平家武将:妹尾太郎兼康公(せのうたろうかねやす 別名:瀬尾)のお墓に、再び参拝しました。
8年前に訪れた時は、通りすがりにお墓があるのに気ずいて、なにげなく寄って、携帯でお墓の写真をアップしましたら、思いかけず、妹尾(瀬尾)一族の方から多くのコメント、知識をいただきました。今回の吉備路散策の一つに妹尾兼康公のお墓を参拝することも大きな目的でした。
妹尾太郎兼康は1183(寿永2)年、平敦盛(たいらのあつもり)に従って北陸へ出兵し、同年5月、有名な倶利伽羅(くりから)峠の戦い、 火牛(かぎゅう)の奇襲作戦で敗れ、木曽義仲(きそよしなか)の軍に捕らわれますが、敵ながら殺すのは惜しいと義仲も思ったらしく、倉光三郎成澄に預けられます。
『平家物語』では、巻八に「妹尾最期(さいご)」という一節を設けて兼康の最期を描き、木曾義仲をして「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたのであった。
妹尾兼康公墓(鯉山(りざん)小学校敷地内)
以前に来た時より立派になっていたのに驚きました。
2006年6月に訪問した時のお墓(携帯で送信した画像)
左の塔の後ろには、平成26年吉日と記されています。
お墓の後ろが鯉山小学校
妹尾太郎兼康公(せのおたろうかねやす 1126~1183)は、このあたり板倉郷の豪族でした。高梁川(たかはし)の湛井(たたい)から水を引き、今も使われている十二郷用水路を改修した人です。
平家物語にも平清盛の信頼を受け平家の侍大将として1183(寿永2年10月12日)年、木曽義仲の軍勢と板倉城(岡山市高松)で戦い、討死したとあり、その後、家臣の陶山道勝(すやまみちかつ)は屍を城跡に埋めて供養のために寺を建てました。それが、道勝寺で今の鯉山(りざん)小学校です。
昭和54年11月 鯉山小学校文化財保護少年団
※お墓の近くに陶山〇〇と看板のあがった会社がありますが、陶山道勝との関係は不明です。
2006年6月8日掲載の「平家武将:瀬尾兼康公」の記事は こちらから
妹尾兼康公墓の地図は こちらから
(鯉山小学校:岡山県岡山市北区吉備津1444)
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