上にあるものを求めながら
前回のお説教の要約
園田先生から
イエスの生涯に関するストーリの初めと終わりには普通考えられないことが出てきます。処女降誕と復活の話です。単なる蘇生ではない。墓が空になり、遺体が何処にも見つからない。しかも、閉ざされた部屋にも入って来れる体のイエス。どんな体で甦ったのか、私には想像もつきません。しかし幸いなことに、焦点は弟子たちのイエスとの出会いにあります。
ルカ伝によると、エマオに向かった二人の弟子は「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」とあります。(24:30-31)イエスの復活は信仰の目にしか見えないものなのです。
今日の日課の使徒言行録10章34-43節はペテロが異邦人のコルネリウスの家で福音を告げた時の話です。「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と3度も聞かされたペテロはコルネリウスの家に行きました。そうすることによって、彼は神が人を分け隔てないこと、キリストがすべての人の主だと言うことを経験したのです。
「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、ご一緒に食事をしたわたしたちに対してです」。この食事は聖餐式をさしているのでしょう。キリストの体と血、パンとぶどう酒。イエスに出会い十字架の死と復活による罪の赦しを知ったのです。
使徒信経では「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信じます」と唱えます。死んだあとキリストのように復活する。でもそれは世の終わりの話です。今毎日を生きている私達にとって復活の意義は何なのでしょうか。
コロサイ書3章にはこうあります。「あなたがたは、キリストと共に復活させらたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」
キリストと共に死んで、キリストと共に甦る。これは洗礼式の経験です。パウロはローマ書6章でこう言っています。「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」
ピリピ書3章でパウロは次のように言っています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
二千年前本当に何が起こったのか。復活については分からないことが沢山あります。しかし、大切なのは今をどう生きるかです。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめ 上を見ながら目標を目指して走り続けようではありませんか(ヘブル12:2)。