goo blog サービス終了のお知らせ 

"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑤

2006-07-04 22:47:52 | 遍路
     田園地帯にある「種間寺」

 今回は四国88ヶ所自転車遍路の旅3-4、通算で⑤です。

さて、第三十四番札所「種間寺(たねまじ)」を目指す。三十三番札所からは約八キロメートルある。「桂浜道路」などの高架下を過ぎ、やがて高知市から外れ一面の田園地帯に入ってきた。海沿いの道は灼熱の道だが、田園地帯の暑さは「蒸しあがる」ような暑さだ。このあたりは、人里というより人家が点在し、それらを繋ぐようにして道は辿って行く。しばらく走るとやがて田園地帯の中に小集落があり、そこに「種間寺」があり、午前十時四十分に着いた。微妙な時間である。

「種間寺」は弘法大師が農作物の種を施したことからその名がつけられたとのことであるが、そのロケーションは完璧である。「種間寺」は広くてのどかな田園地帯の真中に、まるでオアシスのように建てられている。ここには近在の人たちが自然と集い、四方山話をする雰囲気がある。本堂は新築され鉄筋作りだが大師堂は古いたたずまいのままである。境内にある売店で遅い朝食代わりに白餡のアンパンを買って食べ、それとパック入りのコーヒを飲んだ。
高知市近郊に入り、第二十八番札所「大日寺」からこの第三十四番札所「種間寺」までは、町中や在所・集落にあり、日常的に近郊近在の人たちに慕われている寺で、自分も子供の頃に体験した原風景のような「懐かしさ」が漂う寺々であった。
春野町を越え、土佐市にある約十三キロメートル先の第三十五番札所「清滝寺(きよたきじ)」に向けて、水分補給用のパック入りの冷茶二本を仕入れ、再び県道から、国道五十六号線へと合流し、走り続けた。しばらく走ると、土佐市との境を流れる仁淀川の橋を渡る。この仁淀川は愛媛県にある四国最高峰石槌山に源を発し、土佐湾に流れ込む清流である。橋の上から河原を見ると、あちこちで大人から幼児まで水遊びをしている。中学生くらいの男子は水めがねで川底を覗き、「ヤス」で魚を狙っていたり、高さ二メートルくらいの、橋桁の段の上から飛び込んでいる。すこし離れたところでは、漁師さんが投網で川魚を獲っている。なんとも懐かしい風景である。私も川遊びに飛び込みたい誘惑に駆られつつ、横目で見ながら、バランスを崩しながら自転車を漕ぎ続けた。
橋を渡りきれば土佐市街地に入るが、土佐市街は道路が良くない。国道五十六号線は道幅が狭くなり、交通量も多く車道は走りづらい。歩道の方も狭くて段差が多くやはり走りづらい。従って、あまりスピードが上がらないままに市内中心部に入り、そこから山の手を目指す。仁淀川の橋上から、山の中腹に小さく建物が見えていたが、だんだんと近づくにつれて、やはりそれが「清滝寺」らしいことが分かってくる。また山登りだ…。
土佐市街から広い国道のバイパスへと走り、その途中に「清滝寺」の大きな案内板があり、それに従って右折し田圃の中の一本道を山の方へと走った。途中工事中の「高知自動車道(高知市からの延長)」のガードをくぐる手前で、先ほどの「種間寺」で追いつかれた、バイクの若い女性が「清滝寺」を「済ませて」降りてくるのにすれ違った。彼女たちは、バイクで八十八ヶ所を回り、掛け軸を五~十本携えて、それらに記帳をしてもらっている。全ての札所の記帳を済ませ、それを商品にするアルバイトをしている。結構そういう人たちをあちこちで見かける。四国八十八ヶ所にはいろんな人たちが集まっている。
午後十二時過ぎに遍路みちの入口に付き、ここで自転車を留め、再び歩いて登山。「清滝寺」は麓からは良く見えているが、いざ登山するには小さな峰を一つ越した向うにある。何も考えず、口でリズムを取りながら一心に登る(ちなみに、昔から山を登る時の私のリズムは、古いようだが『何だ坂、こんな坂、何だ坂、こんな坂…』である)。一気に登りきると、やがて仁王門に着いた。この寺の仁王門には「清滝寺仁王門」の木札が立てられ、古刹の雰囲気の良い門だが、車道を登ってくればわざわざ脇道に立ち入らなければ通過してしまうようになっている。歩き遍路さんをねぎらう、ウェルカム・ゲートのような設定が、本意はどうあれ実に気持ちが良い。十二時二十五分に標高約百五十メートルの境内に着いた。山寺であり麓から良く見えたように、境内からは開けていて明るい。本堂や大師堂は土佐市の町並みをいつも見守っている感じだ。本堂の横に高さ十メートルぐらいの「平和観音」が土佐市の方を向いて建立されている。「清滝寺」は、その名が示すように本道の右横手に「清滝」が軽やかな音をたてて流れている。きれいで冷たい水なのだが湧水ではなさそうなので、うがいだけにして飲むのは止めた。境内では中年男性の歩き遍路さんが体を拭いている。もう一人の地元のお年寄と思うが床机の上で午睡をしている。そのうちミニバイクに乗った初老の男性の遍路が登ってきて、参拝を始めた。札所の寺はそれぞれの模様をした人が絶えない。
納経所を出て景色を見ると、土佐市が一望である。左端には仁淀川が悠然と流れ、はるか土佐湾に注いでいる。

今回の旅は甲浦から南下し、室戸岬を回り込んで北上し、土佐湾東半分を走りきり、今土佐湾西半分に入っている。「修行の地」土佐に残っている寺はあと三十六番「青龍寺(しょうりゅうじ)」、三十七番「岩本寺(いわもとじ)」、そして足摺岬の三十八番「金剛福寺(こんごうふくじ)」、三十九番「延光寺(えんこうじ)」の四札所の寺である。しかし、その距離は足摺岬まで遍路みちでまだ百六十キロメートル以上ある。

実は今回の自転車遍路は次の家族旅行の予定が控えており、八月九日中には帰阪しなければならない。現在八月八日午後一時である。九日中に帰阪するには九日の午前十一時二十分足摺発のフェリーに乗るか、それともここから高知に戻り、本日夜高知港発のフェリーに乗り明日の早朝大阪南港着で帰るかの選択が迫られている。足摺まで行くには、札所は少ないが距離が長いため、野宿にしてかなり夜を費やして走れば何とか間に合う距離かもしれない。しかし、三十七番窪川町の「岩本寺」は納経所の記帳の時間には入れない。朝七時の記帳まで待っていると、そこから八十キロメートル以上先の足摺午前十一時二十分発のフェリーの乗船手続の時間にはとても間に合わないのだ。
思案の末、今回は「清滝寺」でいったん断念し、三十六番札所以降は次回に挑戦することに決めた。その理由は、第一にこれから先は未知の旅であること。地図を見れば窪川町付近を通過するのに標高三百メートル程度のアップダウンが連なっている。道路の状況もわからない。そのような状況で夜間走行するのに、現在の自分のスキルとフィットネスで、最悪の条件であった場合無事に乗り越えれるかどうか予想がつかない。厳しく考えた方が良い。第二に、お尻の痛さに忍耐の限界が耐えうるかどうか、これはつらい。第三には、そんなに「悲愴感」に溢れて考えなくとも、あと一日あれば楽勝だったのだし、次回来るときは土佐湾西半周をゆっくり楽しみ、四万十川ででもリラックスしよう。今回無理すれば、四万十川はフェリーの時間を気にしながら、夜明け前に通過するだけではないか。などと、『明日があるさ』とポジティブに考えることにしたのだ。

「清滝寺」から、土佐市と悠然と流れる仁淀川の風景を見ながら旅の終章の余韻に浸っていた。清滝の水で汗臭いタオルをすすぎ、何度も体を拭いた。さあ、高知へ向かって帰路をとろう。

土佐市に下りて、「ざるうどん」(四国では「ざるそば」でなく、やはり「うどん」である)を昼食に摂り、国道五十六号線から県道、再び国道へと走り、遍路みちとは異なった、ショートカットの道を、帰り道だから比較的のんびりと走った。とはいいながらも途中春野の運動公園(西武球団のキャンプ地)に寄り道したりしながら、結局午後三時過ぎフェリー乗り場に到着。乗船手続は午後八時からで、時間はたっぷりある。
少し休憩したあと、桂浜の「坂本竜馬記念館」にタクシーで行くことにした。入場が午後四時三十分までなので、自転車では間に合わない。
桂浜にある県営の「坂本竜馬記念館」は、野市町「龍馬歴史館」と違って、たっぷりと竜馬に関わる資料があった。竜馬は、大変「筆まめ」だ。取り留めの無いことを冗談いっぱいにして乙女姉さんや親戚の女の子に手紙を書いたり、文中「それから」「それから…」を何度も何度も繰り返したり、そのような中に文脈の節々に竜馬の家族愛と人間性がにじみ出ている。封建制の時代に、船中八策で「広く会議を起こし公儀万論に付す」という、のちの「五箇条の御誓文」の原案を作成しブルジュア議会を提案したり、日本で始めての国際商社である「亀山社中」を株式会社で起こしたり、新しい技術や文化に貪欲であったり、政治、経済、文化いずれも一つの時代を超克した革命的発想(封建制から資本主義へ)をなし得る感性をもった、いわば一種の天才であったのだろう。
「坂本竜馬記念館」見学の後、バスで「はりまや橋」まで戻り、私が民間会社の営業で高知へ出張したときに、よく寄った「お好み焼き」屋さんで夕食を食べた後、フェリー乗場に戻った。
折から、天をひっくり返したような猛烈な夕立が降ってきて、フェリー待合のテレビのニュースでは高知県でかなり広範囲に降っており、所によっては雷で停電の被害が出ているとのこと。フェリーの待合室の窓からも強烈な雷の火柱が立つのが連続して見えた。後で分かったのだが、翌朝2001年8月9日早朝に、「土佐の一本釣り」「鬼やん」等のふるさと土佐を愛し続け、我々の青春時代に男心を奮い立たせるような劇画を書き続けてきた、「土佐久礼(くれ)」出身の漫画家 青柳裕介さんが、癌のため56歳で死去したとのこと。他の漫画家が『青柳さんの涙雨』と表していた。
万感をぶつけるような、激しい雨を待合の窓越しに眺め、2001年足摺への旅を続けておれば、今頃少しつらい思いをしているだろうと、ふと思った。

 (この章終わり・・・次回から四国88ヶ所自転車遍路の旅5-1スタート)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国88ヶ所 自転車遍路の旅④

2006-07-04 00:39:03 | 遍路
 南国土佐で「雪渓寺」・・・?

 本日は、四国88ヶ所自転車遍路の旅の④です。
野市町までくれば、南国市を挟んで高知市まではあとわずかだ。土佐湾としばし離れ、南国市にある、第二十九番札所「国分寺 (こくぶんじ) 」を、さらに目指す。南国市の中心部には土佐電鉄の路面電車が走っており、その終点の「ごめんまち」にある交差点から山手の方へと向った。このあたりには遍路みちの道標もなく、地図を片手にまさしくオリエンテーリング。JR土讃線「ごめん」駅横の踏切を越えると、やっと「国分寺」の看板があった。午後三時四十分に「国分寺」着、この寺は南国市はずれの田園地帯の里にあり、山門には高い階段も無く気軽に入れる。田園地帯の静かな里にあるとはいえ、境内は苔生した庭であり、おばさんが二人で苔の間の雑草をむしっていた。本堂・大師堂は立派な茅葺きの屋根である。納経所でここから約七キロメートル先の第三十番札所「善楽寺 (ぜんらくじ) 」に間に合うか尋ねると「大丈夫。自転車なら間に合います」とのこと。八十八ヶ所の寺は全て納経所での記帳の時間が、午前七時から午後五時までとなっている。
おそらく本日の最終となるであろう「善楽寺」までをひた走った。道は国道三十二号線となり、岡豊城址や高知医科大学の前を通過し、高知自動車道の高い高架の下を縫うように走っていった。道中の石材店の入口に清潔で心のこもった「お遍路さん接待所」があったが、時間が無いので素通り。何回目かの高架を横断すると長い上り坂があり、本日最後のアルバイト。上りきったところのバス停に「逢坂峠」と記してあった。そこからは一気の下り坂だが、途中右手に登る方に「土佐神社・善楽寺」の看板が出ていた。再び小さな坂道を一気に登りきり、自然と左へカーブすると、右手に「土佐神社」そして左手に「善楽寺」が見えてきた。午後四時四十分「善楽寺」着、この寺は以前はJR高知駅に近い「安楽寺」と二箇所で三十番札所となっており、「遍路迷わせの三十番」といっていたそうで、現在では「安楽寺」は「奥の院」となっている。
「善楽寺」で納経帳に記帳を頂いていると、バスツアーの遍路が団体でやってきた。時間切れ寸前なので、大急ぎで読経を始め、添乗員は納経帳や掛け軸を取りまとめて納経所へと急いだ。
この日は、第三十番札所からJR高知駅近くまで足を伸ばし、以前会社で営業をしていた頃に泊まったことのあるビジネスホテルに宿泊。
明後日九日中には、次の予定のため大阪に帰らねばならない。そのためには明八日夜高知港発のフェリーに乗るか、それとも明後日九日午前十時頃までに足摺岬まで辿り着き、午前十一時二十分足摺発のフェリーに乗って帰阪するか、決断が迫られる。スキルとフィットネスと根性と「お尻の痛さ」に対する忍耐の限界、それぞれが思案のしどころである。


県営の無料のフェリーで「浦戸」を渡る。高知の町のお寺では、長宗我部
元親と山内一豊が平和共存。広大な土佐湾の西半周に踏み込んだ。
石槌山を源とする清流仁淀川を見下ろす「清滝寺」で、長思案…

八月八日午前六時十五分、宿舎を出発して第三十一番札所「竹林寺(ちくりんじ)」を目指した。早朝の「はりまや橋」等の高知市の繁華街を通り抜け、中心部から南東部の五台山公園の山頂に「竹林寺」がある。ジョギングやウォーキングをする人、コンビニの配送をするトラック、早い出勤の自動車・バイク等で、高知の町が蠢き出している。それぞれの街や村の「生活のにおい」に浸りながら走るのが好きで、それが自転車の旅の魅力のひとつである。高知には高知らしい空気が、朝の営みの中に感じられる。
潮の香りが漂う、浦戸湾に注ぎ込む久万川の青柳橋を渡るとすぐに、五台山公園の山麓となる。山麓から「竹林寺」の看板に従って車道を登りだすとすぐに「遍路みち」の案内があった。そこに自転車を留め、遍路みちへの登山を開始。遍路みちは古道でありその両側は、苔むした古い由緒のありそうな墓やら、代々続く家柄の墓、「伊達伊織の墓」などの間を通って行く。しばらく登ると車道に合流し、開けたロータリーの広場があり「五台山公園」と書かれた、大きくて立派な石のモニュメントが据えられてある。そこから車道を歩いて「竹林寺」へ行くのだが、その両側もやはり延々と墓が続く。最近区画整理がされたところも一部にはあるが、大部分は昔からの雑然とした墓地で、おそらく上級階級が、土葬の場所に墓碑を建立しだした頃からの埋葬地であったのだろう。現在は全山が墓地公園として整備されているようだ。「竹林寺」には午前七時三十分に着いた。すぐ隣にはTV塔がある。寺の境内の標高は百二十メートルほどあるだろうか。寺の名に反して付近には竹林は無い。本堂と大師堂が向かい合って建立されており、あまりこういう配置は見かけない。大師堂は茅葺屋根で、立派な山門も含め古刹の風格がある。特定の菩提寺という感じでもなく、昔から上級階級に開かれ、彼らがよく参詣した寺というような雰囲気がする。納経所の記帳は、寺の僧のような男性であった。記帳の間に曇天の空から、ぽつぽつと小さな雨が降り出した。
雨は、ところどころで「にわか雨」となっていたのだろう。熱くなった道路に溜まった、生暖かくて新しい水溜りがあちこちにできている五台山麓の道を下田川沿いに走り、三つ目の信号を右折し、橋を渡り南の方を向いて道を取り第三十二番札所「禅師峰寺(ぜんじぶじ)」(又は単に「峰寺(みねでら)」)を目指した。「禅師峰寺」への道中には、里山の山間に武市半平太の生家が保存されており、その周辺の里の雰囲気に土佐藩幕末の歴史ロマンを感じさせる。しばらく走ると左手の登り道をとり、里山のトンネルを超えると再び高知市から南国市に入り、閑静な住宅街。その中心部にかなり大きな蓮池があり、そこは濃いピンクの蓮の花が一面に満開であった。蓮池を過ぎると目前に伽藍が見えるのだが、それは天理教の教会で、第三十二番札所ではなかった。伽藍を過ぎ、集落の中を通り抜けると海岸近くの道に「禅師峰寺」の看板があり、それに従っていくとやがて遍路道の登山道に着く。集落の石材加工の工場の近くに自転車を留め、約十五分の登山で、午前九時前に仁王門に着いた。「禅師峰寺」は集落に囲まれた里山の上に建立され、標高は六十~七十メートル位と思うが、海岸に近く、土佐湾が一望である。里山と海岸の間は、びっしりと隙間無く耕された畑で、既にほとんどが収穫されているが、近郊野菜を作っているのだろう。海辺の砂地の畑はおそらく「らっきょう」を作っていると思う。境内では、「寺の主」然とした三毛猫が寝ており、その横では遍路さんが水彩画を書いていた。
ここから、第三十三番札所「雪蹊寺(せっけいじ)」へ向う。集落の中の旧街道を抜け、しばらく行くと一転して築港の新しい道を走る。朝、にわか雨があったが天気はすっかりと「回復」し、本日も猛烈に暑い。築港の新しい道には木陰も無く、埋立地の照り返しの中を、「浦戸大橋」の案内板に従って走った。しばらくいくとやがて旧市街地となり、浦戸大橋の入口に着き、そのまま橋に登ろうと思ってこぎ出すと、「自動車専用道路」と書かれてある。この橋は浦戸湾の入口をまたいで桂浜へと続くが、自動車専用の有料道路となっており、自転車では通行できないようだ。
橋の入口を右折し、浦戸湾東岸の旧市街の商店街を走っていると、「県営フェリー乗場」の案内板があった。このあたりにも、第三十三番札所の看板は無く、オリエンテーリングの直感でフェリー乗場に辿り着いたようなものだ。防潮堤の一部を切り取ったようなところの向こうに、海に向かって「浮き桟橋」のようなものがある。係りのおじさんの指示に従って「浮き桟橋」に自転車を乗り付けた。そこには軽自動車が三~四台、ミニバイク、自転車等近所のおじさん、おばさん、夏休み中の高校生、営業マンらしき人たちがおよそ十四~五人乗っており、生活感に溢れている。軽自動車が六~七台乗れば、もう一杯となりそうなスペースだ。係員が『出発します』というので、どうすればよいのかと思っているうちに足元から動き出した。「浮き桟橋」と思っていたのが、実はフェリーだった。県営のフェリーは無料で、県民の足代わりに浦戸湾を横断してくれる。小さな船だが潮風が心地よく、後方にははるか高く巨大な浦戸大橋が聳えているが、並走するでもなく、浦戸湾の内部に食い込んで行くように、橋から遠ざかっていく。(県民税も払っていないのに無料とは気が引ける)
ものの十分もしないうちに、対岸の浦戸湾西岸のフェリー桟橋に着いた。桟橋からは、戦前から続いていると思われる旧い町並み。やがて商店が点在しだし、まもなく午前十時前に「雪蹊寺」に着いた。「雪蹊寺」は街中の古刹で、本尊は地蔵菩薩。街に溶け込んだ、ほのぼのとした寺だ。境内に東屋のような休憩所があり、中年男性の歩き遍路さんが昨日来の野宿の続きか、又は時間的にはちょっと早い午睡中。それと、もう一人昨日までとは別人の、やはり中年男性の自転車遍路さんに出会った。自転車遍路さんは、東屋で汗びっしょりの体を拭いていた。お二人とも寡黙な感じの方であった。
「大日寺」「地蔵寺」「薬師寺」等の寺の名前は、大日如来、地蔵菩薩、薬師如来等の御本尊に因んでいる。四国八十八ヶ所札所にも各県に一つずつある「国分寺」は聖武天皇の施策で建立されたものあるいはその縁、「薬王寺」等は厄除けや快気祝いのお礼まいり、また「最御崎寺」「津照寺」等は岬や港にあったり、あるいは地名に因んだりする寺の名はそれなりに情緒と意味合いがある。ただ、この「雪蹊寺」についてはこの南国土佐という地で、雪には余り縁が無いであろうに、どういう由来なのか興味があった。納経帳に記帳して頂いているときに、その由来を納経所の婦人に聞いてみた。


「高知県で雪が積もるわけでも無いと思いますが、寺の名前はどういう由来ですか。」
ご婦人
「この寺は、昔から長宗我部家の菩提寺で、長宗我部元親さんの戒名に『雪蹊』という字が使われ、それに因んで寺名にさせていただいております。」

「それでは、大坂夏の陣以後、山之内一豊さんが猛妻のお千代さんと、土佐藩主で赴任されたとき、旧長宗我部家や地侍はかなり弾圧されたと言われていますが、このお寺も大変だったのではないのですか、ましてや元親さんの戒名を使用しておれば。」
ご婦人
「当寺の住職で『月峰(げっぽう-発音のまま)』さんという方がおられて、大いに奔走され、お寺は長宗我部家の菩提寺として何とか存続させ、のちには山之内家もお祀り致したそうです。」

「そのかわり幕末から明治維新では、雪蹊寺さんは、大いに盛り上がったのではないですか。」
ご婦人
「それは、あまり存じていません。」

そのような話をしながら、ご婦人は地蔵盆の町内への奉加帳の整理に忙しそうであったので、話に付き合って頂いた礼を述べ、納経帳を頂いた。
個人的な思いだが、「雪蹊寺」という名はかなり後から「復活」したのではないかと思う。四国を統一した勇猛な武将の長宗我部元親と、関ヶ原では日和見を決め込んだとはいえ大坂夏の陣で豊臣方の武将として壮絶な討ち死にをした息子の盛親等の菩提寺である。その直後徳川家康に褒賞を受け土佐藩を拝領して、土佐藩主として着任した山之内一豊が、寺の名前に怨嗟の敵大名一族筆頭の戒名を認めるはずがない。それどころか、旧長宗我部に属した武士たちを弾圧し、郷士として幕末に至るまで差別したと言われている。私の想像だが、多分幕末から維新の時に復活した名称ではないかと思う。幕末から明治維新の歴史の先駆けとなった、薩摩藩(島津家)・長州藩(毛利家)・土佐の下級武士(郷士)のポテンシャルは「関ケ原や大坂の陣の恨み」を大いに引きずっているに違いないだろうし、支配者は大変な抑圧を強いてきた。それにしても、納経所にいたご婦人も、手伝いのご夫人も誰もどちらの悪口も言わない。この町の人にとっては、山之内さんも長宗我部さんも『月峰』さんもみんな寛容に受け入れ、気持ちの中で、「平和共存」しているようだ。初めて聞いたのだが『月峰』さんとはどのような僧侶であったのか、町の人たちは大変敬愛しているようで、少し興味が残る。

                             (続く)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国88ヶ所 自転車遍路の旅③

2006-07-02 22:35:41 | 遍路
 本日は、四国88ヶ所自転車遍路の旅の3-2、高知県の2日目の旅です。

 はじめて「お接待」を受け、嬉しかった。名古屋からの「自転車遍路」さんに
赤色の「納め札」を貰う。安芸市では野良時計、武家屋敷跡等に道草し野市
町では「龍馬歴史館」に立ち寄り、いよいよ土佐の歴史に浸りながら走る。

八月七日は、朝六時三十分にスタート。奈半利の町を抜け、第二十七番札所「神峰寺 (こうのみねじ) 」を目指した。二十六番札所から二十七番札所までは三十キロメートル以上あるが、奈半利からは十キロメートル程度である。国道から遥か右手の山の上になにやら搭が見えるが、おそらくあれが「神峰寺」であろう。国道から道標に従って右手に入り、小さなく川沿いに集落を抜け、午前七時三十分に集落の途切れたあたりに自転車を留め、そこから歩いて登山を開始した。十五分ほど登ると車道から別れて遍路みちが有り、それを辿り何回か車道と交叉し、それらを横切りながら、標高五百メートル以上を大汗をかきながら登りきり、八時十五分に「神峰寺」山門に到着した。大阪の高槻に「神峰山」と書いて「かぶさん」と読む「ポンポン山」に連なる山があり、神峰山寺(かぶざんじ)という寺もある。この寺もてっきり「かぶじ」とでも読むのかと思っていたが、もっと「まろやかな」感じのする読みであった。
「神峰寺」は、名水「神峰の水」が湧き出ており、飲用や浄めの水に使われている。手を清め、うがいの後一口飲んだが、湧水特有の甘さが疲れを癒す。本堂へは石段を登り左手へ、大師堂は本堂から右下へ少し行くのだが、石段をはさんで二つの堂の方に向ってさつきや紫陽花が見事に植えられ、丹精に手入れが行き届いており、驚嘆した。今まで回ってきた札所のうちで、境内がクローズでない庭園ではこの庭園が一番こまやかな手入れの行き届いた庭である。本堂からは、遥か過ぎてきた奈半利町から、室戸湾が一望である。納経所へ戻ると、記帳は中年の婦人であり、庭園の見事さに感激した旨を話すと、三十年以上かけて造園し続けてきたとのことである。このご婦人から、「歩き遍路さんや自転車で遍路されている方に、ご接待させて頂きます」と、よく冷えた西瓜を頂戴した。その美味しかった事は当然であり、その日の何よりの朝食となった。思わず合掌。「神峰寺」の奥には神峰神社があり、その先に町営の公園と展望台があるのだが、公園展望台は余り手入れがされていないようなのでパス。わざわざ立ち寄らなくとも、「神峰寺」から、町や室戸湾が一望できる。麓から見えた「搭」は、町営の展望台のようだった。
記帳を頂いて、下山をしていると後ろから「暑いやろ」と声を掛けられた。振り返ると昨日二十六番札所の遍路みちで出会った、名古屋からの「自転車遍路さん」がママチャリを押しながら追いついてきた。三十年以上農協勤めをしながら百回以上遍路に来ており、十回以上八十八ヶ所を回りきったとのこと。汗を拭き拭き、いろいろと話してくれた。

私、
「自転車を押して登ったんですか。昨夜は、何処へ泊まられたのですか。」
自転車遍路さん、
「山門のすぐ下の、見晴台の東屋で野宿した。」
「最近のバスやタクシーでのツアーやマイカーでの遍路は、駄目だ。遍路というのは修行だ。自分 が始めだした頃は、『本物の遍路さん』ばかりで、それは厳しいものだった。」
私、
「しかし、このブームでお寺さんにとっては財政的に助かる部分が多いのではないのですか」
自転車遍路さん、
「あの人たちは、ツアー会社に金は落とすがお寺にはお賽銭も入れない。納経帳や掛け軸への記帳も添乗員がまとめて、団体窓口で記帳をして貰っている。大勢いるのと、次の予定があるので掛け軸などの記帳後はドライヤーで急いで乾かしている。」
私、
「納経料が入るのではないですか。」
自転車遍路さん、
「そんなものはしれている。掛け軸もドライヤーで乾燥させるものだから後で変色するし、有り難味も何も無い。ただ、それにしてもあの人たちは、読経がうまい。何処で練習するのやら。」

というような会話をしながら下山中、自転車遍路さんが赤色の「納め札 (八回以上遍路を完遂した人が、寺に納めたり、お接待を受けた時に差し上げる赤色の御札で、七回以下は白い御札) 」をくれた。ありがたく頂戴した。人の好い、まっすぐな感じのお遍路さんだが、多少怒りっぽい。まあしかし、結構なスピードで登ってくるクーラーの効いたタクシー (二十七番札所は、車道も狭いので、ツアーの遍路さんは麓のドライブインで、バスからチャーターのタクシーに乗り換えて登ってくる) とギリギリにすれ違うと、こちらは汗を拭き拭き歩いており、余りいい気はしない。昨日と同じツアーの遍路さんに、今日は朝一番で追いつかれてしまった。その後は、先へ先へと急がれるのだろう。私は自転車を留めてある麓で、名古屋の自転車遍路さんと別れ、三十八キロメートル先の第二十八番札所「大日寺 (だいにちじ) 」を目指した。
再び国道五十五号線をひた走るのだが、この国道五十五号線を何度も交叉して、現在「土佐くろしお鉄道」が高知市から安芸市を貫き奈半利町まで建設されつつある。実は、この先安芸市から夜須町まで約十四キロメートルにわたって、自転車専用道路がある。これは現在では「遍路みち」「四国の道」とされ、歩き遍路さんや自転車遍路にとっては交通が安全であり、大変ありがたい道ではあるが、かつての土佐電鉄の廃線跡を活用しているとのこと。ローカル駅や鉄橋の跡、トンネル等に風情が残るが、再び第三セクターで膨大な公共投資をつぎ込んで、同じ路線跡と並行して新しい鉄道を新設するのは大変な浪費ではないだろうか。もちろん新しい鉄道は、地元住民のインフラ整備としては大変結構な事ではあるが、かつてモータリゼーションの普及という事で赤字路線を廃線にしてきたことを、どのように今後に教訓化しているのだろ。ちなみに、室戸岬も足摺岬も、現在は鉄道も高速道路も整備されておらず一般県道、一部観光道路が唯一の血脈のアクセスロードである。
海沿いの道をひた走っていると、道中『寅さん地蔵-寅次郎花へんろ-』などの看板が出ている。二十一世紀に寅さんがこの街で、どのように息づいているのか興味が湧いて、寄ってみたかったが時間が無く、それを過ごし国道五十五線沿いのレストランで、結構ボリュームの有る「とんかつ定食」を早めの昼食とした。後で分かったのだが、この地は『男はつらいよ』の第三十九作目の撮影地として決まっていたのだが、主役の寅さんこと渥美清さんの急逝により、中止になったとのことである。その時に誘致運動の中心となってきた日本共産党の市会議員さんたちが、浄財で記念のために建立したとのことである。
さらに走り安芸市に入った。安芸市で寄り道をする。自由な旅の気楽さである。国道を外れ、安芸川の土手上の県道を走った。あたりは田園地帯で、県道の看板に「童謡の里安芸・内原野公園・書道美術館・土居武家屋敷・野良時計」等が記されている。自由な旅ではあるが、日程の都合もあり武家屋敷・安芸城址・野良時計をざっと見て廻った。少し足を伸ばせば、岩崎弥太郎生家もあるのだが、今回はパス。土佐・高知は幕末に幾多の人材を輩出したが、こののどかで、温和な気候の田園地帯で下級武士たちは豊かな想像力を磨いていたのだろうかと思うと、心和んでくる。
安芸市のはずれに、国道五十五号線から現在建設中の「土佐くろしお鉄道」の高架線を挟んで、安芸市営球場通称タイガータウンがある。十年ほど前までは私も熱烈な阪神タイガースファンであったのだが、今ではすっかり熱も冷め、『市の風景の割には派手過ぎる球場や室内練習場だ』と思いつつ素通りした。しばらくして自転車専用道路に入り、一路二十八番札所へと向った。この道路は殆どが海岸沿いを走り、猛烈に暑い。所々松並木があり、トンネルがあって一瞬の間涼しい所もあるが、殆どは灼熱の海岸沿いであり、真夏の自転車こぎは本当に大変である。
海水浴場 (琴が浜) を過ぎ、途中一度国道に合流し、しばらくして再び自転車専用道路に入り午後一時過ぎに自転車専用道路の終了点と思われる香宗川に差し掛った。そこで右折しふたたび国道五十五線を走り、やがて野市町に入ってから県道へと右折。野市町の市街地を抜けて、午後二時に「大日寺」着。県道から山門に続く石段は、かなり古びている。石段をしばらく登り、車道に合流すると「大日寺」の山門がある。この山門もかなり古いが、境内に入ると、本堂・大師堂は最近改修されたとの掲示があり、瀟洒な建物となっていた。本尊は大日如来。
納経帳への記帳を頂いた後、「大日寺」への道すがらにあった龍馬歴史館に再び寄り道することにした。野市町の龍馬歴史館は、民間の歴史記念館で多少入場料が高い (千五十円) 。歴史的に重要な資料等が残されているわけではなく、蝋人形が大量に陳列してあった。蝋人形はなかなか精巧に作られていて、臨場感もありそれなりに面白い。しかし、後半三分の一くらいにあった『新撰組と近江屋の事変』以降は龍馬の出番も無く、だんだんと現代風になってきて、「ヤルタ会談」情景や、ついには楊貴妃やクレオパトラまで (小野小町もいたと思う) 登場してきた。ただ、蝋人形を展示しているせいか冷房は良く効いており、延々と土佐湾東半分を自転車で漕ぎ上がってきて、火照った身体にはよい冷却とはなった。

(続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国八十八カ所 自転車遍路の旅②

2006-06-29 22:13:15 | 遍路
 本日は、四国八十八カ所 自転車遍路の旅の②です。全体の文書の中では、徳島県の行程にあたる1-2から2-3までが未だ『工事中』ですので、いきなり飛び越えて、高知県の3-1へと行きました。
 いろんなレポートがありますので、お読みください。

四国八十八カ所 自転車遍路の旅 3-1

二〇〇一年八月五日、午後三時自転車に乗って茨木市の自宅を出発し、夜十一時二十分大阪南港発「甲浦 (かんのうら) 」経由「足摺」行きのフェリーに乗り、四国を目指した。今回の計画は徳島と高知の県境にある町「甲浦」から、「足摺」を目指す全行程約三百七十キロメートルの旅である。但し、今回の計画は、次の予定があるため日程が九日中には帰阪する必要があることと、自転車をフェリーに積んでフェリーで帰ること、要するに自動車やJRは利用しないので、エスケープやショートカットが出来ず、一切自力でやり遂げる必要がある。かなりハードな行程であり、もし予定通り行けなかった時は何処かで、何らかの『断念・中断』の判断をし、帰阪しなければならない。
「甲浦」には定刻の六日午前四時二十分に接岸、あたりは未だ真っ暗。大阪南港から乗船したのはかなりの数の車両と人だったが、「甲浦」で下船したのは、トラック五・六台と釣り客やサーファーあるいは営業の自動車五・六台、全部で約四~五十人程度だった。「JR高知駅」行きの路線バスが待機しており、それに地元の人と思われる七・八人が乗り込み、つかの間の着船時の喧騒はあっという間に過ぎ去った。これから、長い未知の「修行」の旅が始まる。


南国土佐は、稲刈りが始まり、はや農繁期の真っ只中。田園地帯の小高い山
の寺で、名古屋からの「自転車遍路」さんに出会った。

ひたすら、月明かりに導かれ、潮騒の音が激しい太平洋を左に感じて国道五十五号線を一路南へひた走った。午前五時頃だんだんと明るくなってきた。しかし、八月六日の朝は曇天で、残念ながら御来迎を見ることは出来なかった。どうせなら、一日中曇天が続いてくれれば走りやすくて良いのだがと思いつつ…。
海沿いの国道は、いくつかの小さな漁村を貫いてゆく。第二回の時に買った「同行二人」と書かれた頭陀袋を掛けているせいか、村のお年寄りが時々「ご苦労様です」「おはようございます」と声を掛けてくれるのが、全く不信心の私にはすこし気恥ずかしい思いがする。
一度の小休止をはさみ、午前六時四十五分に弘法大師が修行を積んだといわれる、「御蔵洞(みくらど)」に到着した。ここまでくればもう室戸岬の先端に近く、太平洋も雄大に拡がる。「御蔵洞」の中に入ってみると、小さな蟹と釣り餌になる“ゴカイ”がうんざりするほどたくさん生息しており、生くさい。この場所で修行するには、まず蟹と“ゴカイ”を掃除しなければどうにもならん、などと思った。さらに行くと、室戸岬遊歩道入り口の看板がいくつか並び、岬の最先端の部分には中岡慎太郎の銅像が遠く太平洋を睥睨している。この辺まで来ると、道中は「修行」の道と打って変わって観光地の雰囲気だ。
更に行くと室戸スカイライン入り口があり、その道端に自転車を止めてスカイラインを登り、第二十四番札所「最御崎寺(ほつみさきじ)」を目指し、遍路みちへの登山を開始した。この頃には早朝の曇天もすっかり晴れ上がり、猛烈に暑い。いくら冷茶を飲んでも次から次へと汗に変わる。道中、若い男性で元気一杯の歩き遍路さん (袈裟を着ており、修行の僧と思われる)が降りてきて、すれ違いに軽く挨拶。しばらくすると、今度は中年の男性の歩き遍路さんとすれ違った。最近歩き遍路がちょっとしたブームになっており、このような過酷な夏でも必ず出会うものだ。とくに、今のような朝の時間帯は、未だ活発に行動しているので、よく出会う。つづれ折れの道を汗を拭き拭き上りながら見晴らしの良い所から下を見ると、先ほどすれ違った元気な若い歩き遍路さんは、はや海岸の道を室戸の街の方へと、軽やかに歩いてゆくのが見えた。
「最御崎寺」には、午前八時に着いた。この寺は、室戸岬に突き出た小山の先端から、室戸岬灯台、海上保安庁の観測所と並んで建っている。昔から海の安全を祈願した地元の人たちの思いが、そのたたずまいから伺える。標高百メートルは越えていると思う。境内は明るく、本堂や大師堂は古刹の雰囲気であるが、境内の端の駐車場に面している所には、コインランドリーも備えた近代的な「遍路会館」が造られている。記帳を頂いて下山。次を目指して再び自転車に乗った。
「紀貫之寄港の港」と書かれてある石碑が室津港という小さな港町に建立されており、『おとこがすなる日記というものを女もしてみむとてすなり』だったと思うが、土佐日記の最初の一節を思い出した。
 
 第二十五番札所「津照寺(しんしょうじ)」 (または単に「津寺(つでら)」) は、 その石碑に近い所に山門がある。「津照寺(津寺)」は山の上ではなく街中の寺である。それでも百二十段を超える石段があり、上りきれば街が見下ろせる。この寺は豊漁や漁の安全を祈願する地元の人たちに慕われ続けてきた寺なのだろう。参道に並ぶ寄進を記した石柱の何本かに、漁船の名が記してあった。地元の船主さんからの寄進であろう。「津照寺」の山門は朱塗りで、唐風のモダンな感じがするが、ちゃんと仁王さんも鎮座しており、本堂はやはり古刹の寺である。「ヂイヂイヂイ…」という暑苦しい油蝉の鳴き声のうるさい木の陰で、地元のお年寄りと顔見知りと思われる歩き遍路さんが談笑していた。
続けて国道五十五号線を辿ってゆくのだが、午前十時前に道中のドライブインで遅めの朝食を食べた。甲浦で下船をして以降何も食べておらず、ボリュームのある漁村風朝定食を一気に平らげた。室戸半島の先端部に近いこのあたりは、山が海岸線に迫っており余り大きくない平野部の殆どが、水田となっている。未だ真夏の盛りに少し前というのに、その水田のあちこちで稲刈りを盛んに行っている。当地は二期作の国だから、早米の稲刈りかと思ったが、「米あまり」の昨今、二期作はほとんどしていないはずだ。それでも昔からの習慣もあってか、南国土佐は早稲の稲刈りで、今は農繁期であった。
第二十六番札所「金剛頂寺(こんごうちょうじ)」は海岸線から田園の中の道を辿り、小集落を抜けた所に遍路みちと車道の分岐があり、そこから遍路みちを標高百メートルほど登った山頂にある。集落を抜けるとき、農家のおばあさんに『ご苦労様でございます』と挨拶をされるが、実は不信心であるので気恥ずかしい気持ちがしているのだが、反射的に『ありがとうございます』と答礼する。遍路みちをしばらく漕ぎ上がり、やがて道端に自転車を止め、歩いて遍路みちを辿った。しばらく行くと、上から自転車を支えながら中年男性が降りてきた。すれちがいざまに挨拶をかわすと、どうやら『自転車遍路さん』らしい。それも、私のような不信心な人間でなく、「正真正銘」のお遍路さんのようである。
約十五分の登山の後、「金剛頂寺」山門に至る厄坂の石段に到着した。この寺は、他にも見られる“厄除け”の寺のひとつで、秘蔵の薬師如来が本尊である。「最御崎寺」を「東寺」と呼び、「金剛頂寺」を「西寺」とも呼ぶそうである。納経所の記帳は珍しく若い僧侶 (修行僧のようであるが) であった。木陰で歩き遍路さんが休息をいれており、私も汗びっしょりのタオルを浄めの水で洗っていると、山門の方が急に賑やかになってきた。観光バスでのツアーの「八十八ヶ所遍路」の人たちだった。おそらく朝の九時過ぎに室戸岬あたりの旅館を出発し、追いついてきたのだろう。他にも自動車で「八十八ヶ所遍路」をする人たちもかなりいる。「お遍路さん」にもいろんな形があるのだ。但し 「自転車遍路」さんは、昨年から八十八ヶ所参りをはじめて、実は本日初めて出会った。殆ど見かけない。
「金剛頂寺」を下山すると正午少し前。しばらく間、灼熱の土佐湾沿いの国道五十五号線を走ると、やがて「奈半利町(なはりちょう)」に入った。この町は国道沿いに開けており、南国の町らしく明るくて開放的な感じがする。今日は、朝の四時三十分から行動を開始、すでに八~九時間自転車を駆ったり、参拝登山をし続けており、初日でもあるので早めに奈半利町泊まりとすることとした。私は常時登山用のテントを持参し、頻繁に野宿やキャンプをするのだが、奈半利町に入ってすぐにビジネスホテルがあり、空き室が有ったので即チェックイン。ビジネスホテルにしたのは、かなり日焼けした体と、体内からの「火照り」を「水風呂」に浸かって癒すためである。湖や海が近ければ、夏は必ずそうする事にしている。更に言うなら、冷たいビールに不自由しないのが何よりも良い。初老の単独行の歩き遍路さんも、このビジネスホテルに宿泊しており、レストランでくつろいでいた。
水風呂に浸かり、水シャワーを浴び、缶ビールを飲みながら聞こえてくるテレビのニュースでは、本日の最高気温は、三十七度とのことであった。

                                  (続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国八十八カ所 自転車遍路の旅①

2006-06-28 22:48:13 | 遍路
 今回からは、四国八十八箇所 自転車遍路の旅を掲載します。
未だ、工事中のところもありますが、完成部分から順次掲載します。

 本日は、プロローグ。

四国八十八ヶ所 自転車遍路の旅 (1-1)
はじめに
一九九六年の夏、私は「自転車(ママチャリ仕様)」で大阪茨木市発着、二泊三日で琵琶湖一周の旅をした。このときの「紀行文」は、当時のR大学教職員組合機関紙『はみだしユニオン』に掲載されている。とくに琵琶湖一周のモチベーションがあった訳ではないが、若い頃から登山や、アウト・ドアースポーツが好きで、一九九六年五月にはテントをかついで、一日半で比良山縦走などもしている。いろんなアウトドアの楽しみ方の中でも、自転車での旅はその地方地方の『生活のにおい』や、『四季それぞれの香り』の中に、自分のペースでたっぷりと浸ることができるので、好きである。
比良山縦走は、JR湖西線「堅田駅」を午後出発する「梅ノ木」行きのバスに乗り「坊村」で下車し、「奥の深谷」を大橋小屋まで登りテント泊。翌朝一気に「武奈ヶ岳」からいくつかの山峰を越え「蛇谷ヶ岳」を踏破し、スキー場を縦断してそのまま林道・県道をひたすら歩き続け、午後七時過ぎに湖西線「近江高島」まで行った。
一九九八年夏には、やはり「ママチャリ」で「淡路島」一周の旅を茨木市午後発、翌日夕刻帰宅でやり遂げた。この時は、阪神大震災の震源地である「北淡」を訪ねてみたかったのと、ちょうど「明石大橋」の開通する年で、それまでキャンプや四国への出張でよく利用した甲子園フェリーが廃止になるというので、「去り行くフェリー」を利用するメモリアル・ジャーニーを味わうという動機もあった。この「淡路島」ママチャリ一周の「紀行文」は別に記してある。
一九九九年は所要で何処へも行かなかったが、内心、次は四国一周それも八十八ヶ所参りにしようと決めていた。理由は、私が民間の会社で営業マンをしていた一九九〇年から一九九五年の間、四国の問屋・商社を担当し、営業車で頻繁に出張していた時に、よく『四国八十八ヶ所 第○番霊場○○寺』という看板を見かけたことがある。よく見れば、あちこちに赤い色で『遍路みち』と書かれ、その横に『お遍路さんマークの模様』が描かれた小さな札がぶら下げてあったり、木杭に『四国のみち』と書かれた道しるべが随所にあったり、なによりも若者からかなりの年配と思われるお遍路さんが、一心に歩いているのを時々見かけたことが、たいへん興味深く、気になっていたからである。
そんな理由で、二〇〇〇年の夏季休暇を利用して、(主として)自転車で四国八十八ヶ所参りを始めだした。とはいっても、全行程は急峻な山道を含む歩きの遍路みちでも千二百キロメートル、自転車で走行できる道路を辿ってもでも千四百キロメートル余りあり、歩いて回るには約二ヶ月、自転車で一気に完結するには二十~二十五日程かかり、そんなに日程的な余裕が無い。そこで各県二回、一回あたり二~三泊(予備日一~二日)三~四日程度を目途に計八回かけて完結しようと決め、イメージを作った。但し、私の遍路には一切『宗教的』理由や『人生を見つめなおす』といったような崇高な理由は無かった。以前からそうであったように、何らかの完結性のあるアクションをやり遂げるのが好きであり、いわば四国一周スタンプラリーのオリエンテーションのようなつもりで、「納経帳」の記帳をチェックポイントのスタンプ替わりに、愛車 (台湾製の重たいマウンテンバイク) を駆って、たっぷりと『四国の生活のにおい』に浸りにいこうと思ったのが、素直な動機なのである。
以下、各行程ごとに『自転車遍路』の記録と感想を書きとどめてみた。なお、四国は歴史的な旧跡や、『つわものどもの夢の跡』が数多く残っている土地柄なのだが、今回の『自転車遍路』 にあたって、予め勉強をしていった訳ではない。感じたまま、思ったまま書きなぶったものであり、記述の不正確な部分があると思われるが、それらについては後日「思いや感銘」が大きく変わらない範囲で、加筆修正したいと思う。

                            (続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする