原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

『死の淵を見た男』<~避難する地元民~ 元大熊町長の回想> ※25回目の紹介

2016-03-09 22:02:46 | 【吉田昌郎と福島第一原発の500日】

 *『死の淵を見た男』著者 門田隆将 を複数回に分け紹介します。25回目の紹介

『死の淵を見た男』著者 門田隆将

「その時、もう完全にダメだと思ったんですよ。椅子に座っていられなくてね。椅子をどけて、机の下で、座禅じゃないけど、胡坐をかいて机に背を向けて座ったんです。終わりだっていうか、あとはもう、それこそ神様、仏さまに任せるしかねぇっていうのがあってね」

それは、吉田にとって極限の場面だった。こいつならいっしょに死んでくれる、こいつも死んでくれるだろう、とそれぞれの顔を吉田は思い浮かべていた。「死」という言葉が何度も吉田の口から出た。それは、「日本」を守るために戦う男のぎりぎりの姿だった。(本文より)

吉田昌郎、菅直人、斑目春樹・・・当事者たちが赤裸々に語った「原子力事故」驚愕の真実。

----------------

**『死の淵を見た男』著書の紹介

第5章 避難する地元民

 元大熊町長の回想  P83~

「バリバリバリバリ・・・」

 それは、信じられない”音”だった。この世のものとも思えない、身の毛がよだつような音に、高校生の孫の叫び声が重なった。

「津波だっ!」

 津波?大熊町の元町長、79歳の志賀秀朗と、妻・恒子(77)も、その言葉が信じられなかった。

 志賀の家は、海面から15メートルほどの地に建っている。海からの距離は300メートルほどしかないが、いくつかの段差を経て15メートルの高さを持つ家の敷地は、津波を「心配したこと」など一度もない。

 位置は、福島第一原発から数百メートル南である。原発の「最も近くに住む」地元民こそ、志賀とその家族なのだ。福島第一原発に致命的な打撃をもたらした巨大津波は、原発の”隣人”である。志賀家にも牙をむいて襲いかかった。

 志賀の耳に、聞いたこともないぞっとする音と「津波だっ!」という孫の叫び声が轟いたのは、避難しようと次男の嫁が運転する車にまさに乗りこもうとする時だった。

 車が急発進した時にうしろを振り返った恒子の目に、驚愕の光景が飛び込んできた。家屋の海側に生えている松の木より高い黒い波が、自分たちに向かって押し寄せていたのである。

「危ない!」

 車から30メートルほどまで迫ってきた津波を振り切って、次男の嫁が運転する車はなんとか脱出に成功する。防災無線が「津波の危険」を伝えていたかもしれない。しかし、海岸から15メートルも高いところに建つ志賀家である。津波とは無関係なはずだ。

 本当に避難しなければならないとは、思ってもみなかったのである。

「津波がたとえ来てもね。まさか、家までは来ないだろうと。そういう考えだった」

 志賀元町長はそう語る。

「その頃、うちの嫁と孫が富岡町のほうへ行ってたから、地震でたまげて帰ってきていた。そこの津波が来たわけだ」

 嫁と孫が地震で自宅に帰ってきていたことーそれが、志賀夫妻の命を救った。ぎりぎりのところで、志賀家は津波の難を逃れることができた。

 だが、隣の家では2人が津波で命を落とし、さらにその隣は家ごと津波に流された。志賀の家も床上1メートル30センチまで海水が押し寄せている。老夫婦2人だけで家に残っていたら、あるいは逃げ遅れていたかもしれない。

 志賀は昭和6(1931)年10月に生まれた。福島県双葉郡熊町村(注=現在の大熊町)の夫沢である。彼ほど福島第一原発のあるこの地の変遷を知る人物はおそらくいないだろう。

 志賀はこの地がただの原野だった頃、そして戦時中に造成されて陸軍の飛行場になった時期、さらには戦後に同地が塩田になった時も、そして福島第一原発がつくられ、近代的な施設が立ち並ぶ地に変貌したすべてを目撃し、そして、それらに直接かかわってきた人物なのである。

( 「元大熊町長の回想」は、次回に続く)

※続き『死の淵を見た男』~吉田昌郎と福島第一原発の500日~は、

2016/3/10(木)22:00に投稿予定です。

死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日


最新の画像もっと見る