忠度は、平忠盛の六男で清盛の異母弟にあたり、清盛より26歳年下で清盛兄弟の末弟です。薩摩守で、歌人としても優れた才をもった武将です。1184(元暦元)に一の谷合戦に敗れて死去、享年41歳。
巻第九「忠度最後」では、一の谷の西の大将軍として陣取っていましたが、平家の劣勢を知り、退却していく途中で源氏方の六野太忠純(ろくやたただすみ)に討ち取られました。六野太は、打ちとった武将が誰だか分からなかったが、箙(えびら:弓を入れる容器)に結び付けられていた文に一首の歌が詠まれていて、それで薩摩守忠度であることを知りました。
「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば
花やこよひの 主(あるじ)ならまし」
(旅路に日が暮れて、桜の木の下陰を一夜の宿とすると、花が今夜の主人となってもてなしてくれることでしょう。)
(参考資料:杉本圭三郎著 平家物語)
忠度の史跡は、神戸にもあります。
一の谷の合戦で敗れ、逃亡するときに討ち取られ、腕と胴が別々に埋葬されました。その場所が、神戸と明石にあります。
今回は、神戸の史跡を紹介します。
腕塚 (地図)
腕塚より北へ400mほど行った所に腕塚町という町名があります。忠度の腕塚からついた名前のようです。約1000年も前の人物と関係のある地名が現在まで続いてきて残っているのです。
胴塚(地図)
名前が「ただのり」であることから、忠度の官名「薩摩守」は、無賃乗車(タダ乗り)を意味する言葉としてつかわれることがあります。狂言「薩摩守」では、船賃を踏み倒そうとする出家僧が描かれています。
(参考資料:Wikipedia)
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