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"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

大峰奥駈けの道 Ⅳ-①

2008-09-21 23:19:27 | 

     今回のスタート地点 池原バス停

 

   大峰奥駈の道 Ⅳ-①


  二〇〇七年五月四日から七日にかけてゴールデンウィークを利用し、連れ合いと次女とで大峰奥駈け第四弾に挑戦した。今回の山行は前回と同じく「行仙岳」登山口から南奥駈け道に上り、三叉路から前回とは逆に南方面へと行き「行仙宿山小屋」に一泊。ただし、前回の「総括」から登山口まで歩くのはやめて、タクシーのお世話になることとした。二泊目は「玉置神社」でここは奥駈け道の登山者や修行者しか宿泊ができず、食事も提供しないためにあらかじめファックスで予約を入れてある。「玉置神社」から最終日には熊野本宮まで至り、大峰奥駈けのファイナルを達成し、三泊目は「湯の峰温泉 湯の峯荘」で打ち上げをしようという計画である。


今回は池原バス停から行仙岳登山口まではタクシーで。

行仙宿山小屋では心のこもったおもてなしを受ける

 
 五月四日朝四時三十分起床、昼ごはんのおにぎりを作り、お茶沸しやおかずのゆで卵作りをはじめる。連れ合いと次女も起きだして準備も整い六時三十五分に出発。六時四十二分の阪急電車に乗り、地下鉄に乗り継いで天王寺へ、そこから連絡している近鉄「あべの橋駅」から吉野線に乗車、大和上市へと行く。九時十八分大和上市着。上市の駅前は、大峰山脈や大台ケ原へ入山する人のバス待ちで結構にぎわっている。駅前の駐在所では「登山届け」を出すように、警察官や奈良交通の職員さんが大声で案内している。駅前のコンビニというより雑貨屋さんで忘れてきたタオルを仕入れ、十時二十五分発の「湯盛温泉杉の湯」行きの奈良交通バスを待つ。大台ケ原をはじめそれぞれの行き先へのバスに待合の客が乗り込み、駅前の喧騒も徐々に静かになってきて、やがてバスが到着し、我が一行と他の二パーティが乗り込み、駅前再び静かになった。

 九時五十四分発のバスはいつもの国道百六十九号線をひた走り、宮滝大橋でいったん吉野川を渡り、山道に入る。しばらく行くと再び吉野川沿いを走り、十時二十五分に「湯盛温泉杉の湯」バス停に到着、乗り継ぎのバスを待った。乗り継ぎの十時五十六分発の「桑原行き」のバスには先ほどのパーティのうち一パーティが相乗りし、再び国道百六十九号を新宮方面へと走った。途中「前鬼口バス停」で他のパーティが下車し、バスはわが一行だけを乗せて、池原ダムサイトを通り過ぎ国道四百二十五号線に入り、十二時十五分過ぎに「池原バス停」に到着した。今回の山行は前回の反省にたって、ただただ時間と疲労がかさむだけで、いまいち充実感に乏しい国道歩きは止めて、行仙岳登山口までタクシーで行くこととした。予約の池原タクシーさんとの待ち合わせ場所が「池原バス停」である。バス停は六帖ぐらいの建物があり、中には待合のベンチも置かれてあり、そこで家から持参の弁当を連れ合い、次女と一緒に食べてタクシーを待った。

 十三時に池原タクシーさんが来て、わが一行はそれに乗り込み一路「行仙岳登山口」へと向かった。

十三時三十分に「行仙岳登山口」に到着し、車を降りて三人は入念にストレッチをし、十三時四十五分、いよいよ登山開始で登山口の梯子に取り付いた。いつもの階段登りのスタート。

 一アルバイトの末、十四時三十分に南奥駈け道の銃走路との出会いの鞍部に到着、進路を左へと取り「行仙宿山小屋」へと向かう。十四時五十分「行仙岳山小屋」へ到着。山小屋には「新宮山彦の会」の女性の方が居られ、掃除や片づけをされていた。山小屋は通常は無人小屋なのだが、よく手入れされ、トイレもきれいに掃除がされてあり、「山彦の会」の皆さん方の日ごろのご努力に本当に感謝と尊敬の思いがした。やがて「山彦の会」のYさんが十分程山小屋から下がったところにある水場から水を汲んで帰ってこられた。しばし、山談義。

 

   笠捨山山頂

 

 そのうちに他の登山者も続々と山小屋にやって来た。「山彦の会」のもう一人の男性が水場へ水を汲みに行っていたが小屋に戻ってきたり、なんと本日「山上ヶ岳」からここまでやって来たおそらく距離にして五十五キロメートルは歩いてきた山岳マラソン系の登山者、東京からの単独行の登山者、京都の大学の先生と教え子の青年のパーティ、ほかのパーティ等で総勢十三人とにぎやかになった。全員が水の補給に水汲みに行き、そこここで自己紹介やら山談義に話が弾んだ。山岳マラソン系は明日午前二時に出発して明日中に熊野本宮まで行くという強烈な日程であったり、お茶は利尿作用があり水分補給にはならないので飲まないとか、サプリメントは何がいいとか、さまざまな薀蓄。教え子の青年は大阪の会社社長の御曹司で、帰りはお父さんが車で適当なところまで迎えに来るとのこと。

 いろんな話をしているうちに「山彦の会」のYさんが

「山菜の天婦羅を作りましょう。この辺ではコシアブラやタラノメが採れます。」

 とのこと。そういって山菜採りに出かけられた。やがて山菜を摘み戻ってきて連れ合いや次女も手伝い天婦羅作りが始まった。しばらくすると小屋中に天婦羅の香りが漂いだし、一同そちらに気が行き、話題も「美味そうやね」「この辺ではきのこもたくさん採れる」とか、食べるほうに移ってくる。

  「そうだ、ビールもあるんですよ。」

Yさんに言われたとき、二人連れパーティの歓声以外一同なぜか沈黙。みんなとっても嬉しいのだが、ここは「営業小屋」ではなく「無人小屋」、それも林道の終点からは歩いて一時間以上ボッカして荷物を担ぎ上げなくてはならないその苦労に、なんだかとっても申し訳ない気持ちがしたのだろう。

ともあれ、全員で乾杯し、それぞれの夕食のおかずに山菜の天婦羅、そして一人一本だけど、まったく思いだにしなかった心のこもったビールを飲んで、それぞれ明日に備え、さっさと片付けて就寝した。

                                        (続く)                                      

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大峰奥駈けの道 Ⅲ-④

2008-05-21 20:35:45 | 
  太古の辻の道標

             大峰奥駈けの道 Ⅲ-④

 十二時五十五分には「奥守岳」(標高千五百十メートル)のピーク、さらに十三時二十分に「天狗山」(標高千五百三十六・八メートル)着。「天狗山」は今回の山行でもっとも標高の高いピークである。更に十四時三十五分「蘇莫岳(そばくだけ)」にいたる。ここからは北東側に谷を挟んで前鬼の五百羅漢が望まれる。


   この山行中の最高峰 天狗山 山頂

 十五時ちょうどに「太古の辻」に到着。ここは見慣れた風景だ。「南奥駈け道」を「逆打ち」して辿り着いた。北の方は、「釈迦が岳」からの下り急斜面や「深仙の宿」が広がる。南は今歩いてきた南奥駈け道、「蘇莫岳」、東へは前鬼谷。今回の山行はここで一応尾根歩きを離れ、前鬼へと谷を下っていく。我々一行は「太古の辻」で、いつものようにたくさんの記念撮影をして、十五時二十分に前鬼谷を下りだした。谷の道であり日が早く翳って薄暗くなった谷筋を歩き続け、十七時に本日の宿舎「前鬼小仲坊」に到着。母屋の方に回って、前鬼を守っておられるオーナーの五鬼助(ごきじょ)さんと五鬼助さんの奥さんと一年ぶりの再開を喜び合った。前鬼には五鬼助さんと親しい地元に集まるお仲間さんが5名来ておられ母屋で和気藹々のおしゃべり。今夜の宿泊は母屋に泊まられる「お仲間さん」と小仲坊に泊まる東京からの単独行の登山者とわれわれ一行の9名。夕食のときに話していたが、奥さんは京都のある女子大学の大学院に、社会人学生として通っておられ、京都の歴史や文学等を学んでおられるとのことで、その向学心と御意欲に、大いに敬服した。


  前鬼川の五百羅漢


バスで下北山村役場に戻る。「きなりの湯」で汗を流し、今回の山行の終わり


 八月十五日は朝五時過ぎに起床し、前鬼の周辺の里山や五鬼の屋敷跡などを散歩して回った。小仲坊は真夏というのに快適な寝心地で、連れ合いと次女はまだよく寝ていた。六時過ぎに小仲坊に戻ると二人は起きており、片付けと出発のために荷物を整えた後母屋に回り、七時に朝食を頂いた。水がおいしいから、ご飯も味噌汁ももちろんおかずも大変おいしい。

 朝食後、八時五分に前鬼を出発。延々と前鬼林道歩きのスタート。昨年通った時に台風によって崩落していた箇所が修復されており、一安心した。

 前鬼トンネルを過ぎ、九時十五分に「不動七重の滝展望台」着。滝への遊歩道はいまだ荒れていて「通行止め」となっている。九時四十分には「前鬼山 不動の湯」の看板がある「西の谷」着。二十分の休憩。十時二十五分「大鷲谷」を過ぎ、十一時五分に国道百六十九号線との出合いにある「前鬼口バス停」に到着した。バス停で荷物を解き、前鬼から持ってきた水で昼食のラーメンを作り、食後はインスタントのコーヒーを飲んだ。水がおいしいので、ラーメンもコーヒーも大変おいしかった。

 食後、荷物を片付けバスを待った。十二時二十一分「上桑原行き(杉の湯から新宮方面へのバス)」の奈良交通バスに乗車。十二時四十八分自家用車を駐車してある「下北山村役場」に到着。駐車場でわが一行三人は登山の荷物を解いて、村役場に駐車のお礼と下山の挨拶に出向いた。お盆の最中にもかかわらず職員さんが多く出勤しておられ、丁寧に対応していただいた。

 十二時四十八分に村役場を出発。一路池原ダムのダムサイトにある整備されたキャンプ場、その中にある「きなりの湯」を目指した。「きなりの湯」は天然温泉で、ここに浸って今回の山行の疲れを癒していこう、とくに私は「病み上がり」だからということで、そういう計画となった。十四時二十分に「きなりの湯」着。十五時五十分までゆっくりし、家で待つ孫たちへの土産も買い揃え、帰路へと着いた。

                                                                     (完)                                                        



     

       


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大峰奥駈けの道 Ⅲ-③

2008-05-11 15:05:18 | 

      大峰奥駈けの道 Ⅲ-③

 般若岳からの台高山脈

 

 今夜の「持経の宿」山小屋はわれらファミリーの独占で、広々してのんびりできるなと思いつつ、今夜の食事の準備。十八時頃に薄暗くなりかけてきた小屋の外でバーナーで明日のお茶を大量に沸かし、ご飯とカレーをあっためていると、尾根筋の道からザーッという笹をかきわける音がした。一瞬何か動物かと思い、多少緊張しつつ音の方を見ると、

  「こんにちは」

 と、大峰奥駈け縦走の登山者が降りてきた。四名のパーティだった。

 

 持経の宿山小屋の内部

 

  小屋の中で一緒に夕食を食べながら話す。四名パーティは女性一名を含み学校の教員仲間を中心に山岳マラソンに挑んでいるとのこと。今回は本日の朝「行者還」の登山口から登りだし、「弥山」「八経ヶ岳」を越え「釈迦ヶ岳」「太古の辻」を越えて「持経の宿」まで来たとのこと。明日は南奥駈け道を「玉置神社」まで行くとのこと。「玉置神社」にはお仲間が車で迎えに来ているとのことだが、二十三キロメートル程あろうかと思うが、かなりの荷物を担いで、結構な体力だと感心する。

  小屋も総勢七名となりにぎやかにはなったが、お互い明朝も早いので八時過ぎに一同就寝。

 いくつものピークを越え「太古の辻」から前鬼へと。炎天下の登山で「病み上がり」の身にはきつく、バテバテ・・・

 八月十四日は朝五時三十分起床。朝食のパンやスープなどを食べ出発準備。同宿のパーティーは五時頃にはすでに出発している。わが一行は小屋の片付けと簡単に掃除を済ませ、七時に出発。

 七時三十三分、「阿須迦利岳」(標高千二百五十一メートル)着、小休止。天候は今のところ薄曇でそんなに暑くはない。大峰奥駈け道はピークや要所には石碑や標識はあるが、そのポイントへ行くまでは、忠実に尾根筋を辿るのだが、何しろ明瞭な道がない。ある程度以上の「山慣れ」した「感」と地図の読図能力はこの参考には必須である。尾根筋の藪漕ぎの連続で、このピークからも背丈の高さの藪漕ぎであり、おまけに二ヵ所の鎖場あった。多少の難儀のあと、八時十五分に「証誠無漏岳(しょうじょうむろうだけ)」(標高千三百一メートル)着。この頂上は藪が刈られ大峰山脈の眺望が好くはるか北方に「弥山」「八剣岳」が連なって望まれる。しばし小休止で眺望を満喫した後再び藪漕ぎの道。八時五十五分に「涅槃岳」(標高千三百七十五・九メートル)着、小休止。天候が晴れ上がってきていよいよ炎天下、暑くなってきた。昨日用意しておいたお茶を「ガブガブ」と飲んで、九時二十五分「剣光門・拝み返りの宿跡」、十時五分「滝川の辻」通過。ここには古びた木製の標識がある。

 

 剣光門拝み返りの宿跡

               と 滝川の辻

 

 更に尾根筋の道を辿り、十時二十五分「般若岳」(標高千三百二十八メートル)のピーク着。ここは北東側に台高山脈の山並みの眺望が開ける。「日出ケ岳」や連なる山並みがきれいに見える。しばし眺望を楽しんだ。更に尾根を辿り、十一時五分「地蔵岳」(標高千四百六十四メートル)、十一時四十五分には「嫁越峠」を超えた。天候は昨日の午前同様快晴となってきて、真夏の太陽が照り付け、一定の標高はあるものの「暑い・熱い」。私は「病み上がり」のせいか、上り坂になると次女、連れ合いに遅れをとり「バテバテ」の状態となる。情けない。

「昼飯休憩にしようか」

 私のほうから、「奥守岳」の登りにかかったところでみんなに声をかけ十二時五分に昼食とした。昼食はいつものように行動食のロールパンとチーズとウィンナー。斜面にもたれかかるようになって食べていると単独行の登山者が上の方から降りて来て挨拶を交わす。炎天下お茶で流し込むようにさらにパンを食べ続けていると、しばらくするとまたひとり上のほうから登山者が降りて来た。しかし、今度はどうも様子がおかしい。「フラフラ」のようだ。大学生位の感じで、やがて我が一行が昼食を食べている所に朦朧としながらやってきた。

 「すみません。水・・・ください・・・」

 次女

 「どうぞ、大丈夫ですか。」

 といって水を差し出すと、飛びつくように飲み始めた。次女は飲みかけではあったがペットボトルごとのお茶を「進呈」した。ここから先「持経の宿」までは水場が全くないことや、「持経の宿」に備蓄の水が置いてあるし、十分ほど林道を下がると湧き水の水場があること、しかしここから四時間はかかることなどを教え、大変気にはなったが彼の後姿を見送った。いろんなことが一気にあったが十二時四十五分に、再び荷物を整え出発。

                                                                       (続く)

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大峰奥駈けの道 Ⅲ-②

2008-04-26 16:19:15 | 

    大峰奥駈けの道 Ⅲ-②

真夏の照りつける太陽の下、行仙岳登山口から尾根に出て南奥駈け道を「逆打ち」し「持経の宿」まで

 

 行仙岳登山道と南奥駈け道の三叉路

 下北山村役場からは行仙岳登山口まで、 ひたすら国道四百二十五線を延々と歩く。登山地図では二時間三十分ぐらいの歩きと書いてあるが、さて歩き出すと真夏の炎天下、暑い暑い。最初のうちは下北 山村の集落の中を歩き、墓参りの村のお爺さんに缶コーヒを戴いたりしてのんびりと歩いていたが、段々と傾斜が急になり、ヘアピンカーブが続き、日陰の木立 が途切れるようになってきて、ジリジリと真夏の太陽が照りつけ猛烈な暑さ。たまらず九時、九時五十五分、十時三十五分と立て続けに「水休憩」をとった。今 回は無人小屋泊まりで、一応小屋の近くに水場の印はしてはあるが、念のため水・茶をたっぷりと持ってきており、それがまたザックの重みとなって大変結構な アルバイトとなった。国道四百二十五号線は一応国道ではあるが、あちこちに大小の落石や崖崩れの跡があり、落石が来ないか時々は十分気を使って登っていっ た。

 十一時十五分、ようやく国道のトンネル手前の行仙岳登山口に到着。

「これは歩いて登るところではない。今度来る時は下からタクシーで登ろう。」

などと言いながら小休憩の後、国道に架けてあるアルミの梯子を上り、十一時二十五分にいよいよ山道へと踏み出した。

 右前方の尾根上にはっきりと見えている 電波の反射板鉄塔が行仙岳頂上である。山道に入ったが、そこからは木組みの階段が延々と続いている。この道は携帯電話が通じるようでそれを時々確認しなが ら三十分ほどの「階段登りアルバイト」の末、南奥駈け道にぶつかる三叉路に到着。後ろに続く連れ合いと次女に、

 「おおい、奥駈け道に着いたよ」

 と、声をかける。連れ合いと次女の到着 を待ち、再び三人揃って三叉路を右へ、北の方向へと歩き出し間もなく十二時ちょうどに「行仙岳」(標高千二百二十七メートル)頂上着。五分間の小休止。国 道四百二十五号線を延々と歩いてきたときは、猛烈な炎天下であったが、尾根筋を歩き出しているうちに空模様が怪しくなってきた。十二時二十分に祠の残る 「怒田(ぬた)の宿跡」に到着し、雨の本降り前に昼食とした。昼食は「民宿紺ちゃん」で作ってもらった弁当をおいしくいただいた。

昼食後に小雨が降り出してきて、わが一行 はとりあえずリュックサックにザックカバーをかけて出発した。相変わらず、道というより尾根上の「踏み跡」を懸命に辿り薮漕ぎを続けるといった山行だ。と にかく尾根をはずしてはいけない。連れ合いと次女は元気に先行するが、道をはずさないように下から声をかける。私は多少身体が重い。「病み上がり」のせい か・・・。

 

 倶利迦羅岳の山頂

  十 三時五十分に「倶梨伽羅岳」(標高千二百五十二メートル)到着、小休憩。さらに歩き続け、水休憩などを取りながら、十四時五十分に「転法輪岳」(標高千二 百八十一メートル)着。この山は素直で登り易い山だった。さらに歩き続け十五時二十分、無人小屋の「正治の宿」着。道の東側に広場があり、そこに無人小屋 とはいえこぎれいな小屋がある。次女が

  「ちょっと見てくる」

  とのことで、小屋を覗きに行ったが、ほどなく

  「ひゃー」

  といって戻ってきた。小屋の中で男性の単独行の人が着替え中だったとのこと。

  さ て、「正治の宿」からさらに三~四の小ピークを越え、十六時十分に土道の林道に出てきた。林道を右に行くと三叉路にぶつかり、そこを左手に行くと本日の宿 泊地「持経の宿」がある。十六時二十分「持経の宿」着、本日の寝所だ。わが一行以外には他の登山者はおらず、今晩はゆっくりできそうだ。「持経の宿」も無 人小屋だがきれいに整理されており、トイレもきれいに掃除がされている。プラスチック容器に置き水もありそれぞれ番号ごとに、水の採取日が黒板に書かれて ある。小屋の管理をされている「新宮山彦の会」の皆さんの日頃のご努力に、本当に敬意を表し、極力汚さないようにと気を付けるようにした。

 

 持経の宿山小屋

 小屋の前には丸太で作った簡単な食卓と 椅子がある。林道に戻って十分ほど下がっていくと水場がある。細々とした湧水の流れだが、湧水独特の甘味があって大変おいしい水だった。本日は途中から雨 模様となったが、アプローチの炎天下に大量の水を飲んだので、明日に備え大量のお茶を作るのと夕食用に合計六リットルの水を汲んで小屋へ戻った。交代で連 れ合いと次女が水場へといって体を拭き、ペットボトルに水を入れて持ち帰ってきた。

                    (続く)

 

 

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大峰奥駈けの道 Ⅲ-①

2008-04-26 15:55:25 | 

 

        大峰奥駈けの道 Ⅲ-①

  般若岳の尾根から大高山脈を遠望

 

 二〇〇六年八月、仕事の夏期休暇を利用して、いよいよ大峰奥駈の道③を目指す。昨年までの二回の「大峰奥駈け」で、連れ合いと次女同伴のため「女人禁制」である山上ケ岳を捲いて、太古の辻にまで至り、熊野大社までの大峰奥駈け全行程の北半分はすでに踏破した。

今回は、コースは逆向きになるが、下北山村役場にマイカーを置き、そこから国道四百二十五号線をたどり、行仙岳登山口から行仙岳、そこから尾根を歩き幾つかのピークを超え、持経の宿に泊まり、翌日はやはり尾根を歩き、今回の山行で最高峰となる天狗山(標高千五百三十六. 八メートル)を越え、太古の辻から前鬼に下りるコースで、いわば「大峰奥駈け」の南半分の行程に踏み入り、南半分のその北半分の行程を歩くことになる。ただ、今回の山行は、なんと言っても三月四日の脳動脈瘤の手術以降、一週間前にトレーニングで比良の釈迦ケ岳にハイキングに行ったとはいえ、初めての本格的なハードな山行である。自分では気力はあるつもりだが、実際に体力と気力が充実しているか、回復しているか、不安も少し残っている。

二〇〇六年八月十二日(土)

午前中は、山行の準備をし、十三時に茨木市の自宅を連れ合いと二人マイカーで出発した。ちょうどお盆休みに重なっており、おそらく「高速」道路はあちこちで渋滞しているであろうと思い、外環状線(国道百七十号線)を走っていくこととした。本日の予定は、橿原文化会館で行われている「不思議シンポジウム」に次女が出席しており、彼女と橿原で合流し、夕方橿原発で予定では十九時三十分頃に川上村西河の「民宿紺ちゃん」に到着し、そこで一泊する予定だ。

外環状線沿いの食堂で昼食を摂り、ゆっくり走り、橿原には十六時二十分に到着。シンポジウムは十八時四十分までの予定なので、近鉄百貨店で買った回転焼きなどを食べながら、のんびりと待つこととした。

やがて十八時四十分に、シンポジウムを終えた次女と合流し、橿原を出発。途中コンビニで明日の朝食を仕入れ、十九時四十五分に「民宿紺ちゃん」着。明日の昼の弁当をお願いした後、草々に夕食を摂り、その後入浴。明日の早い出発に備え就寝。

 

  行仙岳登山路と南奥駈け道の三叉路

 二〇〇六年八月十三日(日)

 朝五時三十分起床。出発準備を整え、六時に「民宿紺ちゃん」を出発した。六時四十分下北山役場着、役場の駐車場で出発の準備を整え、昨夕コンビニで仕入れたおにぎりで朝食を済ませた。出発準備をしていると役場の宿直所から男性の職員の方が出てきて、

「なにをしてはりますか」

 とのこと。

 予め電話で村役場には今回の山行と駐車場にマイカーを置かせていただくことについて了承を戴いていたのでその旨を言うと、

 「どうぞ、置いていって頂いて結構ですよ」

 と言い、地図なども持ってきてくれて、親切にしていただいた。わが一行は丁重にお礼を言い、登山届けをその職員さんに託し、ストレッチの後にいよいよ午前八時に役場の駐車場を出発した。

                   (続く)

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大峰奥駈けの道 ファイナル④

2008-03-29 12:55:16 | 

       大峰奥駈けの道 ファイナル④   

いよいよ大峰奥駈道のエピローグ。余韻を踏みしめながら熊野本宮へ。


 修験道の雰囲気を残す雨の山在峠
  
   「山材峠」を出発すると、すぐに舗装道路にぶつかる。それを横断すると、大きくて立派な観光案内用の看板がある。看板の横から右手の方に尾根に続いてい る道があり、そこからは再び山道となる。また登路となり尾根筋を辿る。雨が少し小止みになってきたのと、標高が下がってきたのとで、蒸し暑く感じるように なってきた。同時に相変わらず蚋がうるさい。
 
 少し歩くと十二時十分に「吹越宿跡」に着いた。「吹越宿跡」は広場になっていて、杉の大 木に囲まれ、石の祠や石造物や石組みがあり、この場所も修験道の厳かな雰囲気が漂う静かな場所であった。 峠 「吹越宿跡」を出ると、奥駈け道はまたすぐ に県道の舗装道路にさえぎられる。舗装道路を右に行くと十津川温泉から熊野本宮へ向かう国道へと続く。県道を横切ると右手には「下向」に行く舗装していな い林道が続き、左前方は再び尾根に向かう山道。私たち3人は山道へと入っていった。おそらく奥駈け道のエピローグ、最後の山道らしい山道であろう。
  山道を登り、しばらく行くと開けた尾根となり、電波の反射板の鉄塔がある。鉄塔をすり抜ける感じで歩くとすぐに展望が大きく開けた、まるで公園のようなベンチもある「吹越峠」に出た。

 

 七越峠から雲間に熊野本宮、大斎院の大鳥居
 
  十三時ちょうど。連れ合い、次女ともども「やったー」と歓声。雨は止んだが、少し雲はかかっている。雲の隙間から右手の西方面には熊野川が悠々と流れ、そ の先には熊の本宮がかすんで見える。すぐ右下には、旧本宮の「大斎原(おおゆのはら)」の大鳥居が薄雲の隙間から見える。ついに大峰奥駈け道を、踏破した という実感が「どわっと」湧いてきた。三人でたくさんの記念撮影をし、「吹越峠」で十三時三十分まで、余韻に浸っていた。

   ここからは木組みの階段を降りると、整備された公園、広場があり舗装道路が続いている。ここで写真を撮ったりした後、広場、駐車場を横切って、木組みの階 段を上り、三人は十四時十分に「七越峰」(標高二百六十二メートル)へと上った。「峰」とは言うが、ちょっとした丘でありお稲荷さんの社がある。とにか く、最後の最後まで、大峰奥駈け道にこだわった。 「七越峰」を降りると後は舗装道路。駐車場から遊歩道の木組みの階段を降りていくと、関西電力の「関電 自然の森」がフェンスに囲まれてある。わが一行はフェンス沿いにずっと歩き、やがて再び舗装道路に出会う。後はずっと舗装道路を歩き、熊野川にかかる備崎 橋を渡り、備崎を過ぎ熊野川沿いを遡った。山の方を見ると先ほど歩いてきた「七越峠」の電波反射鏡が良く見えている。そして十五時ちょうどに熊野本宮へと 到着した。

  熊野本宮では記念撮影と参拝のあと、ゆっくりと参詣道を降りて来た。大峰奥駈け道を、何と五回に分けてだけれ ど、踏破した余韻はなんとも心地良い。連れ合いと次女と三人で、少しけだるい雰囲気でこの山行を思い出し、そして充実感に浸っていた。十五時五十分にタク シーに乗り、湯の峯温泉に向かい、ホテル「湯の峰荘」へと向った。                                                                         (完)

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大峰奥駈けの道 ファイナル③

2008-03-28 19:29:01 | 

        大峰奥駈けの道 ファイナル ③

 大峰奥駈のファイナルは途中から雨。大峰山脈大縦走路の終
 わりに相応しく荘厳で、余韻にどっぷりと浸れる路だった

 雲の隙間からの篠尾集落

 二〇〇七年六月二十四日(日)は、午前四時に起床し、山行の支度を始めた。天候は曇り。玉置神社の台所で朝食を頂いていると、やがて四時三十分頃には外がうっすらと明るくなり始めてきた。急いで朝食と片づけを済ませ、五時過ぎに出発。境内の本殿やご神木に三人で礼拝し、五時十五分玉置神社を出発。回りは明るくはなっているが曇り空のもと、大木の中の快適な山道へと踏み出した。

 暫く行くと小さな鳥居がありその先は急に明るくなり簡易舗装の林道へと出た。五時四十五分、そこが「本宮辻」で山道が車の通れる林道に横切られるような四差路。進行方向に向かって左折し林道の先を行くと「瀞峡」と看板が出ている。歩いてきた山道を振り返ると、標高千七十六.四メートルの「玉置山」とそれに連なる尾根が見える。「本宮辻」で小休止し三人で記念撮影。

 

 わが一行は舗装の林道を斜めに横断し、山林作業用の細い土道の林道へと入っていった。その林道は入り口のところに車止めがあり鎖が張られてある。作業用林道をしばらく行くと林道終点。そこから古ぼけた丸太橋があり、いったん沢筋へ降りる感じで山道へと入っていく。再び尾根道に出て本来の登山道であることを確認し、六時十五分登路途中で小休止

 雲の隙間からの篠尾の集落

 小休止後十分ほど尾根道を歩くと「旧篠尾辻」の標示を過ぎた。だんだんとガレ道のやせ尾根となってきて、そのうち左側(東側)の展望が大きく開けてきた。六時四十五分、大森山手前稜線の登山地図で(危険マーク)の付けられたところは、東側が大きく削られ、ガレ場の崖となったところに出てきた。その地点から見る景色は、うっすらとかかった雲海のほんの少しの切れ目から篠尾の集落がはるか下方にかすかに見え、まるで一幅の水墨画のように、まさに絶景であった。連れ合いと次女は大いに喜び写真を取りまくっているが、この風景を写真で再現するのは至難の技術が必要ではと思う。

 

 崖の上を過ぎ尾根道を歩き続け、やがて七時ちょうどに「大森山」(標高千七十八メートル)頂上着。小休止後再び尾根道を辿る。七時四十分「篠尾峠(辻)」、八時二十分「五大尊岳」(標高八百二十五メートル)を過ぎ、九時二分に尾根筋で休憩。雨が強くなってきたのでレインコートを着て、ザックカバーを被せた。

 

 尾根道はここから更にだんだんと標高を下げていく。九時四十分標識がなければ通り過ぎていきそうな小さな広場が残る、「金剛多和の宿跡」をこえ、十時十分「大黒天神岳」(標高五百七十八.六メートル)で小休止。雨が本降りとなってきたが、ほとんど休憩も取らず歩き続ける。真夏でもないのに蚋がまとわりついてきてうっとおしい。

 山在峠で雨の中昼食
 
 しばらく歩き続け、展望の開けた尾根に出ると、大きな送電鉄塔があり、送電線が東西に走っている。送電線の下を行きつ戻りつの感じで、標高を下げながらも再び大木に囲まれた尾根筋を歩き続け、十一時十分に「山在峠」着。ここは峠という感じの山道でもないが、杉の大木に囲まれた広場で、修験道である大峰奥駈け道らしい雰囲気が充分に漂い、小さな祠があり荘厳な雰囲気が漂う。ただ、この場所を過ぎれば、すぐに舗装した林道が走っており、奥駈け道はその林道に寸断されている。それより先はいわば奥駈け道の「エピローグ」。連れ合いと次女と相談し、この場所で昼食とした。雨は降り続き、皆で傘を持ち寄り、I さんに作っていただいた昼食のおにぎりを食べる。傘は差しているが、おにぎりは雨に濡れ、せっかくIさんに作っていただいたのに、冷たくて水っぽい。だけど心が通っており、美味しい。十一時五十分昼食を終え、三人で祠にお参りし、「山在峠」を出発。           (続く)
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大峰奥駈けの道 ファイナル②

2008-03-26 22:30:47 | 

      

             大峰奥駈けの道 ファイナル②

 玉置神社の荘厳な境内

 奈良交通のバスは、国道百六十八号線を十津川に沿って、延々と走っていく。やがて十二時過ぎに「谷瀬の吊橋」を過ぎ、「上野地(うえのじ)」の清潔なトイレを備えたバスプールに着いた。ここで十二時二十七分まで停車とのこと。運転手さんも休憩室に行き持参の弁当を食べるようだ。

 我々は、急いで「谷瀬の吊橋」を渡りに行く。私と次女はなかば小走りで橋を往復。連れ合いは記念撮影。ゆっくりと景色を楽しんだり、ゆらゆら揺れる吊橋の余韻に浸る間もない。さっさと行って戻って、取って返してバスまで戻り、今度はバスの中で持参のおにぎりを食べて、昼食。

 そこからバスはさらに走り、十三時三十五分にようやく「十津川温泉」バス停に着いた。「十津川温泉」バス停で降り、少し探して地元の「三光タクシー」の事務所を見つけた。「玉置神社」までお願いし、事務所で待っているとやがてタクシーが戻ってきて、十四時に乗り込む。

 

 前回、雨と風でエスケープし、とぼとぼと歩いて下りて来た林道を逆に登っていく。相変わらず小石・中石・大石がごろごろと落ちている。だんだんと高度を上げ、「折立分岐」のある切通しの場所を過ぎてやがて十四時三十分に玉置神社駐車場に到着した。

 駐車場から約三十分歩き、十五時に玉置神社の社務所に到着。ところがここで緊急事態。『予約を聞いていないので、泊まれないし、食事も無い』とのこと。こちらはファックスの送信の原稿を持っており、それを見せ何とかお願いしたら、五月にも泊まっており、そのときお世話になったIさん達が非常に苦心していただいて、

 

「ありあわせですが急いで作りますので、何とかします。明日のお弁当もおにぎりですが作っておきます。」  といってくれた。ファックスのやり取りは別として、玉置神社は大峰奥駈を縦走する修行者に宿泊・食事を提供するのであって、十津川温泉からそれもタクシーに乗ってやってくるような場合は宿泊・食事は提供しないとのこと。それはかなり厳格なのだが、我が一行は五月にも大峰奥駈の途中にお世話になっており、今回の経過については連れ合いと次女と口裏を合わせ「黙っておく」こととした。

     


 食事などの準備ができるまで、玉置山頂から尾根続きの「宝冠の森」に散策に行くこととした。ところが、「宝冠の森」へのアプローチの道を大きく間違え、迂回してしまったために、なかば小走りで本来の道に戻り、そして大いに急いで歩き目的地の「宝冠の森」ピークまであと約十分程度の地点まで辿り着いたが、時間切れのため無念のUターン。連れ合いと次女は大いに「ブーイング」。十七時に玉置神社へと戻ってきた。その日は風呂にも入れていただき、Iさんを始めとした皆さんのご好意で夕食も頂き、明朝の朝食、お弁当まで準備して頂いた。

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大峰奥駈けの道 ファイナル①

2008-03-16 18:41:25 | 



        山行記録 大峰奥駈の道 ファイナル ①


  吹越峠から、雲間に熊野本宮、大斎院

 二〇〇七年六月、大峰奥駈もいよいよファイナルを迎えた。 思えば、前回本年五月に無念のエスケープを経て、何とか「真夏になる前に」奥駈を踏破しきってしまおうとの思いを抱いていた。そして、仕事やプライベートの用事を何とかやりくりし、無理やり日程を捻出した。奥駈ファイナルは連れ合いと次女との三人のパーティで、六月二十三日(土)に自宅発、JRで「五條駅」へ、そこから奈良交通の路線バスに延々と乗り「十津川温泉」へと行き、そこからタクシーで「玉置神社」駐車場へ。二十三日は「玉置神社」で宿泊し、六月二十四日(日)に、残された最後の大峰南奥駈道を踏破する計画である。 ちなみに、大峰奥駈ファイナルつまり大峰奥駈け踏破の後は、自分や連れ合いや次女の頑張りに対し自らを誉め、そして慰労するために、熊野本宮に参拝しその後「湯の峰温泉」の「湯の峯荘」に一泊、疲れを癒すという、結構なオプションも加えていた。    五條駅からバスに乗って十津川温泉へ、そして「玉置神社」へと。 二〇〇七年六月二十三日(土)は朝六時に起床し、連れ合いはおにぎりを握る。七時十分に自宅を出発、阪急、地下鉄御堂筋線乗り継ぎ八時十分JR天王寺着。連れ合いと次女は駅の「焼きたてパン屋」で朝食を仕入れ、八時二十九分発大和路快速に乗り、八時四十九分王寺駅着。王寺でJR和歌山線に乗り換え、九時二十四分王寺発、十時十六分に五条に着いた。五条駅を出て駅前広場の左手に奈良交通バスの待合所があり、そこでしばらく待って、やがて十時二十七分発新宮行きのバスが到着し、そのバスに乗り込みいよいよ大峰奥駈ファイナルへのアプローチが始まった。

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大峰奥駈道2-4

2006-06-16 21:43:06 | 
 本日は、大峰奥駈道の第4回目で、最終回です。
「大峰奥駈2-4」

2005年8月14日 前鬼裏行場を廻る。「山よさよなら ご機嫌よろしゅ。またくるよ」

前鬼は私も良く知らなかったのだが、集落の呼称ではない。五鬼助さんの母屋と五鬼を祀るお堂と宿坊である「小仲坊」それにトイレなどの付属施設、一戸だけのバンガローがあるだけで、ご主人の五鬼助さんは名前の通り昔開かれた前鬼の守護代の御子孫である。普段は大阪の寝屋川にお住まいで土日などに当地にこられて、前鬼の管理や運営を行われている。ほかには人家も何もない。普段は「小仲坊」も無人であり、無人宿泊所として修験道の行者や登山者の憩いの場となっている(有料)。今回は丁度土曜日であり、盆休みも重なり、「小仲坊」も営業をしており、後を継ぐ予定の息子さんも一緒にお見えであった。
朝は五時に起床、付近を散歩する。少し森の中へ入ったり、キャンプ地の芝生の感触を楽しんだりして朝の清々しい空気を満喫した。これらの管理は大変だなと思う。
六時に朝食を頂く。母屋でご主人と、奥さんと語らいながらの温かい朝食であった。本日行動予定の「前鬼裏行場」の様子を伺う。台風等の影響で少し荒れていることや、「垢離取場」(こりとりば)は渡渉しなければならないこと、谷を渡るときに道を間違えないことなどをうかがった。
朝食のあとリュックを「小仲坊」に置き、飲み物だけを持って、六時五十分に出発。母屋の裏から山の中へと入っていった。道はしっかりと踏み跡があり、目印の杭やテープも巻かれ、迷うことはない。しばらくはずっと登りの道で、山の麓らしく、トカゲやら蛇などがうろちょろしている。道を登りきると峠に小さな祠が有る。そこからは今度は谷への降り。しばらく歩いているうちに川の音が聞こえてくる。道はだんだんと荒れてきて、所々崩れていて斜面をまいたり、橋が落下していて谷へ下りて対岸へ渡ったりしなければならない。
そのような繰り返しで、やがて七時五十分に「垢離取場」についた。北股川の清流の小さな滝の下に、深さ五十~六十センチメートルぐらいで白い石が敷き詰められているようになっている。そのようなところが十畳分ぐらいある。行者はここで水垢離をし、身を清める。河原の巨岩と「垢離取場」の白い石とコバルトブルーの川の水のコントラストがなんともいえない神聖さを漂わせている。
「垢離取場」でタオルを絞ったりして、小休止のあと靴を脱いで渡渉。さらに奥の行場「三重滝」(みかさねたき)を目指した。すぐに標識が出てきて「三重滝」まで四百メートルと書いてある。そこから階段があり、登っていく。階段やら架橋やら道は作られているのだが荒れている。しばらく行くと階段や梯子を下りる道となる。「三重滝」の音がだんだんと聞こえてくる。やがて木の間から、立派な「三重滝」が見え出した。もう少し先まで行くと、滝が良く見えた。時間が現在八時二十五分で、どうも滝壺まで行くと時間がぎりぎりになりそう。今回は、ここで「三重滝」を眺めて、戻ることとした。
来た道を戻る。「垢離取場」ではまた靴を脱いで渡渉。迷いやすい谷へ降りる道には気をつけて渡った。峠の小さな祠では、今回の山行の無事を感謝して合掌。十時十分に前鬼に帰着。「三重滝」まで行ったことをご主人に告げると、時間が速かったのか少し驚いた様子であった。朝食の時には四時間かかると言っておられた。
下山の支度をしているうちに、昨日「深仙山小屋」で分かれた僧侶さんが山から降りてきた。十四時四十七分のバスに乗るとのことで、先に出発された。私たちはご主人に見送られて前鬼を十時五十分に出発。息子さんは釣に行っているとのこと。ここからは林道をひたすら約三時間歩き続けるだけだ。しばらく歩いて行くと二十メートルぐらいにわたって林道が大きく谷底へ崩れ、一メートルほどしか残っておらず、とても車の通れない場所があった。崩落場所の前鬼側には、軽トラックがあり、崩落場所の向こう側には多分五鬼助さんの自動車と思うが、大阪ナンバーの四WD車が駐車してあった。ここまで荷物を運んできて、車の通れないところを歩いて運び、反対側の軽トラックに積み替えて、前鬼まで運んでいるのだろうと思う。私たちに少しも不便や不自由さを感じさせない前鬼の管理運営に腐心されている五鬼助さんのご苦労に、本当に頭の下がる思いがした。
林道の車止めを過ぎ、三ヶ所の前鬼トンネルを過ぎて十一時五十分に、滝見台に着いた。ここから見る「不動七重滝」は実に壮大で立派な滝である。ここで記念撮影。本来はここから滝まで遊歩道があり、さらに進むと前鬼まで続いているのだが、台風で道が荒れていて通行不可能の掲示が出ている。春に大峰山行をしたときも「みたらい渓谷」で同じように通行不能になっていた。なかなか修復が追いつかない現状のようだ。
このあたりまで来ると、自動車がかなり入ってきている。撮影後再び林道を歩き始める。途中、谷から湧水をくみ上げ、ホースで引いている場所があり、そこにちょっとしたベンチが置いてあり、「本州製紙前鬼温泉」と看板が出ていたと思うが、十二時三十五分にそこで昼食とした。本日の昼食は持参のもので、連れ合いとAはシーフードヌードル、私はカップチャンポンメン。前鬼から持参の水を沸かし、おいしく食べた。
昼食後再び林道歩き。延々と歩いている。前鬼川はすでに池原ダムとなっており、ダムで水没した集落の「成瀬跡」の記念碑などを見ながら通り過ぎていく。やがていくつかの峰を隔てて池原ダムに架かる前鬼橋が見え出した。「もうすぐ前鬼口のバス停だよ」と連れ合いとAに声をかける。十四時十五分ようやく前鬼口バス停に到着した。昼食時間を除いて、二時間四十分の林道歩きであった。前鬼のご主人は三時間かかるといっておられた。
バス停前の自動販売機で、久しぶりの缶コーヒーを飲む。バス停前の閉まっている売店の前にあるベンチにリュックを下ろし、ストレッチをしていると、心地よくも充実感のある疲労感に全身が浸ってくる感じがする。ストレッチを終え、登山靴の紐を緩めベンチに座り、対岸のの稜線をぼんやりとみていると、そのうち本当にスローテンポで、自然と「山男の歌」の最終節が出てきた。

『山よさよなら ご機嫌よろしゅ また来るときにも 笑っておくれ』

連れ合いは、ガレ場、岩場(カニの横ばいのような、鎖場や梯子がたくさんあり)、ブナの原生林やササの多い茂った尾根歩きなど、とても面白い山行だったとのこと。Aは、これからは「趣味は登山とする」とのこと。
十分ほどすると、先行の僧侶さんがバス停にやってきた。林道をはずれ、山道を歩いてきたとのことである。
十四時四十七分発の「湯盛温泉杉の湯」行きのバスが五分ほど遅れてやってきた。旧バス停(?)で座っていた連れ合いとAも降りてきて、バスに乗る。国道百六十九号線の谷あいを縫って走るバスの、それと同じ行程の稜線をわれわれは縦走してきたことになる。思えばよく歩いたものだ。バスの中では僧侶さんとひとしきり、山談議。
一時間強でバスは柏木の集落に入っていく。柏木のバス停でわれわれはバスを降り、僧侶さんを見送った。駐在所に行きブザーを鳴らしたが不在の様子。下山届けを手帳の紙に書いてポストに投函。
その後Oさん宅にいき、駐車の御礼と三泊分(千五百円)の支払い。車のところで靴を履き替え、帰る準備。帰りに「杉の湯」で温泉に入っていく計画であった。
十六時三十五分「杉の湯」着。ところが「ホテル杉の湯」では「日帰り入浴は午後二時間まで」とのこと。交渉したが入れてもらえず、どこかにないかと聞くと、五分ほど吉野のほうへ行くと「中荘温泉」があるとのこと。「ホテル杉の湯」で「陀羅尼助」を買い、「道の駅杉の湯」で土産を買い込み、再び車に乗って「中荘温泉」を目指す。十七時に「中荘温泉」到着。吉野川の川底七十メートルからくみ上げている温泉とのこと。早速入浴。前鬼では湯をかけ流していただけなので、湯船につかると、生き返る思いがする。たっぷり洗って、たっぷり浸かった。

十八時十分、「中荘温泉」を出て、帰路に着く。国道百六十九号線、橿原から国道二十四号線、西名阪自動車道から近畿道に乗り継ぎ、たいした渋滞に巻き込まれることもなく、二十時四十分、孫たちの待つ我が家へと帰着した。

 二〇〇五年夏の、大峰奥駈道の山行報告は以上です。この続きは、二〇〇六年夏~秋にかけて「南奥駈」を目指し、最終は、熊野本宮大社まで行き、その記録を報告する予定です。
 そのアップまでの間、来週から中国東北地方と家族の原風景、四国八十八カ所自転車遍路の旅などを順次掲載していきますので、どうぞお読みください。

                             (一旦 完)         
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大峰奥駈道2-3

2006-06-15 21:46:52 | 
昨日は所用のためアップできませんでした。
本日は、「大峰奥駈道2-3」を掲載します。

二〇〇五年八月十三日 ガスの中、近畿地方最高峰の「八経ヶ岳」を越え、前鬼へ日没との競争

八月十三日は五時に起床。女性の二人連れは早々に出発していった。荷造を整え、われわれは六時に小屋の朝食。おかずはふりかけや佃煮等々。それでも腹いっぱい食べて、出発準備を終え小屋の前でストレッチ。今日は濃いガスの中で、どうも一日中こんな感じがする。小屋周辺で記念撮影のあと六時三十五分出発。「八経ヶ岳・前鬼」と書かれた石標のある道を進む。いったん道は降り、鞍部から再び登りだす。あちこちにフェンスで囲いをしてあり、フェンスに開き戸がついている。「熊よけのため開放禁止」などと書かれてある。七時三分に「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)に登頂。ここは近畿地方の最高峰である。近畿地方以西には二千メートル以上の山はないので、西日本でも高いほうの山である。日本百名山の一つ。ここで少し写真撮影だが、あいにくの濃いガスのため景色はまったく見えない。この先ルートファインディングにも少し苦労をするかもしれない。
「八経ヶ岳」から先のルートはやはり尾根筋を辿る。「明星ヶ岳」を過ぎ、「禅師の森」といわれる原生林を越え、ひたすら歩き続ける。道は細く、ところどころは踏み跡を辿ったり、倒木が道をふさいでいたり、崖の途中をトラバースしたり、道が崩れていたりして必ずしも楽な道ではない。また、ガスのせいもあり、ルート探しには気をつかう。
九時に「舟ノ垰」(ふねのたわ)といわれる鞍部というか、窪地に到着し五分の休止。再び歩き出し九時四十分に無人小屋の「楊子ヶ宿小屋」着。「弥山小屋」で同宿の僧侶の人が先着してここで休憩しており、挨拶を交わす。僧侶はしばらくすると先に出発した。ここで十五分間のおやつ休憩。この小屋もログハウスで十五人程度が泊まれそうな、比較的きれいな小屋であった。
再び、稜線上の道を辿る。このルートの基本は尾根筋であることを徹底し、谷へ降りる道や踏み跡は辿らないことが鉄則である。「仏生ヶ岳」(千八百五メートル)、「孔雀岳」(千七百七十九メートル)のピークだけは西側を巻きやがて再び尾根に戻る。十一時四十分に「孔雀覗」の崖上に出るが、濃いガスのため何も見えず。本来なら前鬼川の渓谷の展望が望めるところであろう。しばらく行くと、「両部分け」の岩場があり、金剛界、胎蔵界と呼ばれている岩崖が望まれる。
その後道は細い稜線上に出る。道がT字状になっていて、自然と右の岩場のほうへと行った。道はすぐに大きな岩壁を右手に見ながら谷へと下っていく。踏み跡がそれも新しいのが結構ついてあり、辿っていくとやがて岩壁の下部に出た。これ以上行くとどんどんと谷のほうへと降りて行く。『これは道をはずしたな』と思い、連れ合いとAをその場に留まらせ、降りてきた道をT字状のところまで戻った。逆方向の道を見ると目印の赤テープが木に巻きつけてあった。大声で連れ合いとAを呼び、ルートに戻す。もっとすばやく鉄則に戻らなければならないのに、少し行き過ぎた。この道をはずしたために三十~四十分時間のロスをした。少し時間が気になりだした。
岩場を過ぎて十三時十五分に鞍部になったところの道端で昼食。このあたりが「橡の鼻」といわれるあたりかと思う。「弥山小屋」で作ってもらった弁当で、梅干に佃煮ふりかけ等。ご飯ばかりという感じで結構ボリュームがあったが、三人とも全部平らげた。十三時四十五分出発。ここから岩壁の上を辿り、鎖場やへつるところもあり、「行者還岳」付近と並んで行場らしいところだ。結構スリルがあるだろうなと思うが、濃いガスのため何も見えず、高度感もスリルもほとんど感じないのだが、かなり強い風が吹いており、時々突風となり、飛ばされれば危ないので、緊張が走る。
鎖場を過ぎ、急坂を上りきり、十四時十分に、大きな釈迦の像が置かれた「釈迦ヶ岳」(千八百メートル)の頂上に立つ。ここは視界がよければ「弥山」「八経ヶ岳」が一望で、北は大峰山脈、南は熊野にいたる山々、東は大台ケ原と絶景だそうだが、本日は残念ながら何も見えず。釈迦像は前に傾き、像自体にも亀裂が入って痛んでいる。修理しなければならないなと思う。時間も気になり頂上では簡単な記念撮影をして十四時十五分出発。
そこから先は鎖場もなく普通の尾根道で、それでも滑って転んだりしながら十五時丁度に「潅頂堂」と呼ばれるお堂と並んで、無人小屋の「深仙山小屋」の有る広場に到着。山小屋には人影が見えるが、先行の僧侶であった。

僧侶「ご苦労様です。」
私 「道を間違いまして、時間がかかりました。今からだと前鬼には遅くなりますね。」
僧侶「私は今日はこの小屋に泊まります。明日「大日岳」に登って、前鬼まで降りて、昼のバスで帰ります。」
私 「それはどうも。ところで水場は大丈夫ですか。」
僧侶「少しボウフラがわいていますが、大丈夫でしょう。」

そんなやり取りの後、お互いのカメラで写真を撮りあう。僧侶は「家で『どこ行ってるの』といわれるので、証拠の一枚です。」とのこと。十五分ほどゆっくりしたのだが、実は内心前鬼への道を考え、あせっていた。前鬼への降り道は山の東斜面で日没が早い。しかも谷沿いになっている。「これは日没との競争になりそうだ。」そう思いながら、「太古の辻」へと急いだ。十五時四十分に「太古の辻」に到着。ここは写真ポイントなので手早く写真撮影を済ませ、四十五分に前鬼へと急いで出発した。コースタイムでは前鬼まで一時間半(連れ合いの本では一時間五十五分と書かれてあり、順調に行っても十七時十五分(四十分)着だ。これまでのペースを考えると十七時五十分ごろになるかもしれない。ここは思い切り引っ張る必要がある。
「太古の辻」からの道はしばらくは尾根上を降る。地図によると道が迷いやすいとの記号が記されている。長い階段があちらこちらにありルートの目安になる。それに目印の赤や黄色のテープが木に巻きつけてあり、それを忠実に辿るようにした。やがて「両童子岩(二つ岩)」と呼ばれる大きな岩のある場所に着く。そこから階段を降りると、だんだんと「白谷」といわれる谷へと降りていく。時間は十六時十五分を過ぎ、谷へ降りるにつれてだんだんと薄暗くなってくる。どんどんと道を稼ぐ。連れ合いは靴が小さくて足の親指の爪の痛みを言う。Aも「膝に来ている」という。それでもごまかしごまかし、どんどんと降りていく。十六時四十分過ぎになるとかなり暗くなってきて、だんだんと目印のテープを探すのに苦労をする。ルートもはっきりしない。Aと連れ合いが少し遅れて列が伸びる。それでもどんどん引っ張るが、なかなか目的地が見えない。
『これは、とりあえず二人をこの場所から動かさないで、私だけ先に降りて、荷物を置いて、迎えにこなければならないかも』とちょっと考えがよぎる。
暗くなってきている中で、慎重にかつ急いで目印や踏み跡を探しながら、降り続けた。時間は十七時をまわり、森の外の木漏れ日が頼りで下り続けていると、やがて小さな祠が二つ並んでいるところへ来た。祠と祠の間には、しっかりとした道というか踏み跡がある。
『よし、やった。ここからは懐中電灯をつければ、迷うことなく前鬼に着くだろう。』
内心ほっとした。連れ合いとAに「もうすぐ着くよ」と声をかける。今までと違って「普通の道」を安心して歩き続けていると、やがて森が開け前方が明るくなってきて、前鬼の「小仲坊」が見えてきた。少し歩いていくと前鬼の全体(といっても、母屋とお堂と宿坊の「小仲坊」とトイレなどの設備だけ)が見えてきた。十七時二十分に「小仲坊」の前へ到着。先行していた若い女性二人連れがおり、
「わー、ごくろうさまです。今お風呂を頂いたんですよ。」
といって迎えてくれた。ご主人の息子さんがいて
「お疲れ様でした。ゆっくりしてください。」
とねぎらってくれる。
「遅くなりましてすみません。宜しくお願いします。」とあいさつ。
森を出るとまだまだ明るいのだが、やはり前鬼のご主人の五鬼助さんは、心配しておられたとのこと。ご心配をかけましてすみません。
「お風呂にどうぞ」といわれ、連れ合いとA、そのあと私も入る。三日ぶりの入浴に本当にくつろぐ(ついでに着替えを余分に用意していなかったので、簡単に洗濯もさせていただいた)。入浴後に夕食。本日の宿泊客は宿坊に泊まるわれわれ三名と女性二人連れ、それと母屋に泊まるご主人の知人が三名。夕食は宿坊泊まりの五名が一緒に、奥さんの心のこもった焼き魚やゴマ豆腐などの手作りの料理を頂いた。ご主人の五鬼助さんは七月に朝日新聞で大きく紹介されていて、その話などに話題が弾んだ。「釈迦ヶ岳」のお釈迦さんが傾いていて、亀裂が入っていることや、熊の糞があったこと、奥さんは熊に出会ったことがあることなど、また女性二人組みとは自転車レースのことやら、山行きのことなどにも話題が弾んだ。そのうち、庭で息子さんが花火を始め、にぎやかな中での夕食となった。心和む時間であった。夕食後宿坊の前で、明日のお茶を沸かす。
女性二人連れは、明日朝七時台のバスに乗り吉野の「青根ヶ峰」を登山し、吉野を見物してその日のうちに東京、横浜に帰る、そのために朝四時に宿坊を出発するとのこと。
夜九時過ぎに一同就寝。
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大峰奥駈2-2

2006-06-13 22:27:29 | 
 本日は「大峰奥駈」の2回目の第2報です。
 大峰奥駈2-2

二〇〇五年八月十二日 大峰奥駈の修行の道を「弥山」を目指す。途中に熊のフン発見。

風の音で早くから目は覚めていたが、明るくなってきた五時に起床。ガスがかかっている。修行の行者は誰も通らなかった。修行場の真髄ともいえるこのコースに、しかもお盆休みにもなっていようかというこの時期に、行者にまったく会わないというのも少し肩すかしの感じではある。とにかく朝食準備、といってもパンを手早く食べるだけである。肌寒いぐらいで、熱いお茶を沸かし回し飲みをした。
朝食後、テントを撤収し、六時十分に出発。リュックの荷物の重さにも(水が無くなったが)だいぶ馴染んできた。六時二十分、「和佐又分岐」を過ぎ、六時二十五分に「大普賢岳」(千七百八十メートル)頂上着。写真撮影をしたが、ガスがかかっており景色のほうは残念ながらほとんど見えない。
ちょっとした鎖場などを通過し七時三十五分に「稚児泊り」という少し広くなった鞍部に到着。子供はここまでで、これ以上はだめですよという意味の地名かなと思いつつ、ここで小休止。八時に「国見岳」(千六百五十五メートル)を越え、「七ツ池」という水はないが大きな窪地の横を通過し、八時十五分に「七曜岳」(千五百八十四メートル)を越える。それからずっと尾根上を歩き、八時四十五分に十五分間の小休止。
小休止の後、「行者還岳」を目指す。稜線上を歩き、縦走路と山頂への稜線の分岐にかかり、そのまま稜線を辿り、九時三十五分に頂上に錫杖の立てられている「行者還岳」(千五百四十六メートル)に登頂。十分間ほど記念撮影。まだガスが晴れず、視界はあまりよくない。
頂上からもとの縦走路に戻る。しばらく行くと鎖場や梯子が連続し、ガレ場も続き、まさに修験道場そのものである。途中の梯子の横に、水場があり二本のホースで水を引いているが、そのうち一本は枯れ、もう一本からチョロチョロと水が流れ出ている。ここでペットボトルに水を補充。なかなか水がたまらず、汗にぬれたタオルを流したりもして二十分間の休憩となってしまった。少し休みすぎか。しばらく行くと無人小屋の「行者還小屋」の下部に出た。「行者還小屋」は最近改築されたようで立派なログハウスで、中には毛布も置かれてありきれいに使われている。三十人くらい泊まれそうで、柏木で駐在さんが「行者還小屋」まで行って泊まればよいといっていたのもなるほどだが、柏木から一日の行程としてはちょっと無理かと思う。山地図によるとこの辺りに関電鉄塔と送電線があるように書かれているが、見当たらない。調べなおす必要がある。「大普賢岳」から「行者還小屋」まで、地図のコースタイムでは二時間四十五分になっているが、我々は休憩込みで三時間三十分。少しかかりすぎなのか、コースタイムが早すぎるのか。この尾根歩きの間に天候は晴れだしてきて、昨日に引き続き快適な山行となってきた。
小屋を過ぎると、「天川辻(北山越)」という、昔の天川村と北山側を結ぶ要衝がある。小さなピークをいくつか越えるが尾根伝いに比較的緩やかな道で、やがてきれいなブナ林の中を歩いていく。連れ合いとAは、「きれいねー、ロマンチックやねー」などといっている。そこに、突然(人間のより)大きな、真っ黒い、しかもまだ比較的新しい獣の糞が出てきた。「きゃー、これ何」とAの声。「さー、ひょっとして熊の糞かも知れんね」(いのししかも知らんが)と私。そこからしばらくは、連れ合いは熊よけの鈴を鳴らしっぱなしで、「ラジオもつけて」とのこと。せっかくのブナ林もそさくさと駈け抜けた。尾根上のところどころで、これから目指す「弥山」「八経ヶ岳」の雄姿が望まれる。
途中、「行者還トンネル西口」からの尾根の登山道との合流を過ぎ、十一時四十五分に「一ノ垰」(いちのたわ)の避難小屋に到着。避難小屋は倒壊寸前で使用不可能。小屋の横の平地で昼食とする。昼食も行動食で朝と同じくパンにバターを付けて、おかずにソーセージとチーズ。昼食を食べていると、がさがさという笹を掻き分けて何かが近づいてくる。先ほどの糞のことがあり一瞬ドキッとしたが、単独行の登山者が軽快に通り過ぎて行った。十二時十五分出発。
トンネル西口からの谷側の登山道の合流点を過ぎる。トンネル西口に駐車し、この登山道から「弥山」に登山する人が結構おり、この行程で数組のパーティに出会った。やがて十二時四十五分に「弁天の森」(千六百メートル)のピークを過ぎる。「弁天の森」は広葉樹林帯で静寂であり、印象に残るきれいな森だ。
十三時五十五分に「聖宝ノ宿跡」着。ここから「弥山」頂上までが標高差約3百メートルのいよいよ胸突き八丁だ。コースタイムでは五十分、看板には一時間と書いてある。呼吸を整えて出発。連れ合いとAには、『先に登っていいよ』といってある。重荷を担いでいるので、あまり無理せず確実に登っていく。今日登ってきた山々が時々一望に見え、景色を眺めつつ急坂を登る。途中から長い階段となり、一歩ずつ登ってゆくと、やがて「弥山小屋」が見え出した。十五時十分に「弥山小屋」到着。連れ合いとAは十分前に到着していて、私をお出迎え。「はい、皆さんご苦労様でした。」
まず、小屋に荷物を置いて「弥山神社」に行き、よく冷えた缶コーヒーを一気に飲んで、チョコレートを食べた。「弥山神社」には立派な祠があり、そこが「弥山」(千八百九十五メートル)の頂上である。先客がおり、写真を撮っておられた。祠の裏手は大峰山脈の一大展望所であり、「大普賢岳」「国見岳」「七曜岳」「行者還岳」の登ってきた山々、「大普賢岳」の奥には「阿弥陀が森」から「山上ヶ岳」「稲村ヶ岳」、などが一大パノラマであり、南を見れば明日登る「八経ヶ岳」「明星ヶ岳」が間近に望まれる。
「弥山小屋」は、きれいな小屋で、庭に丸太で作ったテーブル・ベンチが置かれ、清潔で雰囲気がいい。夕食までの間、連れ合いとAは体を拭いたり着替えたりしている。一息ついて外のベンチで明日用のお茶を沸かす。さすがに千九百メートルに近い標高であり、涼しいを通り越して寒いくらい(もっとも私はあまり寒さはこたえないが)。おかげで沸かしたお茶がすぐに冷えてペットボトルに移し変えることができ段取りが良い。十七時には少し早めの小屋の夕食。おかずは、焼き魚とオムレツとあと煮物。ご飯は固めだがおいしかった。きっと水がおいしいからだろう。
食後、再びお茶沸かし。薄暗くなると、少しガスがかかってきた。今日の同宿者は男性が単独行の河内長野からの僧侶の人(弥山神社での先客で写真を撮っていた人)、予約なしで来た人で夕食を何とかしてくれと頼んでいた人、天川川合の役場に自動車を止めて登ってきた二人連れの中高年登山者、女性が若い二人連れと連れ合いとA。僧侶の人と若い女性二人連れは明日、前鬼へ行くわれわれと同じコースとのこと。女性二人連れは、一人は大学時代にワンダーフォーゲルをしていたとのことで、もう一人は現役のクラブチームの自転車レーサーで、今回も大峰登山前に紀伊半島の山を自転車で登ってきたとのことで、バリバリの現役。十九時ごろに留学生の外国人が二人、テントを設営したいといって小屋に来た。やはり、前鬼まで行くとのこと。ここでもやはり修験道の行者はいなかった。なにやら肩透かし。明日に備え、早々に睡眠。
                               次回に続く
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大峰奥駈道2-1

2006-06-12 22:31:51 | 
 
今回は、大峰奥駈の2回目、その1を掲載します。

山行記録 大峰奥駈の道 2-1

 山行記録 大峰奥駈の道 2

二〇〇五年八月、仕事の夏期休暇を利用して、いよいよ大峰奥駈の道②を目指す。今回は、大峰山東側の柏木から入山し、「阿弥陀が森」「小普賢岳」「大普賢岳」「行者還岳」「弥山」「八経ヶ岳」「仏生ヶ岳」「釈迦ヶ岳」「太古の辻」を経由して、前鬼にいたるコースを三泊四日(うちテント一泊)で辿ることとした。このコースは、近畿地方最高峰の「八経ヶ岳」(千九百十五メートル)を越え、行場を越えるいわば大峰奥駈道の「真髄」ともいえるコースとなる。本格的な縦走コースであり、荷物もテント、コッフェル、バーナーなど、それに真夏の尾根の縦走で、また今年は水が少なそうなので、水を二リットルに食料と、荷物は二十キログラムを優に超え、「久しぶり」に「気合の入った」山行となった。参加メンバーは、私と連れ合いそれに今回は次女の、Aも参加した。七月には三人で比良釈迦ヶ岳へのトレーニング山行を行い、その後それぞれ体慣らし、ダイエットを心がけ、大峰奥駈に備えたのである。

二〇〇五年八月十一日出発 柏木から登山。小普賢岳と大普賢岳の鞍部でテント設営。

朝三時三十分に起床、本日の朝食・昼食用におにぎりを作る。やがて連れ合い、Aも起きだして出発準備をはじめ、四時五十分に我が家を車で出発。近畿道ではにわか雨が降り出し、天候が心配。西名阪も渋滞することもなく天理インターから国道百六十九号線を南下。県道を経由し吉野に至り再び国道百六十九号線を辿り、七時二十五分に柏木に到着。柏木の集落に駐在所があり、玄関のブザーを鳴らすとやがて駐在さんが起きだしてきた。早朝で申し訳ないと思いつつ登山届けを出し、自動車を十四日まで置かせてもらえる場所を聞くと、近所のOさんを紹介してくれた。但しまだ寝ているとのこと。起きるまで待つ間に朝食のおにぎりを食べ、ストレッチ準備運動。あらためて荷物の重さに多少の不安を抱く。
八時半にOさん宅の木戸をノックし、出てきた奥さんにお願いし自動車を近所の空き地に置かせてもらう。八時五十五分に柏木の石の標識のある大峰登山口から登山開始、最初は階段状の道を登る。天候は、早朝は心配したがここに来て快晴である。
九時三十五分に「大迫分岐」で少し立ち止まる程度の休止。準備運動をこなした感じだが、まだ荷物がしっくりとこない。十時二十分に「上谷分岐」に到着し小休止。小さな地蔵さんがある「上谷分岐」は標高約七百メートル強で、柏木が三百メートル程度なので四百メートルほどを一時間二十分で登ったことになる。コースタイムでは一時間半となっているので(後でわかったが、持参の山地図のコースタイムはあまり正確でなく、参考にならなかった)、今のところ順調なペースだ。但し、空き缶やガラス瓶の残骸が数箇所に捨てられているのには不快な思いがする。
ここからは、尾根上の道や踏跡を辿り高度を上げていく。途中千百六十六メートルのピークは西側を巻いていくが、大体は尾根を忠実に辿る。
途中二回小休止をとり、十三時十分に尾根から少し外れた谷で昼食休憩。途中、地図上に水場の記号が付けられている場所では、今にも枯れそうな水がチョロチョロと出ている。水は少なく、持参してきて正解である。家から持参のおにぎりをぱくついていると、単独の登山者が軽快に通り過ぎて行った。おにぎりを食べたあと、食料係り(連れ合い)から配給のお菓子を少し食べ、十三時四十分に出発。十五分ほど行くと再び尾根上に出たが、そこが「伯母谷覗」で断崖絶壁上のすばらしい展望所。谷を超えた対岸の「大台ケ原」「台高山脈」が一望である。先ほどの軽快な単独登山者が弁当を食べており、『われわれもここで食べればよかった』と後悔。ここで十五分ほど写真休憩(休憩取りすぎ)。ここから再び尾根を伝う。地図ではルートは点線になっているが、道の踏跡はしっかりついているし、少し気をつけて歩けばそんなに危険でもない。
十四時二十五分「阿弥陀が森分岐」に到着。標高は約千六百メートル。柏木からは約千三百メートル登ったことになる。ここには「女人結界門」があり、「山上ヶ岳」方面には女性は入れない。宗教文化か伝統か、いずれにしても時代遅れではある。
「上谷分岐」から「阿弥陀が森分岐」までコースタイムでは二時間半となっているが、われわれは休憩を加算せずに正味二時間四十五分かかっている(小休止、昼食休憩も含めると三時間五十五分)。荷物が多いとはいえ、時間がかかりすぎか、コースタイムがおかしいか。「女人結界門」で写真を撮って、十四時四十分に「阿弥陀が森分岐」を出発。
しばらく行くと「脇宿ノ跡」があり、お札などが並べてある。この先「明王ヶ岳」(千五百六十九メートル)付近に地図ではキャンプ場の記号があり、今日はそこでテントを設営する予定であるが、そんな平地が見つからない。さらに歩いていくと縦走路から少しはなれて「営管の行場」があり、連れ合いが一人で経箱石を見に行った。彼女は元気いっぱいだが私とAはトレース上で休憩。十分ほどで連れ合いが戻ってきて、再び縦走路を歩き、やがて「小普賢岳」のピークを超えた。ピークから少し降がったところが「大普賢岳」との鞍部で、ちょうどそのあたりの山道が少し広くなっており、十五時四十分にここのトレース上にかぶさってテントを設営しようと決めた(もう少し良いところがないか、荷物を置いて五分ほど先まで見に行ったが、平地がなかった)。
テントを設営後、「熊よけ」のためにラジオを鳴らしながら、水場がないので担ぎ上げた水で夕食準備や明日のお茶つくり。さすがに千六百メートル地点で、天気は晴れているが大変涼しくて快適。沸かしたお茶もすぐに冷えて、ペットボトルに移し変えた。十七時五十分夕食のボンカレーといわしの缶詰をおいしく食べる。ここはトレース上だから、明日は夜も空けきらないうちから修験道の山伏が枕元を通り過ぎていくだろうなと思いつつ、夕食後早い就寝。深夜になると、涼しいどころか、鞍部のため風の通り道となり、テントをたたく風の音や、風に鳴く笹の葉の音でバタバタ・ザワザワとうるさいこと。それでも心地よい疲れで結構熟睡した。
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大峰奥駈けⅠ-①

2006-06-10 21:57:06 | 
山行記録 大峰奥駈の道 ①

二〇〇三年八月に四国霊場八十八カ所を、八回に分けて自転車と歩きで結願した。四国曼荼羅の世界に同化し、心地よい充実感に浸りつつ「さて、次は何をしようかな」と考えていた。
二〇〇四年八月には屋久島に行き、西日本最高峰の宮之浦岳(一九三五メートル)に登り、翌日白谷雲水峡から縄文杉まで登山した。
次は、なんとなく「熊野古道」の踏破を考えていたのだが、どうせなら大峰奥駈道をという思いがだんだんとつのってきて、二〇〇五年になって連れ合いとの話で、いよいよ大峰奥駈を実行しようと決めた。但し、大峰山は「山上ヶ岳」周辺が「女人禁制」となっており、要所に「女人結界門」が設けられている。連れ合いは、「女人結界門」まで行き、そこを横目に見て奥駈道を辿ることにこだわっている。そんなことで二〇〇五年三月には、吉野から「青根ヶ峰」「四寸岩山」「大天井ケ岳」を縦走し、五番関の「女人結界門」を横目に見て洞川温泉までを踏破しようと計画を立てた。


二〇〇五年三月二十一日出発 阪急電車の始発に乗って、吉野へと

 二〇〇五年三月二十一日朝三時四十分に起床、本日の山行の朝・昼食のおにぎりやおかずを作り出す。ばたばたとしているうちに連れ合いも起きだして、準備を整えた。
 朝、始発の梅田行き阪急電車に五時二十分に南茨木駅から乗車した。車内は結構多くの人が乗っている。休日であり、仕事や商売で「ご苦労様の人」、遊びや趣味で「お楽しみの人」それぞれだ。西中島南方で阪急電車を降りて、地下鉄御堂筋線に乗り換え、天王寺下車。近鉄阿部野橋駅から六時十八分発の吉野線の朝一番の準急に乗り、一路「吉野」を目指した。
 近鉄もはじめのうちは結構混んでいたが、藤井寺あたりからは徐々に空いてきて、ぼちぼちと連れ合いと朝食のおにぎりを食べ出した。車窓の風景を眺めているうちに、やがて橿原神宮や飛鳥地方を通り抜け、吉野川沿いを走り出す。「上市」を過ぎて、電車は吉野山に向かい、八時一分に「吉野」に到着。
 観光地独特の雰囲気の「吉野」駅だが、まだ早朝のため、土産物の売店などはすべて閉まっている。駅舎を出るとすぐに吉野ケーブルがある。これは、ケーブルとはいうものの、実際はロープウェイ、というよりむしろ距離も短く、定員も八~十名程度で、遊園地にあるゴンドラのよう。今回は、距離も長く歩き、夕方も時間との競争になりそうなので、とにもかくにも時間を稼ぐために吉野ケーブルに跳び乗った。八時十分発で、一人の地元のおばさん乗り合いとなった。吉野を超えて大峰山、洞川温泉まで行くといったら、感心していた。
 ものの三~四分でロープウェイ「山上」駅に到着。奥の千本までバスで行こうかと思ったが、始発のバスが五十分後まで出発しないので、早速歩きだした。私も連れ合いも快調だ。宿坊や旅館・民宿、土産物屋などが軒を並べる、歴史のたたずまいのある吉野の街道を暫く行くとやがて仁王門があり、立派な伽藍を構える「蔵王堂」に到着。そこで記念撮影。「蔵王堂」を出て中千本の坂道を登っていくと、「勝手神社」や「竹林院」があり、この辺は記念撮影をしながら、ぶらぶらと通り過ぎた。有数の桜の名所であるのだが、開花にはまだまだ暇がかかりそうだ。まだ蕾が色づいてもいない。
 上千本に入り、九時十五分に「水分神社」(みくまりじんじゃ)を過ぎ、奥千本に至り九時四十五分に「金峯神社」(こんぷじんじゃ)に到着。神社の横手の道から、いよいよ山道となってくる。小休憩とした。


 「青根ヶ峰」を超え、「四寸岩山」へ。北面は残雪がいっぱいで雪渓登りのよう

 「金峯神社」を出て、尾根伝いの山道に入っていくと、「旧女人結界」の石碑がある。時代を感じさせる碑を横目に見て、どんどんと山道に入っていくと、やがて作業用のモノレールが敷設されている。吉野側つまりピークの北面は結構雪が残っており、『これはひょっとすると、難儀するかも』と思いつつ登る。暫く登り十時十五に「青根ヶ峰」(標高八百五十八メートル)の山頂に到着。ここまで来ると回りの山々の展望が開けてくる。「青根ヶ峰」を超えて十五分ほど行くとやがて山道は舗装された林道に合流する。舗装道ではあるが、まだ冬季通行止めのようで、車は通っていない。日差しも良くのんびりと歩きたいところだが、長い行程であり山道は余り良くなさそうなので、林道を跳ばして行く。
 
 十分ほど行くと、道は舗装道から再び山道へと入っていき、すぐに尾根筋となる。この尾根は「助四郎尾根」といい、これから目指す「四寸岩山」(しすんいわやま)のピークへと続いている。昔、修験道として多くの修行者が大峰山を目指したときに休憩したのだろう五十丁茶屋跡は、わずかな平坦地がその名残となっている。さて、山道は残雪が多くなってくる。地図では尾根を忠実に辿っていくのが正解だが、尾根上はところどころ雪に埋もれた作業用のモノレールと交錯している。道は雪に埋もれており、とにかく尾根のピークを辿るようにしているが、時々モノレールに浮いた雪を踏み抜いてしまう。本日の山行は、スパッツもアイゼンも冬装備は何も用意していない。少し難儀しそうだが、とにかく「せっせと」歩き続ける。
 やがて、十一時三十五分「四寸岩山」(標高千二百三十六メートル)に到着。山頂は「日当たり」が良く、雪は積もっていない。山頂で連れ合いと記念撮影。
 四寸岩山を越えると尾根は南斜面の下り坂となり、雪はまったくない。それでも前方にはこれから目指す大天井ケ岳、小天井ケ岳の北斜面が望まれ、どうやら雪はかなり残っていそうだ。登山地図では「アシズリ宿小屋」のしるしがあるが、それらしきものは山道ではわからなかった。


 アイスバーンの大天井岳北斜面に大苦戦。大天井を超え、五番関の女人結界門を横目に洞川へ。

暫く行くと舗装された林道に出、林道を斜めに横切って再び山の尾根道を辿っていく。やがて十二時四十五分に百丁茶屋跡の広場があり、そこに二蔵宿小屋がある。この小屋は現在も使用されていて、整備されており、時々は行者さんなどが使っている形跡がある。ここの小屋の前の広場で、昼食とした。昼食は家で作ってきたおにぎりと目刺しとウィンナーソーセージとゆで卵。
昼食を食べて十三時二十分に出発。ここの広場から道は二つに分かれる。稜線を登り大天井岳を超える道と、大天井岳の東側の巻き道だ。私は、早く洞川温泉に浸かりたいので『巻き道を行こう』と連れ合いに言ったら、彼女は『だめ。登る。』とのこと。ああ、えらいことやと思いつつ、渋々尾根へ続く山道へと歩き出した。
道は尾根を忠実に辿っていくが、残雪がだんだんと多くなり、そのうちに完全に積雪の状態になってきた。踏み跡はまったく無く、モノレールの上に積もった雪を踏み抜いたりで悪戦苦闘。高度がどんどんと上るにつれて雪が硬いアイスバーン状態になってきて、蹴り込んでもステップが切れなくなってくる。斜面も急になってきて、滑落しないように慎重に登り続ける。尾根上の五~六メートルの岩に張り付いたアイスバーンを、連れ合いは直登している。たいしたもんだと感心する。私のほうは、左のほうをまいて登るが、やはりアイスバーンで悪戦苦闘する。アイゼンを持って来ればよかったと、事前の情報収集と準備を怠ったことをつくづく後悔するが、いずれにしても滑落して怪我したり事故を起こさないように慎重に上り続けた。大苦戦の挙句、急斜面を這うように登っていくと、傾斜がやがて緩やかになってきて大天井ケ岳(標高千四百三十九メートル)頂上へ十四時四十五分に到着。普通なら一時間弱のコースと思われるが一時間二十五分かかった。頂上で、苦労の挙句の記念撮影後十分ほど休憩。
休憩後、南斜面を今度は五番関を目指して下ってゆく。南斜面になると、先ほどの苦労がうそのように雪が消えている。快適に行くうちに前方の山上ケ岳(標高千七百十九メートル)、稲村ケ岳(標高千七百二十六メートル)の山並みが一望に見えてくる。連れ合いと同行で、今回は女人禁制の山上ヶ岳には登らずちょうど鞍部にある五番関から洞川温泉に向かう予定である。
やがて、十五時四十分に五番関に到着。五番関には女人結界門があり、その横には女人禁制の説明の看板があり、身の丈以上の大きな置物の錫杖が置いてある。早速記念撮影。女人結界門から入って直登していくと山上ケ岳にいたるが、わが一行は女人結界門を横目に見て、洞川方面へと向かった。
十五時五十五分に林道との出合いに下りてきた。林道との出合いはトンネルの出口近くにあり、ちょっとした休憩所がある。本日の山行も殆ど終りに近づき、あとは舗装された林道を洞川温泉まで歩いていくだけ。この休憩所で十五分ほど休憩しお菓子を食べる。
林道は冬季通行止めで自動車は通らない。このあたりはまだ標高も高く道路の上にはシャーベット状や、日陰のところではアイスバーンの状態で、雪が残っている。早く温泉に浸かりたいので、どんどんと急いで歩くが、時々雪に足を滑らせる。毛又谷という谷道を歩くため、少し早い目に薄暗くなってきた十六時四十分にケマタ橋を渡る。このあたりはまだまだ雪が残っている。暫く歩いて本日宿泊予定の『旅館紀伊国屋甚八』に電話を入れて、「現在ケマタ橋を過ぎてそちらに向かっているので、到着はあと四十分くらいかかる」というと、自動車で迎えに来てくれるという。これはありがたいとお願いした。十分ぐらいすると、やがてワンボックスカーで青年が迎えに来てくれた。
合流地点から、「大峰山(山上ケ岳)の登山口へ行って見ましょう」と、今来た道を引き返し、ケマタ橋を渡らずに、二股になったもう一方の林道を直進し大峰登山口の駐車場、大峰大橋と女人結界門のあるところへ連れてくれた。開山の時期には山伏装束の行者さんでさぞかしにぎやかになるのだろうと思う。売店などが並んでいるが、今は一面に雪が残り、店は戸締りをしてひっそりしている。雪が多く大峰大橋まで行けなかった。自動車はUターンし、再びケマタ橋を過ぎ林道を走った。途中青年から大峰山の登山道の補修作業の苦労話や、昨年弥山への登山道で熊が出たとか山の話をいろいろ聞かせてもらったり、途中にある名水『ゴロゴロ水』の話を聞き、楽しい道中を過ごし十七時十五分に『旅館紀伊国屋甚八』に到着。おかみさんらのお出迎えを受け、まずは何より、早速温泉にゆっくりと浸かった。
 温泉の後、山の幸をメーンとしたおいしいご馳走を頂き、連れ合いと本日一日の反省などを話し、就寝。


 二〇〇五年三月二十二日(火) 洞川温泉の朝の散策から御手洗渓谷へ。

 三月二十二日は曇り空で、雨が降り出しそうな空模様。六時三十分に起床し朝風呂に浸かる。露天風呂に入ると山の冷気が心地よい。昨日の疲れが露天風呂の中に溶け込んでいきそうだ。
 八時においしい朝食を頂く。朝食後、宿で作っている揚げせんべいをお土産に注文し、その後連れ合いと二人で洞川温泉の町を散策することとした。洞川は水がおいしい。きっとコーヒもおいしいだろうと「洞川マップ」などで喫茶店を探したが、二軒ほどあるようだ。早速行ってみたが一軒目は閉店しており、どうも待っても開店する様子が無い。一軒目のコーヒをあきらめて、洞川の町並みを散策し、龍泉寺に立ち寄った。霧のような雨がしとしとと舞っている。護摩壇などもあり、修験道の歴史のある寺のようだ。
龍泉寺を出て、里山を登り、上のほうに架かっている吊り橋を目指した。十分ほどの登りで吊り橋の袂についた。吊り橋を渡りだすと結構高度があり、洞川小学校や、町並みが一望に見える。ここで連れ合いと記念撮影をする。
 吊り橋を渡り、里山の展望台を超えて山をぐるっと周り、「踏み跡」のような道を辿って下へ降りることとした。滑りそうな道の途中に地蔵さんが祀ってあり、地元の人たちの信仰の場なのだろう。やがて里山を降り、民家の裏に出て、犬に吠えられながら一般の道に出た。洞川小学校の角を曲がり、門に続く道をとると二軒目の喫茶店があるのだが、こちらのほうも閉店していて、コーヒを賞味できなかった。
 宿に戻り、土産を詰めたりして準備を整え、十時に宿を出発。本日は御手洗渓谷を歩き、約九キロメーター先の天川川合まで行き、そこからバスに乗り、近鉄下市口から帰路をとる予定。
宿から暫く行くとやがて橋があり、そこは、昨日登ってきた大天井ケ岳から沢を集める小泉川と、毛又谷、大峰登山口からの川瀬谷が一緒になる山上川が合流する場所で、その袂が御手洗渓谷の入り口だ。合流地点から先は山上川となって、山上川に沿った谷が御手洗渓谷で十時十五分に出発。


 御手洗渓谷を歩き、天川川合へ。そこからバスで下市口駅へ。楽しい山行でした。

御手洗渓谷は、洞川から白倉出合が上流部分で、白倉出合から天川川合までが下流部分になる。白倉出合は、洞川からの山上川、白倉山・稲村ケ岳の沢を集める白倉谷、そして行者還岳・弥山・八経ケ岳の大峰連峰の真髄からの沢を集める川迫川、弥山川の合流点で、大峰山の西斜面の水を一気に集めている。白倉出合から先が天ノ川となる。
二〇〇四年の台風で、御手洗渓谷の特に下流部分が斜面の土砂崩れなどでかなり傷んでしまい、復旧が追いつかず、通行できないとの案内掲示が出ている。白倉出合までは何とか行けそうなので、遊歩道を歩いていくこととした。天候は、小雨がしとしとと降っている。山上川は、大小の岩や滝、深い淵や滑滝があり変化に富んだ渓谷を創っている。遊歩道は、最初のうちは整備され、ぶな林の中の散策路などを通るが、やがて岩場やはしご場なども随所に出てくる。暫く行くと舗装路に合流し、アスファルトの道を歩く。稲村ケ岳への登山路のバス停も過ぎ、やがて再び山道へと入っていくが、山道への入り口には、やはり白倉出合より下流は昨年の台風で道が崩落していて通行できない場所があるとの掲示が出ている。山道に入ると、かなり急な岩場の下り斜面や木橋、吊り橋なども出てきて、遊歩道とはいえ、逆の登りなら結構厳しいルートになる部分が随所にある。三組ぐらいのパーティとすれ違ったが、それぞれ結構なアルバイトの様子であった。やがてミタライの滝、ミタライ渕にかかる吊り橋を渡り、十一時二十分に白倉出合に到着した。
白倉出合は、大峰連峰へのアプローチの交通の要所でもあり、駐車スペースと建物がありちょっとした広場である。白倉出合から下流部分は、いくつかの川を集めて天ノ川となる。ここから下流は掲示板にあったように御手洗渓谷の川沿いの遊歩道は通行止めとなっている。見ればかなりひどい崩落が放置されたままであったりして、残念である。
私たちは、対岸の舗装されたバス通りをひたすら天川川合を目指して歩いた。かなり空腹になってきており、宿で聞いた天川川合に一軒だけある食堂で、バスに間に合うように何とか昼食を食べようと、かなりのハイピッチで歩き続けた。約四キロメーターの距離である。途中変電所があったぐらいで、ただひたすら歩き続けていくうちに、ようやく人家が点在して、天川川合に近づいてきた。それからも暫く歩き、十二時十分に天川川合の三叉路に到着し、その「付け根」に食堂があったが、満員のようなので、立ち寄らず。すぐに天川川合のバス停があり、バスを待つこととした。
十二時三十九分発の「大淀バスセンター」行きのバスに乗り込んだ。バスは十三時四十分頃「下市口駅」に到着し、昼食を食べていないので近くのスーパーで弁当などを買い込み、駅で食べる。
十五時四十分発の「あべの橋」行き急行に乗り込み、帰宅の途についた。楽しい山行であった。
                                                                        (完)
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