隊員NO.4にいなで~す(^_-)/
加賀市観光ボランティア大学第11回講座「日本一の富豪村 北前船の里」で、
講師の江沼地方史研究会・見附裕史さんから教えていただいたことをつづけてレポートします。
これまで北前船の「北前」という意味については、いろいろな説が主張されてきました。
たとえば、①北を前にして進んだから、北前船と呼んだ。
②北海道松前から来る船を略して北前船と呼んだ。
③北回り船の呼び名が変わって北前船になった。
④北の米(きたのまい)が変わって北前船になった。などです。
しかし、その後のさまざまな研究によって、これらの説は覆されることになりました。
1579(天正7)年に安芸の武将吉川元春(きっかわもとはる)が厳島神社にあげた戦勝祈願文の中に、
「今度、北前之弓矢本意に任すに於ては一所寄進し奉るべきものなり」という文章が発見されました。
そのことから、「北前船」という呼び名はもともと、日本海港の船が瀬戸内や大坂港に入港した時、
その土地の人が呼んだ名前であったことが明らかになってきたのです。
この史料の戦いは、広島から日本海側へ攻め込む戦いでした。
この言葉の使い方からすると、瀬戸内や阪神からみて、「北前」は、日本海側の陸地をさすのです。
また、瀬戸内地方の人々は、京・大坂のことを「上口」、九州地方を「下口」、山陰地方、すなわち日本海側を
「北前」と呼んでいたようです。
「北前」とは瀬戸内・阪神地方で、もともと日本海側の陸地をさす語だったものが、
海をもふくめる意味に拡大解釈されていきました。そして日本海側から下関を回って瀬戸内・阪神地方に
入っている船を「北前船」と呼ぶようになったわけです。
日本海側では、「北前船」という呼び方はなく、加賀では「ベザイ船」・「千石船」、越前三国では「どうばらがき」、
北海道では「青タガ」・「ベザイ船」といわれていました。
以上をまとめると、「北前船」とは、北国の船主の持ち船で、日本海側から下関を回って大坂などにくる船をさす
瀬戸内や阪神地方の呼び名といえるのです。