園城寺(通称:三井寺)仁王門
三井寺の起源については、次のように伝承されている。近江大津宮に都を置いた西暦667年、天智天皇(中大兄皇子、即位:668(天智7)年)は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。
天智天皇の子:大友皇子(弘文天皇)の子:大友与多王が、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇(673(弘文2)年即位)は、686年(朱鳥元)この寺の建立を許可した。
「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。
なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
(参考資料:ウイッキペディア)
金堂(国宝)
当寺の総本堂。本尊は天智天皇が信仰されていた弥勒仏。現在の建物は豊臣秀吉の北の政所により、1599(慶長4)年に再建されたものです。
閼伽井屋(あかいや) 龍の彫刻
天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いたと言う泉がわいています。建物は、1600(慶長5)年の建立。閼伽井屋の正面にある龍の彫刻は、左甚五郎作。
三井の晩鐘
三重塔
1601(慶長6)年に徳川家康により寄進された。
釈迦堂(食堂:じきどう)
もとは、御所の清涼殿であったとも言われている。
現在は、釈迦如来が祀られています。
村雨橋
観月舞台
謡曲:三井寺
観音様
三井寺の起源については、次のように伝承されている。近江大津宮に都を置いた西暦667年、天智天皇(中大兄皇子、即位:668(天智7)年)は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。
天智天皇の子:大友皇子(弘文天皇)の子:大友与多王が、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇(673(弘文2)年即位)は、686年(朱鳥元)この寺の建立を許可した。
「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。
なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。
(参考資料:ウイッキペディア)
金堂(国宝)
当寺の総本堂。本尊は天智天皇が信仰されていた弥勒仏。現在の建物は豊臣秀吉の北の政所により、1599(慶長4)年に再建されたものです。
閼伽井屋(あかいや) 龍の彫刻
天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いたと言う泉がわいています。建物は、1600(慶長5)年の建立。閼伽井屋の正面にある龍の彫刻は、左甚五郎作。
三井の晩鐘
三重塔
1601(慶長6)年に徳川家康により寄進された。
釈迦堂(食堂:じきどう)
もとは、御所の清涼殿であったとも言われている。
現在は、釈迦如来が祀られています。
村雨橋
観月舞台
謡曲:三井寺
観音様
時間の都合で、駆け足で回りましたが、見所が多いところなので、またの機会にゆっくり拝観したいです。
訪問とコメントありがとうございました。
旅の最後がここでした。
疲れた足を引きずりながら廻りました。
山に配置されたお堂などは、ただ写した
だけでは何のお堂だったのか分かりません。
とりあえず、説明板を写しておかないと。
やっと前般が終わりました。
まるで地獄谷の温泉みたいでした。