおじいちゃんは覚悟していたのかもしれない。
迫ってくる死と向き合うことがどれほど恐いことか、今の私には想像も出来ません。おじいちゃんは強い。強すぎるよ・・・
呼吸が苦しくなり、自分で鼻のチューブを抜いたりマスクをつけても自分ではずしたり、かなり苦しかったようです。力ずくで押さえつけて酸素マスクをつけたり、自分ではずさないように手を縛られたり、さすがの旦那も見ていて辛かったと言います。
モルヒネを少し使うことで楽になりましたが、もう2,3日もつかどうかと言われ、兄弟や親戚が集まりました。
その日、おじいちゃんは穏やかでした。前の日苦しんだのは嘘のように眠っているようでしたが、意識ははっきりあったようです。
おばあちゃんと旦那とお姉さんがその日は泊まりました。
夜旦那から「落ち着いてるから大丈夫だと思う」とメールがきたのですが、夜中に携帯が鳴り「今息を引き取った」と・・・
娘を起こし深夜2時に病院に向かいました。
あっという間だったそうです。
血圧がどんどん下がっていき、病室にいたお姉さんがおばあちゃんを仮眠している部屋まで向かいに行き、その間わずか1,2分の間必死に旦那が呼びかけました「今おばあちゃんが来るから、がんばれ」と。
そして、おばあちゃんが来た瞬間、大きく喉をぐうっと鳴らしそしておじいちゃんは逝ってしまいました。
間に合ってよかった。おばあちゃんに最後の別れができてよかった。
私が病院に着いた時、おじいちゃんはまだ暖かかったです。
眠ってるような顔でした。
好きなことをいっぱいしてきたおじいちゃん、最後に家族に見守られて幸せだったと思います。
あんなに反抗的だった旦那も、しょっちゅう喧嘩してたおばあちゃんも、いざという時頼りになるのはやはり家族なんだと、家族の愛情の強さを感じました。
棺に入れられたおじいちゃんに「ご苦労様でした、ありがとう」と言うのが精一杯で、家族全員でおじいちゃんの顔や髪を撫でて見送りました。