シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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アフガン混迷の元々の原因は英国?

2007年07月31日 | 歴史をひも解いて
一体、このアフガニスタンという国はいつから こんなに混乱しているのでしょうか?
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「新たに韓国人人質1人殺害=囚人釈放せねば続行と警告−タリバン」(7月31日 時事通信) __ ※追加1へ 
「韓国人人質の映像か=スカーフ姿の女性ら−アルジャジーラ放映」(7月31日 時事通信) __ ※追加2へ
「タリバンの外国人拉致」(7月25日 共同) __ ※追加3へ
 「韓国人拉致事件 各国のアフガニスタン派兵の内訳」(7月23日 産経新聞) __ ※追加4へ 
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色々とウェッブを通じて調べると、この国の成り立ちが不幸だったことが分かります。 元々 この中東〜中央アジア一帯は、様々な民族が国境というものを意識しないで、自由に往来していた遊牧地域でした。 大陸は地続きで、日本のように海によって隔てられていないですからね。

19世紀末 中央アジアに進出したロシア帝国と、インドを植民地としていた英国とによって決められたのがアフガニスタン国境で、シッポのような東端 (ワハーン回廊) は、英露の直接接触を避けるように設定した人為的なもので、国全体が英露の緩衝地帯だったのですね。

そしてパキスタンとの国境線がアフガニスタン構成民族中 最大のパシュトゥーン族の地を横断する形となったことが、その後の紛争の遠因といわれているのです。

地図を見ると、国全体が山岳地帯ですね。 普通 国境線は山の尾根とか、川とか、民族の居住地域とかですが、この国は無理無理 帝国主義時代の英露が勝手に線引きしてしまった国で、国内の人々や民族はアフガニスタン、アフガン人といった意識は薄いそうです。

早くいえば、西欧諸国の勝手な世界支配陣取りゲームの結果で、「お前らの国の国境線を確定したから、今後はここからあそこまでがアフガニスタンで、お前らはアフガン人だ」といってるようなものです。

「何をいうとるんじゃ ワシらは昔からこの辺りを自由に行き来していたんじゃ」といったかもしれないパシュトゥーン族の人々は、従来通りのアフガニスタン〜パキスタンの山岳地帯を往来する生活を続けたことでしょう。

山岳地帯というのは、平定が難しい地域で、戦車も入れず、航空機による爆撃も効果が薄いことは、第二次大戦中のユーゴスラビアのパルチザン (ゲリラ) をドイツ軍が、ベトナム戦争中のベトコンや北ベトナム軍を米軍も掃討できなかったことから、近代兵器をもってしても 現代でも難しいと想像します。 核爆弾なら簡単ですが、それを使うことは 世界中から非難を覚悟しなくてはなりませんから、普通は持ってるぞというポーズを取るだけですね。

アメリカが、オサマ・ビン・ラーデンをかくまって引き渡さないタリバンの軍事施設の空爆を始めたのは、ついこの間の2001年ですが、いまだにビン・ラーデンの生死は不明です。
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帝国主義の時代、国は植民地になるか占領国になるかのどちらかしかありませんでした。 中立を保つのも難しかったでしょう。 中立を維持するにも軍隊がいりますからね。 けれど占領国となっても、後に独立した国と良好な関係を続けるのは容易でないですね。

日本が占領した半島や大陸の国、英国が占領した中東〜中央アジア一帯の国々、仏が占領したアフリカ諸国やインドシナ半島、旧ソ連が占領した周辺国 … この中にはアフガニスタンも一時入っています。

アフガニスタンは、今カルザイ大統領が04年以降 国際的な支援を受けて統治していますが、諸民族・部族が入り乱れる国で、地方豪族が勢力を維持していますから、中央政府の力が国の隅々まで届かないのは容易に想像できます。

西欧式の価値観や規律 法律などとは違う異次元の世界が、そこにはあるのかも知れません。 けれど、他人の命と引き換えに 仲間の釈放を求め、受け入れられなければ人質を殺害するのは、地球のどこでも通用する論理ではありません。 いま アフガニスタンやイラクは深い闇の世界の時代に入っているともいえます。 しかし、いつかは闇も晴れる時が来るでしょう。
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「タリバン」(06年5月23日 共同) __ ※追加5へ
ウィキペディアから … アフガン戦争 (Afghan Wars) は、近現代にアフガニスタンを舞台に起こった諸戦争のうち、特に19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリスの間の三次にわたる戦争のこと。 アングロ・アフガン戦争ともいう (※追加6へ)。

 「アフガニスタンとアフガン戦争」(http://www.hikyaku.com/afghan/afghanj.html) __ ※追加7へ
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以上 (7月13日「モスク籠城を可能にするものは何?」も参照下さい)

以下は興味ある人のみ お読み下さい。

※追加1 _ アフガニスタンのイスラム原理主義勢力 タリバンは30日夜、拉致している韓国人グループ22人のうち1人を新たに「殺害した」と明らかにした。 タリバンはアフガン政府に収監中の仲間の釈放を求め、聞き入れられない場合、人質を殺害すると警告していた。 確認されれば、殺害された人質は2人目。

タリバンのスポークスマンはロイター通信に「政府がわれわれの要求に耳を貸さなかったので、人質の男1人を射殺した」と語った。

同スポークスマンによれば、殺害された人質の名前は「スン・シン」。 韓国の通信社・聯合ニュースは、殺されたのは男性人質のシム・ソンミン氏と推定されると伝えた。 アフガンや韓国当局は殺害を確認していない。 タリバンは25日、グループのリーダーで牧師のペ・ヒョンギュ氏を殺害している。 聨合ニュースはまた、仲間が釈放されなければ 女性を含め残る人質の殺害を続けるとするスポークスマンの発言を伝えた。 スポークスマンは人質殺害のペースを速めると警告しているという。
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※追加2_ アラブの衛星テレビ局アルジャジーラは30日、アフガニスタンでイスラム原理主義勢力タリバンに拉致された韓国人グループの一部とされる映像を放映した。 拉致後、グループのものとされる映像が公表されたのは初めて。
 
映像は1分足らずで音声は入っていない。 暗い場所で、数人の女性が地面に座るか、その後ろに立った状態で映っている。 周囲にはタリバンの兵士らしき男も見える。 いずれの女性も頭にスカーフをかぶっており、けがなどはないようだが、一様にうつろな表情で、相当疲労していることがうかがえる。
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※追加3_ 01年のタリバン政権崩壊後、タリバンはアフガニスタンで活動する援助関係者らを連れ去り、人質解放の条件として拘束されているタリバン幹部の釈放やアフガンに駐留する外国軍撤退などを要求。 05年11月には復興支援に携わっていたインド人男性技師を殺害。 今年3月に拉致したイタリア人記者は、幹部釈放と引き換えに解放した。 4月には教育支援のフランス人男女を連れ去り、2人とも解放。 今月18日にはドイツ人男性技師2人を拉致、うち1人は遺体で見つかった。
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※追加4_ 韓国人韓国人23人含む総勢30人が拉致されるなど 旧政権タリバンが攻勢を強めるアフガニスタンには、 NATO (北大西洋条約機構) が主導する ISAF (国際治安支援部隊) に合計37カ国から約3.5万人の将兵が派遣され、治安維持などの任務にあたっている。
 
NATO によると、各国の派遣数は米国=14,750人、英国=6,500人、カナダ=2,500人、ポーランド=1,075人、イタリア=2,500人、オランダ=1,300人、ドイツ=3,000人、スペイン=650人、トルコ=1,200人、ルーマニア=500人、オーストラリア=700人、ノルウェー=500人、ハンガリー=180人、フランス=800人−などで構成されている。

「アフガンのタリバン、独人質2人の殺害を発表」(7月22日 ロイター) _ アフガニスタンのイスラム原理主義勢力タリバンは21日、ドイツ人の人質2人を殺害したと発表した。 ただ、ドイツ外務省は、人質のうち1人は生存しており、もう1人は「ストレスと緊張」のため死亡したとしている。

タリバンのスポークスマンはまた、韓国がアフガニスタンから軍を撤退し、アフガン政府がタリバンの捕虜を解放しなければ、拘束している韓国人の人質23人についても殺害を始めると警告した。

このスポークスマンは、ドイツ人の人質2人は、韓国と同様にドイツに求めていた部隊撤退と、タリバンのメンバー解放の要求が満たされなかったために殺害したと話している。

ドイツのシュタインマイヤー外相は、ベルリンで記者団に、人質の安否については情報が錯綜しているが、分析では人質1人の生存が示唆されていると述べた。 人質にとられている2人はいずれも、ダムのプロジェクトで働く作業員だった。

ドイツのビルト紙日曜版は、匿名の政府関係筋の話として、ドイツ当局が人質1人の遺体を確認し、遺体には銃創があったと報じている。
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※追加5_ アフガニスタン多数派、パシュトゥン人の神学生らが1994年に結成した原理主義組織で「神学生」の意。 96年9月、首都カブールを制圧し政権樹立を宣言。 98年秋までに国土の9割を実効支配し、最高指導者オマル師がイスラム原理主義の統治を敷いた。 米中枢同時テロ後、米英軍の攻撃を受け、01年11月にカブールから撤退。 同年12月には本拠地カンダハルを明け渡し、政権として完全消滅した。 しかしオマル師らの消息は不明で、残存勢力はカルザイ現政権や駐留外国軍に対する攻撃を続けている。
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※追加6_ 第一次 (1838〜42年) と第二次 (1878〜81年)のアフガン戦争は19世紀に繰り広げられたグレート・ゲームの一環として、中央アジアに進出したロシア帝国がインドへと野心を伸ばしてくることを警戒したイギリスが、先手を打ってアフガニスタンを勢力圏に収めるために行った軍事行動であり、第二次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンを保護国とした。 

アフガン戦争は狭義にはこの二度の戦争を指す。 第三次アフガン戦争 (1919年) は第一次世界大戦直後に行われた戦争で、アフガニスタンが英領インドに攻め込んで独立を認めさせた戦争である。
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※追加7_ 中央アジアとインド亜大陸の間に位置するアフガニスタンは、昔から強国がその勢力圏を拡大しようと激しい闘争を繰り広げたことで知られている。 19世紀のロシアと英国の闘争や冷戦時代のソビエトとアメリカの闘争がそれに当たる。

しかしアフガニスタンは山がちな地形と国境と合致しない複雑な民族構成のため、最初の闘争で勝利をおさめても、ゲリラ戦などで政権が簡単にひっくり返る国である。

89年のソビエト軍撤退とそれに続くソビエト連邦崩壊によってアフガニスタンにおけるロシア・アメリカの対立は一時収まったように見えたが、インドに飲み込まれることを恐れるパキスタンはアフガニスタンに勢力圏を広げることを止めなかった。

01年9月11日の世界貿易センターに対するテロ攻撃はアフガニスタンの地政学上の重要さをいやが上にも証明した。

アフガニスタンの歴史的バックグラウンドを解説して現在行われているアフガン戦争を読者に正しく理解してもらうために この小サイトを開設しました。

<アフガニスタンの歴史>_ナディール国王が1933年11月に暗殺されて 息子のザヒール皇太子が19歳で王位に就きました。 次の40年は封建制度のアフガニスタンが近代国家に変化する過渡期ですが、植民地大国の英国によって決められたアフガニスタン・パキスタン両国の国境線がアフガニスタン構成民族 最大のパシュトゥーン族の地を両断するため、国境紛争が絶えませんでした。

53年にザヒール国王のいとこのムハマッド・ダウードが首相に任命されました。 ダウードは首相在職中 (1953〜63年) に婦人の ベール着用を随意にするなど沢山の改革を遂行しました。 彼とソビエトとの関係は良好でしたが、アメリカとの関係は冷え切っていました。

国境問題でのダウードの強硬姿勢でアフガニスタンは パキスタンとほとんど戦争状態と成ったため、63年 ザヒール国王はダウード首相を解任し、ムハマッド・ユーソフが後任の首相となりました。

民主選挙と言論の自由を保証する64年発布の憲法により アフガニスタンはデモクラシー国家の仲間入りをしましたが、大学構内では左翼学生とイスラム系学生との間で激しい勢力争いが起こりました。

65年にはモスクワの息がかかったアフガニスタン共産党 PDPA (アフガニスタン人民民主党) が、バブラック・カーマルとムハマッド・タラキによって創設されましたが、すぐにタラキが 指導するパルチャム派 (旗派) とカーマルが指導するハルク派 (人民派) に分裂しました。

73年7月 むりやり隠退させられたムハマッド・ダウード前首相は、ザヒール国王が病気治療のたヨーロッパ旅行中、 共産党系士官の助けでクーデターを起こしました。 アフガニスタン共和国が建国され ダウードが大統領、そして沢山の共産党員が入閣しました。

ダウードはアフガニスタンの近代化を進め、それに強硬に反対するイスラム系政党を禁止しましたので、イスラム協会のブルヌハヌディン・ラバニやアハマド・シャー・マスードなどがパキスタンのペシャワールに逃げ込み抵抗しました。

ダウードがイスラム政党を排斥した後、共産党はこんどは自分たちの番では、と半信半疑です。 1978年4月 PDPA の重要人物、ミール・アクバール・ハイベールの暗殺で人民が暴動を起こし、ハフィズラ・アミンによって集められた兵が大統領官邸を包囲します。 有名なサウール革命です。 ちなみにサウールとは アフガン語で4月のこと。 ダウードとその家族は皆殺しとなり、アフガニスタン人民共和国が建国されました。

最初は、モスクワのイニシアチブによって 数年前の仲直りしたパルチャム派とハルク派が入閣しましたが、すぐにハルク派のリーダーで革命評議会の議長、ムハマッド・タラキによって、 バブラック・カーマル等パルチャム派の主要メンバーが政府や党機関のポストから追い出されました。

地方の伝統しきたりを無視した女性解放や土地制度改革によって 各地で暴動が起こりましたが、そのつど流血で鎮圧されます。 この混乱時期の79年2月にはアメリカ大使アドルフ・ダッブズが何者かに暗殺されます。

この混乱の責任で アフガニスタン共産党 PDPA 内部ではタラキ大統領とアミン首相との間で抗争が始まります。 自分を追い出そうとするタラキ大統領の陰謀を察知したアミン首相らは、79年7月に大統領官邸を包囲してクーデターを起こします。 ハフィズラ・アミンが大統領となりムハマッド・タラキは密かに処刑されました。

モスクワの許可無くしてアミンがタラキを抹殺したので、ブレジネフ書記長は非常に怒り 79年12月アフガニスタン革命を救うという名目で 8万人 の兵士をアフガニスタンに進行させます。 ハフィズラ・アミンは暗殺され、かわりにパルチャム派の リーダーだったバブラック・カーマルが亡命先からモスクワによって呼び戻され 大統領に就任します。

ソビエト連邦からの膨大な援助にもかかわらず、 レジスタンスはだんだんと強力化します:アメリカからは小型地対空ミサイル・スティンガーなどの近代兵器、パキスタンはイスラム兵士の訓練場、サウジアラビアは資金等でムジャヒディンを助けます。 ジハード(聖戦)の起こりです。

86年5月 バブラック・カーマルの手腕に疑問を持ったソビエト政府は彼をやめさせ、代わりに秘密警察の長であるナジブラ・ アハマドザイをアフガニスタンの大統領に任命します。 彼はムジャヒディンと話し合う決意を示すため、国名をアフガニスタン共和国に戻しますが 戦闘は続きます。

88年5月 1万3千人という あまりの多数の犠牲のため ゴルバチェフ書記長はソビエト軍のアフガニスタン撤退を決心します。 ナジブラ・アハマドザイは、88年4月のジュネーブ協定によって連立内閣を作ろうとしますが、成功しません。

92年4月 カブールがムジャヒディンの手に落ちると、ナジブラは国連の建物に逃げ込みます。 アフガニスタン・イスラム共和国が建国され、シブガトゥラ・ムジャデディが初代大統領、次がブルヌハヌディン・ラバニですが、大統領ポストを狙うイスラム党のグルブディン・ヘクマティアルとの確執が起こります。

こうして ムジャヒディン各派が戦争を始めますが、やかでほとんどが勝手な通行料や密貿易で生計を立てる山賊に成り果てます。 94年秋にカンダハールに突如現れたタリバンは、 イスラム教師モハッマド・オマールに率いられ、こうしたムジャヒディンを嫌う住民の歓迎で徐々に勢力範囲を広げていきます。

96年9月にはカブールがタリバンの手に落ち、ナジブラは絞首刑になります。 これに危機を感じ、今まで互いにいがみ合っていたイスラム国民運動のラシッド・ドスタム将軍などムジャヒディン各派がラバニ大統領と力を合わせて タリバンに立ち向かう事を決めました。 北部同盟の誕生です。

01年9月の世界貿易センターへのテロ攻撃の後、アメリカはオサマ・ビン・ラーデンをかくまっているタリバンに対し連合軍を構成し、またパキスタンにはタリバンを援助しないよう圧力をかけます。 タリバンがビン・ラーデンの引き渡しを拒否したため、10月にはアメリカは軍事施設の空爆を始めます。

以上

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