ayamiの子育ち 自分育ち日記

一人っ子の娘は小学校4年生の時に約4ヶ月間の不登校を経験しました。でも今は毎日元気に学校へ行っています。

再登校後のこと ③

2009-05-30 15:13:43 | 不登校だった娘

再登校後も何度か体調が悪く朝起きれなかった日があります。

一旦起きても「やっぱり駄目、もうちょっと寝る」と言って一時間ほど寝て、遅刻の連絡を自分でして行ったこともありました。

自分で決めて自分で行動する。
多少辛くても学校に行けるんだな、やっぱり行きたい場所なんだなと思いました。

先生はよく電話をくれて学校での様子を教えてくださいました。「辛い日は無理しなくてもいいですよ。自分で考えられるようになってきましたから、今のペースでいきましょう」と言われました。

学校に行くようになると、それまで休んでいたのでいろんな問題が発生します。

勉強のこと、友達のこと、何か言ってくるたびに私の心は揺れていました。

なんて言ったらいいんだろう、どうアドバイスしたらいいんだろう。

でも、そんな経験をしているうちに気がつきました。娘は私に話すことで自分の考えを整理しているんだと、聞いてほしいだけなんだと。

彩が自主的に判断し、行動し、その行動に責任をもつ。私がやることは、その能力がつくように先に結論を出さないこと。自分で出した結論、私の考えと違っていてもいいんです。
もし間違えたらそこから学べばいいんだから。
頭でわかっていながら、日々の葛藤は続きます。

そしてその頃私はメロディさんと出会いました。

まさに不登校真っ最中のメロディさんは一年前の私でした。

同い年の子ども、ODの症状、過保護な子育て、一人で不安だった私はメロディさんにメッセージを送り、励まし励まされ頑張ってきました。

ODなんだから他の不登校の子と同じような対応をしてもうまくいかないのではないかという思いの中、メロディさんと話すことで、この方法は間違いないんだと確信していきました。

彼女に伝えた言葉は、私に言いきかすことでもありました。

 

  


再登校後のこと ②

2009-05-29 10:37:50 | 不登校だった娘

朝の問題は、再登校後も長く続きました。

布団から「おかあさ~ん、来てよ~」と何度も呼ばれたり、そして引っ張ってと手を伸ばしてきます。

よいしょっ と引っ張ってあげるとようやく起きてくるものの、食欲はあまりなく、菓子パンのようなものしか食べられません。

親は子どもの好みを聞かないで家族の朝食を作る、そう思って出しても食べるのは菓子パン。

食べないよりはいいか、と思って買ってくる私も私なのですが・・・

一度旦那に「5年生にもなって、お母さんから手を引っ張ってもらわないと起きれないのはどうかと思う」と言われ・・・凹みました。

頑張って毎日学校に行ってるんだから、苦手な朝くらい手を貸してあげたっていいじゃない、そう思いました。

旦那に言われ、しぶしぶ手を貸すのを止めたのですが、娘は「何で来てくれないの?来てよ~」と私を呼びます。

「自分で起きてね」とだけ言い、ゴミを捨てに行きました。

なるべくゆっくりと戻ると、娘はまだ布団の中。

あとで旦那に聞くと、ゴミを捨てに私が出た後、しかたないなと思ったのか一旦起きようとしたようです。ところが私が帰ってきた音でまた布団に戻ってしまったそうです。

手を洗ってる私の所にきて「お母さん、学校行きたくない」と涙目で言われました。

そうなんだ、とだけ応えました。娘が自分で答を出すのを待ちました。

そうしてるうちに、「今日は委員会があるから行かなきゃ」と言って登校しました。

毎日が綱渡りのような日々でした。

 


再登校後のこと ①

2009-05-28 11:50:29 | 不登校だった娘

娘が不登校だった頃のことは以前「不登校だった娘」という記事で書きました。

娘は4年生の最後の最後にギリギリセーフで教室復帰をしましたが、その後の継続登校のことを少し書きたいと思います。

本当なら、毎日朝から休まずに、が理想ですが、なかなか完全不登校の後ですからそう簡単にはいかず、教室、適応教室などを経て、五月雨登校後5年生に進級しました。

担任が替わり、クラスも替わり、緊張のスタートでした。

まだまだ朝が苦手な娘、うっかり8時まで寝過ごすこともありました。

不登校の頃、最初は生活のリズムを狂わせないように起こしていましたが、起きる起きないは子どもの問題とわかってから起こすことはやめました。

でも学校に行くようになると、遅刻したらと思うと起こさないでいることがとても大変です。

でも、起こさないと決めたのですから、起こしません。

その頃はまだリビングの隣で寝ていたので、わざと大きな音をたてたり、テレビのボリュームを上げたり、と気持ちは切り離せなかったです。

そして起きても私を呼んで手を引っ張ってもらわないと起きれなかったり、そんな状態ですのでいつまた行けなくなるのではという恐怖との戦いです。

でも、親が変われば大丈夫と心に言い聞かせ、朝はとにかく離れようと、自分の仕事に専念しようと我慢我慢の毎日でした。

 

 

 

 

 


お嬢なお義母さん

2009-05-26 16:05:06 | 家族

おじいちゃんが亡くなって長男の旦那が喪主を務めたわけですが、喪主は大変です!本当に亡くなった瞬間から喪主は寝る間も食べる間もないくらい大変です。悲しみに暮れてる暇も無いほど本当に本当に大変でした。

特におじいちゃんの兄弟、つまりおじさん、おばさんにあれこれ言われ、初めての経験で何もわからない旦那はただ「本家様」の言いなりになるしかなく・・・

葬儀が終わりほっとしたのもつかの間、葬儀の費用やらなんやら何から手をつけたらいいのか。

おばあちゃんに家の財産のことを聞いてもさっぱりわかりません

おばあちゃんは、家にいくらあるのか預貯金はいくらあるのかまったく知らなかったのです。

全ておじいちゃん任せ。

カードをもらっていて、なくなったら銀行でおろして使う。

おばあちゃんにとってカードは「打ち出の小槌」いくら引き出してもなくならない魔法のカードだったのです。

やりくりをしない人だな~とは思ってましたが、まさかこんなにお嬢様だったとは・・・

一般の人にしては随分派手な葬儀をあげ(本家様の言いなりで)、果たしてこれからお墓、仏壇、払うお金はあるの?

旦那はローンを組むことまで考え・・・

とりあえず、ありました。おじいちゃん、競馬大好きだったけどそれほど大穴もなく損もなく、ほっとしました。

お金の計算や、諸々の手続き、おばあちゃんは「私はわからないからいいようにしてね」と全て子ども任せ。

年金の手続きを終え、なんとか普通に生活できそうだけど、これからは自分でお金の管理をしてねと言いましたが、「わからないことはayamiちゃんにお願いするね」と、もはややる気なし。

こういう人がオレオレサギにあうのかも・・・と不安になります。

旦那もお姉さんもおばあちゃんを、親というより小さな子ども扱い。

これからは二階で寝ないで下で寝た方がいいとか、電話機が古いから新しいのに替えた方がいいとか、手出し口出しのオンパレード。

おばあちゃんも、「私は何もわからないから、何でも子どもたちに聞いてからにします」って・・・

う~~ん、年寄りの自立は子どもより難しい、っていうか無理!ってある人に言われました

 

 

 


恋の話

2009-05-22 09:39:47 | 学校

最近恋の話を相談されます。といっても娘の友達の話。

けっこう付き合ってるカップルも多いようで 卒業間際に告白して付き合うようになったパターンが多いらしいです。

娘は「内緒だよ」と言い私に相談してきます。

Rちゃん、イケメンのN君と付き合ってるのですが、クラスも替わり部活も別で話す時間もなく、もうダメかも・・・って言ってるそうです。

聞きながら、笑いそうになるのをこらえ だってあまりにもかわいくて、青春してて、いいわね~~って感想しか出てこないんだもん。

で、先輩母が言ってましたが、この時期の男の子は女の子に比べて子ども。付き合うってどうしていいかわからないんだと思う。女の子は電話したりデートしたりとか誘ってほしいけど、そういうやり方もわからないし、めんどくさいんだと思う。

なるほどね。確かに女の子の方が積極的かも。告白とかけっこうみんなしてるみたいだし。でも、いざ付き合うとなるとやっぱり彼にリードしてほしいもの。

その辺のズレが破局になるのかな~。けっこうサイクルも早いようで

誰と誰が付き合ってるとか、別れたとか、誰が好きかとか、そんなことで大いに盛り上がってる我が家の中学生です。

 

 


楽しい子育てって?

2009-05-21 09:30:25 | 不登校だった娘

親が楽しくないと子どもも楽しくない、お母さんがニコニコ笑ってたら子どもも幸せ。だから不登校でも笑って過ごそう。

私にはこれが出来ませんでした。

頭ではわかってます。努力もしました。

娘と出かけたり、ゲームをしたり一緒に遊びました。

その時は楽しい、ような気もしますが、その後に襲ってくる「このままでいいの?」という不安。この不安を取り除くことがどうしても出来ませんでした。

それでも私が元気でいなければ子どもはもっと不安になるし、私の心配が子どもに伝わってしまう。そう思って努めて自分が元気にならなきゃと思いました。思い込もうとしました。

自分が楽になること、子どもに「学校なんて行っても行かなくてもどっちだっていいじゃない。生きる道はいくらでもあるよ。学校にこだわるのはやめよう」と言ってあげること?

苦しんでる子にそう言ってあげたら子どもは楽になるのかな?

本当は学校に行きたいと思ってる子の「他に生きる道」ってどこにあるんだろう?

不登校は悪いことじゃない、学校はいかなくてもいいと心から思うことがそんなに大事なことなのかな?

親が自分の人生をしっかり生きていたら、子どもは自然に学校へ行けるようになるのかな?

楽になるのは親だけのように思えます。

子どもが学校に行けないことを先生や友達や学校社会を批判して、人のせいにしたり、クラスが代われば、先生が代われば、転校すれば、と周りが変わることばかりを期待してもなかなか効果はでません。

私は不登校が悪いことだとは思いません。誰だって好きで不登校になったわけではないでしょう。

でも私は、子どもが学校に行かなくてもいいと心から思うことは出来なかったし、出来なくてよかったと思っています。

そこまで必死に頑張って子どもを学校に戻すことが正しいの?と言われるかもしれませんが、確かに苦しかったかもしれない。でもいろんなことが目から鱗状態で、親が変わることのすごさを実感し、子どもが元気になっていくことが心から嬉しかったのです。

自信を失くしてうつむいてる子どもに何もしてあげることも出来ず、ただ待ちましょうと言われ悶々とした日を過ごしていた私に、親が出来ること、親にしか出来ないことがあるんだと知った時は、暗闇に一筋の光が射した瞬間でした。子育てって楽しいんだって初めて思いました。

 

そして私は今幸せです。娘もいきいきとした毎日を過ごしています。私の手を借りることもほとんどありません。もちろん、悩みもあるし、傷つくこともあるでしょう。

でも今の娘なら大丈夫、そう思えます。

将来社会の荒波の中で生きていく子どもたち。いつまでも親が守ってあげることは出来ません。

不登校は悪いことじゃない、無理して頑張って行くことはないよ、と子どもに言っているお母さん、心のどこかで「このままでいいの?」「本当に行かなくてもいいの?」と思う気持ちがあるのなら、まず親から変わってほしいなと思います。

全てを受け入れる、ありのままを認める、言葉でわかっても出来なくて苦しい思いをしているのなら、親のそれまでの対応を変えることを学んで実践してほしいなと思います。

生まれてきた命、生きてきてよかったと思いたいし、子どもにもそう思ってほしいです。

 

 


久しぶりの欠席

2009-05-19 09:01:37 | 娘のこと(中1)

昨日娘は学校を休みました。

朝起きてきて「お腹が痛い」とうずくまっていました。朝ごはんを途中でやめ、再びベッドへ。

とても行けそうもないと言うので、欠席の連絡をしました。

その後、9時に起きてきて「少し良くなったから行こうかな」と言い、ご飯を食べましたが、途中でまた痛くなりやっぱり医者に行くと言いました。

途中何度も「休みたくないな、でもお腹痛くなったらどうしようかな。でもやっぱり行きたいな」と繰り返していました。

とりあえず予約を入れ、時間までまた寝たのですが次に起きた時はもう治っていました。

結局治ったので医者は行きませんでした。

その時点で学校に行くか迷ったようですが、お昼近かったこともあり、今日はゆっくり体を休ませると決めたようです。

起立性調節障害は、朝調子が悪く午後からよくなることが多いです。

娘がODになって一番ひどい時は、午後になっても夕方になってもずっと具合が悪く、夜7時8時頃にようやく元気になるような状態でした。

その時間になると朝の具合が悪かったのが嘘のようになり、今なら学校行けるのにねなんてよく言ってました。

午後から元気になると、明日は大丈夫だろうと思うのです。もう治っただろうと。普通の風邪ならそうでしょうが、ODは違います。

だから朝になると、まるで別人のような娘を見て打ちのめされたような気分になったものです。

夕べはあんなに元気だったのに、学校行きたいって言ってたのに、どうして?

 

昨日休んだ娘を見てあの頃を思い出しました。

勿論あの頃と今では違いますから、また再発?という不安はありません。

でも、やはり娘はまだストレスに弱いのだなと思います。

人よりも疲れやすい、精神的に弱い部分があると思います。

夕方部活の友達から、明日の朝練の連絡があり「明日は6時50分に待ち合わせだから」と言う娘は楽しそうでもありました。

昼間たっぷり寝た娘は10時を過ぎても寝ようとはせず、そんな娘を見てもイライラすることもなく、寝る時間も起きる時間も娘の問題ですから、早く起きなければと思えば起きるでしょう。

今朝は6時前に起きてきて、朝食をしっかり食べ6時40分に家を出ました。

普通の朝でした。

 


娘の成長

2009-05-12 08:17:18 | 学校

連休前に個人懇談会がありました。

学校生活にも慣れてきて、係や委員会の仕事を頑張ってやってます、自分の役割を考えクラスのために何をしたらいいかを考え行動していますと言われました。

しっかりしている、はっきりしている等、学校では頑張ってるんだなと思います。その分家では・・・

先日教室に飴の包み紙が落ちていて、あるはずの無いものが教室にあったということで注意があったようです。

その後娘が先生の所に行き、「同じ飴が家にあります。もしかしたら、ハンカチかなにかについてて、間違って落ちたのかもしれません」と言いに行ったそうです。

先生は、それはないだろうなと思ったけれど、自分が気になったことをきちんと伝えにきてくれたことを嬉しく思ったと言われました。

そして、自分の考えを相手に伝えられる子は同じようなタイプの子が友達になるケースが多く、トラブルもあまりなくうまく生活しているというような事も言われました。

このまま、素直にいけば問題もないでしょうと。

素直に行けば・・・ね

なかなかそう簡単にはいかないでしょうが、まあ、今のところは順調なのかな。

部活も始まりヘトヘトの娘ですが、連休中におじいちゃんとの別れやいろんな非日常的な経験をして、かなり疲れたと思うけれど、「早く学校行きたい、友達と話したい」と言う娘に成長を実感しました。

 

 


おじいちゃん、天国へ

2009-05-08 06:29:09 | 家族

五月四日未明おじいちゃんが天国へ旅立ちました。

病名がわかったのが2ヶ月前のことです。もっとも箸が持ちにくいなどの自覚症状は一年前からありました。

筋萎縮性側索硬化症、現代の医学では治らない難病でした。

半年から一年の間には自発呼吸が難しくなるでしょうと言われていたのですが、おじいちゃんの場合は進行が思ったよりも早く、3月は週末だけ家に帰るような生活で自分で歩くことも出来たのに、4月に入ってからは歩行も困難になり、あっという間に起きることも出来なくなりました。

そして口からものを食べることも出来なくなり、鼻からチューブで流動食を入れていました。

おばあちゃんは、そのやり方を一生懸命に覚え「家に帰ったら私がやるからね」と在宅介護の準備もしていました。

日に日に弱っていく様子は毎日見ていてもわかるほどで、退院はまだまだ出来ないだろうと思っていましたが、まさかこんなに早くお別れの日が来るなんて誰も考えもしないことでした。

喉に穴を開けて呼吸器をつければ延命できたのですが、おじいちゃんは最初からそれを拒否していました。

勿論自分の病名も知っていたし、進行性のもので治らないことも承知してのことです。

おばあちゃんは、どんな姿になっても生きていてほしいと言いましたが、ガンコなおじいちゃん嫌なものは嫌といったら曲げません。

おそらくそうなったら家族が苦労するのはわかってる。おばあちゃんにそんな苦労はかけたくなかったんだろうなと思います。

亡くなる少し前、まだ話が出来る時に主治医の先生がもう一度確認しました。おじいちゃんは呼吸器と聞いただけでもう手を振り否定したそうです。

死を覚悟したのでしょうか。呼吸器を付けないことがどういう意味か知っていたはずなのに。

私たちが「おじいちゃん、もう駄目かもしれない」と思うより前からおじいちゃんは覚悟していたのかもしれない。

迫ってくる死と向き合うことがどれほど恐いことか、今の私には想像も出来ません。おじいちゃんは強い。強すぎるよ・・・

呼吸が苦しくなり、自分で鼻のチューブを抜いたりマスクをつけても自分ではずしたり、かなり苦しかったようです。力ずくで押さえつけて酸素マスクをつけたり、自分ではずさないように手を縛られたり、さすがの旦那も見ていて辛かったと言います。

モルヒネを少し使うことで楽になりましたが、もう2,3日もつかどうかと言われ、兄弟や親戚が集まりました。

その日、おじいちゃんは穏やかでした。前の日苦しんだのは嘘のように眠っているようでしたが、意識ははっきりあったようです。

おばあちゃんと旦那とお姉さんがその日は泊まりました。

夜旦那から「落ち着いてるから大丈夫だと思う」とメールがきたのですが、夜中に携帯が鳴り「今息を引き取った」と・・・

娘を起こし深夜2時に病院に向かいました。

あっという間だったそうです。

血圧がどんどん下がっていき、病室にいたお姉さんがおばあちゃんを仮眠している部屋まで向かいに行き、その間わずか1,2分の間必死に旦那が呼びかけました「今おばあちゃんが来るから、がんばれ」と。

そして、おばあちゃんが来た瞬間、大きく喉をぐうっと鳴らしそしておじいちゃんは逝ってしまいました。

間に合ってよかった。おばあちゃんに最後の別れができてよかった。

私が病院に着いた時、おじいちゃんはまだ暖かかったです。

眠ってるような顔でした。

好きなことをいっぱいしてきたおじいちゃん、最後に家族に見守られて幸せだったと思います。

あんなに反抗的だった旦那も、しょっちゅう喧嘩してたおばあちゃんも、いざという時頼りになるのはやはり家族なんだと、家族の愛情の強さを感じました。

棺に入れられたおじいちゃんに「ご苦労様でした、ありがとう」と言うのが精一杯で、家族全員でおじいちゃんの顔や髪を撫でて見送りました。