実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

北前船・加賀と小樽をむすぶもの

2012年09月22日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

橋立をはじめとする加賀の北前船主たちは、江戸後期から明治の時代にかけて、全国各地で大活躍しました。

その加賀の北前船主の歴史は、石川県から遠く離れた北海道の小樽市に今でもはっきりと残っています。

 正面写真シャチホコ小樽市総合博物館運河館(小樽市ホームページより)

小樽(おたる)は石狩湾に面し、古くから港湾都市として発展した都市で、人口は約13万人。

明治末から大正期にかけての小樽は、まさに北海道を代表する商業都市に成長していました。

なかでも色内町かいわいにはさまざまな銀行が軒を連ね、北海道のウォール街といわれたほどで、今でも

歴史的建造物が数多くあり、とても人気がある日本有数の観光都市です。

 第十一代目 西出孫左衛門

小樽の観光スポットはなんといっても「小樽運河」ですが、ここに橋立の北前船西出孫左衛門、西谷庄八が

つくった倉庫が、小樽市総合博物館運河館として残っているのです。この倉庫は、1893(明治26)年築で、

屋根には福井県産の瓦と高さ1.5m、重さ120kgもある銀瓦製のシャチホコが上げられています。

また日の字型に中庭が配された倉庫は左右対称の均衡美をそなえ、現存する木骨石造倉庫群の代表格とされ、

歴史的建造物に指定されています。

そしてこの建物に隣接するように並んでいるのが、加賀市瀬越出身の大北前船主、大家七平や広海二三郎の倉庫です。


当時の北海道は、「ニシン漁によってその基盤が築かれた」と言えるほどニシン漁を中心とした漁業が重要な産業で

ことに、小樽周辺には好漁場がたくさんありました。獲れたニシンの多くは、しめ粕に加工され、重要な農作物肥料として

全国に運ばれました。北前船は北海道からニシンや昆布等の海産物を積み出し、本州からは米、雑穀、衣類等の

生活物資を運んで来ましたが、一年に1~2度の航海なので物資を保管する場所が必要となり、

小樽倉庫業が誕生することになったのです。

江戸時代の北前船の利益の多くは「登り」にありました。しかし、明治になって、開拓民の移住により、

北海道の人口が急増します。移民の生活物資は、北前船で運び込まれる産品に頼らざるを得なかったこともあり、

北前船の需要は高まりました。北前船の利益も「登り」から「下り」へと移行していったのです。

開拓時代の初期は、小樽に陸揚げした品物は「何でも売れる」という噂を呼びました。北海道は米が採れなかったため、

ワラやゴザでさえ、慢性的な物資不足になっていたのです。

小樽に残る倉庫群や運河は、北海道の開拓や、北前船の歴史を物語る貴重な遺構であるとともに、加賀の北前船主が

大活躍をした証ともいえます。

 

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