独り合点(ひとりがてん)

きもの業界をステージとした、ビジネスと生活スタイル、および近況。

大内順子さん、死去

2014-11-10 | きもの

ファッション・ジャーナリストの先駆けとして、雑誌やTVなど、幅広く活躍した大内順子さんが死去した。享年80歳。残念です。

大内さんはパリコレはじめ海外ファッションの取材や報道で広く知られていましたが、着物にも造詣の深い方でした。もう30年以上前になりますが、、大内さんのセンスを取り入れた実験的な紬のおしゃれ着「246」の製作をご一緒させて頂いたコトがありました。246はルート246,山通りの事で、当時大内さんが山にお住まいだったことからネーミングしました。明るい、華やかなフランスの伝統色を先染めし、横段にラメを織り込んだもので、大内さんらしい上品で、エレガントナきものが出来ました。いまでも通用する、素敵なきもので、大内さんがモデルになって撮影しました。

そんなご縁から、その後幾度かお会いしている内に「きものをもっと盛り上げよう。そのためには、マスコミにきもののことをもっと掲載される様に仕掛けよう」と言うことで、イベントの企画を立ち上げました。当時新聞をはじめとして、洋服に比べきものの記事掲載は、わずか30万分の1でした。そこで当時活躍し、きものを製作していた鳥居ユキ、花井幸子、コシノジュンコ、池田満寿夫など著名なデザイナー、画家6人を一堂に集め、ホテルオークラで、きもののファッションショーを企画。狙い通り、大きな話題になり、マスコミからも注目されました。この企画は2回で終わりましたが、きものの未来を明るいものにしようと真摯に取り組んでいた大内さんの姿を昨日のように思い出します。心より、ご冥福をお祈り致します。


白クマ君、してる!

2012-09-23 | きもの

飲みながらの話で、前後の脈絡が記憶にないのですが、ご一緒したMさんは大手代理店と仕事をした中で、そこまでやるのか、と記憶に残っているのが「白クマ君」の話。日立の担当者を接待したとき、広告代理店の担当者はお店に頼み込み、デザートにアイスクリームの白クマ君を出して貰ったそうです。白クマ君は100円くらいの普及品のアイスクリームで、接待には向かない。しかし、日立のクーラーの愛称は「白クマ君」。そこまでやるのかと、すごく感心を通り越して、感動してしまった、とはMさん。そんな話、ある時代には当たり前で、担当スポンサーの歴史や市場ポジション、そして商品のことなど、スポンサーに代わって説明できるくらい猛勉強するのは、担当者として当たり前でした。サントリーを担当すればどこ行ってもサントリーしか飲まない、とか。

でも時代が変わったのか、たまたまだったのか、先日、きものにうるさいそうそうたる面々が出席したイベントの会議で、某女子が「ショゥケン?正絹って何ですか?」の質問にはえっ?と耳を疑った。前々から、きものの話をすると、何かかみ合わない。もしかしたら、きもののこと余り知らないのかな、との疑念もあったが…。白クマ君ではないが、関係者はきもののことをもっと知って欲しいものです。特に企画立案に関わる人は。

 


スカイツリー(2)

2012-05-23 | きもの

あいにくの雨模様でしたが、昨日はスカイツリーのグランドオープン。初日の訪問者数は21万人、というからすごい。写真は友禅で描いた四季図の中の1枚。和をコンセプトにした空街の中の飲食店・新宿さぼてんの新店舗は、京都の町屋をイメージした内装を決め、そのポイントがこの壁画。コンセプトはとにかく、途中でどのような経緯があったかは知りませんが、話がきてから実質3週間で横6メートル×縦1メートルの大壁画?を制作することになり、江戸友禅作家と共同で大慌てで仕上げたもの。業界や業種が違うと細々とした部分で、いわば「業界の当たり前」が大きな壁になって、頓挫しそうになったことも数度。しかし江戸友禅の作家にとっては名を上げる機会でもあり、仕事の少ない時期にうれしい仕事。こちらで理不尽ではないか?との思いから断ろうと思いながらも、結局はクライアント代理、職人の板挟みで、やらざるを得ないことになってしまいました。でもそういう経緯を抜きにして、出来上がったものは素敵な友禅描きの一大パノラマ。特に雪見障子の陰影はなかなかのものです。スカイツリーに行くことがありましたら、飲食街の新宿さぼてんを覗いて見て下さい。

 


危機を危機と思わない危機

2012-03-26 | きもの

3歩進み、2歩後退と、伝わらないもどかしさに、あまりの無関心さに、途中で投げ出しそうになったり、落ち込んだり、とにかく一気に目標に進めない、もんもんとした日が続きます。とはいえ、日は迫ってきて、やらざるを得ないのですが…。ロスが多い。そのロスの原因は、誤解を恐れずに言うと「この危機的な状況を危機と思わない人」が多すぎる。みんな自分のお店1軒くらいは、産地やメーカーが廃業し、職人がいなくなろうが、問屋さんがなくなっても、いくらでも代わりはあるし、どうということない、ということなのだろうか。着る人の選択肢は確実に狭まるのだが…

先般F社長が、業界人がみんなきものを着て、例えば今年の夏は小千谷縮を着よう!秋には大島紬を着よう!というだけで、産地のモノ作りは息を吹き返すのではないか。産地フェアや移動市に取り組むなんて、まどろっこしいのでは、という意見には私も賛成です。大体きものを持っていない、着ない業界人が多すぎる。1つの技術の頂点、たとえば人間国宝は千人、二千人の職人の頂点で、階段を上るように技術を極め、腕をあげてゆくことを考えると、10年、20年と”食べられる”ように作る人、売る人、着る人が互いに切磋琢磨してゆかないと職人が育たない。いいものが出ないだけではなく、中級品も、裾野の商品もできない。サッカーやプロ野球がそうであるように、ファームを作り、贔屓が応援し、市場を再構成しなければ、いけないのかもしれない。

T社長は「もういままでの古い価値観の呉服屋さん、その呉服屋さんを支えてきた顧客を相手にしては、業界はなくなります」と断言。「極端いえば、今まできものを着ない人、きものに関心興味のある人を相手に、どうやってきものを着たい!に変えられるかが問題」ではないかと、最近考えてきものビジネスを再構築している、といいます。確かに平均すれば2割の上顧客にお店が支えられている現状からいえば、新たな顧客の開拓は必至なのだが、「いまだに50万円、100万円のきものが売れるのが普通、売らなきゃ」という過去の特殊な世界から抜けられない。それは普通ではなく、フロックと考えて、ビジネス構築しなければ未来はないと思う。でも「相変わらずのお店が多いからこそ、僕にとってはチャンスなんです。」とも。

今回新セオリーのきもの、5-9きものを京都、東京での発表など、50軒以上の呉服屋さんとお話をしましたが、反応はほぼ真っ二つ。「うちの顧客には向かない」といわれる方と、「これからはこういうものを着る人を取り込んでゆきたい」。「夏物にうちは弱いからだめ」「夏ものに弱いので挑戦してみようか」という2つにも分かれ、さらに「商品がいまいち」という方もあれば、「着る人、作る人、売る人3者の共創企画がいい」と商品を見ないで、参加を決める方も。「安すぎて、いくら売っても足しにならない」という意見も。こちらも説得しようとは思ってはいないのですが、あまりにもきれいに意見が分かれるので、驚いた次第。

それにしても「そこにある危機に危機感を持たない」業界人が多い。そこまで危機は来ており、この2,3年で一気に表面化すると思う。そうなっては遅いのだが、余計なおせっかいをしているようではあるのだが、そう考えると眠れない。


職人の壁(2)

2012-03-10 | きもの

先日、東京友禅の工房で修業し、職人からプロデュース&小売業という新形態の呉服屋へと踏み出したKさんとなぜ東京友禅がぱっとしないのか、そんな話しをした。東京友禅の作家、作家というのは最近、といってもこの20年くらいで、それまでは職人。東京と京都の違いは、東京は下絵から仕上げまで、引染や蒸し、刺繍や金箔など1部を除いて、すべて1人で着物を仕上げる職人が多いため、「模様師」とも呼ばれ、1人がいくつもの染色の技を持つ人が多いのが特徴。しかし1人ですべて、というのが東京友禅の作家のレベルを下げてしまった、というのがK氏の意見。下絵、つまりデザインからできる人は案外少なく、昭和50年代までは東京では一流の染問屋があり、そこが東京友禅の作家たちの個性や腕を見極め、プロデュースして、競い合うようにいいものを作ってきたという。しかし1人になると、どうもマンネリ化し、今までの焼き直しが多くなるか、琳派など古典もどきになってしまうケースが多く、せっかくの才能を開花することができない職人が多い、というのだ。だからK氏は、職人の道ではなく、プロデュースする道を選んだ。確かに京都はいまも分業で、悉皆屋さんがそれぞれの職人を組み合わせ、プロデュースして着物を作っている。今回ものづくりして思うのは、職人とキチンと対話しない人が多い。板場や染料のこと、その職人や工房の得意や苦手、さらにいえば職人としてのものづくりに対する気概。当然こちらにも職人と話し込むだけの知識や経験、そしていいものを作る、という気概がいる。職人を大事にするメーカーや問屋は多いが、むらや下手を味、手作りだからとごまかし、大事にする=職人の機嫌取り、という面々が少なくない。職人と向き合えない。職人は職人、プロデューサーはプロデューサー。この数10年問屋が次から次に姿を消し、作られてきたものにああだ、こうだという人が多いが、一からモノ作りできる呉服業界のプロデューサーは激減。職人たちは腕を十分に発揮できず、どこか孤独を感じる。問屋に限らず、売る人、着る人がもっともっと職人に注文を出さねば、互いの知恵を生かさなければ、技は意味をなさない。職人の壁を作っているのは、むしろものを知らない、本当にいいものを作ろうという業界人の少ない現状が生み出したもののよに感じられてしょうがない。高い授業料を払いながら、実感した次第です。


かなり、ショックな話

2012-03-09 | きもの

たんす屋ー中村社長(1)

先日ご縁があって、たんす屋の中村社長とお話をする機会がありました。たんす屋さんのビジネスのお話やら、中村社長のきもの観など、話は大いに盛り上がったのですが、その時いくつもショックな話があったのですが、その中の1番が、きものの畳み方。たんす屋さんでは年間約2.5万人の個客から約50万点のきもの、帯を仕入れていますが、なんと、そのうちの92%がきものの畳み方を知らない、というショックな話。虫干しをと、簡単には言うけれど、その気になっても畳めなければ、虫干しはできない。また干すのに1日、畳むのに1日、と最低でも2日はかかる。それだけの部屋の広さと、時間の余裕を持った方が、はたしてどれくらいいるのか。都心では極めて少ないのではないか。そこをたんす屋はビジネスチャンスと見て、「預かります。安心たんすサービス」を加え、いま9つのきものライフソリューションカンパニー、きものトータルサービス業として、きもののある暮らしの応援企業を目指しているとのこと。それにしても、きものを畳めない人の、あまりの多さにショックでした。中村社長も、その現状を考えたとき、たんす屋はたんす屋としての役割があり、呉服屋さんには呉服屋さんの役割があるのではないか。上から目線ではなく、リアルユーザーの現状をはっきり認識し、時代に対応した、リアルユーザーに喜ばれる役割、使命とは何なのか。きもの販売業なのか、きものの素晴らしさを伝える文化企業なのか、はたまた何者なのか、その根本が問われているように思う、と強弁されていましたが、全く同感です。

さらに中村社長は、ユニクロを例にして持論を展開されましたが、今年、ユニクロは浴衣を展開しないそうです。年間20万点は簡単に突破すると取り組んできたが、この2~3年、10万点の壁を超えるのが、ようやくという状況だったそうです。それでも10万点はすごいと思いますが、ユニクロにすればあまりにもスケールがないと、判断したのでしょう。当初4,800円の3点セットは脅威でしたが、年々内容も良くなってきたと思うのでが、ラックに吊るして、さあ好きに選んで、というのでは10万点が限度。ゆかたといえども「お手渡し手」の存在を必要とする。そこにアパレルではないきもの固有のスタイル、付加価値、独自の役割があると、中村社長は言う。「お手渡し手」という中村社長の造語に込められた意味を肝心の多くの呉服屋さんが、ユニクロと同じようにきものというものが持つ文化性や商品としての宿命、もしくは特徴、魅力に気づいていない。レンタルに関しては、中村社長と意見が違うのですが、ユニクロは撤退しましたが、この「お手渡し手」という役割に気づかない呉服店は、リアルユーザーから突き放され、早晩きもの市場から「強制退去、自然淘汰させられる」というのは同じ思いです。


文質彬彬

2012-02-22 | きもの

「ぶんしつひんひん」と読みます。論語にある言葉で、文すなわち装飾と、質すなわち質朴さが、彬すなわち備わり、整っていることをいう。別の言い方をすれば、質は原料あるいは材料で、文は加工である。肉や魚そのものが良ければ、それだけでも旨いが、料理をすればさらに旨くなり、しかも多くの人に食べやすい形となる。製品と販売も同じ関係にある。孔子は儒教を多くの人に理解してもらうにはどうすればよいか、と、考えたゆえに、文質彬彬という言葉を残したのである。良いものさえ作れば、必ず売れる。というのは妄想にすぎません。作るより、売る方が難しいといえる。作ったものを、広くと遠くまで人々に知ってもらうには、そうとうな工夫が要ります。あえて言えば孔子はすでに「伝播力」ということを重視していたのである。ー宮城谷昌光「草原の人」


職人の壁(1)

2012-02-19 | きもの

いまプロジェクトで進めているきもの作りの基本の「生地」づくりが躓いてしまった。オーダーとは全く別物が織りあがってきて、唖然。パニック!夏ものなので、再度織り直す、といっても3週間の遅れは痛い!発表会の日程は決まっているし、各工場への段取りも終わっている。この白生地の上りを待って、絞りや型染めを始める予定で、板場をあけて待っている。もう、信じられない事態に、しばし頭は「真っ白」。白生地を発注いただいたA社長は、さらに憔悴。仕様書には「縦横の糸の本数から、白上がり」など、それは細かく注文が書き込まれているのに、出来あがってきた縦横の糸の本数は違うし、おまけにわざわざグレーに先染めして、手間暇かけて織りあげてきた。これは一体なんなの???

何回かの電話のやり取りでわかったのは、見本といっしょに生地の張りの参考にとお見せした「備長炭入りの生地」。当然炭が入っているので、グレーがかって織りあがっていますが、この生地の記憶がどういうわけか、職人さんの頭に残り、「もうグレーで上げるものだとばっかし、思っていた」と思い込みで作ったと。すまないと思う気持ちは伝わってくるのですが、何かどっか1つ抜けた感じで、大勢の人が時間をかけて作ってきたことの深刻さ、や期待にたいする、懸命さが感じられない。普通は20から40センチの織り見本を織りだし、その確認の上に進めるのですが、今回はAさんとその職人さんは長年「そのようなことはしたことがない」と却下。その時点で数%の不安はあったのですが、それがAさんの会社との「仕事の流儀」と納得せざるを得なくて、この始末。今回は、「失敗したんだから、もう見本を織って確認してからね」ということで、今回は織り見本を確認して進めましたが、ここでもひと騒動。機織りにすでに縦糸は整形しているので本数を増やすことはできない。そこで、生地の地風や風合い、透け感を変えるには、横糸の本数を変えることによって調整するしかない。で、90本の横糸本数を当初の仕様書通り、110本に再指定したのですが、今度は110本では「パンパンになってしまう」。意味はわかりますが、でも仕様書の段階ではOkだったのでは、と話しても「パンパンになってしまいます。無理」。ならどうする、「何本だったら、この見本の風合いが出るの」と問いかけると「う〰ん。色は違うが、前のが計算した仕様通りの生地ですから。」というから、縦横の本数も指定と違うし、明らかに織りあがったものの風合いが違う。「いや、白になれば大丈夫ですから」「えっ、普通は、白になると透け感が余計目立つのではないの」と途中から話がバラバラ。間に入ったAさんも、時間がない中、再度織りあげないと話にならないので、相手の機嫌を取るようになんとかまとめて進行となりましたが、今はもう上りが、イメージ通りにと天に祈る気持ちです。いままで「織り見本は出さない」と言っていたのが今回の失敗で出すようになっただけ、せめてもの慰めですね。というような話をAさんとしながら、しばしため息の連続。

職人さんに仕事を出すというのは、いわゆる下請けではないから、仕様書通りに、言われた通りにやればいい、とは双方考えていません。職人さんの知恵や経験は借りたい。職人さんも腕を生かしたい。「その方が良くなる」という現場の判断は時にブレることがある。というか間々ある。こちらが求めるものがきちっと伝わっていないと、お互いに「いいもの」を目指しながら、結果は裏腹になってしまう。つくづく職人さんとのコミュニケーション、意思を伝え合うことの大切を痛感。初めてのことだから、相手の工場に行き、話し込みをして、進めるべきだったんでしょうね。手間や時間、お金お掛けても、いいものを作る、というのはそういうことなのでしょう。いい職人さんには、いわゆるぶっきらぼうで、何を素人がと馬鹿にしたような…絵に描いたような職人ではなく、腕だけでなく、コミュニケーション能力にも長けています。でもね、問題は間々起きるんです。


近代着物の歴史(4)花森安治

2012-01-26 | きもの

雑誌「暮らしの手帳」の創刊者であり、編集長、作家、イラストレーターなどなど多くの肩書を持つ超人、花森安治。戦争中のスローガン「贅沢は敵だ」のコピーを「贅沢は敵だ」と変えたという伝説を持つ硬骨の人でもあります。雑誌「暮らしの手帳」は、ご存知の通り広告を一切掲載せず、スポンサーにおもねることも遠慮することもなく使う人の立場から徹底して商品テストを行い、事実を報じてきました。一貫して生活者の立場、目線で編集し、伝え、報じてきた、すごい雑誌です。私の尊敬する編集者です。月刊アレコレも見習いたいと、着る人の立場、目線で編集し、広告を掲載せずに発行していますが、とてもとても当方の比ではないのですが、多少はその苦労を実感できます。花森安治のすごいところは「衣食住」をきっちり、美しく暮らすことが、人としてまっとうな生き方、素敵と一貫して「衣食住」をテーマにして、高度成長期も華美に、虚飾にぶれなかったことです。ですから、ある意味地味な雑誌です。でも戦後、暮らしが核家族化し、母から娘、父から息子、そして三世代の衣食住の知恵が伝承されなくなったことを考えると改めて「衣食住」をテーマにした花森安治の慧眼に驚きます。着物は、明治以降、身分制度による着物のタブーや制約、禁令がなくなり、お金さえ払えれば誰が何を着てもいい時代になりました。そのため大正から本格化した大衆化により、着物は商業主義のかっこうの材料となり、あこがれの存在がお金さえ払えば、手に入れられるものとなってきました。それが決して悪いという意味ではありませんが、「晴れのお道具」的存在に偏りすぎ、「ハレとケ」といいますあ一方の地道な日々の暮らしの中のきもののを捨て、日常から切り離してしまったことの反動が、着物離れやいま業界が落ち込んでいる一番大きな原因と思います。であるとするならば、この花森安治の言葉は、いま改めて暮らしの中での着物の存在価値、意味を考えさせられる言葉です。

「着る」ものを「裁ち」「縫う」こと、そうした「作る」技術を学ぶ前に、着るものを「着る」技術を覚えてください。私たちはみんな着ものをなにかしら着ているのに、その着方を知らないようでは賢い暮らし方とは申せないでしょう。美しく着ることはお金やヒマとかかわりないことを知らない人が多いということです。


近代着物の歴史2・黒留袖①

2012-01-23 | きもの

 

 散るを急ぎ 桜に着んと 縫う小袖      明治30年・漱石

 

黒留袖。既婚女性の第一礼装で、もっとも格が高い着物です。その成立の歴史なのですが諸説あります。江戸時代、文化・文政時代(1804~1829年)、江戸後期、町人文化が一番華やかに花開いた時代に、結婚後に若い女性が長い袖の着物を着る流行が習慣化し、5つ紋の長袖着物の袖を結婚後に袖だけを短くする風習ができ、切るでは縁起が悪いので「留める」と表現したといいます。また嫁ぎ先の色に染まる、という縁起も物語として好まれ、ここから「留袖」という言葉が生まれ、既婚女性の第一礼装として一般化していった、とあります。

一方、「ふでばこ」の鼎談で染織家の森口氏は、「裾模様だけで上は真っ黒でしょ。あれは御所の中くらいの女中さんの正装で、上のほうの御殿女中は上のほうのも模様があった。色が付いたものは2番目のランク。色が下で黒が上、というのは今もそれを守っているけれど、制作プロセスからからいって、裾だけを模様にして上を無地にしておくというのは、ものすごく工程をはしょれるんです。全体に模様がある訪問着の場合ですと、身頃が二つ、袖が二本あって、襟とおくみ分と五つのグループに分かれるんですけれども、裾模様だけですと、袖や襟を胴と一緒に切り離さずに、裾だけで模様の作業が出来る。最後に切るほうが、ばらばらにならんでいいというのは、間違がいが少なくできる、布がばらばらになると、無くす、ということがあるわけです。昔は10歳かそこらの丁稚どんが、次の工程の人のところへ、お使いで持っていくわけだから、落とすこともある。ひとつにつながっているほうが、絶対に安全なわけです。鋏を入れれば入れるほど、危険が多い。留袖というのは最後にできあがってからはさみをいれるから、より確実。そういう形で合理化されるのが、大衆化の最初です。大正デモクラッシーで、近代化のプロセスのまっただなかに入るわけでしょ。」

 

森口氏は、やはり訪問着と同じように問屋やデパートが大衆化が始まった大正年間にデパートと問屋さんとの創意工夫、合理化した普及品づくりから生まれたと発言し、注目されます。もちろんそれまでに江戸時代からの上流階級や富裕町人たちのしきたり、習慣という下敷きがあってのことですが、私も一般化したのはどうも、業者とデパートの思惑が一致しての一大キャンペーンの結果だと思います。