実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

北前船が衰退していった理由

2012年09月24日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

江戸後期から明治の中頃まで北前船は隆盛をきわめました。

「下り」では、大坂の酒・木綿・雑貨、瀬戸内の塩・紙・砂糖・ろう、山陰の鉄や米、東北の酒・米を、

函館・松前・江差に送りました。「登り」では、北海道の海産物(ニシン・〆粕・数の子・昆布・サケ・マス)などを、

大坂や瀬戸内で売りました。

明治に入り、北海道に開拓使が設置されてから北海道開拓が本格化します。その玄関港となった小樽は、

全国からの開拓移民でにぎわい、かれらの生活を支える大量の生活用品や開拓物資が必要になりました。

明治新政府はそうした物流の問題を考え、東京・小樽間に蒸気船の航路を開設して、次々と貨物船を就航させました。

しかし、年に一度の往復が一般的であった北前船にとって、開拓移民の急増に対応できるだけの供給能力は

ありませんでした。危機感を持った北前船の船主は、物資の安定供給を目的に大型倉庫を建設し、

物資の保管をしながら問屋の形態を作り上げていきます。

小樽に残る倉庫群や運河は、こうした北海道の開拓や、北前船の歴史を物語る貴重な遺構です。

北前船にとっては、明治維新によって封建制が崩壊し、電信、郵便の登場によって相場の地域差が小さくなったことで、

一攫千金的な意味合いが急速に薄れていきました。さらに日本全国に鉄道が敷設されたことによって、

国内の物資の輸送は鉄道に移っていき、明治中期には、約150年続いた北前船は、ほぼ役割を終え、

歴史の表舞台から姿を消していくことになりました。

 

北前船主の里・橋立」には、北前船が賑わっていた頃の様子を知ることができる多くの歴史遺産が残されています。

先人たちの営みを勉強しながら、わたしたちが住む加賀市のこれからを考えていきたいと思います。

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