イエス・キリストはみ父エホバに託された神の王国の良いたよりを宣明し、あらゆる疾患とあらゆる病の人たちをいやされました。邪悪な世代の人々は、イエスの使徒のヨハネが食べたり飲んだりしないと、「彼には悪魔がいる」、またイエスが収税人や罪人と呼ばれる人々の家に行き憐れみを表わすと「食い意地の張った、ぶどう酒にふける男と」と、誹謗中傷しました。しかし、イエスはご自分の「その働きによって義にかなっていることが示される」、と、いうことを言明されました(マタイ4:23,24;11:16~19)。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を調べるなら、イエスの言動はまさに義にかなっていることが立証されています。さらにイエスはみ父エホバを公に賛美することを証しされました(マタイ11:25)。続いて「労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい」と招かれました(マタイ11:28)。そのことがマタイの福音書に次のように記されています。このイエスの招きにこたえ応じる人々は幸いです。
「その時、イエスはこたえ応じて言われた、「天地の主なる父(エホバ)よ、わたし(イエス)はあなた(エホバ)を公に賛美します。あなたはこれらのことを賢くて知能のたけた者たちから隠し、それをみどりごたちに啓示されたからです。そうです、父(エホバ)よ、このようにするのはあなたのよみするところとなったのです。すべてのものは父(エホバ)によってわたしに渡されており、父をほかにすればだれも子(イエス)を十分には知らず、また、子と子がすすんで啓示する者をほかにすれば、だれも父(エホバ)を十分に知りません。すべて、労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい。そうすれば、わたし(イエス)があなた方を爽やかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で、心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂(命または体全体)にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびき(神エホバへの全き献身の教え)は心地よく、わたしの荷は軽いのです」」(マタイ11:25~30)。
上の聖句の通り、イエスは天の父エホバを公に賛美されました。このイエスの教えから分かる通り、み父エホバを公に賛美することの方が重要なのです。イエスを神にしたり、マリアを崇拝すべきではないのです。イエスがみ父エホバを公に賛美するように心を動かされるのは、神エホバが尊い霊的な真理・神の王国の良いたよりの真理を、賢くて知能のたけた者たちには隠し、立場の低い人、いわばみどりご・心の純粋な人たちにそれらの驚くべき真理を啓示しておられるからです(マタイ5:8)。
続いてイエスが、「すべて、労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい」と招かれたのはなぜでしょうか。イエスはどのようにして様々な荷を負って労苦している人たちを爽やかにしてくださるのでしょうか。宗教指導者たち・パリサイ人や書士たちが人々に負わせて来た、人を隷属させる人間の考えに基づく伝統から自由にすることによって爽やかにしてくださるのです(ヨハネ8:32)。それは現在の多くの人々にも同じことが言えるのです。イエスはまた、政治権力による支配がもたらすひどい重圧や、不公正の蔓延や良心をさいなむ罪の重圧を感じている人々に安らぎと義の道と真の命の道を示し、それらの苦しむ人々に、神の王国による真の希望と、どうすれば罪が許されるのか、どうすれば神エホバとの貴重な関係を享受できるかを明らかにされるのです。イエスの教えはその愛と知恵によってみ父エホバの教えを伝授されるので快い道、平安の道、命の道の光に導かれるようにされるのです(詩編119:105)。 光に象徴されるみ言葉の真理は爽やかなのです。
イエスが与える心地よいくびきとは、神エホバへの全き献身の教えのことです。それは、同情心に富み、憐れみ深い天の父エホバを心をこめ、思いをこめ、力をこめ、魂をこめ愛し、仕えることを可能にします(マタイ22:37)。そして、イエスがご自分のもとに来る人々に与える軽い荷とは、真の命をえるための神エホバのご要求である、聖書に記されている神エホバの教え・導きにこたえ応じることです。イエスが山上の垂訓の中で教えられた「思慮深い人」として歩むことでもあります(マタイ7:24,25)。イエスの招きにこたえ応じる人たちは幸いです。
年の瀬や 賑わいており 道の駅 今日の一句
12月下旬に咲いている庭の「バラ」
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