備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム260.一宮(その27・常陸国・鹿島神宮)

2011-05-04 22:42:41 | Weblog
このたびの東日本大震災により被災されました皆様に謹んでお見舞い申し上げます。1日も早い復興を祈念いたしております。

関東に引っ越してきたので、まず鹿島神宮と香取神宮にお参りしてきた。特に、何はともあれ、地震を鎮めるため、要石にお祈りしてきた。

鹿島神宮(かしまじんぐう)。
場所:茨城県鹿嶋市宮中2306-1。JR鹿島線「鹿島神宮」駅の南東、約500m。駐車場有り。
社伝によれば、創建は神武天皇即位の年(紀元前660年?)という。天地開闢以前に高天原から天下った「香島の神」(建甕槌神または建御雷神)が霊剣「韴霊剣(フツノミタマノツルギ)」をもって神武天皇東征を助けたことから、その報恩のために祀ったのが始めとされる。
タケミカヅチは、大国主命の子である建御名方神(タケミナカタ)に勝って葦原中国を平定した神で、その後も、古代東海道の終点(=陸奥の入口)である常陸国に鎮座して東北の荒ぶる神々と対峙することとなったのだろう。ただし、元々は鹿島の土着神で、一般に海上交通の神であったといわれるが、雷に関係があることから、あるいは農業の神だったのかもしれない。中臣氏が常総地方の出身で、「香島の神」を信仰していたらしく、後に一族の氏神として春日大社(奈良市)に勧請した。このとき、御神体を神使である鹿に載せて運んだということから、「鹿島」という名を使うようになったともいう。
さて、茨城県は地震が非常に多いところである。気象庁のデータによると、1986~1999年(14年間)の各都道府県庁所在地における有感地震の回数をみると、茨城県(水戸市)は915回に及び、全国第1位になっている。全国平均は182回であったというから、いかに多いかがわかる。昔は、地震は地中の大鯰が起こすものとされ、これを当神宮境内の要石が押さえているといわれている。当神宮の要石は社殿の東の森の中に祀られているが、地上に出ている部分はごくわずかで、上面が窪んでいる。実は巨岩で、地中深く続いているとされ、有名な水戸黄門こと徳川光圀公が、要石の根元を確かめようとして七日七晩にわたって石の周囲を掘ったが、掘りきれなかったという。
現在、当神宮の参道は西側にあるが、かつては北側から参るようになっていた。北側に御手洗池があり、現在も清水が湧いているが、参拝者は御手洗池で身を清めてからお参りしたのであるという。そうすると、御手洗池~奥宮(本来の神社の位置か?)~要石が直線的に並ぶことになる。要石が磐座であったかもしれないというのは、上面が窪んでいるという形状も、一つの証拠ではないかと思われる。磐座には盃状穴(カップホール)があることが多いからである。


鹿島神社のHP


写真1:境内入口の社号標。震災により「大鳥居」が失われている。境内も多くの石灯籠が倒れており、地震の大きさがわかる。


写真2:社殿


写真3:奥宮。当神宮の摂社で、武甕槌大神の荒御魂を祀る。


写真4:大鯰を踏まえる建甕槌神のレリーフ


写真5:要石が祀られている。覗き込まないと、要石は見えない。


写真6:要石。地上に出ている部分はごくわずか。

コラム259.松蔭寺の擂鉢松

2011-04-17 21:21:17 | Weblog
松蔭寺の擂鉢松(しょういんじのすりばちまつ)。
場所:静岡県沼津市原128。JR東海道本線「原」駅の東、約700m。駐車場有り。
「鵠林山 松蔭寺」は、臨済宗白隠派の大本山で、「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」といわれた白隠慧鶴禅師(後に、明治天皇から「正宗国師」の諡号を贈られている。)の墓所がある。白隠禅師(1686~1768年)は、曹洞宗や黄檗宗に比べて衰退していた臨済宗を復興した、中興の祖とされる禅僧である。享保2年(1717年)に松蔭寺の住持となったが、その学識や人柄を慕う者が多く、松蔭寺が旧東海道に面していたこともあって、参勤交代を行う大名にもファンがいた。その1人が備前国岡山藩主の池田侯(第3代池田継政?)だった。
いつものように、池田侯が東海道原宿を通ると、白隠禅師を訪ねて禅談義などを交わした。帰りしなに、池田侯が禅師に寄進を申し出たところ、禅師は「特に欲しい物はないが、先ほど小僧が擂鉢を毀してしまったので、擂鉢が欲しい。」と答えた。禅師の無欲さに感じ入った池田侯は、大きな備前焼の擂鉢数個を届けた。
あるとき、松蔭寺の境内の松の木が台風で折れてしまった。白隠禅師は、その折れた枝に池田侯から贈られた擂鉢を被せておいたところ、松はそのまま大きく育った。一説には、松の木の折れたところから、血のような赤い液体が流れ出ていたともいう。この松を「擂鉢松」といい、東海道の名物ともなった。
大事な文化財である擂鉢は、昭和60年に別のものに取り替えられた(現在のものは清水焼らしい。)が、今も「擂鉢松」は健在である。(うまく写真が撮れなかったので、下のHPを参照してください。)。


「白隠禅師~500年に一度の名僧~」から(擂り鉢の松)


写真1:松蔭寺山門。擂鉢松は山門を入って左手にある。


写真2:境内に白隠禅師の墓がある。


写真3:旧東海道(現・県道163号線)に面して白隠禅師誕生地の石碑が建てられている。原宿の長沢家の三男に生まれたという。なお、近くに「産湯の井戸」も史跡として残っている。

コラム258.田子浦 新浜の備前さん

2011-01-25 22:00:52 | Weblog
田子浦 新浜の備前さん(たごのうら にいはまのびぜんさん)。
場所:静岡市富士市宮島。「富士市西部浄化センター」の南側にある、「入道樋門公園」駐車場の道路を隔てた東側。「金毘羅神社(こんぴらじんじゃ)」に合祀されている。
前項「備前道丁」(2010年12月22日記事)では、いささか拍子抜けだったが、この「備前さん」は正しく「神様になった備前の人々」である。
昔、備前国から、幕府の御用米を積んできた船が時化(しけ)に遭い、航路を間違えて駿河湾に入ってしまった。流れが緩やかな潤井川(うるいがわ)河口に向かうべきところ、日本でも指折りの急流である富士川河口に入ってしまった。そのため、船は転覆し、乗り合わせた多くの乗組員が海に落ちて亡くなった。生き残った乗組員と田子浦新浜の人々は石塔を建て、亡くなった乗組員たちを手厚く供養した。しかし、長い年月が過ぎ、たび重なる天災も手伝って、石塔はすっかり埋もれてしまい、人々の記憶からも消えてしまった。ある年、この付近に悪い病気が流行ったが、1年経っても病気は一向に収まらなかった。ある信心深い老人が「あの石塔を粗末にしたせいだ」と言いだしたので、人々は早速小堂を建て、再び供養することした。すると、その次の年から、病気はぴたりと止んだという。それから、その小堂は「備前さん」と呼ばれるようになり、人々は身体安全や大漁を祈るようになり、いつの間にか願い事が叶うと言われるようになった。現在では、「金比羅神社」に、他の神様とともに、大切に祀られている。


広報ふじ707号より(新浜の備前さん):pdfファイル


写真1:「金毘羅神社」正面鳥居


写真2:社殿正面


写真3:由緒を記した石碑


コラム257.備前道丁

2010-12-22 19:45:17 | Weblog
備前道丁(びぜんどて)。
場所:静岡県富士市松岡。県道396号線(富士由比線、旧・国道1号線)の富士川に架かる「富士川橋」の左岸(東岸)に「水神社」があり、そこから県道396号線に並行して東に堤が続き、約900mで今度は県道176号線に並行して、「岩本山」(標高193m)下まで北西に堤が続く。この逆「く」の字の堤を、雁(がん)が群れ飛ぶ様になぞらえて「雁堤(かりがねつつみ)」という。その屈曲点に「護所神社」という小社があって、人柱の霊を祀る。その先(東名高速道路の南側)にある、富士川に突き出した堤(土堤出し)部分が「備前道丁」または「備前堤」と呼ばれている(一部の資料では「雁堤」全部を「備前堤」としているものもある。)。
富士川は「駿河」の名の由来ともなったといわれるほどの急流で、度々水害をもたらした。戦国時代に加島荘籠下村を開いた豪族古郡氏は江戸時代には郷士となり、その当主であった古郡重高が元和7年(1621年)に富士川の治水工事に着手した。その後、家督を継いだ子の古郡孫太夫重政、孫の古郡重年の三代にわたって工事を続け、現存するような「雁堤」が完成したのは延宝2年(1674年)だったとされる。
ところで、何故、この堤の一部を「備前道丁」というのか。その築堤に当たって、つぎのような伝説がある。即ち、今より3百余年前、大水が出て、この堤の辺りが切れそうになった。そのため、領主は人柱を立てて、堤を固めることとした。人柱は籤引で決めることになったが、当たったのは領主の信頼厚い家老だった。家老は潔く人柱になろうとしたが、そのとき、旅の六部(巡礼僧)が代わりに人柱になることを申し出、堤の底に埋められた。その後、その六部の生国が備前国と知れ、土地の人々から「備前様」として祀られたという(鈴木暹「東海道と伝説」(平成6年3月)ほか)。この人柱伝説には、いくつかのヴァリエーションがあるが(籤引でなく、千人目に通った者を人柱にした、など)、「護所神社」や「人柱之碑」の存在は、人柱伝説の根強さを示すものだろう。
ただし、「備前道丁」の名の由来は、残念ながら、どうやら備前国とは直接関係ないようである。実は、関東を中心に全国各地に「備前堤」や「備前堀」といった名の運河や堤防が残っている(利根川、木曽川など)。これらはいずれも、徳川家康に仕えた伊奈忠次(1550~1610年)が手がけた土木・治水工事で、その外、伊奈忠次は江戸幕府初期の財政基盤確立に功績があり、関東代官頭から武蔵国小室藩主となった。この伊奈忠次の官位が「備前守」だったため、「備前堀」・「備前堤」といった名前が付けられたものである。「雁堤」は一般に、古郡氏三代が造ったとされるが、どうやらそれ以前に伊奈備前守忠次が治水工事に関わったらしい。天保年間(1681~1683年)に今泉村の名主中村三郎右衛門が書いた手記では、「富士川の治水工事は永禄年間(1558~1570年)に今川氏真が始めたが、洪水の被害を除くには不十分だった。伊奈備前守の優れた築堤で加島平野は安全になった。」(要旨)と記されている。伊奈忠次は、天正14年(1586年)頃に徳川家康が駿府城入城したときに近習役、天正18年(1590年)には三河・遠江・駿河の道路と富士川の舟橋の普請奉行を命ぜられているというので、この頃富士川の築堤工事も行ったのではないか。そこで、ここでも「備前堤」の名が残ったようだ。因みに、静岡市内でも「備前堤」があったらしい(清水区七ツ新屋、有度第一小学校の下(南)辺りなど)。
人柱は立てたかもしれないが、それが備前国の人だったというのは、どうやら付会のようである。


「富士おさんぽ見聞録」さんのHPから(雁堤)

「日本の川と災害」(河川ネット)さんのHPから(水神社)


写真1:「水神社」(場所:富士市松岡1816-1)。祭神:弥都波能売神。巨大な岩盤の上にあり、堤防の起点としたという。旧・東海道の渡船場でもあった。


写真2:「護所神社」。祭神:人柱之霊。


写真3:「護所神社」境内にある「人柱供養塔」と「雁堤人柱之碑」


写真4:「護所神社」の北側から屈曲点を見る。堤が右の方に曲がっているのがわかる。堤の内側は、今は公園(「雁公園」)になっていて、正面に見える建物はトイレ。「護所神社」は、そのやや左側の少し低いところにある。

コラム256.鳥人幸吉の墓(その2)

2010-11-01 19:55:59 | Weblog
鳥人幸吉の墓(ちょうじんこうきちのはか)。
日照山光明院大見寺(にっしょうさん こうみょういん だいけんじ)。場所:磐田市見付2510-1-1。JR「磐田」駅の北、約2km。磐田北小学校の南側。駐車場あり。
日照山光明院大見寺は、浄土宗の寺院で、知恩院末。本尊は阿弥陀如来(運慶作と伝える。)。ここにも、鳥人幸吉の墓がある。
世界で最初に飛翔した「鳥人」幸吉は、生まれ故郷の備前国を所払い(追放)となって、駿河国の府中(駿府、現・静岡市)にやってきた。備前国の雑貨を扱い、また入歯師として成功したが、50歳を過ぎて、再度飛翔を試みたといわれる。一説には、安倍川岸から(静岡)浅間神社前まで、あるいは賎機山頂から建穂寺(式内社「建穂神社」別当寺)までの約3kmを飛んだともいう。しかし、また、これにより駿府も所払いとなり、見附宿(現・磐田市)で飯屋を開いたという。幸吉の晩年はよくわかっておらず、駿府で亡くなったとも、見附宿で亡くなったともいわれている。
磐田市での墓は、旧・見附宿本陣に近い大見寺にあり、同寺の過去帳によれば、弘化4年(1847年)の頁に「備前屋幸吉」の名があるという。一方、墓地には「浮田氏」と刻された墓があって、鳥人幸吉の墓とされるが、側面に「嘉永四辛丑歳」と刻されている。嘉永4年は1851年に当たるが、干支は「辛亥」である。寺の見解では、過去帳により、幸吉の享年を弘化4年(1847年)としている。このように、結局、幸吉の最期の様子ははっきりしないのだが、磐田市で亡くなったとするなら、結局90歳以上まで生きたことになる。これも稀有な人生だったと言えるだろう。

参考文献:川原崎次郎「静岡奇談 鳥人・幸吉と市蔵」(「歴史研究第442号」)


静岡教区浄土宗青年会さんのHPから(大見寺):http://www.jodo-ss.com/2010/09/145.html

いわた市民活動センターさんの「磐田のお宝見聞帳」HPから(浮田幸吉):http://otakara-iwata.net/index.php?FUNC=Detail&Id=162


写真上:「大見寺」


写真中:「鳥人幸吉の墓」表側


写真下:同、裏側

コラム255.鳥人幸吉の墓(その1)

2010-10-31 21:00:00 | Weblog
鳥人幸吉の墓(ちょうじんこうきちのはか)。神様ではないが、世界で最初に空を飛んだ偉人、浮田幸吉(備前国出身)の墓が静岡にあると聞いて、見に行った。
武田山福泉寺(たけださんふくせんじ)。場所:静岡県静岡市葵区大工町4-1。国道362号線(通称:昭和通り)と県道208号線(通称:本通り)の「本通三丁目」交差点の2つ南の交差点を西へ入る。駐車場有り。
武田山福泉寺は浄土真宗大谷派の寺院で、東本願寺末。本尊は阿弥陀如来。開山の慶伝大徳法師は甲府の出身で、武田信玄の孫となり、武田信玄が永禄11年(1568年)に駿河国に侵攻・占領したことから、その頃に駿河国に来たらしい。元は、慶長11年(1606年)、江尻宿(現・静岡市清水区)に長延寺として建立したが、同15年(1610年)に駿府(現・静岡市葵区)に移り、福泉寺と改称した。
さて、浮田幸吉は、宝暦7年(1757年)に備前国児島郡八浜村の旅籠宿「桜屋」瀬兵衛の次男として生まれた。幸吉が7歳のときに父が急死したので、親戚の傘屋に引き取られた。もともと手先が器用で、傘張りや提灯張りに優れた技量を示したが、次いで岡山城下、上ノ町の表具屋万兵衛の店に住み込んだ(このとき15歳)。あるとき、鳩が飛ぶのをみて自らも飛ぶことを思い立ち、鳩の飛翔方法を研究して、人工の翼を作った。27歳のとき、実家の「桜屋」の屋上から初めての飛翔を試みたが、あえなく失敗。その後も研究を重ね、ついに、天明5年(1785年。幸吉28歳)、旭川に架かる京橋の欄干から飛びたち、河原を旋回した。このとき、河原では奈良茶行事の夜宴が開かれており、その群集のなかに落ちてしまった。城下を騒がせたということで捕らえられ、岡山を所払いとなった。いったん児島に戻ったが、結局、駿河国の府中・江川町に移住し、「備前屋」の屋号で、岡山の特産品である木綿製品を商った。その後、甥の幸助を養子にとって隠居した幸吉は、オランダのゼンマイ時計を扱う時計師竜考斎に弟子入りして、時計の修理や入歯作りを学んだ。「備考斎」と名乗ったが、入歯作りの腕前がよく、駿府では入歯師一般のことを「ビンコーサイ」というようになったほどだという。
浮田幸吉の墓には、台座に「浮田」、「備前屋」、「備考斎 行年六十八歳」などの文字が彫られ、右側面に「嘉永四辛亥三月廿五日 備前児島郡八浜 桜屋瀬兵衛倅幸吉」と刻されているのがみえる。嘉永4年というのは1851年だから、幸吉の生まれたのが1757年とすると、享年は94歳になってしまう。そこで、この墓は2代目幸吉(養子の幸助)の墓だともいう。(続く)


写真上:「福泉寺」


写真中:浮田幸吉の墓。新しい台座の上に古い墓石が載せられている。


写真下:側面

コラム254.一宮(その26・遠江国・事任八幡宮)

2010-09-03 22:25:05 | Weblog
事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)。
場所:静岡県掛川市八坂642。JR「掛川」駅の北東、約7km。県道415号線(日坂八坂線)に面するが、この県道は国道1号線(掛川バイパス)の日坂ICと八坂ICの間の道路で、要するに旧東海道の一部である。駐車場あり。
創建時期は不明だが、社伝によれば、第13代成務天皇の頃(在位:131~190年?)とされ、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が勅命により再興したとする。なお、それまでは本宮山山上に祀られていたが、現鎮座地(里宮)に遷座したとされる。「延喜式神名帳」所載の「己等乃麻知(ことのまち)神社」に比定されている。
「八幡宮」となったのは中世以降で、もともとは己等乃麻知比売命を主祭神として祀る。己等乃麻知比売命は、忌部の神である玉主命の娘神で、中臣の祖である興台産命の后神、天児屋根命の母神であるという。また、八幡大神(誉田別命・息長帯比売命・玉依比売命)も祀られているが、玉依比売命=己等乃麻知比売命ともいわれる。
さて、「事(こと)」は「言」であり、「麻知(まち)」は「真知」であるとされ、当神社が旧東海道に面していたこともあって、清少納言や鴨長明など多くの文人等に「ことのまま」神社(明神)という名で言及され、「願い事が意のままに叶う」神社として信仰を集めた。そのため、「大日本国一宮記」において遠江国一宮とされたようである。


事任八幡宮のHP:http://www.geocities.jp/kotonomachihime/index.htm


写真1:「事任八幡宮」境内入口の鳥居(南側)


写真2:社殿正面


写真3:社殿の北西側、小高いところに禁足地がある。西の「本宮山」に向かう遥拝所らしい。


写真4:県道を隔てたところにある「奥宮」。更に、この奥に「磐座」があるとされるが、山道をかなり登っていかなくてはならず、参拝時は夏草が生い茂っていたため、断念した。

コラム253.一宮(その25・遠江国・小國神社)

2010-08-13 20:38:07 | Weblog
小國神社(おくにじんじゃ)。
場所:静岡県周智郡森町一宮3956-1。天竜浜名湖鉄道「遠江一宮」駅の北、約3km。県道280号線を北上すれば、要所要所に案内看板が設置されている。駐車場有り。
社伝によれば、欽明天皇16年(555年)に、北方約6Kmにある本宮山(511m)山上に創祀されたという。本宮山山上には今も奥磐戸神社がある(当神社から山道を2時間近く歩く。)が、これは、後世の神宮寺の影響によるもので、必ずしも本宮山が神体山として信仰されていたかは疑問とされる。
祭神は大己貴命(=大国主神)で、「小國神社」という名は出雲国一宮「出雲大社」に対する遠江国の美称であるともいう。ただ、最初に本宮山に現れたとしても、そうでないとしても、その神がなぜ大己貴命だったのか、は特に説明されていない。一般には国造りの神であり、山を背にして開発された平野を守るとしたものか。あるいは、当神社の脇を宮川が流れており、国土開発に何より大切な水の神であったかもしれない。
さて、当神社は遠江国一宮とされているが、式内社ではあっても、(遠江国に2社ある)名神大(社)ではない。また、当神社が一宮と称されるようになったのは、他国に比べて遅かったようで、平安時代末期~鎌倉時代とみられている。ただ、この間に力を蓄えたようで、その後、特に徳川家康の篤い庇護を受けたことは有名。現在も境内地は約30万坪という(ほとんどは山林だろうけど。(注))。

(注)いや、しかし、山林の価値が低いと思うのは現代人の考えで、かつては、これだけの美林は鑑賞的な価値だけではなく、用材林として巨大な財産だっただろう。あるいは、この財力こそが当神社を遠江国一宮に押し上げた要因だったかもしれない。


小國神社のHP:http://www.okunijinja.or.jp/


写真1:クリーム色の大鳥居


写真2:社殿正面


写真3:社殿前にある「金石・銀石」。傍らの説明板に「古老の伝えによれば御祭神大己貴命(大国主命)が遠江の国造りをされ、此の地に留まりて、諸業を教え給う中に金銀の印として此の石を授けたと云われ以来諸民此を金銀石と称し、松を願掛け松(待つ)という。石を撫で松の幹を撫でれば金運や良縁に恵まれるという。」とある。

コラム252.一宮(その24・伊豆国・三嶋大社)

2010-07-14 22:26:45 | Weblog
三嶋大社(みしまたいしゃ)。
場所:静岡県三島市大宮町2-1-5。JR「三島」駅の南東、約1km。駐車場あり(有料)。
伊豆国はもともと駿河国の一部だったが、天武天皇9年(680年)に分割して設置された。このときまで、駿河国の国府は現・沼津市にあったが、現・静岡市に移転したという。そして、伊豆国の国府は現・三島市に置かれた。
三嶋大社は延喜式の神名帳では「伊豆三島神社」(名神大)であるが、創建時期は不明。元は三宅島(現・富賀神社)→下田市白浜(現・伊古奈比命神社)→伊豆の国市(現・広瀬神社)→現在地と遷宮したともいわれる。このあたりは、主祭神とも関連してくるのだが、一説には伊予国一宮「大山祇神社」の分社であるともいい(逆に、「大山祇神社」が当社の分社であるともいう。2010年3月19日記事参照)、また一説には出雲国御穂崎に隠棲した事代主命が海を渡って三宅島に到って鎮まったとされる。前者の説では祭神は大山祇神となり、後者の説では事代主命となる。現在では、この2神をもって「三嶋大明神」と称し、同座として祀っているというが、俗に「恵比寿さん」とも呼ばれており、永らく事代主命が主祭神だったことを窺わせる。
しかし、「三島」というのは、やはり元は「御島」であり、人格的な神ではなく、海底火山の噴火や新島の隆起など「自然の驚異」に神威を感じて祀ったものだろう。駿河国一宮「富士山本宮浅間神社」と同様、噴火などの自然災害がある度に神階が上がっていった、とみられていることもこれを裏付ける。
ところで、現在地への遷座は、平安中期以降に伊豆国の国府の近くに新宮として祀られたことによるといわれている。国府の場所は確認されていないが、かつて当神社の近くに長谷町という地名があった。長谷は「ちょうや」と読み、ここに「庁屋」(=国庁)があったとされる。また、当神社が伊豆国の総社を兼ねていたともいわれている。


三嶋大社のHP:http://www.mishimataisha.or.jp/

玄松子さんのHPから:http://www.genbu.net/data/izu/misima_title.htm


写真上:正面(南側)の鳥居


写真中:鳥居を潜って直ぐ右手にある「たたり石」。「たたり」は「祟り」ではなく、糸のもつれを防ぐ道具であり、当神社前を通る旧東海道の中央にあって人の往来の整理をするために置かれていたものらしい。現在のように自動車が行き交うようになると当然邪魔になり、当神社の境内に移された。交通安全に御利益があるという。


写真下:豪快な印象の社殿。特に本殿は立派。

コラム251.一宮(その23・駿河国・富士山本宮浅間大社)

2010-06-30 19:24:53 | Weblog
富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)。
場所:静岡県富士宮市宮町1-1。JR身延線「富士宮」駅の北西または「西富士宮」駅の東、それぞれ約1km。駐車場有り(30分以上有料)。

転勤で平成22年4月から駿河国、静岡市に来ました。神社と備前国に関連していそうなことがあれば、書いていこうと思います。

さて、まずは、何はともあれ駿河国一宮「富士本宮浅間大社」(駿河国式内22社のうち、唯一の名神大社でもある。)に参拝。東西に広い静岡県では、今は東部(大井川以西)・中部・西部(富士川以東)という3地域に分けて語られることが多い。もともと伊豆・駿河・遠江という3国が1つの県になったのだが、駿河国と伊豆国との国境は富士川でなく、伊豆半島の付け根までが駿河国だった。そもそも、「スルガ」はもともと「珠流河」と書き、富士川という「急流」がある国を意味した。
そして、そこには日本一の霊山「富士山」があった。しかも、宝永4年(1707年)までは噴火があった。これを崇め、噴火を鎮めるための祭りが必要だったことは当然である。当神社の主祭神は浅間大神(アサマノオオカミ)こと木花之佐久夜毘売命(コノハナサクヤビメ)であり、一般には「火中の出産」に因んだ火の神だから、と思われているが、当神社によれば、本来は水の神であり、水で火を鎮めるのだという。
社伝によれば、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓で浅間大神を祀ったのが最初で、この頃は社殿はなく、景行天皇の御代になって「山宮」に磐境を設けた。大同元年(806年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の鎮座地に社殿を造営した、という。なお、現在でも、富士山の8合目以上は当神社の奥宮の境内であるとされる。
思うに、①元の鎮座地である「山宮」には本殿が無く、富士山そのものを祀っていたこと(写真4)、②現在の鎮座地はもともと式内社「富知神社」(主祭神:大山祇神)の鎮座地であったこと、③本来はアイヌ語に起源があるらしい「アサマ」が「センゲン」になったのは、早くから神仏混淆して「浅間大菩薩」と称されるようになってかららしいこと、④修験道の開祖とされる役行者は流刑地の伊豆から抜け出して富士山に登り、富士山開山の祖ともいわれていることなどから考えると、元の神(浅間大神)は富士山そのものであり、木花之佐久夜毘売命になったのは後世のことだろう。(なお、備前国の「木華佐久耶比神社」に修験者が深く関わっていたらしいことは既に書いた(2008年6月26日記事ほか)。)


富士本宮浅間神社のHP:http://fuji-hongu.or.jp/sengen/index.html

玄松子さんのHPから:http://www.genbu.net/data/suruga/asama_title.htm


写真1:富士本宮浅間神社の巨大な鳥居


写真2:「浅間造」の社殿


写真3:境内の「湧玉池」。説明板にもある平兼盛は天元2年(977年)に駿河守に任ぜられているから、その歌に「浅間(神社)」と「湧玉(池)」が読み込まれているということは、延喜式神名帳成立の頃(10世紀初め)には現在の鎮座地にあったことはほぼ確実。


写真4:「山宮」の祭祀場所。正面の森が切り開かれ、富士山を仰ぐ。(場所:富士宮市山宮。当神社の北東約5.5km。国道469号線と静岡県道180号線の「山宮」交差点から北へ約800m。駐車場有り)。