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みなさんこんにちは。
小田原の観光名所 海鮮料理が人気|小田原早川漁村です。
今日は小田原の歴史上一番の大事件小田原攻めを見てみましょう
豊臣秀吉は『小田原攻め』で北条氏政とどう戦ったのか?
北条軍は最初から、支城の諸将の主力を小田原城に集めており、難攻不落の小田原城の籠城戦を決めていたようです。
まとめ
歴史の流れは秀吉がこの小田原で関東の覇者北條氏を下すことによって、信長が思い半ばで倒れたために未達成となっていた”天下統一”事業を完成させることが出来たわけです。
この小田原でもキーマンとなったのは、家康で、元々決めていたとは言え、改めて家康の力を確認した秀吉は、駿遠三の3か国を所領していた家康を旧北条領地へ左遷させます。
京から遠くへ家康を追いやる事で、完全に抑え込むことに成功するのです。
しかし、家康は北条領地の関東地区の有望さに気がついていたようです。
なんせ、北条旧領は250万石もあるのですから。つまり、秀吉は『危険の相手は手の届くところに置け』と云うセオリー外した結果、”虎を野に放つ”ようなことをしてしまいました。
この北条滅亡は、家康にとっての敵も消してしまう効果があるので、ひょっとすると、家康の計算ずくの行動に北条氏政は引っかかってしまったのではないでしょうか?
まんまと成功した家康の『天下取り』計画はこの小田原の10年後に関ケ原となって実を結び、その15年後には家康が天下を手中に治めることになるのです。
ひとつ最後に北条勝利の目はなかったのか?と云う話ですが、、、
結果論ですが、秀吉の戦争準備は周到でした。
始めた瞬間には、狸の家康によって氏政の思惑はすべてなくなっていたと見てよいと思います。
家康が見限った時に北条は終わっていたのではないでしょうか。
信長軍団の秀吉の戦いのやり方は戦国武将のそれとは明らかに違います。
今の近代戦のやり方なのです。
戦争はやらずに外交交渉段階で話をつけない限り北条の勝ち目はなかったと考えるのが、妥当な判断だと思いますね。
やはり、最初に家康が説得に当たっていた時に秀吉への臣従をするしかなかったんですね。
この時、戦いを避けて北条が生き残っていたら、果たして家康の徳川時代は来ていたのでしょうか?
興味は尽きませんね。歴史はミステリーです。
おしまい。
投稿にあたり参考にさせていただいた文献引用させていただいた文章など大変ありがとうございました。
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