篠山さん起訴を受けて、の藤原さんの「Shinya talk」が更新された。
ここ数年、僕が思っていて、うまく言えなかったことを毅然と主張してくれていたので、非常に胸のすく想いになった。
つまり一体に言えることは要するに”社会と切り結ぶ”ユージン・スミスやキャパや、難民をまるで泰西名画のように撮ってしまい、その写真展オープニングには政治家や国連関係者や大使をはじめとする各界のお歴々がありがたく参列するサルガドのようなマグナム的なフォトジェニックなものを写真だといまだに思い込んでいるのどかな人々(なぜか決まってモノクロ好き)が世間にはたくさんいらっしゃるということである。
今回の件で、写真という表現手段にいくばくかの閉塞感がもたらされるのは否めないが、それ以前に、もともと写真界に、ここ数年澱んでいる保守的な写真だけをよしとする考え方が、それ自体が写真界の閉塞感をもたらしていることを、長らく思っていて、このブログでも、何回かそれなりのことを書かせてもらっている。
単純に、
自らの首を自分で絞めている。
と言えるのではないだろうか。
もちろん、国家権力が介入してくるのも大きな問題だが、写真界自体がこのような状態では、写真というもの自体が、どんどん面白くないものになっていくような気がする。