日本ユーラシア協会広島支部のブログ

本支部は、日本ユーラシア地域(旧ソ連邦)諸国民の相互の理解と親善をはかり、世界平和に寄与することを目的とする。

日本ユーラシア協会広島支部ニュース 2015年1月30日

2015-01-31 10:57:06 | 日記
日本ユーラシア協会広島支部ニュース 2015年1月30日
【新年のご挨拶に代えて。】
神奈川県日本ユーラシア協会からのメッセージ
親愛なるゾーヤさん、エレーナさん!友好協会の会員の皆様!
新年、おめでとうございます。
昨年はハバロフスク対外友好協会の皆様に大変お世話になりました。
今年も宜しくお願いします。
第二次世界大戦終結70周年にあたる2015年には新しい試みとして、
①広島県日本ユーラシア協会と神奈川県日本ユーラシア協会の共催で第17回「大河アムール・大自然とハバロフスク市民交流の旅」を行い、その機会にあなた方のご協力を得て広島、長崎の原爆展をハバロフスク州で実施したいと考えています。また、「核兵器のない世界」の実現へ国際政治を動かすための原水爆禁止署名運動にも是非ご協力くださるようお願いします。
②8,500万人と言われる犠牲者をだした第二次世界大戦の深い反省の上に、二度とふたたび戦争をしないと制定された日本国憲法第九条のリーフレット(27か国語版)の普及にご協力ください。
私達はこれらの活動によってハバロフスク州の州民の皆様と神奈川県民との相互理解と親善が一層深まってゆくことを期待しています。
皆様方のご健康と、国際友好事業のご成功、露・日両協会の友好的関係の発展を心から願っております。
   神奈川県日本ユーラシア協会会長 柴田順吉

[ 写真:チェルノブイリ医療支援ネットワーク2015 CALENDAR]ナジェージダ[希望]
写真 本橋成一制作・発行 NPO法人 チェルノブイリ医療支援ネットワーク
811-3102 福岡県古賀市駅東2-6-26-203  email jimu@cher9.to  協力 ポレポレタイムス社

【 2015年西日本ブロック会議が開催されます。】
日時:2015年2月14日(土曜日) 13時
 場所:名古屋大学法政国際教育協力研究室センター(国際棟2階)

【カザフスタン訪問報告会が開催されました。】
 2015年1月22日(木)ひろしま国際センター6階ホールにてネバダ・セミパラチンスク反核25周年行事参加報告会が開催されました。
 RAKHYPBEKOV  TOLEBAY カザフスタン共和国国立セメイ医科大学学長のスピーチ、小溝康義さん(平和文化センター理事長)、佐々木桂一さん(ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト世話人代表)、星正治さん(ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト顧問)、渡壁正徳さん(広島・カザフスタン友好訪問団団長)の報告。
 報告会に参加されたカザフスタン、ロシアの一行は1月24日出雲市島根大学医学部での「第1回島根・セメイ国際シンポジウム」、26日広島大学医学部での「広島・長崎原爆の残留放射線の影響ワークショップ」に参加されました。

【呉支部より。】今年もロシア語学習会を以下の日程で開催。
場所はビューポートくれ小会議室、時間は午後3時。
2月1日(日)   3月1日(日)   4月5日(日)   5月10日(日)   6月7日(日)

【四國五郎追悼・回顧展について】案内文の抜粋です。
展示予告:
 2015年4月8日~20日  午前10時~午後5時
 旧・日銀広島支店(電停・袋町)
 四國五郎「追悼」の会 (広島市中区本川2丁目1-29-301電話・FAX082-291-7615)
優しい視線・静かな怒り 四國五郎追悼・回顧展に寄せて

●絵にヒロシマの川の匂いがある。 
四國五郎追悼の会・呼びかけ人代表 御庄博実(詩人・医師)
 広島は川の街である。秋風が立ちはじめると、橋の欄干にもたれてのぞき込む、川面の波型は、果てしなく見飽きない。時に川岸や橋上から、竿を延ばして釣りを楽しむ牧歌的風景も、広島になじみの深い抒情であろう。そして、この川底に70年前地獄絵がくりひろげられた記憶が、いま何事もなく閉じ込められているのを、僕は悲しくもまた、耐え忍んできた人間と自然の美しさだと思う。
 四國五郎さんの絵には、そのヒロシマの川の匂いがある。
 四國さんが、ヒロシマの橋を描きつづけてきた、ということだけではない。四國さんの風景、四國さんの少女像、四國さんのシベリアの記億、のなかに僕はヒロシマの川のせせらぎの音を聞き、川底にいまも眠っているであろう被爆瓦の火泡の傷痕を見るのだ。
 僕が四國さんを知ったのは、峠三吉らが拠った「われらの詩」の詩運動のなかでであった。僕らは皆、若かった。勿論、峠も四國五郎も、みんな輝やかな青年であった。その群像は、土屋清の『河』に見事に描かれている。目を閉じると、鮮烈な「青春のいぶき」がまなうらに浮かんでくる。四國五郎さんの画心は、その炎のような鮮烈さを、絶えることなく燃やしつづけてきた。今日、四國さんの「仕事」の凡てをふりかえることが出来るという。僕はいま、輝やかな青春に再見できることに、胸をときめかせている。(2014・10)
(「日本とユーラシア」に四國五郎さんの作品が掲載されたことがあります。)
●御庄博実様急逝の報、哀悼の意を表します。

【 磯田 道史 古今をちこち(読売新聞 2009年8月29日掲載) 】
軍部批判 命がけの色紙
 15年以上前、露天の古道具市によく行った。古道具のなかから、史料をあさる。無職の院生だから当然金はない。ポケットには1000円。こちらは身なりからして貧乏な学生。露天商は1000円渡すと、大低おつりをくれた。
 ある朝、行くと、見知らぬ露天商がいる。色紙がぎっしり詰まった段ボール箱の前に座っていた。威厳のある実にいい顔をしていた。色紙を一枚ずつ見て驚いた。「衆議院議長岡田……」とか「第七十五帝国議会……隆夫」などと書いてある。たぶん戦前の政治家の色紙だ。この2枚を買って帰って家で調べてみようと思い「幾らか」ときくと「1枚500円」とこたえた。1000円札を渡しながら「どこから仕入れたの」と尋ねると竃天商は黙った、。
家で色紙をゆっくり眺めだ、一枚の色紙は衆議院議長・岡田忠彦(1878~1958年)岡山出身、東京帝大卒、内務官僚。ひたすら組織の論理で生き出世した男だ。選挙ではなく政府の任命で39歳の着さで埼玉県知事になった。のち政界に出てナチスドイツなどを視察。国家主義を礼賛する著作を発表。.翼賛選挙後、衆議院議長に。「広心胖体(こうしんはんたい)」、心ひろければゆたかなり、と書いている。儒教の古典「犬学」の一節だが、このあと一般国民は戦争の食糧難でいくら心を広くもっても胖(ふと)れなくなった。
 もう一枚は達筆すぎて判読できない。数日後「第七十五帝国議会去感・斎藤隆夫」と読めた。だが当時の私は江戸時代研究者。斎藤隆夫が何者か恥ずかしながらよく知らなかった。そんな議員がいたかな、という程度であったから、まずは第七十五帝国議会から調べてみようと思って図書館に行った。とんでもないことがわかった。その色紙は命がけで書かれたものだったのだ。この国の憲政史上の記念物といってよい史料であった。
 昭和15年(1940年)2月2日、兵庫県出石(いずし)出身の衆院議員・斎藤隆夫は歴史に残る国会演説をした。政府軍部のすすめる大陸政策はおかしい。そもそも中国全土を日本は占領できない。泥沼化した日中戦争の目的もはっきりしない。聖戦の美名に隠れて「国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」。そう斎藤は叫んだ。本当のことだった。彼のいう通りにすれば5年後の日本敗戦はなかったろう。しかし時の国会は誤った。斎繭を国会から除名。賛成296、棄権144。反対はわずか7。斎藤の演説も議事録から削
除された。さらに斎藤には脅迫がつづいた。自決用の短刀が送りつけられ、斎藤は暗殺を覚悟した。せめて殺される前に自分の思いを記そうと思ったらしい。色紙に漢詩をしたためた。私がみつけたのはそのなかの一枚であった。
 吾が言は即ち是れ万人の声
 褒貶毀譽(ほうぼうきよ)は世評に委(まか)す
 請う百年青史の上を看る事を
 正邪曲直おのずから分明
  第七十五帝国議会去感 斎藤隆夫
 読んで涙が出てきた。斎藤は「百年後の歴史の上」をみて国を誤らぬよう命がけで自説を述べたのだ。自分は歴史家の卵だ。自分がきちんと歴史を書かねば正しいことをして不遇に終わった人物は犬死になる、と思った。それから露天商をさがした。数か月後、やっとみつけた。寒風吹きすさぶなか小さなイスに、座っていた。「先日の色紙の一枚は斎康隆夫でした。衆院議長のはただ同然ですが、斎蕨は何万円もします。500円で買ってしまって……」そういうと件(くだん)の露天商はいった。「この商売。店が客に一本とられることもあれぱ逆もある。気にせんでいい」。偉い男だと思った。(日本史家)
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1・31新潟講演集会へのおさそい

2015-01-21 23:32:08 | 日記
1・31新潟講演集会へのおさそい
 柏崎刈羽原発の6、7号機を再稼働させようという東京電力や国の動きが、さかんに伝えられています。1月22、23日には柏崎市と刈羽村の全員協議会で、東電は進行状況を報告する予定です。一方、再稼働に反対する県内各団体の活動も活発です。
 東京電力は新潟県に何の相談もなく、6、7号機にフィルターベント装置を設置して、2013年9月、原子力規制委員会に適合性審査を申請しました。原子力規制委員会は現地調査を何回かおこなっています。
 しかし、肝心の原発直下にはたくさんの断層群が見つかっており、最近のボーリング、トレンチ、立杭などの調査によって、原発敷地と周辺の地質・地盤が原発運転の条件に適合しない疑いはますます強くなってきました。

 そもそも、3年10カ月前の福島第一原発の事故については、地震と津波の関係をはじめ、未だ、判らないことだらけです。新潟県技術委員会は2013年10月から。6つの課題にしぼって福島原発事故の原因の究明を議論してきました。国会事故調が残した間題を新潟県の技術委員会で取り上げて議論しているのです。泉田新潟県知事は、福島原発事故の原因解明と総括なしには再稼働の審議にはいることほない、と姿勢を明らかにしています。その通りだとおもいます。
 
 私たち、「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」は、この年末に「ニュースレターNo.9」を発行して、現時点における柏崎刈羽脇こついての間題点を指摘しました。さらに最新の惰報もとり入れてその内容を報告し、会場からの質問にお答えしたいと講演集会を企画しました。
 ひとりでも多くのみなさんにお出で頂きたいとご案内するしだいです。
           2014年12月25日 井野博満 山口幸夫
主催: 柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会
共催: 地元の諸団体に依頼中
日時: 2015年1月31日(土)、13時30分~17時30分
会場: 新潟市万代市民会館、多目的ホール(新潟駅から徒歩7分)
    新潟市中央区東万代町9-1 TEL.025-246-7711
くプログラム>
◆講演1   田中三彦    新潟県技術委員会で議論していること
◆講演2   石橋克彦(予定) 柏崎刈羽原発の「耐震未解決問題」
◆レポート  地元の運動から 差止め裁判/学習交流会/ベントと被ばく避               難
       全国の動きから 規制委員会/大飯判決/再稼働

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「かき船を考える会」結成総会

2015-01-21 23:06:12 | 日記
「かき船を考える会」結成総会
1月24日(土)16時~18時
まちづくり市民交流プラザ北棟5階研修室C
(中区袋町6-36袋町小学校併設).

皆さんは、元安橋のたもとに、かき船「かなわ」が来ることをご存知ですか。
 広島市は、昨年11月末、現在の平和大橋の南側から元安川の南側にかき船「かなわ」を「移転」することを決定し、国に申請しました。これをうけて、国土交通省中国地方整備局は、同区域を都市・地域再生利用区域に指定。元安橋直下の河川の区画は、営業活動ができる特別区域となりました。12月には、太田川河川事務所が河川敷地占用許可を出しました。「かなわ」は近々着工を予定しているといいます。
 これら一連の事態は、多くの市民の知らない間に進められました。偶然この事実を知った「原爆犠牲ヒロシマの碑」の関係者が、広島市に決定の撤回と慎重審議を求めましたが、聞き入れられません。そこで、“原爆ドーム・平和公園地区へのかき船(水上レストラン)移転・新設間題を考える会(略称:かき船間題を考える会)"を立ち上げることにいたしました。
 平和大橋も元安橋も世界遺産「原爆ドーム」のバッファゾーン(世界遺産周辺に良好な環境を保護するための緩衝地帯)ですが、「移転」予定地は原爆ドームにより接近します。ここにかき船が来ることが、核兵器使用の惨禍を如実に伝える「人類の負の遺産」としての原爆ドームにふさわしいかどうか。日本イコモス(ユネスコの世界遺産条約に関する諮問機関)も現地調査に入りました。
 今後、広島市はどう対応するつもりでしょうか。
 皆さんに現状をお伝えし、共に考えていただきたいとの思いで「かき船問題を考える会」を計画しました。多くの方々のご参加をお頗いします。
出典「第29回水の都ひろしま推進協議会」資料(略)
1月24日(土)16時~18時
まちづくり市民交流プラザ(中区袋町6-36袋町小学校併設).
北棟5階研修室C

出典「第29回水の都ひろしま推進協議会」資料(略)
原爆ドーム・平和公園地区へのかき船(水上レストラン)移転・新設問題を考える会(仮称)
(略称:かき船問題を考える会)
呼ぴかけ人 
植木研介 広大名誉教授原爆遺跡保存懇世話人・「元大正屋呉服店を保存     する会」世話人代表
大森正信 広島県原水協筆頭代表理事
金子哲夫 広島県原水禁代表委員
宗藤尚三 日本基督教団牧師 日本宗教者平和協議会常任理事
森瀧春子 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANAWA)共同代表
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四國五郎追悼・回顧展

2015-01-21 22:32:19 | 日記
四國五郎追悼・回顧展
優しい視線・静かな怒り 四國五郎追悼・回顧展に寄せて
 ●絵にヒロシマの川の匂いがある。
 四國五郎追悼の会・呼びかけ人代表 御庄博実(詩人・医師)
 広島は川の街である。秋風が立ちはじめると、橋の欄干にもたれてのぞき込む、川面の波型は、果てしなく見飽きない。時に川岸や橋上から、竿を延ばして釣りを楽しむ牧歌的風景も、広島になじみの深い抒情であろう。そして、この川底に70年前地獄絵がくりひろげられた記憶が、いま何事もなく閉じ込められているのを、僕は悲しくもまた、耐え忍んできた人間と自然の美しさだと思う。
 四國五郎さんの絵には、そのヒロシマの川の匂いがある。
 四國さんが、ヒiコシマの橋を描きつづけてきた、ということだけではない。四國さんの風景、四國さんの少女像、四國さんのシベリアの記億、のなかに僕はヒロシマの川のせせらぎの音を聞き、川底にいまも眠っているであろう被爆瓦の火泡の傷痕を見るのだ。
 僕が四國さんを知ったのは、峠三吉らが拠った「われらの詩」の詩運動のなかでであった。僕らは皆、若かった。勿論、峠も四國五郎も、みんな輝やかな青年であった。その群像は、土屋清の『河』に見事に描かれている。目を閉じると、鮮烈な「青春のいぶき」がまなうらに浮かんでくる。四國五郎さんの画心は、その炎のような鮮烈さを、絶えることなく燃やしつづけてきた。今日、四國さんの「仕事」の凡てをふりかえることが出来るという。僕はいま、輝やかな青春に再見できることに、胸をときめかせている。(2014・10)

●衆俗の河を生きる 
画家・ガタロ(福井英二)  2014年4月某日、毎日新聞のK記者より、突然の四國五郎先生の訃報を受けた。思わず大声を発した。その後涙にむせんでまっとうに言葉が出ぬ。ごく身近な者が死んでもこれほど笑くことはなかったが、三日三晩突きくれた。なにゆえこうも悲嘆したのであろうか。
 四國先生が衆俗の中に生き、描き、詠んだ、民衆の歓び怒り哀しみに改めて自らの心に映したからである。
 美術界の現状は、衆俗の痛苦に触れぬ「象牙の塔」となって久しい。人間の営みや自然のありようを写実主義の方便で描いても、そこに何のリアリテイ・<批判精神〉のカケラもない。広島やヒロシマに在って(生きて)、二度とヒロシマを繰り返さぬための身をよじるような変革の意志や、生きざまに覚悟を持たぬのである。
 四國先生の仕事を知る所となったのは、関西方面での仕事の後、持病のため広島に帰郷した1970年後半であった。
 当時、暇にまかせ美術館、各画廊巡りをしていたが、胸を打つものはなかった。御芸術といわれるモノにふれても、一向にわからぬ。つまりは自己の根城(ヒロシマ)が無いのである。生きていることの根拠が見えぬのである。
 そんな中、四國先生は大路(メインストリート)はもとより、小路、路地、横道、広島の川、広島の橋をしらみつぶしにスケッチされていた。その作品の発表の場も、銀行ロビーから喫茶店、人々が集まる場所ならどこでも、なりふりかまわず発現する。これは戦後まもなく、街中に出て発現した「ちちをかえせははをかえせ」の詩人・峠三吉等の辻詩を原点としていた。
 四國先生はその才を愚直にふららに、私等が呼吸(いき)するように発現したのである。眼球と手と足で、広島やヒロシマをなぞるように確認されたのである。手で思考する人であった。
 ある日、宇品港からの帰路、比治山矯のたもとに立ち、一心にスケッチしている小躯の四國先生の姿が目に入った。もう黄昏時の冬の空の下。私はうたれた。なさけなかった。自分は今日一日何をしたのか。一同を棒にふる日暮しを送っていた。
 海を慰みとしても、そこに立ち何も描いていない自分が無性になさけなかった。以後、土着に生きた四國先生のカバン持ちになると決めた。無論、四國先生はカバン持ちも弟子もとらぬ人であったが、私は、毎日新聞のK記者に「四國先生のカバン持ちをしている」と言った。翌日の新聞にそのことが載った。風聞そのことが波紋をよんだが、四國先生は「フクイ君はオモシロイ」とあちらで笑っておられることだろう。四國先生はそんな人であった。
 既に鬼籍に入られた文豪井上ひさし氏は「難しいことをやさしく、やさしいことを深く」と言われた。これは四國先生に通底する名言である。(2014・8・17)

*〈平和の→株>として多くの皆さま方の志金を募っています。
展示予告2015年4月8日~20日旧・日銀広島支店(電停・袋町)
午前10時~午後5時
四國五郎「追悼」の会
(広島市中区本川2丁目1-29-301電話・FAX082-291-7615)
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被爆70年 市民の力で「原爆の図」をアメリカへ

2015-01-08 21:30:07 | 日記
●被爆70年 市民の力で「原爆の図」をアメリカへ
公益財団法人原爆の図丸木美術館・アメリカン大学ピーター・カズニック
2015年6月から8月、丸木位里・俊の「原爆の図」6作品をワシントンのアメリカン大学美術館で展示します。(その後米国内2都市で展示予定)今もアメリカでは、兵士の犠牲を減らすために原爆投下は必要だったと考えられています。しかし「原爆の図」に向き合う中で、原爆が人間に何をもたらしたのかを直視すれば、人類が今後も核を保有して良いのかという問いが生まれるでしょう。この展覧会は、オリバー・ストーン監督と共に「原爆投下は誤りだった」と訴えている歴史学者ピーター・カズニックとの協同の企画です。それを日本の多くの市民のカで実現し、核廃絶への願いを届けたいと思います。ご協力をお願いします。

●丸木位里(1901~1995)・俊(1912~2000〕夫妻は、原爆が広島を壊滅させた3日後、位里の両親の住む広島に入り、破壊と絶望の情景を目の当たりにしながら救援活動に尽力しました。その後1950年から82年にかけて「原爆の図」全15部を描きました。きのこ雲の下で人間がどのような悲惨な状況におかれたのかを示したこの図は、日本だけでなく60年代に世界各地で展示され、多くの人々に原爆の実相を伝えてきました。しかし今も核保有国は抑止力という脅しのための核を手放しません。それに対し、核の残虐性・非人道性という原点に立ち返り核不使用条約制定を目指す非保有国125カ国の大きな取り組みが始まっています。2015年春のNPT(核不拡散条約)再検討会議は両者のせめぎ合いになるでしょう。「生きているうちに核廃絶を」と願う被爆者の方々も多数訪米し訴えます。この取り組みと連帯し、芸術を通して人々の心に深く訴えるためにr原爆の図」展を開催します。
展覧会では、第1部「幽霊」、第2部「火」などとともに、原爆後日本人に殺された米兵を描いた第13部「米兵捕虜の死」、死んでもなお差別された朝鮮人被爆者を描いた第14部「からす」も展示します。1970年のアメリカ展で市民から日本の戦争責任を問われたことを契機に、丸木夫妻はこの2作品を描きました。この夫妻の歩みは日本における加害責任の自覚の先駆けでした。今、歴史認識を巡って、事実に向き合おうとしない言説が声だかに語られている中で、これらの図は、事実を直視し、歴史に誠実に向き合ってきた丸木夫妻を始めとする日本の人々の歩みをアメリカの市民に伝えるでしょう。そのことが日米の市民のより深い対話へとつながることを願っています。

“位里と俊が行ってみせたように,怒り怒りとしてだけでなく悲劇の感党と複雑さを伴うイメージとして堤示される時、歴史の記憶は捧かなものとなる。"ジョン・ダワー「戦争と平和と美ー丸木位理里と丸木俊の芸術」1988
●《お願い》
必要経費約1000万円(輸送費・保険料、資料作成、関連展示費)を募金でまかないます。募金は1口1000円です。10000円以上募金の方には終了後報告集を送付します。
主催:原爆の図丸木美術館アメリカン大学美術館
企画・制作:早川与志子岡村幸宣
《問い合わせ先》公益財団法人原爆の図丸木美術館
        355-0076東松山市下唐子1401
        TEL:0493-22-3266
        FAX10493-24-8371
        メール:marukimsn@aya.orJp

●私たちも賛同します
原水爆禁止日本国民会議 日本力トリック正義と平和協議会 平和を実現するキリスト者ネット 日本YWCA 田中煕巳(日本原水爆被害者団体協議会事務局長) 沢田昭二(原水爆禁止日本協議会代表理事) 伴英幸(原子力資料情報室共同代表) 森瀧春子(核兵器廃絶を目指す広島の会共同代表) 川崎哲(ピースボート共同代表) 川崎昭r郎(第五福竜丸平和協会代表理事) 大石又七(元第五福竜丸乗組員) 近藤紘子 秋葉忠利 スティーブン・リーパー 梅原猛 瀬戸内寂聴 加藤登紀子 アーサー・ビナード 小沼通二 池内了 安斎育郎 今中哲二 鎌田慧 落合恵子 ジャン・ユンカーマン 石川文洋 中村梧郎 大石芳野 豊田直巳 本橋成一 鎌仲ひ
とみ 三上智恵 アイリーン・美緒子・スミス 高橋哲哉 藤岡惇 比屋根照夫 岡真 理島薗進 鎌田東二 梅原利夫 関千枝子 外岡秀俊 村田光平 崎山比早子 高橋卓志 石川逸子 小沢節子 上野健爾
賛同者全員は丸木美術館のHPで紹介しています。


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