城台山日記

 城台山の麓で生まれ、毎日この山に登り、野菜・花づくり、読書、山登りをこよなく愛する年寄りの感動と失敗の生活日記です。

青春プレイバック・北鎌尾根 20.7.26

2020-07-25 17:28:04 | 過去の山登り記録
 皆さんは新田次郎の書いた「孤高の人」という本を読んだことがあるだろうか。この小説の主人公は実在した加藤文太郎という登山家、最後は厳冬期の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難死してしまう。この小説を読んだ者ならば、北鎌尾根という名前は登山愛好家にとって特別な存在である。槍ヶ岳には、東鎌尾根、西鎌尾根そして北鎌尾根(南側は穂高に続く3000mの稜線)がある。昔は表銀座コース(比較的やさしい)燕岳から大天井岳を経由して東鎌尾根から槍ヶ岳に至るコース、そして裏銀座コース・槍ヶ岳から西鎌尾根を経て双六岳、三俣蓮華岳、鷲羽岳、水晶岳、烏帽子岳がポピュラーなコースだった。しかし、北鎌尾根から槍ヶ岳への道は一般ルートではなく、しかも起点となる千天出合(千丈沢と天上沢の合流点)までの道のりが遠く、ベテラン向きとされている。このコースに昭和54年(1979年)8月11日~13日ベテランT氏の先導により登った記録である。


 概略図 私たちは、飛騨側から鎗平、千丈乗越(西鎌尾根)を経由して、長い長い千丈沢を下り、千天出合に到着
 北鎌尾根へは、今は水俣乗越(東鎌尾根の末端)から入ると聞いた

 東鎌尾根から北鎌尾根(昭和50年11月) 季節が全然違うが形の良さは変わらない

◯一日目 白出6:30→滝谷出合7:40→鎗平8:45→水場9:45~11:00→西鎌分岐11:45→千丈乗越12:30→千天出合16:20
 前日、新穂高に入り、白出で仮眠。滝谷出合で朝飯、槍平の先の最後の水場で昼飯、ホエーブス(ガソリンコンロ)のピンが紛失し、時間を取られる。西鎌分岐で槍の肩(山荘)にあがる道と分かれ、左側の西鎌尾根にトラバース気味に登る。千丈乗越でT氏の知人に会った。彼は、穴毛谷から笠ヶ岳に登り、双六から西鎌尾根で登ってきたとのこと。乗越から一路千天出合まで下るのだが、硫黄岳の尾根が切れているところが千天出合だから大変な距離である。雪渓のなくなった地点から北鎌側を巻くように「宮田新道」が続いているが、利用者が少ないため相当荒れている。途中から沢の石の上を下っていく。3時間半の下りでいい加減疲れたころ、出合の吊橋に到着。その吊橋はいまにも壊れそうでここを何とか渡りきる。出合は予想に反して狭くて陰気くさく、まともなテント場すらない。整地してなんとか場所を確保する。夕食のあとすぐに寝たが、沢が近くてその音がすごいのには悩まされた。

 へっぴり腰で出合の吊橋を渡る

◯二日目 出合4:20→北鎌沢出合6:30→北鎌沢コル8:40→槍ヶ岳15:00→南岳サイト地17:40
 2時半起床。出発して30分ほどで道が分からなくなる。左岸の方に道がついており、その手前に朽ちた吊橋がある。飛び石伝いに対岸に渡る。北鎌末端の取付きはここらしい(私たちはもう少し上の北鎌沢から取り付く)。左岸をどんどんさかのぼっていくと、やがて水が伏流し、沢が開けてくる。ケルン、レリーフもあり、ここが北鎌沢出合で、槍の穂先が東鎌と北鎌の合流したところに見えている。
 北鎌沢出合からしばらく登ると左俣と右俣に分かれる。左俣は上部に雪渓があるらしく水量が多い。私たちの登るのは右俣(一般ルート)、水量は少なく、合流点のすぐ上が最後の水場となっている。急な道を喘ぎながら登るが、コルは見えているのになかなか着きそうにもない。大岩を乗越すあたりから草付きの斜面に変わった。燕岳の稜線から出てきた太陽に照らされて、大汗をかく。傾斜が緩くなり、やっとのことでコルに到着。T氏、U氏は既に到着し、お待ちかねの様子。ここまでで遭遇したパーティは4組、なかなかの盛況のようだ。
 コル付近は、まだ森林限界に達していなかったが、少し登っていくと岩尾根となってきた。ここからが北鎌尾根のハイライトとなる。独標は千丈側を巻いていく。このコース全体に浮き石が非常に多いので注意が必要だ。巻き道は独標の少し先に出てくる。独標から大して登りはなく、小ピークをいくつも越えて行く。途中聴覚障害者のグループに会う、重そうな荷物を持っており、P2から登って来たらしい。安全のためか全員がヘルメットをかぶっている。登り方が少し強引で盛んに小落石を繰り返している。
 北鎌平がどこだったかわからないままに、槍の穂先の最後の登りとなった。

 北鎌平?付近から
槍の山頂に二週間を経て再び立った。山頂は人で一杯で、まさにこぼれんばかりの盛況だ。

 左からU氏、T氏、おじさん
山荘に少し寄った後、南岳に急ぐ。大喰岳にさしかかる頃、夕立がやってきた。中岳の山頂にテントを張ることも考えたが、小屋のビールということで南岳まで行くことになった。

◯三日目 南岳5:00→北穂高岳7:25→穂高山荘9:30→白出11:50
 シュラフ持参でないおじさん以外の二人は朝方相当寒かったようだ。常念岳方面からのご来光を見ながら、キレットを下っていく。キレット、北穂高、涸沢の登降は北鎌以上に緊張を要する箇所があるが、整備が行き届いていて不安はない。

 北穂高から槍を展望
穂高山荘前はかなりの賑わいで、山頂に登るためにはかなりの順番待ちがありそうなので、山頂はパスし、白出沢を下ることにする。このルートは急で登りには使いたくないと思った。新穂高では、この夏開設されたばかりの浴場に入り、やっと一息ついた。 

※T氏のこと
 この時、T氏は我が会の会長だった。若いときには冬の槍穂縦走、県岳連ヒマラヤ遠征にも加わったベテラン。養蚕の専門家であったT氏は、国内では衰退産業となっていたが、発展途上国では必要とされた技術を退職後移転する仕事に従事した。この山行時50代だったと思うが、スタミナ、食欲もすごかった。ただ下りのバランスはかなり悪くなっているようであった。

※※新田次郎のこと
 新田次郎といえば、一番有名なのが「八甲田山死の彷徨」の原作者で、映画化されたこともありよく知られている。その奥さんが藤原ていで「流れる星は生きている」は満州からの壮絶な引き上げを描き出す名著。そして、次男の数学者藤原正彦、一時期「国家の品格」が大ブレークした。私は初期の頃の「若き数学者のアメリカ」、「遙かなるケンブリッジ」が面白いと思った。

※※※千丈乗越で会ったS氏(T氏の知人)のこと
 S氏はこの年の年末年始を使って単独で槍穂縦走に挑んだ。南岳からキレットに下るところで滑落し、滝谷方面に落ちた。落ちる時の声を聞いた登山者がいた。彼の捜索のため、岐阜の登山クラブが参加し、確か2回目か3回目の捜索で雪の中に埋まるSが発見された。たまたまその捜索に参加したのが、おじさんを藤内壁につれて行ってくれたA氏。今も鮮明にその話を思い出す。  


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