シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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フン族は匈奴の末裔だったのか?

2022年01月01日 | 歴史をひも解いて
左はアッティラ帝国の推定図 (『歴史と文化 https://www.greelane.com/ja/文系/歴史と文化/impact-of-huns-on-europe-195796/』から)。 右は250年頃の匈奴の領域 (ウィキから)。
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中世ヨーロッパでは ゲルマン民族の大移動により西ローマ帝国が滅亡しました (476年)。 そのゲルマン民族大移動の始まりとなったのが、375年 フン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたこととされています。

では そのフン族は “どこから” やってきたのでしょうか。
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ウィキペディアから __ フン族 (Hun) は、4~6世紀にかけて中央アジア、コーカサス、東ヨーロッパに住んでいた遊牧民である。「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴の子孫であり、テュルク系民族がユーラシア大陸に広がった最初の端緒である」とする説がある。 研究者は「匈奴」の当時の発音が「フンナ」もしくは「ヒュンナ、キョウナ」など、フンとよく似た音である事から、また後漢が北匈奴を討ち (91年)、残党が西走した記録から、また王名などの分析から言語学的にモンゴル系に属すると判断し得る、等々の根拠からフン=匈奴であるとしている。
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ウィキによれば、古来から中国を脅かしてきた北方騎馬部族の匈奴は、中国の歴代王朝に討たれて分裂、北匈奴は西進し 2世紀なかごろに天山 (中央アジアのカザフスタン、キルギスから中国西部にかけての国境地帯の山脈) 北方にいたとする『後漢書』の記事を最後に、中国の記録からは姿を消しています。 匈奴とフン族は文字を持たなかったので、同じだとも違うとも断定できないのですが、時期的には可能性があります。

同じルーツを持つ部族となると、ユーラシア大陸東西の歴史がつながっている事になるわけで、歴史の壮大なロマンを感じますね。

遊牧の民・騎馬部族は定住生活をせず、生活に必要な物資が無くなったり、人口が増えすぎると 農耕地の部族を侵略して略奪しますから、元々 戦闘能力に長けています。 常に食うや食わずで、ギリギリの生活をしていますから、貪欲で他の部族に情け容赦はしないとも想像します。

ノー・ルールの時代ですから、他の部族を平気で侵略・強奪するわけです。 ただ 農耕地の部族もやられっぱなしではなく、それなりに防御しますから、そのバランスが保たれている間は紛争になりませんが、騎馬部族の勢いが強くなると悲劇になります。

色々な書物を読むと、匈奴・フン族は馬上生活の時間が長く、また鐙 (あぶみ) を発明しましたから、人馬一体ともいえる行動ができたようです。 



轡 (くつわ) は数千年前から使われましたが、鐙 (あぶみ) は西暦300年頃からとされ、フン族が現れるまでヨーロッパでは使われていませんでしたから、比較的新しい馬具です。 鐙があったからこそ フン族は人馬一体の行動が可能だったのでしょう。 それと馬上から射る弓術を得意としていました。

それらが相まって強力な戦闘集団となったのでしょう。 ただ フン族全体を束ねた王はアッティラ (治世 434~453年) 以外は影が薄く、部族集団の指導者らしき人物はいなかったらしく、アッティラ以降はヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、彼らは中央アジアへ撤退したか、他の部族に飲み込まれてしまったようです。 アッティラの権威のみで成り立っていたフン族の組織体は脆弱だったのだろうと想像します。


左は騎馬遊牧民の像 モンゴル高原のノイン=ウラ出土 (世界史の窓から)。 右はフン族を描いた19世紀の歴史画。 中国人っぽく描かれていますね。
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ウィキペディアから __ 匈奴 (きょうど) は、紀元前4世紀頃から紀元5世紀にかけて 中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家 (紀元前209年~93年)。 モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。 民族系統は解明されていない。
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アッティラの外見は、「背は低いが筋肉質で、頭が大きく、顔色はくすんだ黄色で低い鼻と浅黒い肌。 両目とも斜視で、蓄えられた顎鬚には白髪が混じっている。 髭はほとんど無い」と東ローマ帝国の資料にあり、アジア系を想像させます。

アッティラのエピソードとしては、453年に 美しく若いイルディコとの結婚式の宴会の最中に大量の鼻血を出し、呼吸困難に陥り窒息死した事と、遺体は征服で得た戦利品とともに金、銀、鉄の三重の棺に安置され、川の一部の流れを変えて棺を川底へ埋めて流れを元に戻したので、埋葬地の正確な場所は秘密とされた事などが興味深いです。

アッティラ帝国の本拠地がパンノニア (ハンガリー平原) で ドナウ川中流域ですから、ドナウ川の川底に 今もアッティラの遺体とお宝が眠っているという伝説があります。

王の遺体を埋めた墓を分からなくしてしまうというと、モンゴル帝国のチンギス・ハーンも同様ですから、遊牧民は明確な墓を作らない民なのかも知れません。 アッティラやチンギス・ハーンの遺体が出てきたら、大騒ぎになるでしょうね。

今日はここまでです。

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