イエスの時代のパリサイ人たちは、頑固で不信仰でかつ、心が曲がっていました。イエスに目が見えるように癒された青年に執拗に質問したため、その青年からパリサイ人たちはたしなめられました。パリサイ人たちはどのように反応するでしょうか。
パリサイ人たちは青年にたしなめられた事に激怒し、「お前はあの男(イエス)の弟子だ」と非難し、「我々はモーセの弟子なのだ。我々は、神(エホバ)がモーセに語られたことを知っている。だが、この男(イエス)については、どこからの者か知らない」と言いました。
謙遜な目の見えるようにされた青年は、驚きを表し、「これはいかにも驚いたことです。あの人(イエス)がどこからの者かをご存じないとは、私の目を開けた人ですのに」と、答えました。青年の目が見えるようになったことから、どんな結論を導き出すべきでしょうか。その青年は誰もが認めている前提となる事実を次のように指摘しました。「神(エホバ)は罪人たちにはお聴きになりませんが、誰でも神を恐れてそのご意志を行うなら、その者にはお聴きになることを、私たちは知っております。昔から、盲人として生まれた者の目を開けたというようなことは聞いたためしがありません」。したがって結論は明らかです。「神(エホバ)からの人でないなら、この人(イエス)は全く何も出来ないはずです」と、青年は説明しました。
パリサイ人たちは、このような簡潔で明確な論理に対して何も答えることが出来ませんでした。パリサイ人たちは真理に太刀打ちできないので、「お前は全く罪の内に生まれながら、我々を教えるというのか」と、言ってののしり、その人を追い出しました。その青年はエルサレムの会堂から追放されたようです。
イエスはパリサイ人たちが行った事柄を知ると、その青年を見つけて、「あなたは人の子(イエス)に信仰を持っていますか」と、尋ねられました。「だんな様、それはどなたのことでしょうか。私がその方(イエス)に信仰を持てますように」と、かっての目の見えなかった青年は答えました。「あなたが話しているのがその者(イエス)です」と、イエスは答えられました。その人は直ちにイエスの前にひれ伏して、「私は本当にその方(イエス)に信仰を持っています、主よ」と、言いました。
それでイエスは、「この裁きのために私はこの世(人類社会)に来ました。すなわち、見えない者が見えるようになり、見える者が盲目になるためです」と、説明されました。
すると、それを聴いていたパリサイ人たちは、「私たちも盲目であるというわけではないでしょうね」と、尋ねました。もしパリサイ人たちが、精神的に盲目であることを認めるなら、イエスに敵対していることには弁解の余地があったでしょう。イエスは、「あなた方が盲目であったなら、あなた方には罪がなかったでしょう」と、言われました。しかし、パリサイ人たちは心をかたくな(頑固)にして、自分たちは盲目ではなく、神エホバの霊的な啓発などは必要ないと主張しました。それでイエスは、「あなた方は今、「私は見える」と言います。あなた方の罪は残るのです」と、説明されました。当時のパリサイ人たちはエホバ神の心から遠く離れ、罪深い状態に陥っていました(ヨハネ9:19~41)。
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