田園地帯にある「種間寺」
今回は四国88ヶ所自転車遍路の旅3-4、通算で⑤です。
さて、第三十四番札所「種間寺(たねまじ)」を目指す。三十三番札所からは約八キロメートルある。「桂浜道路」などの高架下を過ぎ、やがて高知市から外れ一面の田園地帯に入ってきた。海沿いの道は灼熱の道だが、田園地帯の暑さは「蒸しあがる」ような暑さだ。このあたりは、人里というより人家が点在し、それらを繋ぐようにして道は辿って行く。しばらく走るとやがて田園地帯の中に小集落があり、そこに「種間寺」があり、午前十時四十分に着いた。微妙な時間である。
「種間寺」は弘法大師が農作物の種を施したことからその名がつけられたとのことであるが、そのロケーションは完璧である。「種間寺」は広くてのどかな田園地帯の真中に、まるでオアシスのように建てられている。ここには近在の人たちが自然と集い、四方山話をする雰囲気がある。本堂は新築され鉄筋作りだが大師堂は古いたたずまいのままである。境内にある売店で遅い朝食代わりに白餡のアンパンを買って食べ、それとパック入りのコーヒを飲んだ。
高知市近郊に入り、第二十八番札所「大日寺」からこの第三十四番札所「種間寺」までは、町中や在所・集落にあり、日常的に近郊近在の人たちに慕われている寺で、自分も子供の頃に体験した原風景のような「懐かしさ」が漂う寺々であった。
春野町を越え、土佐市にある約十三キロメートル先の第三十五番札所「清滝寺(きよたきじ)」に向けて、水分補給用のパック入りの冷茶二本を仕入れ、再び県道から、国道五十六号線へと合流し、走り続けた。しばらく走ると、土佐市との境を流れる仁淀川の橋を渡る。この仁淀川は愛媛県にある四国最高峰石槌山に源を発し、土佐湾に流れ込む清流である。橋の上から河原を見ると、あちこちで大人から幼児まで水遊びをしている。中学生くらいの男子は水めがねで川底を覗き、「ヤス」で魚を狙っていたり、高さ二メートルくらいの、橋桁の段の上から飛び込んでいる。すこし離れたところでは、漁師さんが投網で川魚を獲っている。なんとも懐かしい風景である。私も川遊びに飛び込みたい誘惑に駆られつつ、横目で見ながら、バランスを崩しながら自転車を漕ぎ続けた。
橋を渡りきれば土佐市街地に入るが、土佐市街は道路が良くない。国道五十六号線は道幅が狭くなり、交通量も多く車道は走りづらい。歩道の方も狭くて段差が多くやはり走りづらい。従って、あまりスピードが上がらないままに市内中心部に入り、そこから山の手を目指す。仁淀川の橋上から、山の中腹に小さく建物が見えていたが、だんだんと近づくにつれて、やはりそれが「清滝寺」らしいことが分かってくる。また山登りだ…。
土佐市街から広い国道のバイパスへと走り、その途中に「清滝寺」の大きな案内板があり、それに従って右折し田圃の中の一本道を山の方へと走った。途中工事中の「高知自動車道(高知市からの延長)」のガードをくぐる手前で、先ほどの「種間寺」で追いつかれた、バイクの若い女性が「清滝寺」を「済ませて」降りてくるのにすれ違った。彼女たちは、バイクで八十八ヶ所を回り、掛け軸を五~十本携えて、それらに記帳をしてもらっている。全ての札所の記帳を済ませ、それを商品にするアルバイトをしている。結構そういう人たちをあちこちで見かける。四国八十八ヶ所にはいろんな人たちが集まっている。
午後十二時過ぎに遍路みちの入口に付き、ここで自転車を留め、再び歩いて登山。「清滝寺」は麓からは良く見えているが、いざ登山するには小さな峰を一つ越した向うにある。何も考えず、口でリズムを取りながら一心に登る(ちなみに、昔から山を登る時の私のリズムは、古いようだが『何だ坂、こんな坂、何だ坂、こんな坂…』である)。一気に登りきると、やがて仁王門に着いた。この寺の仁王門には「清滝寺仁王門」の木札が立てられ、古刹の雰囲気の良い門だが、車道を登ってくればわざわざ脇道に立ち入らなければ通過してしまうようになっている。歩き遍路さんをねぎらう、ウェルカム・ゲートのような設定が、本意はどうあれ実に気持ちが良い。十二時二十五分に標高約百五十メートルの境内に着いた。山寺であり麓から良く見えたように、境内からは開けていて明るい。本堂や大師堂は土佐市の町並みをいつも見守っている感じだ。本堂の横に高さ十メートルぐらいの「平和観音」が土佐市の方を向いて建立されている。「清滝寺」は、その名が示すように本道の右横手に「清滝」が軽やかな音をたてて流れている。きれいで冷たい水なのだが湧水ではなさそうなので、うがいだけにして飲むのは止めた。境内では中年男性の歩き遍路さんが体を拭いている。もう一人の地元のお年寄と思うが床机の上で午睡をしている。そのうちミニバイクに乗った初老の男性の遍路が登ってきて、参拝を始めた。札所の寺はそれぞれの模様をした人が絶えない。
納経所を出て景色を見ると、土佐市が一望である。左端には仁淀川が悠然と流れ、はるか土佐湾に注いでいる。
今回の旅は甲浦から南下し、室戸岬を回り込んで北上し、土佐湾東半分を走りきり、今土佐湾西半分に入っている。「修行の地」土佐に残っている寺はあと三十六番「青龍寺(しょうりゅうじ)」、三十七番「岩本寺(いわもとじ)」、そして足摺岬の三十八番「金剛福寺(こんごうふくじ)」、三十九番「延光寺(えんこうじ)」の四札所の寺である。しかし、その距離は足摺岬まで遍路みちでまだ百六十キロメートル以上ある。
実は今回の自転車遍路は次の家族旅行の予定が控えており、八月九日中には帰阪しなければならない。現在八月八日午後一時である。九日中に帰阪するには九日の午前十一時二十分足摺発のフェリーに乗るか、それともここから高知に戻り、本日夜高知港発のフェリーに乗り明日の早朝大阪南港着で帰るかの選択が迫られている。足摺まで行くには、札所は少ないが距離が長いため、野宿にしてかなり夜を費やして走れば何とか間に合う距離かもしれない。しかし、三十七番窪川町の「岩本寺」は納経所の記帳の時間には入れない。朝七時の記帳まで待っていると、そこから八十キロメートル以上先の足摺午前十一時二十分発のフェリーの乗船手続の時間にはとても間に合わないのだ。
思案の末、今回は「清滝寺」でいったん断念し、三十六番札所以降は次回に挑戦することに決めた。その理由は、第一にこれから先は未知の旅であること。地図を見れば窪川町付近を通過するのに標高三百メートル程度のアップダウンが連なっている。道路の状況もわからない。そのような状況で夜間走行するのに、現在の自分のスキルとフィットネスで、最悪の条件であった場合無事に乗り越えれるかどうか予想がつかない。厳しく考えた方が良い。第二に、お尻の痛さに忍耐の限界が耐えうるかどうか、これはつらい。第三には、そんなに「悲愴感」に溢れて考えなくとも、あと一日あれば楽勝だったのだし、次回来るときは土佐湾西半周をゆっくり楽しみ、四万十川ででもリラックスしよう。今回無理すれば、四万十川はフェリーの時間を気にしながら、夜明け前に通過するだけではないか。などと、『明日があるさ』とポジティブに考えることにしたのだ。
「清滝寺」から、土佐市と悠然と流れる仁淀川の風景を見ながら旅の終章の余韻に浸っていた。清滝の水で汗臭いタオルをすすぎ、何度も体を拭いた。さあ、高知へ向かって帰路をとろう。
土佐市に下りて、「ざるうどん」(四国では「ざるそば」でなく、やはり「うどん」である)を昼食に摂り、国道五十六号線から県道、再び国道へと走り、遍路みちとは異なった、ショートカットの道を、帰り道だから比較的のんびりと走った。とはいいながらも途中春野の運動公園(西武球団のキャンプ地)に寄り道したりしながら、結局午後三時過ぎフェリー乗り場に到着。乗船手続は午後八時からで、時間はたっぷりある。
少し休憩したあと、桂浜の「坂本竜馬記念館」にタクシーで行くことにした。入場が午後四時三十分までなので、自転車では間に合わない。
桂浜にある県営の「坂本竜馬記念館」は、野市町「龍馬歴史館」と違って、たっぷりと竜馬に関わる資料があった。竜馬は、大変「筆まめ」だ。取り留めの無いことを冗談いっぱいにして乙女姉さんや親戚の女の子に手紙を書いたり、文中「それから」「それから…」を何度も何度も繰り返したり、そのような中に文脈の節々に竜馬の家族愛と人間性がにじみ出ている。封建制の時代に、船中八策で「広く会議を起こし公儀万論に付す」という、のちの「五箇条の御誓文」の原案を作成しブルジュア議会を提案したり、日本で始めての国際商社である「亀山社中」を株式会社で起こしたり、新しい技術や文化に貪欲であったり、政治、経済、文化いずれも一つの時代を超克した革命的発想(封建制から資本主義へ)をなし得る感性をもった、いわば一種の天才であったのだろう。
「坂本竜馬記念館」見学の後、バスで「はりまや橋」まで戻り、私が民間会社の営業で高知へ出張したときに、よく寄った「お好み焼き」屋さんで夕食を食べた後、フェリー乗場に戻った。
折から、天をひっくり返したような猛烈な夕立が降ってきて、フェリー待合のテレビのニュースでは高知県でかなり広範囲に降っており、所によっては雷で停電の被害が出ているとのこと。フェリーの待合室の窓からも強烈な雷の火柱が立つのが連続して見えた。後で分かったのだが、翌朝2001年8月9日早朝に、「土佐の一本釣り」「鬼やん」等のふるさと土佐を愛し続け、我々の青春時代に男心を奮い立たせるような劇画を書き続けてきた、「土佐久礼(くれ)」出身の漫画家 青柳裕介さんが、癌のため56歳で死去したとのこと。他の漫画家が『青柳さんの涙雨』と表していた。
万感をぶつけるような、激しい雨を待合の窓越しに眺め、2001年足摺への旅を続けておれば、今頃少しつらい思いをしているだろうと、ふと思った。
(この章終わり・・・次回から四国88ヶ所自転車遍路の旅5-1スタート)
今回は四国88ヶ所自転車遍路の旅3-4、通算で⑤です。
さて、第三十四番札所「種間寺(たねまじ)」を目指す。三十三番札所からは約八キロメートルある。「桂浜道路」などの高架下を過ぎ、やがて高知市から外れ一面の田園地帯に入ってきた。海沿いの道は灼熱の道だが、田園地帯の暑さは「蒸しあがる」ような暑さだ。このあたりは、人里というより人家が点在し、それらを繋ぐようにして道は辿って行く。しばらく走るとやがて田園地帯の中に小集落があり、そこに「種間寺」があり、午前十時四十分に着いた。微妙な時間である。
「種間寺」は弘法大師が農作物の種を施したことからその名がつけられたとのことであるが、そのロケーションは完璧である。「種間寺」は広くてのどかな田園地帯の真中に、まるでオアシスのように建てられている。ここには近在の人たちが自然と集い、四方山話をする雰囲気がある。本堂は新築され鉄筋作りだが大師堂は古いたたずまいのままである。境内にある売店で遅い朝食代わりに白餡のアンパンを買って食べ、それとパック入りのコーヒを飲んだ。
高知市近郊に入り、第二十八番札所「大日寺」からこの第三十四番札所「種間寺」までは、町中や在所・集落にあり、日常的に近郊近在の人たちに慕われている寺で、自分も子供の頃に体験した原風景のような「懐かしさ」が漂う寺々であった。
春野町を越え、土佐市にある約十三キロメートル先の第三十五番札所「清滝寺(きよたきじ)」に向けて、水分補給用のパック入りの冷茶二本を仕入れ、再び県道から、国道五十六号線へと合流し、走り続けた。しばらく走ると、土佐市との境を流れる仁淀川の橋を渡る。この仁淀川は愛媛県にある四国最高峰石槌山に源を発し、土佐湾に流れ込む清流である。橋の上から河原を見ると、あちこちで大人から幼児まで水遊びをしている。中学生くらいの男子は水めがねで川底を覗き、「ヤス」で魚を狙っていたり、高さ二メートルくらいの、橋桁の段の上から飛び込んでいる。すこし離れたところでは、漁師さんが投網で川魚を獲っている。なんとも懐かしい風景である。私も川遊びに飛び込みたい誘惑に駆られつつ、横目で見ながら、バランスを崩しながら自転車を漕ぎ続けた。
橋を渡りきれば土佐市街地に入るが、土佐市街は道路が良くない。国道五十六号線は道幅が狭くなり、交通量も多く車道は走りづらい。歩道の方も狭くて段差が多くやはり走りづらい。従って、あまりスピードが上がらないままに市内中心部に入り、そこから山の手を目指す。仁淀川の橋上から、山の中腹に小さく建物が見えていたが、だんだんと近づくにつれて、やはりそれが「清滝寺」らしいことが分かってくる。また山登りだ…。
土佐市街から広い国道のバイパスへと走り、その途中に「清滝寺」の大きな案内板があり、それに従って右折し田圃の中の一本道を山の方へと走った。途中工事中の「高知自動車道(高知市からの延長)」のガードをくぐる手前で、先ほどの「種間寺」で追いつかれた、バイクの若い女性が「清滝寺」を「済ませて」降りてくるのにすれ違った。彼女たちは、バイクで八十八ヶ所を回り、掛け軸を五~十本携えて、それらに記帳をしてもらっている。全ての札所の記帳を済ませ、それを商品にするアルバイトをしている。結構そういう人たちをあちこちで見かける。四国八十八ヶ所にはいろんな人たちが集まっている。
午後十二時過ぎに遍路みちの入口に付き、ここで自転車を留め、再び歩いて登山。「清滝寺」は麓からは良く見えているが、いざ登山するには小さな峰を一つ越した向うにある。何も考えず、口でリズムを取りながら一心に登る(ちなみに、昔から山を登る時の私のリズムは、古いようだが『何だ坂、こんな坂、何だ坂、こんな坂…』である)。一気に登りきると、やがて仁王門に着いた。この寺の仁王門には「清滝寺仁王門」の木札が立てられ、古刹の雰囲気の良い門だが、車道を登ってくればわざわざ脇道に立ち入らなければ通過してしまうようになっている。歩き遍路さんをねぎらう、ウェルカム・ゲートのような設定が、本意はどうあれ実に気持ちが良い。十二時二十五分に標高約百五十メートルの境内に着いた。山寺であり麓から良く見えたように、境内からは開けていて明るい。本堂や大師堂は土佐市の町並みをいつも見守っている感じだ。本堂の横に高さ十メートルぐらいの「平和観音」が土佐市の方を向いて建立されている。「清滝寺」は、その名が示すように本道の右横手に「清滝」が軽やかな音をたてて流れている。きれいで冷たい水なのだが湧水ではなさそうなので、うがいだけにして飲むのは止めた。境内では中年男性の歩き遍路さんが体を拭いている。もう一人の地元のお年寄と思うが床机の上で午睡をしている。そのうちミニバイクに乗った初老の男性の遍路が登ってきて、参拝を始めた。札所の寺はそれぞれの模様をした人が絶えない。
納経所を出て景色を見ると、土佐市が一望である。左端には仁淀川が悠然と流れ、はるか土佐湾に注いでいる。
今回の旅は甲浦から南下し、室戸岬を回り込んで北上し、土佐湾東半分を走りきり、今土佐湾西半分に入っている。「修行の地」土佐に残っている寺はあと三十六番「青龍寺(しょうりゅうじ)」、三十七番「岩本寺(いわもとじ)」、そして足摺岬の三十八番「金剛福寺(こんごうふくじ)」、三十九番「延光寺(えんこうじ)」の四札所の寺である。しかし、その距離は足摺岬まで遍路みちでまだ百六十キロメートル以上ある。
実は今回の自転車遍路は次の家族旅行の予定が控えており、八月九日中には帰阪しなければならない。現在八月八日午後一時である。九日中に帰阪するには九日の午前十一時二十分足摺発のフェリーに乗るか、それともここから高知に戻り、本日夜高知港発のフェリーに乗り明日の早朝大阪南港着で帰るかの選択が迫られている。足摺まで行くには、札所は少ないが距離が長いため、野宿にしてかなり夜を費やして走れば何とか間に合う距離かもしれない。しかし、三十七番窪川町の「岩本寺」は納経所の記帳の時間には入れない。朝七時の記帳まで待っていると、そこから八十キロメートル以上先の足摺午前十一時二十分発のフェリーの乗船手続の時間にはとても間に合わないのだ。
思案の末、今回は「清滝寺」でいったん断念し、三十六番札所以降は次回に挑戦することに決めた。その理由は、第一にこれから先は未知の旅であること。地図を見れば窪川町付近を通過するのに標高三百メートル程度のアップダウンが連なっている。道路の状況もわからない。そのような状況で夜間走行するのに、現在の自分のスキルとフィットネスで、最悪の条件であった場合無事に乗り越えれるかどうか予想がつかない。厳しく考えた方が良い。第二に、お尻の痛さに忍耐の限界が耐えうるかどうか、これはつらい。第三には、そんなに「悲愴感」に溢れて考えなくとも、あと一日あれば楽勝だったのだし、次回来るときは土佐湾西半周をゆっくり楽しみ、四万十川ででもリラックスしよう。今回無理すれば、四万十川はフェリーの時間を気にしながら、夜明け前に通過するだけではないか。などと、『明日があるさ』とポジティブに考えることにしたのだ。
「清滝寺」から、土佐市と悠然と流れる仁淀川の風景を見ながら旅の終章の余韻に浸っていた。清滝の水で汗臭いタオルをすすぎ、何度も体を拭いた。さあ、高知へ向かって帰路をとろう。
土佐市に下りて、「ざるうどん」(四国では「ざるそば」でなく、やはり「うどん」である)を昼食に摂り、国道五十六号線から県道、再び国道へと走り、遍路みちとは異なった、ショートカットの道を、帰り道だから比較的のんびりと走った。とはいいながらも途中春野の運動公園(西武球団のキャンプ地)に寄り道したりしながら、結局午後三時過ぎフェリー乗り場に到着。乗船手続は午後八時からで、時間はたっぷりある。
少し休憩したあと、桂浜の「坂本竜馬記念館」にタクシーで行くことにした。入場が午後四時三十分までなので、自転車では間に合わない。
桂浜にある県営の「坂本竜馬記念館」は、野市町「龍馬歴史館」と違って、たっぷりと竜馬に関わる資料があった。竜馬は、大変「筆まめ」だ。取り留めの無いことを冗談いっぱいにして乙女姉さんや親戚の女の子に手紙を書いたり、文中「それから」「それから…」を何度も何度も繰り返したり、そのような中に文脈の節々に竜馬の家族愛と人間性がにじみ出ている。封建制の時代に、船中八策で「広く会議を起こし公儀万論に付す」という、のちの「五箇条の御誓文」の原案を作成しブルジュア議会を提案したり、日本で始めての国際商社である「亀山社中」を株式会社で起こしたり、新しい技術や文化に貪欲であったり、政治、経済、文化いずれも一つの時代を超克した革命的発想(封建制から資本主義へ)をなし得る感性をもった、いわば一種の天才であったのだろう。
「坂本竜馬記念館」見学の後、バスで「はりまや橋」まで戻り、私が民間会社の営業で高知へ出張したときに、よく寄った「お好み焼き」屋さんで夕食を食べた後、フェリー乗場に戻った。
折から、天をひっくり返したような猛烈な夕立が降ってきて、フェリー待合のテレビのニュースでは高知県でかなり広範囲に降っており、所によっては雷で停電の被害が出ているとのこと。フェリーの待合室の窓からも強烈な雷の火柱が立つのが連続して見えた。後で分かったのだが、翌朝2001年8月9日早朝に、「土佐の一本釣り」「鬼やん」等のふるさと土佐を愛し続け、我々の青春時代に男心を奮い立たせるような劇画を書き続けてきた、「土佐久礼(くれ)」出身の漫画家 青柳裕介さんが、癌のため56歳で死去したとのこと。他の漫画家が『青柳さんの涙雨』と表していた。
万感をぶつけるような、激しい雨を待合の窓越しに眺め、2001年足摺への旅を続けておれば、今頃少しつらい思いをしているだろうと、ふと思った。
(この章終わり・・・次回から四国88ヶ所自転車遍路の旅5-1スタート)