独り合点(ひとりがてん)

きもの業界をステージとした、ビジネスと生活スタイル、および近況。

近代着物の歴史1・ヴィジティングドレスだから、訪問着

2012-01-21 | きもの

小袖着て 思ひ思ひの 春をせん

 

表題は明治42年に夏目漱石が詠んだ句ですが、明治から大正も中頃まできものは小袖と呼ばれていたことがわかります。化粧筆の白鳳堂は世界的に有名なメーカーで、シャネル始め有名ブランドの化粧筆をOEMで供給しています。最近は、きものの手入れをする「きもの筆」も発売していますが、この白鳳堂が発行している季刊誌「ふでばこ」の特集号「小袖に見る美と技(2011.10発行)」。まるごと1冊小袖の大特集で、ビジュアルもセンスが良く、わかりやすい特集になっています。中でも面白かったのが「座談会・小袖はどこへー着物文化の来し方行く末」。標題の句もこの特集にあった句で、室町から江戸まで続いた小袖の文化は、どこで消えたのか。着物が普段着でなくなったことで、私たちは何を失ったのか。生まれも育ちも京都洛中、日本文化を背負って立つ三賢人、人形作家、重要無形文化財保持者・林駒夫、染織作家、重要無形文化財保持者・森口邦彦、フランス文学者の杉本秀太郎の3氏の鼎談です。その鼎談から1部抜粋して近代の着物の歴史をまとめてみました。詳しくはぜひ、ふでばこをご覧ください。1冊1,800円です

 

衣装の進化の歴史的観察によると、限りなく「下剋上」で、限りなく「下着化」するということなんです。現在の友禅の着物は、もともと貴族の下着が表にあらわれて庶民のものになった。これ以上脱げないという状態で展開を停止したものが小袖です。現在の、問屋さんを中心に展開されてきた染色文化のなかでは「留袖」とか、「色留袖」とか「訪問着」という言い方は、大正の初期に決められ、定番化してきました。その背景には近代化を急ぐ明治政府が洋服を普及させ、外観を洋風化することにより列強に肩を並べようとする政治的意図があり、1871年に明治天皇が「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」と勅諭が発令され、洋服は強制的に華族や政府要人、さらに警官、軍隊、学生などの制服、公式服となります。しかし庶民はまだ着物で暮らし、政府高官や公務員も当時は家へもどれば着物という二重生活でした。この時代に「和服」という言葉が「洋服」との対比で生まれました。また洋服のドレスコードに合わせて、きもののドレスコードを作る必要があり、明治に制定された礼装規定で男子の正装は「五つ紋の黒紋付羽織袴」と決まり、広まりました。その後、華族や官僚だけでなく徐々に市民階級に洋服が広がり、大衆化が大正時代にはじまるに従い、まだ一般には、特に99%が着物生活だった女性をターゲットに着物需要を拡大しようと今までにない着物を創作した企画の1つに「訪問着」があります。現在「訪問着」と呼ばれる着物は、洋服の昼間の第一礼装・アフタヌーンドレスに該当するもので、ヴィジティングドレスから直訳して「訪問着」と三越がネーミングしたもの。ほかにも「社交服」「プロムナード(散歩服)」など他のデパートもネーミングしましたが、淘汰されて「訪問着」が一般化しました。西欧のライフスタイルを着物暮らしに当てはめ、ポジションをわかりやすく伝えるためのデパートの広告戦略だった、とは意外でしょ。着物を着る人が悩ましく思っている、ある人たちには金科玉条のような「着物のルール」は、たかだか100年。しかも当時の社会背景を利用した商業政策から生まれたもので、ずっーと昔からのルールのように思い込んでいる人が多いことを考えると、当時の三越の戦略、戦術のすごさに脱帽です。現在の私たちの着物生活になじみの「訪問着」「黒留袖」「色留袖」、そして「袋帯」「名古屋帯」も誕生したのは、高々100年前のことなのです。