Doubting Thomas
園田先生から
トマスは疑うトマスとして、駄目弟子のように受け取られがちですが、むしろ、私たちの大多数を代表してくれている大切な弟子だと私は思います。
最初のイースターは喜びの日と言うより、恐れの日でした。自分たちも逮捕されるのではないかと、弟子たちは恐怖に襲われ部屋に閉じこもっていました。10人で何の話をしていたのでしょう。マグダラのマリアの言葉を信用していいのか。ペテロともう一人の弟子が墓に行っら空だったと言うけど本当か。
そこに予告なしに、イエスが真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。ヘブライ語ではシャロームです。Whole完全という意味もあるので、全くなれ。健全であれ。元気をだせ。無事であれ。
弟子たちは動揺していました。乱れていました。恐れていました。その時イエスはシャロームと言って、見せてくれと言われないのに率先して、手とわき腹をお見せになりました。主を見た弟子たちは大喜びでした。安心しました。主が一緒ならもう大丈夫だ。
しかし、ただ安心させるために来られたのではありません。目的があったのです。イエスは繰り返してシャロームと言い、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われました。
恐れて部屋に閉じこもっている時ではない。私の使者として出て行って、私が父から頂いた使命を受け継いでくれ。イエスが派遣するのは世の中にです。宣教はその一部です。癒したり、助けたり、励ましたり、他者のために生きるためです。
そして、息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言って罪を許す権威をお与えになりました。社会の問題は差別と阻害の壁にあります。これを乗り越えるためには赦しが必要です。創世記によると、最初の人間アダムは息を吹きかけることによって造られました。しかし罪にまみれた世界はキリストにある新しい創造を必要としています。神の業は連鎖反応です。遣わされたものが遣わし、また遣わすのです。
トマスは復活の日には、不在でした。ほかの弟子たちの言うことは信じられない。釘跡や槍跡の傷を目で見るだけでも足りない。自分の指や手を入れて見なければ信じられない。ことは疑うことから始まるという弟子でした。トマスが最初の日ほかの弟子たちと一緒にいたら素直に信じたでしょうか。彼は後から信者になる者を代表してくれたのだと私は感謝しています。
一週間後にはトマスもいました。シャロームのあと、イエスはトマスだけに語りかけます。願う通りにしなさい。指と手を入れなさい、ただ信じる者になりなさい。最初の時もそうでしたが、戸が閉まっているのにイエスが部屋に入れたということは何を意味するのでしょうか。この出来事が普通のレベルのものではないことを暗示しています。特別な神聖な場での出来事です。
トマスは『わたしの主、わたしの神よ』と叫びました。
トマスは指を釘跡に入れたのか、手をわき腹にいれたのか。肉体的な接触があったのかは知らされていません。起こったのは信仰の接触でした。信仰を通しての告白がクライマックスです。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」
初代教会のあと信仰に入った者は皆、見ないで信じなければならない人たちです。しかし同じ証拠を見ても信じる人と信じない人に分かれます。その違いはどうして起こるのでしょう。身体障害があるから神も仏もあるものかと言って信じない人がある一方、身体障害があるけど信じるという人がいます。
問題はどのレベルで信じるのかです。Human levelかDivine levelか?Physical levelかSpiritual levelか?これはキリストに息を吹きかけられ新しい人間と造りかえられ、聖霊の導きがなければ起こり得ないことなのでしょう。
イエスがここに立たれたら、今も、「シャローム。平和あれ。健全になれ。信じる者になれ。わたしが父から遣わされたように、わたしもあなたを遣わす。人を赦し隣人のために生きろ」と言われうでしょう。
皆さんはどう答えますか。
(4月15日のお説教のメモから寄稿)