原発問題

原発事故によるさまざまな問題、ニュース

「トモダチ作戦」の米空母「ロナルド・レーガン」黒い雪(放射能)で、洋上被曝!

2014-03-31 01:35:42 | 放射能汚染

「トモダチ作戦」の米空母「ロナルド・レーガン」黒い雪(放射能)で、洋上被曝!

:「トモダチ作戦」の米空母「ロナルド・レーガン」黒い雪(放射能)で、洋上被曝!
http://blog.goo.ne.jp/arai647/e/4cfdf18b2460963d2b55dbe2f0240039 より(引用開始)
2014年01月01日

http://p.tl/fmMm
その日、甲板乗務員らの上に、突然、雪が降りしきった。

金属の味がする雪」だった。

雪は、ナマ暖かい風が来てから降り出した!

その時、乗員たちは、汚染された雪とも知らず、

「放射能の雪、だったりして」とジョーク言い、ビデオに撮った!

★「雪」は双葉町の井戸川町長らの上にも降った!

そして、それは、あの「第五福竜丸」の上にも!!!

ニューヨーク・ポスト紙の記事で

「ロナルド・レーガン」のリンゼイ・クーパー甲板員(24歳 写真)はさらに、

涙ながらに、こう言っている。

「甲状腺の異常で体重が30キロくらい減って、そのあとリバウンドした。

月経も半年止まった。子どもを産めない。わたしはボロボロだ」

★ 空母「ロナルド・レーガン」は韓国との合同演習に参加するため、

フクシマ沖を航行中、3・11に遭い、そのまま、被災地の救援活動に参加した。

彼女らは、わたしたちの「恩人」であり、「トモダチ」である。

もう隠しきれない!

ニューヨーク・ポスト紙まで書きだした。

原告団は年明けまでに再提訴する!

日本国内ではごまかせても、アメリカでは通じない!

東電はすみやかに謝罪し、損害賠償に応じるべきではないか?

http://p.tl/uCwp
洋上被曝の米空母「ロナルド・レーガン」の乗務員(対東電訴訟原告)、

リンダ・クーパーさんが証言:「わたしたち〔空母「ロナルド・レーガン」〕は、

(ヨコスカなど)日本のどの港からも、

グアムや韓国の港からも入港を拒否された」

「被曝していない僚船は、わたしたちに近寄ることを許されず、

わたしたちは救援を受けることができなかった」

「日本海に逃げても、採水した淡水化海水はまだ放射能に汚染されていた。

まるで<死刑判決>に追いかけ回されているようだった」

★クーパーさんによると、空母「ロナルド・レーガン」は、

ロックダウン(★おそらくは、核戦争気密モードで、

ハッチというハッチを閉鎖したのではないか)

日本の反対側(★津軽海峡経由で日本海)へ避難したそうだ。

しかし、日本海に入っても、空母の「水」

(★採取した海水を淡水化したもの)は放射能で汚染されたままだった。

どこへ避難してもダメ。

それはまるで「死刑判決」に追いかけられるようだったという。

(引用終了)

 

 

【2011年の夏】
(核の時代を生きて:2)黒い雪の恐怖、抱えて 

ビキニ被害者、漁船仲間の訃報相次ぐ (2011年7月31日 朝刊)

http://www.asahi.com/hibakusha/shimen/2011natsu/2011natsu-07.html より全転載

 1954年3月。
 高知の室戸船籍「第二幸成丸」は、南太平洋ビキニ環礁の周辺海域にいた。
 甲板員、桑野浩(ゆたか)さん(78)はデッキに出た。空からパラパラと降ってくる。黒い雪のようだ。灰にも見える。
 「なんだ?」
 黒いものはデッキにうっすら積もり、頭や顔、首筋にもつく。汗とともに手でぬぐう。2、3日は降り続いた記憶がある。
 好漁場で知られた周辺海域には当時、数百の日本の漁船が行き来していた。
 ビキニ環礁では米国による水爆実験が行われていた。乗組員は知るはずもなかった。

    *

 突然、桑野さんの体に変調が表れたのは、十数年が過ぎた30代初め。白血球の数が異常を示した。医師に聞いても、原因はわからないというばかり。
 米国、南米、中東、アフリカ、旧ソ連。小麦や車を積んだ商船で、海外を回っていた。母一人の手で育てられ、マグロ船に乗って稼いだ学費で、国の海技専門学院を卒業。航海士となる夢を実現していた。
 不思議なことが続く。40代半ばごろから、世話になった幸成丸の乗組員の訃報(ふほう)を次々、耳にした。
 知っているだけで、79年に54歳の機関員が心臓まひ、85年に68歳の漁労長が大腸がんで逝く。さらに別の54歳の機関員が肺がん、59歳の機関員が血液がん……。海外から田舎へ戻るたび、仲間の死を知る。
 忘れていたビキニの記憶がよみがえった。
 「あの黒い雪が関係している。きっと、そうだ」

    *

 桑野さんを乗せた幸成丸が東京・築地に戻る1カ月前、米国の水爆実験で「死の灰」を浴びた船がいた。第五福竜丸。乗組員23人は下痢や吐き気、脱毛、やけどを訴えた。急性放射能症と診断され、全員が入院。騒ぎになっていた。
 桑野さんたちも集められ、船や魚が放射能に汚染されていないか検査を受けた。水揚げ30トンのうち、5分の1が廃棄された。船は被曝(ひばく)していた。
 「体はなんともない。大丈夫だ」。福竜丸の乗組員とは違う、と思ってきた。
 だが、立て続けに仲間が死んでいく。
 次は、おれだ。
 福竜丸は有名だが、だれも高知の漁船のことは知らない。「自分もビキニの被害者だって言いたくても、振り向いてくれる人なんていなかった」
 寄港先でアルコールを買っては、船の自室で飲んだ。1日にウイスキーを1瓶あけるのは当たり前。酒量が増えていった。
 恐怖が心と体をぼろぼろにした。55歳で船を下りた。酒が手放せない。幻覚と幻聴。妻に当たり散らした。耐えかねた妻が、アルコール依存症が専門の病院に駆け込んだ。
 5カ月半、入院した。

    *

 酒を断って20年、幸成丸の仲間で連絡が取れるのは2人になった。5年前からビキニの体験の証言を始めた。原発事故が日本で起き、海を汚している。
 「人間が扱うものには過ちもあるし、天災もある。だから核は放棄すべきだ」。あの海で見たこと、それから起きたことを伝えていきたい。 (高木智子)

 ◆キーワード
 <ビキニ事件>
 1954年3月~5月、米国は南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁などで6回にわたり水爆実験を行った。1回目の3月1日の爆発で、マグロ船「第五福竜丸」が「死の灰」(放射性降下物)をあび、全乗組員23人が被曝。半年後、無線長の久保山愛吉さんが急性放射能症で死去した。事件で原水爆禁止運動のうねりが世界に広がった。
 当時、多くの漁船や貨物船、現地住民、米兵らが被曝したが、55年の日米両政府による政治決着で、第五福竜丸以外の被害実態は調査されなかった。

(転載終了)

 

飯館村 3月15日朝 黒い雪 金属の焼けた臭い
帰りたい 帰れない 帰らない ―― 飯舘村民の苦悩
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-66.html より(引用開始)
2012/09/05(水)
◇焼けた金属臭・黒い雪

自分の家は、飯舘村でもちょっと標高の高いところなんですよ。

あのときは風がなくて、家から見ると、もう雲海みたいになって、

大気が赤錆みたいな色をしていましたよ。そして、金属の焼けた臭いがして。

14日は家にいて3号機が爆発したのをテレビで見ていたんですけど、

直に音が聞こえましたよ。ドーンと2回。かなり大きい音でしたよ。

それが、15日の朝には、飯舘に黒い雪となって落ち着てきました。

薄っすら黒い色。自分だけじゃない、飯舘で気がついている人は見ていますよ。

だから、あのとき避難させていただければ、

何も3号機の爆発の影響を体に受けなくても済んだわけです。

(引用終了)

 

 

福島県・飯舘村で県発表の倍の数値に――初期被曝量は平均で7mSvも!?
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/?p=3970
2013 年 12 月 10 日
京都大学原子炉実験所の今中哲二助教をリーダーとする「飯舘村初期被ばく評価プロジェクト」の中間報告によると、住民の平均被曝量は七mSv。これは県が発表していた調査値のほぼ倍だ。

 飯舘村では原発事故直後の二〇一一年三月一五日に放射能を帯びた雪が降ったため、その日の午後六時二〇分の時間当たり放射線量が四四・七マイクロシーベルト(μSv)と跳ね上がったが、その時点で村民はほとんど村内にいた。今中氏は「原発に近い町村の人たちは三月一二日の避難指示でいち早く避難したが、指示がなくて遅れた飯舘村の人の方がむしろ多く被曝している」と話す。

 

 

火山学者が見た2011年3月の福島第一原発事故
http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-500.html より(引用開始)
2012/04/24(火) 15:45:55 朝霞3月24日講演のcocoツイート(編集)

汚染は合計5回。まず3/12一号機の爆発から数時間たって女川が少し汚れた。

次に3/15の朝、上空50~100mくらいをそっと風に吹かれ福島から時計回りに移動し、千葉、東京、群馬、栃木、福島へともどっていった。時計周りに変化した風が東京を過ぎ前橋、宇都宮通って山にあたり雨で大量の放射能がそこの地表に落された。白河、郡山、福島へと雪が降って地表がひどく汚れた。

3番目3/15の夕方、風は北西へまっすぐむかい雪がふって飯館を濃く汚した。

4番目は3/20、山形をとおって一関が汚れた。一関は、最初3/12の汚染と考えていたが、その後、3/20汚染を立証するCOACHの傘が存在することがわかった。実測データがあることもずいぶん後になってから発覚した。

5番目の汚染は3/21、風が南向きに変わって大雨がふり、東葛が汚された。

各原子炉の圧力変化を見ると、いつどの原子炉から放射能が出たかわかる。当時、4号機は運転中止で、1,2,3号機だけが動いていた。まず3/12に、1号基の圧力が下がっているので、これが女川を汚したと思われる。

3/15には、2号機の圧力降下が見られるので、これが千葉、東京、群馬、栃木、福島ルートを汚染した。そして3/20に、3号機の圧力が低下し、これが東葛を汚した。1,2,3号機の順番で、放射能を出したと思われる。

東葛を汚した放射能は、3号機から出たようだ。3号基は、MOX燃料を使った特殊なものだとDELIから教わった。これが何を意味するか、さらなる研究が必要だ。


1時間ごとに調べた放射線量をみる。埼玉は3/15に、6時0.03→0.107μSv/h。11時0.453→1.222μSv/h。18時0.319→1.039μSv/h。翌朝7時0.2μSv/hと、4回汚染された。

昨年3/15、原発からの放射能でこれほど放射線量が上がっているときに、人々が無防備に外に出ているなど信じられないことだった。何も知らない多くの人が外で普通に暮らしていた。懸命にツイートしたが、大勢に届けることはできなかった。

当時外に出ていた人たちは、ヨウ素やキセノンを吸っただろう。チェルノブイリのときは、5年たってから小児甲状腺がんが増えた。いままだ1年しかたっていない。将来なにがおこるのか、それはまだ誰にもわからない。

被爆した事実は事実として、押さえなければならない。いまできる唯一のことは、昨年3/15の6時、11時、18時、子どもがどこで何をしていたか、将来に備えて記録を残しておくことです。

(引用終了)

 


 


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