実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

橋立を代表する2人の北前船主

2012年09月21日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(*^_^*)/

 

9月18日(火)、わたしたち実高ふれ愛隊は課題研究の時間に、北前船主の里・橋立を訪問しました。

橋立には「北前船主の里」とよぶのにふさわしいほど、たくさんの船主がいました。

1796(寛政8)年につくられた橋立船主の仲間規約「船頭定法」には、42人もの船主の名前が書かれています。

そして橋立を代表する北前船主としては、久保、西出、増谷、酒谷、増田、寺谷、梶谷、角谷、町野、

忠谷、西谷など挙げられ、今日なお家屋を残すものが十戸近くあります。

中でも、久保彦兵衛西出孫左衛門橋立北前船主の双璧といわれています。

 第七代目久保彦兵衛 久保家跡 

◇久保彦兵衛 久保家の総本家で、もとは小餅屋といいましたが、五代目の彦兵衛の時、大聖寺藩の仕事に

協力して、久保の姓を許されました。1845(弘化2)年財政難だった大聖寺藩を立て直すため、

みずから進んで金一万両を献上し、藩を救いました。その功績により百三十石を与えられたといいます。

1853(嘉永6)年にペリーの黒船が来航したときにも三千両、廃藩置県の際の藩札整理にも五千両を出しました。

久保家の豪勢さはいまでも、金沢の武家屋敷野村邸に残る「御殿」、大聖寺の蘇梁館として残る住居で

知ることができます。七代彦兵衛は銀行を設立し、教育にも力を尽くし北浜小学校(現橋立小学校)に高等科を設け、

久保文庫を寄付しました。

 第十一代目 西出孫左衛門  西出家跡 

◇西出孫左衛門 朝倉家の家老の子孫と伝えられ二代目から船乗りをしていました。五代目孫次郎は藩に

出入りし三人ぶちをもらっています。六代目孫左衛門は城下大聖寺に移って武士となりました。

しかし娘を養子にして依然として船商売を続けました。寛政の頃(18世紀末)すでに六隻の船を持っていました。

1856(安政3)年七千両を藩に献上しています。その他弘化年間には二千両、嘉永年間に二千両、

1871(明治4)年には久保と同じく五千両を献上しています。1889(明治22)年には和船五隻を所有し、

この他にも汽船も持っていました。明治三十年の所得税調査議案では所得額4.881円と査定されています。

なお同家は十一代孫左衛門の時函館に支店を作り北洋漁業に進み、大正初期には千島に移り定置網を成功させ

1937(昭和13)年には北洋水産を創立しました。現在でも函館で13代目が活躍しているといいます。

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