主の平和 

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主イエスのご復活の喜びがいつも私たちの心のうちに

2017年04月30日 | 日記

主の平和

イースター おめでとうございます。

挨拶が遅れても 主イエスのご復活の喜びは いつも私たちの心のうちにとどめていたいと思います。

下記は、日本語英国教会ニュースレター 第86号 から

復活 と 信仰

司祭 竹内謙太郎


幾つかの前提からキリスト教について改めて考えてみたいと思います。キリスト教会には独特の暦があります。教会暦と申します。実は現在私たちが用いている西暦という暦がそれです。今年は2017年ですが、これは主イエス・キリストの生誕2017年という意味です。しかし、年号だけでなく、特にキリスト教会はすべての時間を主イエス・キリストのご生涯との関係において理解しようとしています。その関係を最も端的に示しているのがイースター、復活日の設定でしょう。キリスト教会は古くから、復活日の期日を主イエス・キリストの処刑とその3日後の復活が実現した事実を当時のユダヤ暦を基本として現在の暦の設定に当てはめて、復活日は3月21日以後の満月の後の最初の主日(日曜日)である、としています。そこからさかのぼって主イエス・キリストの処刑の日、エルサレム入城などのイエス様の事績を教会暦に記録して、主イエス・キリストの誕生(クリスマス)とその準備の季節(降臨節Advent)にいたります。。そしてその降臨節の最初の主日(日曜日)を教会暦の年間の最初の日(教会暦の元旦にあたる)と定めております。このような教会暦における祝日の決め方において復活日は毎年異なる日となりますので、移動祝日とも呼んでおります。
このように主イエス・キリストのご生涯の出来事に基づいて定める教会暦はまさに、主イエス・キリストのご生涯の歩みをそのままたどるという大切な意味、つまり、私たちに対して教会は主イエス・キリストと共にこの世界における日々を過ごしなさいと、教えているのです。主イエス・キリストのご生涯とその行動を共にしなさいという意味でもあります。そしてその中心に復活という事実があるのです。
私たちはそこで主イエス・キリスト誕生の記念であるクリスマスの準備の期間である降臨節の最初の主日から四つの日曜日を経てクリスマスを迎えますが、ここから私たちが主イエス・キリストと共にこの世界を歩む旅が始まります。ここで申します主イエス・キリストと共に歩むということをもって、私たちは信仰があると言います。信仰とは、何かを本当だ、という思いを持つということではなく、私たちが信仰する事、或いは人、と共に、生きようとすることを意味します。主イエス・キリストを信じるということは主イエス・キリストと共に生きよう、ともに歩こう、主イエス・キリストとともに同じにしようとすることです。ですから もし私たちが主イエス・キリストと同じ生き方ができたら、なんとすばらしいことだろうと願うのです。初代のクリスチャンたちが迫害にあった時、すすんで十字架刑を望んだと伝えられていますが、それは明らかに主イエス・キリストと同じ死に方ができたらと願う彼らの思いを示しています。初代のクリスチャンたちは無事に信仰生活を全うできることを望んでおりましたが、同時に、処刑されるのであれば十字架刑を望んだのでした。究極的な主イエス・キリストと共に、の在り方でしたから。
そのように主イエス・キリストと共に、という信仰の在り方は同時に、主イエス・キリストの死と共にすると共に、主イエス・キリストの復活を共にするという事でもありました。主イエス・キリストが「私を信じる者は死なない、死んでも生きる」と言われたことは、「私と共にいる者は私と共に生きる」いう事なのです。
私たちは私たちの復活を信じます。それは私たちは死なない、私たちの命に限りはない、という意味でもあります。命には限りはありません。何故なら、私たちが得ている命とは、私たちが一人一人この世に送り出されてきた時、私たちを生かす父である神の命のかけらをいただいてくるのです。私たちはですから父から命を分け与えられているのです。基がなければ私たちの命には何の意味もありせん、基である父なる神から分けていただくのです。その命には神が永遠であるように、永遠なのです。絶えることはありません。絶えることはないからこそ、その表れとしての復活という事実があるのです。主イエス・キリストはその重大な事実をご自分のご生涯によって私たちに示してくださいました。それは「お前たちも私と同様に復活するのだ」というメッセージだったのです。
私たちが主イエス・キリストと共に生きようとすることが、主イエス・キリストと共に生涯の在り方を共にさせていただけるのです。クリスチャンになるということはそういうことです。主イエス・キリストと共に歩こうとすることです。現代は主イエス・キリストの生きられた時代とは大きく変わっていますが、人間の思い、愛、憎しみ、などには何の変化もありません。聖書に示されたような、日々との生き方は現代でも全く同じです。ですから私たちは主イエス・キリストの生き方を共にできるのではないでしょうか。キリスト教の信仰とは、主イエス・キリストと共に生きようとすることなのだ、どうか、この大切な私たち自身の生き方を振り返ってください。

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下記は、レント 大斎節の黙想会で みたオブジェクトです。
イエスが私達みんなの為に 流された血 -- イエスは、自らの体をもって、私たちの苦悩、苦痛を体験されました。
主イエスは、私達が 苦しい時も 共におられること、いつも 覚えていたいものです。

そして 復活は 死に打ち勝った、イエスが私たちに 真の喜びをもたらしたことを覚えていたいものです。
主の豊かなる恵みが 皆様と共に
Yuki