先にも書きましたが、心が賢く、温和で謙遜な人が多くなれば、日々が快く、平安になることは明かです(箴言3:17,18)。偉大な創造者エホバ神は、その模範を示して来られました。今日は、聖書からそのことを紹介致します。皆様方も見倣ってくだされば嬉しく存じます。
謙遜とは、へりくだった思いであり、尊大さや誇りのないことです。謙遜は内面的な心の特質であり、温和、辛抱強さ、道理にかなっていることなどの特性として発揮され、愛を基盤とした特質です(ガラテア5:22,23)。とはいえ、こうした敬虔な特質を、弱さや臆病さと取り違えてはなりません。それらは、神エホバの義なる怒りや、破壊する力の行使と相反するものではありません。むしろ、神エホバは温和さと謙遜さにより、ご自分の畏怖の念を抱く強さを、つまりご自身を完全に制御する力を実証しておられるのです(イザヤ42:14)。では、温和さ、謙遜さは知恵とどんな関係があるのでしょうか。聖書に関する参考文献は、「謙遜は、突き詰めると・・・無私という言葉で定義され、すべての知恵の本質的な根幹である」。ですから謙遜なくして本物の知恵が存在することはあり得ないのです。では、神エホバの示される温和さ、謙遜さはどのように私たちの益となっているのでしょうか。
ダビデ王は神エホバに向かってこう歌いました。「あなた(エホバ)はその救いの盾をわたしに下さり、あなたの右手がわたしを支え、あなた(エホバ)の謙遜さがわたし(ダビデ)を大いなる者とするのです」(詩編18:35)。神エホバは、不完全な人間を助け、日毎に保護し、支えるために、身を低くされたのです。ダビデは、自分が救いを得るとしても、また王として最終的にある程度大いなることを成し遂げるとしても、それはただ神エホバはこうして快く謙遜になってくださることにかかっている、ということを悟っていました。実のところ、神エホバが謙遜でなければ、また温和で愛のある父として、私たちに接するために快く身を低くしてくださらないなら、不完全なわたしたち人間のだれが救いの希望を持てるでしょうか。
謙遜と慎みは違う、という点でも注目に値します。慎みは、忠実な人々が培うべき麗しい特質です、謙遜と同様、慎みも知恵と結び付けられています。例えば、箴言11章2節には、「知恵は、慎みある者たちと共にある」と書かれています。とはいえ、聖書は、神エホバを慎みある方とは述べていません。なぜでしょうか。聖書中で用いられている場合、慎みという語は、自分の限界をふさわしくわきまえていることを示唆しているからです。全能の神エホバには、ご自身の義(公正)の基準のゆえに自らに課するもの以外に限界はないからです(マルコ10:27.テトス1:2)。さらに、至高者である神エホバは、何にも従属していません(詩編83:18)。ですから、慎み深さと言う概念は神エホバには、まったく当てはまらないのです。
しかし、神エホバは最高度に謙遜で温和な方です。真の知恵には、温和さが不可欠であることを、神エホバご自身が僕たちに教えておられます。み言葉は、「知恵に伴う温和さ」について述べています(ヤコブ3:13)。この点での神エホバの手本を考察し、次回は、神エホバは謙遜に責任をゆだね、耳を傾けられる、ことをお伝え致します。
イエス・キリストは地上に遣わされ、贖いの死を遂げられまで、神エホバの子でありながら、謙遜に身を低くし、人々に仕えその手本を残されました(フィリピ2:5~8.ペテロ第一2:21)。あなたも、温和で謙遜な方々のお一人であれば幸いです。
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