
ニルソン自伝。 ニルソンと仲の悪かったカラヤンとの写真2枚。 右はイゾルデの練習風景?
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スウェーデン出身のニルソンは、自伝の中でカラヤンについて こう述べています __
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『ビルギット・ニルソン ~ オペラに捧げた生涯』(ニルソン著 春秋社 2008年刊 ⁂) __ 6章 ウィーン わが夢の街 から
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「1955年 ベームのウィーン・オペラ後任はカラヤンで、『指輪』を自身の演出で上演したがっていた。 ブリュンヒルデはアストリッド・ヴァルナイが歌うと思っていたが、そうはならなかった。 彼女は何かの拍子にカラヤンの練習法を少し批判したため、ブラック・リストに載せられてしまったのだ。
さらにレオニー・リザネクがジークリンデを歌うのは確実だと思ったが、しかるべき賃上げを要求したら、カラヤンは彼女も選外へ追いやり、アーセ・ノーモ・レーヴベリを抜擢した。
カラヤン演出では音楽リハは極めて少なく、照明に合わせた立ち稽古に多くの時間が費やされた。 歌手の声を保護するために、彼自身の録音ではない 倍もテンポの遅いクナッパーツブッシュ指揮のレコードを利用した。 他の歌手の解釈に合わせて練習するのは神経をまいらせ、精神的な拷問のように感じた」(198~199p)
__ この "再生音源を使いながらのオペラ練習" は多くの有名歌手たちが、否定的に書いています。 カラヤン自身は歌手ではなかったから、歌手たちのこの辺りの心理を解ってなかったのでしょう。
本当は歌手たちはそうしたカラヤン流のリハはしたくなかったのだけれど、我慢すれば マエストロと共演したという勲章が手に入るから、多くの歌手はいやいやながら従ったのだと想像します。 こういうのを忖度 (そんたく) というんでしたっけ?
「プレミエ当日 新聞は『カラヤンはアーセに病気でキャンセルするよう迫り、代わりにリザネクが歌う』とすっぱ抜いた。
人物の動かし方が得意でなかったカラヤンはライトの当たり具合が良ければ満足で、演技には無関心だった。 歌手たちに指示するためにカラヤンが舞台に上がると、鶏のようにお尻を後ろに突き出し 頭を高く上げた格好で歩き回るのだ。

『レコ芸 1989年10月号』から見つけた写真。
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上記写真は、ニルソンが書いている通りのようです。 ニルソンの人物評が正確だった事を想像させますね。
アーセは演出家の指示の出し方にあまり経験がなく、恐らくカラヤンの動きを個人的な指示と勘違いして彼の動く通りに従った、 いちいち真似されるのを見て、カラヤンはアーセの嫌がらせと勘ぐり、放り出したのだ」(200p)
__ ここら辺りの記述はニルソンの想像が幾分か入っているようですが、真相とそれほど違わないだろうと思います。 なんたって 現場にいた歌手なのですから。
アーセ・ノーモ・レーヴベリは、クレンペラーの1958年録音の第九でソプラノを受け持っています。 これ以外での録音はないようで、コンサートが多い歌手だったのでしょうか。
「1957年のカラヤンの『ワルキューレ』は見事だった。 これは6月の音楽祭中にもう1度上演された。 12月に『ジークフリート』『フィデリオ』と『トゥーランドット』を、いずれもカラヤン指揮で歌った」(201・203p)
「『ジークフリート』では最後の二重唱で カラヤンは2人が感電したように反応してほしいといったが、ヴィントガッセンに業を煮やした彼は、ジークフリートの見本を見せようと 指先で私に触れると『さあ いま何か感じたでしょう? 感じたでしょう?』と訊いたが、私は困った状況に陥った。
『ええ 感じました』と答えたら、一生 カラヤンのお気に入りになれただろうけれど、私は残念そうに首を振った。 カラヤンはスウェーデン女性の冷血さを嘆いた。 そこで私はヴィントガッセンと一緒にもう1度繰り返してみてはと提案したが、彼は罠にはまらなかった」(204p)
「1958年 カラヤン指揮の『アイーダ』を歌ったが、マエストロとピアノ伴奏でリハを短時間行った。 私が最初のソロを楽譜通りのテンポで始めると、彼は『その半分のテンポで』といった。 本番で 出だしの歌詞を歌う前に、カラヤンは少なくとも2小節は先に行っていた。 この晩ほど速いテンポでアイーダを歌った事はない。
カラヤンはしばしば首尾一貫性に欠ける。 歌手は大声を出しすぎるとリハでいいながら、本番になると全く違う演奏をよく行った。
私たちは1度だけニュアンス付けの事で口論した、というよりは実際は彼1人でしゃべっていた。『あなたは全く弱音では歌えませんからね』『オケが弱音で演奏してくれればできます』 固唾を飲んで見守っていた周りの歌手たちは、思わず吹き出してしまった」(208~209p)
「1959年6月 カラヤン指揮の『トリスタン』を歌った。 カラヤンの姿勢はシンフォニーのようで、歌手は “演奏会型式” の公演の添え物程度の扱いだった。 大きく盛り上がるところでは遠慮なく舞台から歌手の声を吹き飛ばした。
第2幕で あと数分で終わるというとき、突然一種のブラックアウト状態になって、楽譜のどの辺りにいるのか分からなくなった。 カラヤンは、すぐさま私の困惑に気付いたが、暗譜で指揮しているので私を救えなかった。
それどころか彼は、第1ヴァイオリン奏者に向きを変え、いかにも彼にかかりきりでいるような振りをした。 居眠り半分のプロンプターを起こすのも無理で、正しい箇所に戻るまで永遠の時が流れているように感じた」(215~217p)
「『神々の黄昏』のリハはひどかった。 カラヤンは、相変わらずレコードをバックに何度も照明リハを繰り返していた。 今度はフルヴェンとフラグスタートのそれだった。『神々の黄昏』は長く難しい作品なのに、オケ・リハさえ行われなかった。 カラヤンにとっては オケはお手の物だったから、照明のために音楽を犠牲にした」(219p)
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「あるオケ・リハのとき、カラヤンは音楽を中断して、私を指していった『そこをもう1度やりましょう、今度は心でもって、あなたの財布が入っているところですよ』『あらマエストロ では少なくとも私たちにも共通点がありますね』と私は嬉しさを隠しきれない風にいい返した」(254p)
「カラヤンはウィーン・オペラに就任するとき、総監督でなく芸術監督と名乗った。 そして1人の運営管理役の監督を置いた。 彼の推薦で、63年 エゴン・ヒルベルトが就任した。 60年代の初め、ヒルベルトはアン・デア・ウィーン劇場音楽祭の監督だった。
その頃 アン・デア・ウィーン劇場に客演に来ていた ある著名な指揮者は暇な夜に売春宿に通うのが通例だった。 信心深いヒルベルトは激怒して、彼を諌めようと『私のオペラ座は売春宿ではない』といおうとして、興奮のあまり『私の売春宿はオペラ座ではない』と口が滑ってしまった。『ごもっともです。 私はこの歌劇場で、両芸術形態を評価できる数少ない人です』と彼は答えた」(227~228p)
「カラヤンは賢かったから、音楽家に対してはベームとは違う態度で臨んだ。 彼がオケ団員を罵倒したり侮辱するのは聞いた事がないが、文句をいう歌手には技巧的な仕返しをして、なぎ倒した。 その歌手がフレーズを歌い終わらないうちに、オケの大音響でそいつを溺れさせ、歌手の聞かせどころでオケを駆り立てるとか。
楽屋にいると、スピーカーを通して 誰がマエストロの不興をかっているかは、よく聞き取れた。 のちに私自身も、よくその被害者になった。 カラヤンはそれほど了見が狭く、執念深い人間だったが、お気に入りに対しては 何とも素晴らしく刺激的な演奏をした。
指揮者としては彼の右に出る者はなく、軽い雲に支えられているように、歌手の思うまま、影のように伴奏してくれるのだった」(238p)
__ これらのニルソンによるカラヤン評を読むと、カラヤンの影の1面を見る思いがします。 やはり 馬の合う人・合わない人というのはいるもので、ニルソンは全く合わなかったようですね。
逆に考えると 指揮者も人間ですから、完璧な人格を持った指揮者ばかりではないという証明でもあります。 オケに対するカラヤンの指揮能力はピカイチだったが、カラヤンの演出能力は大分劣ると生前から批評されていましたね。
今日はここまでです。