独り合点(ひとりがてん)

きもの業界をステージとした、ビジネスと生活スタイル、および近況。

夏物・ゆかた発表会(1)

2012-01-31 | きもの

 

本日はたった1件の、重要なプロジェクトの下打ち合わせのために京都に。しかし1時間の予定が話が面白いように弾んで、あっという間の2時間。来月の本番、うまく話がきまるといいのですが…。その打ち合わせ場所にプロジェク・メンバーの1社である藤井絞さんをお借りしました。社内は2月の「夏物・浴衣の発表会」の初日。写真のように藍を中心に数々の絞り技法を駆使した浴衣やすっかりおなじみの雪花しぼり、など心高ぶる商品ばかり。ああ~、こんな浴衣をもっともっと着てほしいなあ、そんな思いがする素敵なものばかりでした。


近代着物の歴史(6)番外・振袖

2012-01-29 | きもの

閑話休題。サッカーの澤選手の振袖姿、園遊会でもそうでしたが、FIFAバロンドールの表彰式もよかったですね。これだけ注目の人が、ハレの場で振袖を着る、その影響力は大きいものがあります。実際、沢選手と同じ振袖がほしい、と注文もあったとか。振袖が成人式で終わりではさみしい。以前、ウィーンの舞踏会、バルにきもので出席したとき、なんと羽織袴でしたが、ワルツ踊るのに一苦労で、七五三のように雪駄に紐をかけ脱げないようにしましたが、その時ご一緒した60歳の方が、お孫さんのグリーンの絞りの振り袖姿で参加し、ブラボーの嵐。それはそれは素敵でした。そんなことを思い出しながら思ったことが1つ。振袖を成人式でおしまい!にしないで、もっと振袖を着てもらえるように、様々な提案をしたらどうなのだろうか。成人式のコスプレにしないで、少なくなくとも呉服屋さんは、日本人の大人の正装としての「振袖」の存在価値をキチンと紹介してほしいもの。それにしても澤選手の帯結びが「ふくら雀」らしいのには、ちょっと考えさせられましたが、では20代半ば、あるいは30に手が届こうという女性に、どのような帯結びがいいのか、ふさわしいコーデの提案、必要じゃないでしょうか。


近代着物の歴史(5)衣服、これ大薬なり

2012-01-28 | きもの

今日打ち合わせをしていて、こんな言葉があるよと教えてもらったのが、中国の古典・書経にある

草根木皮、これ小薬なり

鍼灸、これ中薬なり

飲食衣服、これ大薬なり

身を修め心を治める、これ薬源なり。

医食同源、という言葉は聞いたことがありますが、医服同源なんですね。天然素材の体にいいもの身につけるのが、いちばん体と心によい、という意味だそうです。「衣食住」と言いますが、なぜ「衣」が一番なのか不思議でした。一説にはすべての生物の中で、人間だけが「衣」を作りまとうことができるからと言いますが、もしかしたらこの中国の思想が、根底にあるのかもしれません。そんな気がしてきました。


近代着物の歴史(4)花森安治

2012-01-26 | きもの

雑誌「暮らしの手帳」の創刊者であり、編集長、作家、イラストレーターなどなど多くの肩書を持つ超人、花森安治。戦争中のスローガン「贅沢は敵だ」のコピーを「贅沢は敵だ」と変えたという伝説を持つ硬骨の人でもあります。雑誌「暮らしの手帳」は、ご存知の通り広告を一切掲載せず、スポンサーにおもねることも遠慮することもなく使う人の立場から徹底して商品テストを行い、事実を報じてきました。一貫して生活者の立場、目線で編集し、伝え、報じてきた、すごい雑誌です。私の尊敬する編集者です。月刊アレコレも見習いたいと、着る人の立場、目線で編集し、広告を掲載せずに発行していますが、とてもとても当方の比ではないのですが、多少はその苦労を実感できます。花森安治のすごいところは「衣食住」をきっちり、美しく暮らすことが、人としてまっとうな生き方、素敵と一貫して「衣食住」をテーマにして、高度成長期も華美に、虚飾にぶれなかったことです。ですから、ある意味地味な雑誌です。でも戦後、暮らしが核家族化し、母から娘、父から息子、そして三世代の衣食住の知恵が伝承されなくなったことを考えると改めて「衣食住」をテーマにした花森安治の慧眼に驚きます。着物は、明治以降、身分制度による着物のタブーや制約、禁令がなくなり、お金さえ払えれば誰が何を着てもいい時代になりました。そのため大正から本格化した大衆化により、着物は商業主義のかっこうの材料となり、あこがれの存在がお金さえ払えば、手に入れられるものとなってきました。それが決して悪いという意味ではありませんが、「晴れのお道具」的存在に偏りすぎ、「ハレとケ」といいますあ一方の地道な日々の暮らしの中のきもののを捨て、日常から切り離してしまったことの反動が、着物離れやいま業界が落ち込んでいる一番大きな原因と思います。であるとするならば、この花森安治の言葉は、いま改めて暮らしの中での着物の存在価値、意味を考えさせられる言葉です。

「着る」ものを「裁ち」「縫う」こと、そうした「作る」技術を学ぶ前に、着るものを「着る」技術を覚えてください。私たちはみんな着ものをなにかしら着ているのに、その着方を知らないようでは賢い暮らし方とは申せないでしょう。美しく着ることはお金やヒマとかかわりないことを知らない人が多いということです。


近代着物の歴史(3)黒留袖②

2012-01-25 | きもの

 茜指す紫野行き 標野行き 野守は見ずや君が袖振る

 

 

振袖や留袖の説明する時によく引用される万葉集にある額田王(ぬかたのおおきみ)の有名な歌です。古くから日本人は、「袖を振る」行為を「魂振り」といって、袖を振ることによって相手の心を引き寄せるチカラがあると信じてきました。ですから若い女性は袖の長い着物を着て袖を大いに?振ってよき伴侶を得、結婚したら他の男性に心を移さないようにために袖を短く留めると、説明されます。日本人にとって袖は特別な意味をもっているため袖にまつわる諺は「袖振り合うも他生の縁」「袖にする」「袖を引く」「袖を分かつ」など多くあります。

 

また「袖に神宿る」と袖には力があると信じられていましたので、わが子が無事、元気に育つようにと留めた袖は赤ちゃんが生まれたときに一つ身の初着として使われました。すごく素敵な習慣だと思いませんか。

 

さて若い頃、着物の先生教えてもらった「黒留」説に、愛国婦人会(明治34年に設立された上流階級の婦人たちによる傷痍軍人の慰問・救護を目的として設立されたもの)の面々が慈善パーティや公式の会合などで集う時に、地味でありながら格式がある着物を、ということで制服として黒留袖が使われ、一般化していったという説です。その時に愛国婦人会の総会か何かの集合写真を見せていただいた記憶があるのですが、今回改めて資料を探しましたが、この説を紹介したものはなかったのですが、どなたかご存じでしたら教えてください。

 


近代着物の歴史2・黒留袖①

2012-01-23 | きもの

 

 散るを急ぎ 桜に着んと 縫う小袖      明治30年・漱石

 

黒留袖。既婚女性の第一礼装で、もっとも格が高い着物です。その成立の歴史なのですが諸説あります。江戸時代、文化・文政時代(1804~1829年)、江戸後期、町人文化が一番華やかに花開いた時代に、結婚後に若い女性が長い袖の着物を着る流行が習慣化し、5つ紋の長袖着物の袖を結婚後に袖だけを短くする風習ができ、切るでは縁起が悪いので「留める」と表現したといいます。また嫁ぎ先の色に染まる、という縁起も物語として好まれ、ここから「留袖」という言葉が生まれ、既婚女性の第一礼装として一般化していった、とあります。

一方、「ふでばこ」の鼎談で染織家の森口氏は、「裾模様だけで上は真っ黒でしょ。あれは御所の中くらいの女中さんの正装で、上のほうの御殿女中は上のほうのも模様があった。色が付いたものは2番目のランク。色が下で黒が上、というのは今もそれを守っているけれど、制作プロセスからからいって、裾だけを模様にして上を無地にしておくというのは、ものすごく工程をはしょれるんです。全体に模様がある訪問着の場合ですと、身頃が二つ、袖が二本あって、襟とおくみ分と五つのグループに分かれるんですけれども、裾模様だけですと、袖や襟を胴と一緒に切り離さずに、裾だけで模様の作業が出来る。最後に切るほうが、ばらばらにならんでいいというのは、間違がいが少なくできる、布がばらばらになると、無くす、ということがあるわけです。昔は10歳かそこらの丁稚どんが、次の工程の人のところへ、お使いで持っていくわけだから、落とすこともある。ひとつにつながっているほうが、絶対に安全なわけです。鋏を入れれば入れるほど、危険が多い。留袖というのは最後にできあがってからはさみをいれるから、より確実。そういう形で合理化されるのが、大衆化の最初です。大正デモクラッシーで、近代化のプロセスのまっただなかに入るわけでしょ。」

 

森口氏は、やはり訪問着と同じように問屋やデパートが大衆化が始まった大正年間にデパートと問屋さんとの創意工夫、合理化した普及品づくりから生まれたと発言し、注目されます。もちろんそれまでに江戸時代からの上流階級や富裕町人たちのしきたり、習慣という下敷きがあってのことですが、私も一般化したのはどうも、業者とデパートの思惑が一致しての一大キャンペーンの結果だと思います。

 

 


近代着物の歴史1・ヴィジティングドレスだから、訪問着

2012-01-21 | きもの

小袖着て 思ひ思ひの 春をせん

 

表題は明治42年に夏目漱石が詠んだ句ですが、明治から大正も中頃まできものは小袖と呼ばれていたことがわかります。化粧筆の白鳳堂は世界的に有名なメーカーで、シャネル始め有名ブランドの化粧筆をOEMで供給しています。最近は、きものの手入れをする「きもの筆」も発売していますが、この白鳳堂が発行している季刊誌「ふでばこ」の特集号「小袖に見る美と技(2011.10発行)」。まるごと1冊小袖の大特集で、ビジュアルもセンスが良く、わかりやすい特集になっています。中でも面白かったのが「座談会・小袖はどこへー着物文化の来し方行く末」。標題の句もこの特集にあった句で、室町から江戸まで続いた小袖の文化は、どこで消えたのか。着物が普段着でなくなったことで、私たちは何を失ったのか。生まれも育ちも京都洛中、日本文化を背負って立つ三賢人、人形作家、重要無形文化財保持者・林駒夫、染織作家、重要無形文化財保持者・森口邦彦、フランス文学者の杉本秀太郎の3氏の鼎談です。その鼎談から1部抜粋して近代の着物の歴史をまとめてみました。詳しくはぜひ、ふでばこをご覧ください。1冊1,800円です

 

衣装の進化の歴史的観察によると、限りなく「下剋上」で、限りなく「下着化」するということなんです。現在の友禅の着物は、もともと貴族の下着が表にあらわれて庶民のものになった。これ以上脱げないという状態で展開を停止したものが小袖です。現在の、問屋さんを中心に展開されてきた染色文化のなかでは「留袖」とか、「色留袖」とか「訪問着」という言い方は、大正の初期に決められ、定番化してきました。その背景には近代化を急ぐ明治政府が洋服を普及させ、外観を洋風化することにより列強に肩を並べようとする政治的意図があり、1871年に明治天皇が「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」と勅諭が発令され、洋服は強制的に華族や政府要人、さらに警官、軍隊、学生などの制服、公式服となります。しかし庶民はまだ着物で暮らし、政府高官や公務員も当時は家へもどれば着物という二重生活でした。この時代に「和服」という言葉が「洋服」との対比で生まれました。また洋服のドレスコードに合わせて、きもののドレスコードを作る必要があり、明治に制定された礼装規定で男子の正装は「五つ紋の黒紋付羽織袴」と決まり、広まりました。その後、華族や官僚だけでなく徐々に市民階級に洋服が広がり、大衆化が大正時代にはじまるに従い、まだ一般には、特に99%が着物生活だった女性をターゲットに着物需要を拡大しようと今までにない着物を創作した企画の1つに「訪問着」があります。現在「訪問着」と呼ばれる着物は、洋服の昼間の第一礼装・アフタヌーンドレスに該当するもので、ヴィジティングドレスから直訳して「訪問着」と三越がネーミングしたもの。ほかにも「社交服」「プロムナード(散歩服)」など他のデパートもネーミングしましたが、淘汰されて「訪問着」が一般化しました。西欧のライフスタイルを着物暮らしに当てはめ、ポジションをわかりやすく伝えるためのデパートの広告戦略だった、とは意外でしょ。着物を着る人が悩ましく思っている、ある人たちには金科玉条のような「着物のルール」は、たかだか100年。しかも当時の社会背景を利用した商業政策から生まれたもので、ずっーと昔からのルールのように思い込んでいる人が多いことを考えると、当時の三越の戦略、戦術のすごさに脱帽です。現在の私たちの着物生活になじみの「訪問着」「黒留袖」「色留袖」、そして「袋帯」「名古屋帯」も誕生したのは、高々100年前のことなのです。

 

 


自由学園・明日館 →花邑 →花想容 →三勝

2012-01-20 | きもの

初雪。何もこんな何軒も訪ねる日に雪が降らなくても、なんて思いながら池袋へ。水曜日の勉強会、いつものようにあわただしく教室を後にしたので、書類を忘れ受け取りに。自業自得でしたが、雪にもかかわらず見学コースは満員。人気の自由学園。早々に後にして高田馬場駅の改札で荷物を受け取り、目白・花邑に。月刊アレコレの連載「新きものの基・名古屋帯の仕立て」の取材確認に。いつもながらすぎえさんの切れのいい説明には、ほれぼれです。それにしてもさまざまな知恵や工夫がなされているさまざまな仕立て。忘れ去られてしまうには惜しいものばかり。閑静な目白の住宅街にある花想容は雪のためか、いつも以上に静か。花想容・中野さんと週の初めの会議で持ち越しになった新商品に合わせる帯の相談に。試織で上がってきた織物や染め上がったものをいくつか見て、話はあちらこちらに飛び、盛り上がってしまった。いつもながら中野さんは刺激的で面白い。あっという間に時間が過ぎ、あわてて人形町・三勝さんに。今年の三勝は一味違う浴衣が多く、発表会は大賑わい。アンテナ感度のいい方には、早くも「いいねえ~」と噂に。きもの元気が動き始めた、という私にとっても忙しい週でした。


3期の修了式

2012-01-18 | 自学自習塾

今日は自学自習塾の3期生の修了式。2010年12月からスタートして早くも3期ですが、3期生は初めて京都・丹後と1泊2日の研修に出かけ、製造の現場に足を運び、産地ならではの実情を肌で実感し、モノづくりに意欲を燃やす若手と顔を合わせ懇談。このネットワークや知識がどのようにこれからの呉服屋の経営に役立つのか未知数ですが、この笑顔を見ていると期待できそうですね。4期は3月、この自由学園でスタートします。今塾生を募集中ですので、参加を検討されるかたは、info@arecole.comまでご一報ください。4期生の募集人数は11人です。先着順ですから、どうぞお早めに。


好きな景色

2012-01-18 | 自学自習塾

何回行って心地よい気分にさせてくれる私のパワースポットというか、禅寺のような効果を与えてくれるのが池袋の自由学園・明日館。本日は主宰する自学自習塾の3期の修了式。打ち合わせが早く終わり、開塾まで30分の余裕。平日とあり、人もいずこの贅沢な空間を独り占め。柔らかな日差しが窓から差し込み、なんとも素敵な気分。この学校でかって学んだ子供たちの幸せが想像できます。