"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

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パライソメッセージ20130927 No.28

2013-09-27 17:32:37 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.09.27 N0.28

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【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:かつてR学園は光り輝いていた-活気溢れるR学園の再生を目指して-⑥

 

4.「学園改革」はフェードアウトするのか?

 「学園改革」のサステイナビリティを支える3つの軸について述べてきた。すなわち第1に『平和と民主主義の教学理念の共有』第2に『教職協働による学園創造』そして第3に『学生の学びと成長を創り出す、学生が主役の学園創造』。実際の事例を見つつ、それらの『仕組み』を考えてきたが、3つの軸を投げ捨て、理念やポリシーを喪失しつつあるR学園は、はたして『学園改革』を目指すダイナミズムが衰弱し、光り輝きを失い、改革がフェードアウトしていくのであろうか。我々はフェードアウトを座視していて良いのだろうか。

 その問いかけに対する答えを考えるとき、まず前提として近年の、特に1990年代以降の高等教育や教育全般をめぐる状況を見る必要があるだろう。今日の学園トップの一部や、変節に至ったかつてのトップ、今も学園運営に少なくない影響を持っていると思われるかつてのトップが言っていた『情勢との切り結び』が、如何に曲げられてきたかを見つめなければならないと思う。

 

 (高等教育を取り巻く状況と「新自由主義(高等教育)政策」)

 1998年に大学審議会答申、『競争的環境のなかで個性の輝く大学』が公表された。まさに『2007年問題』(いわゆる、ゆとり教育世代の若者が4年生大学を卒業する年)『大学全入時代』『定員割れ大学の続出』等、高等教育に対する脅迫的ともいえる社会状況が目前に現実のものとして迫り、『護送船団方式』といわれた高等教育政策・行政が一気に『規制緩和』『競争至上主義』『自由競争』への転換の強制に全国の殆ど全ての大学は衝撃を受けた。日本の資本主義が構造的に新自由主義へと転換していくのに伴い、高等教育においても新自由主義の波が大きく押し寄せてきた。

 各高等教育機関は、大学審議会答申を我先にと『受け止め』、それぞれが「個性を打ち出す」ことに躍起となり、研究大学やら教養大学やら生涯教育大学等々に大学の個性を出そうとしてきた。しかしこれは政府・文部省(当時)の高等教育支援の放棄が背景にあり、当時の時流を鑑みると、民営化・民活を推し進めた小泉改革、つまり「新自由主義の高等教育政策版」への平伏ではないか。その結果どうなったか。幾つかの答申を経て2005年中教審答申、いわゆる「今日の高等教育の将来像」で政府・文部科学省が「新自由主義高等教育政策」の「ダメ押し」を出すまで、全国の高等教育機関は、「競争的環境」の中で全く「個性が輝く」ことなくどころか、R学園においてさえも理念や哲学を投げ捨て、競争的資金獲得のために汲々とし、個性を投げ捨てた貧相な学園に陥ってしまった。

 文部科学省の政策誘導は金科玉条ではない。それどころか、近年大きなミスリードを繰り返している。司法人材の大量養成としてロースクールを設置して、従来の数倍の司法試験合格者を輩出してきているが、周知の通り問題が山積。科学技術立国を煽り、大学院生特にドクターの大量輩出は深刻なオーバードクター問題を起こしている。公認会計士の大量養成も、株式会社立学校の相次ぐ撤退(投げ出し)もしかりである。同様にミスリードの答申や政策への無批判な追従の結果、まったく『没個性』のまま全国の高等教育機関が「7つのパターンへの機能分化」や、「12の提言」を鵜呑みにすると言う、いういわゆる「情勢」と切り結び、主体的に情勢を切り拓くのではなく、「情勢」に「飲み込ま」れ、まるで「金太郎飴」のように大多数の大学が、独自の顔(理念)を持たずに同じ顔をした「改革もどき」に邁進し、挙句行き場の無い閉塞状況に陥っているのではないだろうか。

 高等教育における新自由主義の大学政策は、国立大学法人化、長・中期計画の立案と大学評価、そして理事長(学長)の権限の強化とトップダウン・ガバナンスを強制している。これは私学に対しても同じで、自己評価を迫り、また学園のガバナンスでは、ことさら迅速な意思決定とその『仕組み』として、私立学校法の一部「改正」を背景にしつつ「理事長(および理事)の権限強化」が制度化され、トップダウンが強化されてきた。今思うと、R学園の理念と受け容れることの無かったこれらの施策に押し流されることは大いなる危惧であると迅速に見抜き、情勢を主体的に切り拓きながら、持続可能な学園改革へと繋げて行くべきであったのだろうと思う。そこには私たち改革の主体者の中にも、ことの重要性と本質についての共通の理解を持つことに対して、油断があったのではないかと思う。そして、その新自由主義の企みは、現在の学園にもますます大きく被さってきていることを、理解し、現にR学園では民主的再生を目指す闘いとして取組まれてはいるが、より一層それらに対する対応策を構築していく必要があるだろう。

 

(続く)

 

「一押しBook」

外国人実習生... 

 

書名:外国人実習生 差別・抑圧・搾取のシステム

著者:「外国人実習生」編集委員会(指宿弁護士他、弁護士や支援団体の人たち)

出版社:学習の友社 2013年1月10日初版 1,500円(税込み)

書評:

 グローバル人材の養成が盛んに言われている。『産学連携によるグローバル人材育成推進会議』などでは、『日本人としてのアイデンティティを持ち』『母国語以外でコミュニケーションが出来て』などと相変わらず空疎なグローバル人材の定義がもっともらしく言われている。企業が求めるグローバル人材もパナソニックは『国籍に関わらず優秀な人材』であったり、ローソンは『海外でのマネージメントや店長』であったり、ユニクロでは『世界同一賃金で年間100万円で働く人材』であったりして、まったく理念やポリシーが感じられない。

 しかし私は、企業や行政の思惑とは全く別に、日本のグローバル社会化は、もう既にそうだろうが必然であると思っている。世界の若者の大学卒業後の就職率は、中国で30%、韓国60%弱、台湾70%前後である。留学生で日本企業、日系企業への就職希望者は今後ますます増えてくるだろう。大学生に限らず現状を見ても介護の職場、サービス業、自動車メーカーの期間労働者など多くの外国人労働者が雇用され、日本のグローバル社会化は着々と進んできている。

 更に本書は18万人といわれる外国人実習生・研修生の実態を、裁判事例などの事実を紹介し徹底的な現場視点で告発している。国際協力などの美名の下に、パスポートを取上げ、自由を剥奪し、半ば監禁状態で実習生は無償で、研修生は自給300円で極端な長時間労働を強いる。地方の末端の下請けで縫製作業に従事したり、農作業に従事させ、彼や彼女らには『労働者でない』から労働法が適用されない。そういった実態の一方では、ブローカーが介在し不当な利益をせしめることや、実習生・研修生抜きには成り立たない『会社』などの社会構造に対しても告発をする。

 本書の中に、ますます進行する日本のグローバル化の闇の部分を見た。

 

イソの評価:★★★★☆

蔵書:キャリアセンター資料として書架にあり

 

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パライソメッセージ20130920 No.27

2013-09-20 18:45:31 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.09.20 N0.27

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 【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:かつてR学園は光り輝いていた-活気溢れるR学園の再生を目指して-⑤

 (3)学生の視点、「学生が主役」の立場に立った学園創造

 学園の「改革」を支える3番目の柱は「学生の視点、『学生が主役』の学園創造」である。

高等教育のミッションは何か。何を『教え』『育む』のか。その規範やモデルは何なのか。そもそも『教える』ことが、本当にミッションなのだろうか。私は、狭義の意味で『教える』のではないと思う。特に高等教育において、学校から社会へ移行する青年たちとどう関わっていくのかは、大事な問題で有り、教育学においては大きな論点として明治以降引き継がれてきたことではないか。

 その点についての考えは別の機会に述べるとする。ただ大事なことは、学校から社会へと学生が移行するに当たって、高等『教育』においては、学生が自立して主体的に自分の人生過ごしていけるべく、マインドやスキルを習得するのをサポートするのが、大きなミッションの1つではないかと思う。言い換えれば、将来の社会の担い手である青年たちを、アクター・アクトレス(主役)として社会に『送り出していく』ことではないか。かつて、といってもそう遠くない以前まで、R学園においては、学生の視点で「学生が主役」の学園作りということが、全学園の構成員の共通の理解であった。R学園ではこれまで学園政策策定のプロセスにおいて学生が参加すること、学生が重要な学園構成員として機能することによって、大きな役割を果たしてきた。例えば、学部においては学部五者懇談会があり、全学的には全学協議会代表者会議であり、全学協議会である。これらを通じて学生は主体的に「学生の学びと成長」の議論に参加し、つい最近の2007年全学協議会でも「学習者が中心となる教育」が活発に議論されてきた。「大学教育」における学生目線は例えば授業評価においては、学生による授業アンケートを活用し教員と連携し、大学教学への課題の提起や、FDへの具体的適用として継続的に進められてきている。

 R学園の学生は主体的に教学の「改革」に参加しながら、一方では学生の「自主的・民主的活動」も、学園内の問題解決に留まらず、広く社会における青年・学生のあり方を提起しながら、全国の牽引役を果たす活動を繰り広げてきた。学園はそういった青年・学生が課題を解決する、生きた教材を提供してきたし、支援もしてきた。大学問題、平和の課題、公費助成等の具体的運動で、R学園の学生は、全国の推進役であった。一部トップ層の中には『現在の学生のレベルは、かつての激烈な全学協を繰り広げてきた時代の学生のレベルとは違う』とかいって、『教育』や『指導』に重きを置くとか、「学生のレベルの低下」=全学協そのものの「見直し論」があるようだが、まったくそれは的外れである。当時の学生諸君は、かつての激烈な学生運動の時代の学生達がとても出来なかった、1000名以上が参加して圧倒的支持を得る学生大会を見事に成功させている。これは全国の大規模大学の学生自治会、学友会のどこもなし得ないすばらしい「自主的・民主的」活動であり、それは学園全体で誇りえることである。学園の「改革」はこういった学生たちのすばらしい活動とともに歩んできたのである。立命館学園と対極的に、学生が抑圧されていたり、元気が無い大学・学園は、閉塞的で活気や精気がないのは歴史的に見ても、現実を見ても明々白々である。 

 教職員の現場においても、一貫して学園の主役である学生の視点・学生の立場に立った業務遂行を具体的に実践する努力を行ってきた。例えば『R学園らしい学生支援』を絶えず念頭に置いた「進路・就職支援」の取り組みでは、学園の改革と連動して、司法試験、国家公務員1種試験(現、総合職)、公認会計士試験などの難関分野試験やトップ150企業への就職実績を大きく向上させるてきた。また、教員や公務員への進路実績も私立大学ではトップクラスとなっている。学生のキャリア形成支援のオフィスでの学生の相談件数は、年間でのべ27,000名以上(2012年度)に達している。この件数も全国の大学の中で圧倒的に多い件数となっている。単純に相談件数が多ければよいと言うものでは勿論無いが、学生の職員に対する信頼度の指標と見ることは出来るだろう。「大学ランキング」では、「就職支援に熱心」という項目で、長年にわたってトップの評価を得ていた。ここ数年他大学にトップ・2位の座を譲っていることについては、看過することなく受け止めなければならないと思う。もちろんいわゆる「就職実績の飛躍的前進」のみならず、「進路・就職」を契機に、学生のキャリア形成支援を通じて学生と教職員の信頼関係も強くなっていることへの評価であったことは間違いない。これは当該の部課だけではなく、他のオフィス・セクションも同じように、教職員すべてがそれぞれ「学生の視点」「学生が主役」を念頭に業務を遂行しており、これらのことがR学園の大きな特徴、伝統であり、改革を推進してきた3番目の「強み」であり「特色」でもある。

(続く)

 

「一押しMovie」

書名:少年H

監督:降旗康男

出演:水谷豊、伊藤蘭、吉岡竜輝(少年H)、花田優里音(妹)、小栗旬(うどん屋の兄ちゃん)

内容:

 とにかく懐かしい、私にとっての原風景だった。土の道を挟んで木造の店や家が並んでいる。モノトーンのセピア色の風景だった。映画では1940年頃で、私の記憶に残る原風景は1955年頃なのだが、この映画と同じ風景だった。

 しかし、ストーリーは牧歌的ではない。開戦、軍国主義化、女兄ちゃんの招集と兵役を忌避しての首吊り自殺、仲良くしていたうどん屋の兄ちゃんは思想犯で特高警察に捕まる、そのうちに父親までもがスパイの嫌疑で連行され惨い取調べを受ける。戦争の中で自由と人権を略奪される日常生活が描かれる。そんな中で交わされる家族や町内の人々、在郷軍人らとの抑圧された言葉のやり取りに、暗黒の時代に対する告発が伝わってくる。

 「思想犯は最前線送りやね」

 「お国のために戦えばいいんや」

 「外国の人のほうが日本のことをよく分かっている」

 「新聞は嘘ばかり書いている」

 ヘイトスピーチを特集したり、従軍慰安婦問題で河野談話を否定し河野氏を民事告訴する動きが顕在化したり、権力の嘘や横暴への批判を忌避したり、迎合したり、憲法改悪に論陣を張らないマスコミであったり、今の日本がオーバーラップしてくる。良心に忠実に生きる仕立て屋の父、強くやさしい母、正義感が強く、ものごとの本質を掴もうとする少年H、とにかく可憐で可愛い誰かが言っていたけれど少女時代の田辺聖子のような妹、うどん屋の兄ちゃんや女兄ちゃんたちが大変好演で、当時の日本社会の世相を伝えていた。

 最近作では「ほたる」や「あなたへ」の降旗康男監督らしいリアルな描写の中にも、叙情的な映画の世界に浸った。

 

イソの評価:★★★★☆

 

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パライソメッセージ20130913 No.26

2013-09-12 15:57:15 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.09.13 N0.26

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 【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:かつてR学園は光り輝いていた-活気溢れるR学園の再生を目指して-④

  かつての光り輝いていたR学園の「改革」を支えてきたもの、「改革」を持続的に発展・展開させてきたものとその「本質」は一体何であったのか。前回は、学園の全構成員による「平和と民主主義」の教学理念であると述べた。今回は「教職協働」について論及してみたいと思う。

 2.光り輝いていたR学園の改革を支えてきたものは何だったのか

 (2)教職協働とその仕組み

 学園の「改革」を支えてきた2番目の柱は「教職協働」である。

 学園政策の策定のプロセスにおける教職協働は、社会から「改革のフロントランナー」とか「リーディングユニバーシティ」といわれていた1990年頃の学園の長期計画策定の過程では、課題ごとにプロジェクトを結成しそのプロジェクトでは教員・職員が協働して情勢分析を試み、データ-を集計して、真剣に議論して全学への政策提起文書を練り上げてきた。そこで策定され提起された政策は、前節で述べたように教員・職員それぞれの会議へフィードバックされ、議論され、様々な厳しい意見を踏まえて教職の共通認識による政策として立案、提起されてきた。そのような厳しいプロセスを経て「学園改革の諸課題」はそれぞれ学園構成員が共有するミッションとなっていた。そのような教職協働が、諸課題遂行の強力なバックボーンとして、学園改革が営々と築かれてきたのである。

 また、教職協働は議論だけに留まらず、具体的に実践されてきた。1990年頃からの理工学部拡充移転には学部の拡充だけではなく、産学連携も大々的に進められてきた。この当時のリアルな報告は2009年1月26日発行の「UNITAS Review vol.8 学園の飛躍的発展の時代~1990年代の学園発展の原動力~」での元教職員の対談や、100年史の中で詳しく書かれているので、是非ご参照願いたい。この時期以前の産学連携(産学共同)は、旧帝大を中心とした国立大学の研究室や講座と大企業との間の「産学共同」が専売特許であった。どちらかと言うと、『R学園が産学協同とはどういうことだ!』と驚愕されるか、批判されるかといった風潮のほうが社会的には大きかった。そういった中でR学園は理工学部(のちには文社系も)教員の研究分野を、教員はもちろん、職員も主体的に「協働」して果敢に『営業活動』を繰り広げ、「自主、独立、公開、平和(利用)」を原則に、大手企業はもちろん有力中堅企業、中小企業、地場産業またベンチャー企業等へも学園の研究成果を紹介し、産学連携を成就させていった。従来の産学協同に大きな一石を投じ、大いなる問題提起をなしつつ、当時前述のように国立大学、W・K大に伍して「外部資金ランキング23位」の実績をあげるに至った。なお、W・K大は外部資金の比重として「寄付」が多いのだが、R学園は「受託研究」の比率が高いのが特徴である。

 教職協働の実践例は、2000年の新しい国際大学の開設時には、よりいっそうR学園らしいシンボリックな動きとして見られる。新国際大学の開設に当たっては、相当激しい議論が長期にわたって行われた。当初は「優秀な留学生を集めるのは不可能」「学園の財政に重大な危機をもたらす」「教職員の業務に多大な負荷を与える」など、相当な反対論が主力であった。しかし開学の予定を1年延期してまで徹底した粘り強い議論の末、「自由、平和、ヒューマニズム」を教学理念として新国際大学開学が学園構成員の合意をえて、ミッションが共有化されるに至ったのである。そして開学を決断して以降は、教員と職員が一丸となって開学の成功に向けての作業に取り組んだ。例えば、国際学生のリクルートのために教員と職員がチームを組み、世界各国へ赴いて各国の有力進学高等学校や国立高校を訪問し、各国の文部省や教員への説明、生徒たちを集めて新国際大学の説明会を開催した。そのようにして世界各国の優秀な留学生を受け入れる素地を固め、今日の優秀な留学生集団の礎を築いてきた。このことは「教職協働」の実践の典型的な事例である。「教職協働」の実践によって、教職それぞれのミッションとモチベーションが高揚し、更に新たな「改革」、「改革の持続」へと繋がって行くのであり、それを実践してきたことが2つ目のR学園の大きな特色でもあり「強み」でもあろう。

(続く)

 「一押しBook」

キャリア教育... 

 

書名:キャリア教育のウソ

著者:児美川 孝一郎(こみかわ・こういちろう) 1963年生まれ、東京大学大学院教育学研究科博士課程修了、現法政大学キャリアデザイン学部教授(元学部長)、著書は『若者はなぜ「就職」出来なくなったのか?』『権利としてのキャリア教育』『「親活」の非ススメ』等。

出版社:筑摩書房 20136月初版第1刷

書評:

 児美川先生は法制大学キャリアデザイン学部の現職の教授。若者のキャリア形成支援の現場に機会あるごとに関わられ、本著も現場視点からの問題提起や提言が鋭くなされている。

 プロローグでは4名の児美川先生のゼミ生の卒業後のそれぞれのキャリアの紹介。彼ら彼女らは、超大手有名ブランド企業や世間で注目される企業に就社したわけではない。絵に描いたようないわゆる『勝ち組』ではないけれど、夫々の興味・関心を自分の仕事とし、非正規雇用であっても、フリーター経験者であっても起業をして何とか頑張っていたりしながらも夫々が自らのキャリアデザインを実践している。

 今日盛んに言われている『キャリア教育』によって、どういった若者を『造り出そう』としているのかのポリシーが無いまま、成功モデルを規範化しようとすることに対する問題提起と批判が、本著を通じての論及の軸である。

 「キャリア・アンカー」や「プランド・ハプンスタンス・セオリー」を挙げながら、いわゆる『キャリア教育』の在り方に疑問を呈する。そして多様な若者の『生き方』と『正社員モデル』を対比しながら、就職実績で学校間格差の作り出している現状に問題を提起する。本著のメッセージは、主体的に自分のキャリアをデザインし、それを実現しようとする若者に対するエールである。

 ただ、『キャリア教育』に対する問題提起は鋭い論点であったが、一方でどういった『キャリア教育』が、と言ったサジェッションがあれば、論点は更に拡がったのではないだろうか。

 児美川先生をはじめ法政大学キャリアデザイン学部の先生方が、学生のキャリア形成を、徹底した現場視点でサポートし、活発にメッセージを発信しておられることに、尊敬の念と大変心強い思いを持つ。

イソの評価:★★★★☆

蔵書:キャリアセンター資料で、書架にあり。

(続く)

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パライソメッセージ20130906 No.25

2013-09-04 17:33:39 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.09.06 N0.25

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【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:かつてR学園は光り輝いていた-活気溢れるR学園の再生を目指して-③

2.光り輝いていたR学園の改革を支えてきたもの

 かつての光り輝いていたR学園の「改革」を支えてきたもの、「改革」を持続的に発展・展開させてきたものとその「本質」は一体何であったのか。

 

(1)「平和と民主主義」の理念の共有

 学園の「改革」に取組み、「改革」のモチベーションを高め、サステナビリティを可能たらしめてきた1番目の柱は、学園の「理念」やポリシーを、学生、教職員、更には校友・父母を含めた学園関係者が学園のアイデンティティとして理解し、共有してきたことである。要するにR学園の「哲学」を共有してきたことである。R学園は戦後、教学理念を「平和と民主主義」と定め、そのアイデンティティは全学園構成員、校友・父母らが誇りを持って共有しながら、学園の営みは続けられてきた。そのことは社会的にも大きく認識され、「平和と民主主義」は立命館学園の「代名詞」であり、立命館学園そのものを表す「理念」であった。まさに他大学を凌駕するモニュメントであったといっても過言ではないだろう。教学理念は第3次長期計画以降においては、学園の改革の理念として、「太い背骨」であり、立命館学園の「本質」であったのは明らかである。あらゆる「改革への施策」は「平和と民主主義」という教学理念に貫かれていた。そして「平和と民主主義」を軸として、たとえば世界で唯一の、大学が付設する国際平和ミュージアムを建立し、世界に平和のメッセージを発信してきたり、「自主・民主・公開・平和(利用)」を理念として、中堅・中小企業とも協働した産学連携や、APUにおけるミッションとしての「自由・平和・ヒューマニズム」というミッションの宣言などへと、多様に発展し活気溢れた大きな展開を果たしている。

 「理念」を学園のアイデンティティとし、全学園の構成員が共有し、それをバックボーンとした「改革」をすすめてきた仕組みは、全学園構成員、時には学園のステークフォルダーも含めた旺盛で熱心な議論である。常任理事会や、職員も含めたメンバーで構成される各委員会やプロジェクトから提起される答申や政策文書を、教員は学部教授会で議論を深め、職員は業務会議・部会議等を通じて議論し、それぞれ答申や政策で提起された事項と学園の「理念」との整合性を検証する。教員・職員は時には激烈で旺盛な議論を経て答申や政策を主体的に自らの「課題」とすることによって、全学園構成員の「改革への意思一致」として形成され力が結集されてくる。たとえば2000年4月の開学にいたるまでのAPUに関わる議論では、強烈な反対意見が根強くあったにもかかわらず、開学を決定して以降学園の教員・職員はミッションを共有し、協働して開学への作業を行っていった。その支えの軸となったのは学園の「平和と民主主義」の理念であり、その理念を軸として宣言された、APUの「自由、平和、ヒューマニズム」のミッションであった。

 また、「理念」「教学」「学生生活」「学費・財政」等の問題については、学部五者懇談会、全学協代表者会議、全学協議会等を通じて学生も議論に参加し、学生が学園構成員の重要な一員としての役割を果たしている。これはR学園の特有のものであり、それを後輩達に引き継いでいくことによって、学生たちは学園の「改革へのエネルギー」の大きな醸成要素でも有り続けた。そして「改革」を実践することによってそれぞれが確信となり、新たな「改革」へのモチベーションへとつながり、持続した「改革」へとステップアップしていく。そして再びそこへ学園の構成員が主体的に参加していくのが、R学園の本来の営みであり、他に類を見ない強力で圧倒的な「強み」でもあった。そこに営々と息づいていたのは「平和と民主主義」という学園の教学理念であった。

 全ての学園構成員が共有すべき「理念」である『憲章』には「建学の精神(自由と清新)と教学理念(平和と民主主義)に基づき、・・・正義と倫理をもった地球市民として活躍できる人間の育成に努める。立命館は、この憲章の本旨を踏まえ、教育・研究機関として世界と日本の平和的・民主的・持続的発展に貢献する。」「学園運営にあたって、私立の学園であることの特性を活かし、自主、民主、公正、公開、非暴力の原則を貫き、教職員と学生の参加、校友と父母の協力・・・」とRの理念と理念を共有する仕組みが、格調高く謳われている。

(続く)

 

奇跡のリンゴ 

「一押しBook」

書名:奇跡のリンゴ

著者:石川拓治(いしかわ たくじ) 1961年生まれ、ノンフィクションライター。著書に『ぼくたちはどからきたの』(マガジンハウス)、『国会議員村長』(小学館)、『37日間漂流船長 あきらめたから、生きられた』(幻冬社文庫)など

出版社:NHK出版

内容:

 6月に紹介した「一押しMovie」のノンフィクション版。あらすじは映画と同じで、ノンフィクションの出版が先なので、映画は忠実な再現。

 さて、ノンフィクション版も映画も、当然同じストーリーなのだが、映画鑑賞後とノンフィクション版の読了後では、随分と『余韻』が異なる。映画のほうは、木村秋則さん、家族、友人、近所の人たちとの関わりがストーリーを展開させていく、ピュアな『人間ドラマ』であった。希望、連帯、悩み、葛藤、絶望等が繰り広げられ、最後の最後に新生・復活の光が差す、そんなドラマであった。

 本のほうは、人間ドラマではあるが、いわばもっと『哲学的』メッセージを発している。

 無農薬リンゴは『作った』のではない。『自然』が木村さんにプレゼントしてくれたのである。『自然』に全てを委ねた木村さんは始めのころは、農薬に替わるものを懸命に探し、ありとあらゆるものを試してみたが、上手くいかなかった。そして命を絶つ意を決した絶望の淵で、『自然』からのメッセージを受け、『自然』を受容しようとするようになる。

 そこで描かれているのは『自然と人間の関わり』という、古来からの哲学的な命題でもあり、言い換えれば『神によって賜った』物への畏怖でもある。

最近TPPなどで農作物の自由貿易が秘密裏に交渉されているが、TPP推進の圧倒的な筆頭であるアメリカのグレイン・メジャーや多国籍企業は、遺伝子組み換え(GM)農作物や種子、農薬や抗生物質漬けの食料を梃子に世界戦略を狙う。食料は、武器、エネルギーに続く更には最も効果的な戦略物資である。『奇跡のリンゴ』が発するメッセージは、『今だけ、金だけ、自分だけ』の刹那的なポリシーを持つグレイン・メジャー、多国籍企業や投資家、富裕層の生き様に対する、痛烈なアンチテーゼでもある。

 

イソの評価:★★★★★

蔵書:茨木市民図書館蔵書

(続く)

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パライソメッセージ20130830 No.24

2013-08-29 18:07:29 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.08.30 N0.24

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【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:かつてR学園は光り輝いていた-活気溢れるR学園の再生を目指して-②

(「大学ランキング」での高い評価…W大・K応「背中」が見えてきたかと思われた)

 学園の評価や到達点を示す指標として、「大学ランキング」では2000年前後には多くの項目で上位を占めるようになってきた。例えば『大学ランキング2000年版』では、『学長からの評価(研究)では1位K大でR大は2位(D大は11位)』『同じく(就職指導・08年版)で、1位R大、4位W大(D台は19位)』『同じく(高校からの評価)で、1位K大、4位R大(D大13位)』『企業からの評価(産学連携98年版)1位W大、2位K大、4位D大、5位K院、6位R大』『企業からの評価(就職に熱心)1位R大、3位K大、(10位D大)、(18位K院)、26位W大、(31位K大)』といった状況であった。

 ランキングを見て、『W大学・K義塾の背中が見えるところに近づいてきた』と学生・教職員や校友・父母は大いに確信を持ち、社会的な評価も急上昇したのは、そう遠くない以前のことだったのである。

 なお、『学長からの評価(就職指導)』『企業からの評価(就職に熱心)』は2008年版に至るまで1位の評価であるが、この項目は以前から高い評価を得ていたし、2000年以降、2005年頃まで、更に「ランクアップ」し続けている。

 

(社会からの支持が「10万人入試」として結実した)

 この連続し持続し続けてきた「改革」は一部幹部のリーダーシップに依拠し、教職員は何の努力をすることなしになりえたのでは決してない。「改革」のバックグラウンドには、全ての学園構成員がそれぞれの機構・組織の中で、旺盛かつ情熱的に徹底して議論を繰りひろげてきたこと、またそれぞれが主体的に「改革」へ参加・参画してきた等の全国一の圧倒的な改革への実践が有る。そしてその努力は、一方では大手私学の中で、初年度納付金が最も安い、いわゆる「相対的低学費政策」への社会的支持も相まって、数年間数度にわたって10万人以上、W大に続いて全国第2位の入学志願者を集め続けたいわゆる「10万人入試」として結実した。

 

(光り輝く学園に何が起ったのか)

 さて、そういった学園「改革」の成果が結果として高い社会的評価に繋がっていった。2000年のAPU開学以降、特に2004~2005年以降に学園に入職した多くの教職員は、『改革の学園』については聞き及んでいたことだろうし、自身も『改革』に身を投じようと『決意』していたのだろう。実際にその時期、全国の大学関係の交流会などに参加しても、R大学の教職員は他大学に比較して意欲的、前向き志向で、何倍もの努力で主体的改革への実践に取り組んでいたといっても過言ではないだろう。

 しかし、APUの開設で終了した第5次長期計画とともに、学園一部トップの変節が始まり、志に燃えて入職してきた教職員は、持続し続けてきた学園改革のフェードアウトに徐々に巻き込まれ、結果、改革のダイナミズムに参加・参画し、学園の理念・ポリシーの具現を体験することができなかった。それどころか、2005年の一時金の1ヶ月カットや、強引なトップダウン・ガバナンス、極端な教職員組合敵視、理事長・総長の退任慰労金問題、超過勤務の適正な管理の欠落と結果としての差額分の遡り支給、総長選挙規定を廃止し総長選任規定を制定して理事長の意向に沿う選挙人を大幅に増やし、理事長人事による総長を選出する仕組み作り、不可解な人事異動、「相対的低学費政策」の放棄他、諸々の学園の一部トップ層による独善的、非民主的な諸施策がなし崩し的に行われてきた。それらの諸施策を強引に押し進めて来た中心人物は、それ以前に学園の改革のリーダーとして教職員の先頭に立ってきた、前理事長のK氏である。彼は変節したのであり、2005年以降表面的にはK氏は理事長職を退くが、彼に指名され彼の意を汲んだ一部トップ層が、光り輝く学園を完全にフェード・アウトさせていくこととなる。

 2008年には生命科学部新入生の特別転籍問題とそれによる経常費補助金の25%、15億円以上のカットなどの事態を目の当たりにして、『一体どうなっている』『平和と民主主義が泣いている』『新しい理事会のガバナンス施策は問題である』などの学内世論が高揚する中で、特別転籍問題の釈明に続き、2008年9月、常任理事会による「満腔の反省」文書が出された。

 このことによって、学園一部トップ層が、学園の民主的再生に再び踏み出すであろうと、一縷の望みに期待したが、実際に彼らが進めてきた学園運営は、「満腔の反省」を悉く反故にし、学園の将来に大いに禍根を残す可能性を内包したOIC展開であることは、周知のことである。そのことは別途論及したいが、本稿においては、かつて光り輝いていた学園を支えてきたのは一体何であったのか、その本質を探っていきたい。

(続く)

 

「一押しBook」

ネットワーク...

 

書名:ねっとわーく京都8 2013 No.295

著者:NPO法人 ねっとわーく京都

出版社:フリーマガジン

内容:

 「ねっとわーく京都8 2013 No.295」誌は、特集として『大学のまち京都第21弾』を組んでいる。特集の内容として産業社会学部の景井先生が2つのテーマでインタビュー。「東北の復興・新生を目指して 学都仙台コンソーシアム「復興大学」の取り組みを語る」では、被災地での大学関係者の大学教育・研究の再構築に取組むレポートが被災地の人々に寄り添った視点で、丁寧に報告されている。「『みちのく未来基金』による進学支援の取り組み」ではロート、カゴメ、カルピーが共同で出資して設立した『みちのく未来基金』で、理事として出向しているロート製薬復興支援室長のインタビューが書かれている。マスコミでは殺伐とした世相が強調されているが、一方ではこういった企業が世の中に沢山あることに、敬服するとともになにやら安堵を覚える。特集の最後には「学生の就活事情とブラック企業問題」という記事が掲載されている。これは5月19日に京都総評が開催したイベント『Union Up

 2013』での同名のパネルディスカッションでの、私とNPO法人京都POSSE代表の京都大学院生のK君のパネラー報告が掲載されている。私が、ブラック企業とは、ということと何故ブラック企業を告発するのかといったことを述べており、K君は、もしブラック企業に関わってしまったらどうすればよいかについて、実際の事例を紹介しながら報告した。ブラック企業問題は最近社会的に大きな関心となっており、多くの参加者の興味・関心を惹いた。

 特集以外にも、立命館大学政策科学部教授 東佳史先生の「日本人が管理できなかったのだから、我々にもできない-重みのあるフン・セン首相の言葉-」とか、金井さん(原発避難者訴訟原告団事務局長)の「3回目の夏、福島から」「「96条の会」結成に見る護憲運動の新たな展開」など、読んで心に残る名文が満載で、フリーマガジンとはいえ、確かな読み応えがあった。

 イソの評価:★★★★☆

蔵書:組合から、回覧で回っています。在庫を持っています。

(続く)

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パライソメッセージ20130823 No.23

2013-08-22 17:30:08 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.08.23 N0.23

  Mail : isokawas@goo.jp

     Blog : http://blog.goo.ne.jp/isokawas

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 「パライソメッセージ20130823 No.23」を送ります。「不要だ」「余計なお世話だ」といわれる方は、お手数ですがその旨ご連絡お願いします。

 【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:かつてR学園は光り輝いていた-活気溢れるR学園の再生を目指して-

 かつてR学園は『改革のフロントランナー』『改革のデパート』といわれ、全国の大学に先駆けて大きな改革のうねりを創り、教職員、学生のみならず校友、父母らステークフォルダーのアイデンティティは強固に纏り高められ、誰もがR学園に確信を持った。学園改革の成果は全国の大学人のみならず、広く市民や企業からも評価と信頼を得るほどに光り輝いていた。ところが、そのかつて光り輝いていたR学園が、2000年前後以降悲しいほどの事態に翻弄され、混乱に陥り、いまや『改革のフロントランナー』の見るかげも無い。2005年には理事長、総長の退任慰労金がお手盛りで倍増され、その一方で教職員の一時金が一方的に1か月分カットされた。学園一部トップは真摯に教職員と向き合うことなく、学内合意や民主主義を無視した強引なトップダウンで学園を混乱と不団結、閉塞感と疑心暗鬼に落としめしてきた。一時金カットについては、一時金返還訴訟という不団結と不信の象徴のような不幸な事態になったが、先般の和解で一応の収束を見た。一審判決で明らかになった一時金返還訴訟の本質は、学園一部トップの誠実交渉義務違反や、一時金は労使協約で定めるものであるとか、生活給であるといったことが、京都地裁において法理論として確定し、学園一部トップによる立命館の民主主義に対する強引な蹂躙が断罪されたのである。

 それにもかかわらず学園一部トップ層は、OICの展開に関わって、深刻な財政状況の試算も無視して、何かに取り憑かれたかのようにOIC開設に向けて盲進している。

 パライソメッセージは、この間世界のこと、日本のことでの私の思いを書いてきたが、今回からはR学園のことについての私見を述べていきたい。なお、私はR学園の民主的再生を願って、同趣旨の論文を書き「立命館の民主主義を考える会」の会報にかつて掲載していただいた。今日のR学園は既に過半数の職員が2000年以降の入職であり、歴史を理解することは今日を理解する上で重要であり、その意味で2009年6月論文をベースに、今日の状況を取り入れリライトしてメッセージを送る。

 1.はじめに

(連続して取り組まれてきた長期計画)

 R学園の改革は、1980年頃の長期低落傾向の中から始まった。全国的には増え続ける大学進学希望者といった社会状況にあるにもかかわらずR学園の入学志願者は暫減し4万人を割ろうとしていた。当時世間では、今では信じられないことではあるが

 『R学園は、赤くて、暗くて、ダサイ』

 『いまやKKDRからRが落ちて、KKDS(K産業大学)になった。』

 などとまで言われるようになっていた。

 そういった状況に危機感を持った学園関係者が学園の改革に踏み出して行ったのは当然のことであった。学園改革は、1984年からの第3次長期計画(1984~1990)以降、連続してあらゆる分野で多面的かつ重層的な「改革」に取組んできた。その後第4次長期計画(1991~1995)、第5次長期計画(1996~2000)と「改革」は繋ぎ続けられ、やがて学園はわが国の私学において、絶えず「改革」の先頭を歩み、「改革のフロントランナー」「リーディング・ユニバーシティ」と社会からは称せられ、まさに改革のサステイナビリティ(持続可能)を保持しながら、更なる発展を続けていくかのように思われた。第3次長期計画以降、学園のバックボーンとなった理念は、国際化・情報化・開放化であった。

 第3次長期計画以降の長期計画で、R学園が実施してきた理念の実践としての主な事業だけを見ても、世界で始めて大学が設置した国際平和ミュージアムと世界への平和のメッセージの発信、国際関係学部の設置、政策科学部の設置、理工系の拡充とBKC新展開、シンクロトロンの導入、それらを活用した従来の大学ではなかった産学連携、中堅・中小企業とも連携した共同研究と外部資金の大幅な獲得、そして2000年にはAPUの開設を実現し学園の改革はピークを迎えた。これらはビッグ・プロジェクトの事例であり、実際の現場では新学科の開設、経済・経営学部のBKC移転と文理融合、カリキュラムの改革、入学政策の多面的な展開と10万人入試の5年連続の実現、1998年には日本の大学で最も早く『就職部・就職課』をキャリアセンターと改称し、学生サービスも充実させる等の改革に連続して取組んできた。現場レベルで多くの教職員が理念やポリシーを語り、パワーを結集してそういった改革が草の根のように広く、力強く取組まれていった。

 まさに、そう『昔』でないかつてのR学園は光り輝いていたのである。当時は教員も職員も『R学園らしい学生支援とは』『入学政策とは』『R学園が輩出する若者とは』等々、R学園の理念やポリシーを意識して仕事をしていた。文部省(文部科学省)の政策とも、時には対立も辞さず『切り結んだ』独自の理念を築き上げ、そのことに誇りを持っていた。そういった、R学園を支えてきたものは何であったのか、次回以降に続論を述べていきたい。

(続く)

 

「一押しMovie」

題名:風立ちぬ

製作:スタジオジブリ(アニメーション)

監督:宮崎 駿

内容:

 宮崎駿監督の描くアニメの世界の主役はいつも子供たちで、彼らが明るい色を基調とするファンタスティックな夢の世界や空間を舞うように動き飛翔しながら、メルヘン話が進んでいく。『千と千尋の神隠し』や『となりのトトロ』『もののけ姫』等々の話はまさしくそのようなスタジオジブリ・ワールド、宮崎ワールドであった。すこし雰囲気は違うとはいっても『火垂の墓』でも、主役は子供たちであり、やはりクライマックスでは蛍の乱舞がファンタスティックな世界を創り出していた。

 『風立ちぬ』は、主役は子供ではない。しかも憲法を守るべきと主張し戦争に反対する意見を公言している宮崎駿監督、高畑勲監督、スタジオジブリが、ゼロ戦というかつての日本の侵略戦争のシンボルともなった戦闘機を題材にしているのに、少なからず違和感を覚えた。スタジオジブリのアニメは、世界でも孤高の丁寧で美しいファンタスティックな世界を創り上げている。その評価は世界ナンバーワンであるし、『アニメといえば日本』のシンボルだろう。ジブリワールド、宮崎ワールドは世界中の人達にファンタジーを届けていたのだが、今回の『風立ちぬ』を見たときに、ゼロファイターに託した夢というのが、世界の人に果たして受け入れられるのだろうか。

 しかし、私は日本人であるし、決して肯定はしないけれど、だからといってゼロ戦に対する単純なネガティブイメージを持っているわけでもない。スタジオジブリと宮崎駿さんは、難しい題材をファンタジーの世界に持ち込んだと思う。宮崎さんにとっては、世界一性能の良い飛行機設計に夢を託した堀越二郎が、その夢を実現していくプロセス自体がファンタジーなのだろう。

 映画の終わりに、死屍累々としたゼロ戦の残骸が描かれている。宮崎さんのメッセージの一端を感じた。アニメーションとしては、世界最高の個性的な質の高い作品であった。

 

イソの評価:★★★★☆

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胃癌日記89

2013-08-19 17:41:11 | 闘病

胃 癌 日 記 89

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

 

 -スキルス胃癌手術1年半後のCT検査-

 

 5月10日はスキルス胃癌手術後のケアとして、年2回の腹部・胸部CT検査。今回で術後3回目となる。昼から年休を取って、15時過ぎにSI病院へ。予約であったので殆ど待つことなく検査開始となった。日常の生活は全く異常なしで快調だが、気のせいか年のせいか咳が出ることが時々ある。まあ、肺に転移かなどは全く気にすることも無いのだろうが、気休めのために今回は胸部の検査もお願いしている。

 

 名前を呼ばれて検査室に入り、上着だけを脱いでCTの機会に横たわる。すぐに撮影が始まり、終わるまで5分とかからなかった。なんの苦痛もなにも無くあっけないほど。10分ほど検査室の外で待っていると、CT撮影のデータをプリントアウトしたフィルムと所見を封入した封筒を預かり、会計を済ましてその足でかかりつけのNクリニックへ行く。

 

 NクリニックでN先生は、CTのフィルムを見てそして封筒を開封し所見を眺めていた。

 

 「Iさん。問題無しですね。」

 

 「先生。肺のほうも大丈夫ですか。」

 

 「全く問題無しです。」

 

 とのこと。手術後1年半。3回目のCT検査も、無事クリアーした。『予定通り』というホッとした気分なのだが、ほんの気持ちの片隅には、『本当に大丈夫なんだろうか』という気持ちが無くはない。後は25日の血液検査をクリアーするだけ。また、気持ちをリフレッシュをして、残された人生、ライフワークに頑張ろうといった気持ちになった。

 

 

 

 -学会参加で鎌倉も訪問。労働組合の大きなイベントで、パネルディスカッションのパネラーに-

 

 相変わらず忙しい日々で、その合間にNPO法人の設立に向けての準備も進める。ネットワーク作り、仲間作りを着々と進めている。毎週発行のパライソメッセージも軌道に乗ってきた。

 

 5月18日は、学会に参加。前日の夜行バスで出発し、早朝横浜駅着。学会は14時からなので、それまでの間鎌倉の姉宅を訪問することとした。

 

 鎌倉駅から歩いていくのだが、今回は違った道を散策がてら行くこととした。9時30分に鎌倉駅を出発して西口から暫く歩き、源氏山方面に立ち寄る。途中銭洗い弁天にお参りし、源氏山へ。100メートルもない低い山で頂上は公園になっていて、源頼朝の銅像なども有り、展望は無いのだが市民の憩いの場。源氏山から西に行くと葛原岡神社がある。由緒ある神社で、日野俊基を祀っているらしい。そこで参拝したあと参詣道を通り、広い通りに出て住宅街を通り山の上ロータリーへ。そこで道に迷ったが、歩き回っているうちにいつも通る道に出てきて、10時10分に姉宅着。1時間ぐらいの道のりだが、迷ったりぶらぶらしたこともあり1時間40分かかってしまった。

 

 姉宅で1時間ほどすごしてから退出し、東京の学会へと向かった。この日の学会は、障害者のキャリアデザインを考えるをテーマで開催された。講師は2名で、それぞれ現場で頑張っている方であり、日常の業務や、自分自身の問題意識にも関わることであり大変勉強になった。16時20分に学会が終了し、その後甥のYと合流し、コーヒーを飲み近況報告の交換をして、分かれる。17時50分の新幹線で帰阪。

 

  翌日の5月19日には、労働組合がみやこメッセで開催す『Union up 2013』というイベントで、パネルディスカッションのパネラーとして参加した。テーマは『ブラック企業について』であり、私はブラック企業とは、具体的にどんな例があるか、何故ブラック企業を告発するか、などについて25分間ほど報告した。ざっと200名以上の方が聞いておられたが、若者の参加も多く、最近の社会問題でもある『ブラック企業』への関心の高さが感じられた。報告するパネラーは私ともう一人NPO法人で労働問題や生活問題に実践的に取組んでいるK大学院生のK君。2人の報告を基調に、労働法の研究者N先生、新聞記者T氏がコメントを述べ、コーディネーター兼司会で大学職員のK氏がまとめるといった内容であった。

 パネルディスカッションは全体で1時間少し、会場からの質疑といった時間も無い短い間ではあったがかなり盛り上がったように思う。熱気が伝わってきた。それぞれのメンバーと名刺交換もし、これからの若者が主体的に自分のキャリアを形成し、実現できるようにわれわれはどのようなサポートが可能なのかなどを話し合い、私も構想しているNPO法人についての話をし、今後のネットワークとして情報交換等を続けようということになった。

(続く)

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胃癌日記88

2013-08-06 20:40:11 | 闘病

胃 癌 日 記 88

‐スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々‐

 

-5月に入ってメーデーやらハイキングやらを楽しむ-

 

そんなばたばたした4月も終わり、5月を迎える。スキルス胃癌の手術後1年半まで後1カ月。

 

 5月1日は、メーデー。私は若い頃からメーデーには参加している。一時期自営の時には不参加だったが、現職になってからは殆ど毎年参加しており、何よりも働くものが老若男女、和気藹々と集い、語らう雰囲気が大好きだ。たまには昔の仲間に出会うこともあるし、そんなときは近況報告や孫の話で盛り上がる。それにしても、以前はメーデーというと会社のほうも休業とか、参加については会社公認といった事業所も多く、かなり盛り上がったものだが、昨今の厳しい状況で、私もそうだが殆どの参加者は休暇を取っての参加となる。そのせいもあってか参加者数は年々寂しくなってくる。そんな中で、年金者組合の参加者だけは、年々賑やかになってきている。今年も年金者組合の集団の中にいた昔の職場の先輩に挨拶。

 

 中央集会が終わって、市中のデモ行進。これもひとつの楽しみ。昔は『闘うメーデー』なんて雰囲気もあって、けっこう入れ込んでデモ行進したものだが、もう昨今は『健康ウォーク』のようなもの。のんびりと二条城前から市役所前まで。丁度昼前にゴールへ到着し、後は楽しみのレストランでの懇親会となった。皆さん和気藹々とビールも入ってだんだんと盛り上がってきたが、私はアルコールは飲まなくなったので、なかなか盛り上がらないのだが、それでも今秋に立ち上げようと思っているNPO法人の構想や趣旨を聞いてもらい、意見も聴き、殆どが好意的な反応であってテンションは上った。

 

  5月3日の憲法記念日は、サークルのハイキングで京都北山の奥の院とでもいうような、朽木駒ケ岳へ行く。今回はファミリーハイキングも兼ねて、自宅から自家用車を駆って連れ合い、孫そして次女も合流しての参加となった。北山の奥の院なので公共交通機関の便も悪く、メンバーの車2台分乗しての山行となった。朝一番でちょっとしたアクシデントがあり、出発時間が遅れてしまったが、一路鯖街道を朽木に向けて走る。10時10分朽木の道の駅、くつき新本陣に一旦集合して、バイクと合流し連なって山へと向かう。山中の生活道路の県道を走り、下山口の木地山前に車を1台停めに行き、登山口の足谷口にも車1台を停める。10時55分登山開始。

 

 北山の奥の院らしく、野趣たっぷりの自然に溢れている。急登を登りやがて11時40分に池原山山頂(680m)。ここから高島トレイルと呼ばれる道に合流。暫く歩くと小さな池があり、12時40分にそこで昼食休憩とした。このお弁当スポットの池は、リーダーのAさんお勧めだけあって、尾根筋からほんの少し下がって、適当に木々に囲まれながら、ちょっとした公園のような広場にもなっている。池の水は適度に澄んでいてイモリがうじゃうじゃ。尾根筋という地形から見て湧水が溜まったものでは無く、多分雨水が溜まったものではないだろうか。日照りが続くと枯れるのではないかと思うが、その割にはイモリがうじゃうじゃと生息。

 

 昼食を終えて、13時20分発。再び高島トレイルを歩き、分岐を超え14時に朽木駒ケ岳頂上(780.1m)。途中のトレイルからの眺望はすばらしく、東には琵琶湖の湖北、琵琶湖を隔てた対岸には伊吹山、北へ転じると赤坂山の稜線、その向こうには若狭の敦賀方面、南西へ転じると900メーター峰の百里ヶ岳が遠望できる。山頂で暫く記念撮影などを楽しみ、14時30分に出発。分岐へ戻り、そこからひたすら忠実に尾根伝いに下山する。あまり人も入らず、踏み跡もはっきりしない北山らしい尾根筋を忠実に辿り、最後にやっと谷筋に合流。ちょっと歩いて下山地点の木地山前。そこは小さなバス停があり、綺麗なトイレも有る。バス停は生活道路の終点。木地山前から、登山口の足谷口へ車を取りに行き、木地山前まで戻って再び2台に分乗して出発。16時35分に朽木道の駅、くつき新本陣に戻り、各自思い思い土産を買ったりアイスクリームを食べたりして自由解散となった。

 わがファミリーはK氏を市内まで送った後、夕食。次女お勧めの100%自然素材で手作りのアットホームな、鞍馬口通りにある食堂でのファミリー晩餐。大変美味しかった。食後、温泉に未練を残す孫をなだめて、次女を送りそして自宅まで戻った。本日のハイキングはリーダーのAさんならではのコースで、満足度は申し分なかった。大変いいリフレッシュとなった。

(続く)

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パライソメッセージ20130802 No.22

2013-08-01 17:54:13 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.08.02 N0.22

 Mail : isokawas@goo.jp

     Blog : http://blog.goo.ne.jp/isokawas

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 「パライソメッセージ20130802 No.22」を送ります。「不要だ」「余計なお世話だ」といわれる方は、お手数ですがその旨ご連絡お願いします。

【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:何故日本は『壊滅的な』状況になってしまったのか⑥ 

 『壊滅的な』状況から日本を再建していく為に、片務的・屈辱的軍事同盟を破棄しなければならない理由の第二は、外交上の紛争は、あくまで正々堂々と外交で解決して行くことである。そのこと自体を国際的にアピールすることが、世界での信頼をいっそう強固にする。

 日本の外交上の課題は大変多い。安倍首相は『日本を取り戻す』などと言って、憲法9条を『改正』し国防軍設立を構想し、さかんにプロパガンダを張っている。麻生副総理は「ワイマール憲法がナチス憲法に密かに変わって行ったのを学べ」とまで言っている。しかし国防軍は、自主独立の独立国家の軍隊ではない。アメリカの庇護の下にある猛犬の飼い犬のようなもので、安倍首相本人もアメリカの庇護を大前提に大声を出しているが、一方では飼主への忠誠は良くわきまえている。ところが実際の外交交渉の対応は大変拙い。尖閣列島問題では、『領土問題は存在しない』というのが政府の公式見解で、その一方で安物のナショナリズムを煽り立て、中国を敵視するだけで道理と事実に基づいた外交交渉をしようとしない。竹島も北方領土問題も歴史と事実と道理に基づいた外交交渉も出来ず、安物のナショナリズムを煽り立てるだけで、なんの進展も無い。そうこうしているうちに、『中国にも道理があるのではないか』等といったことがいろんな国で言われだしたり、肝心のアメリカが中国、韓国と対話を進めるといったことが現実に起こっている。なんと言うことは無い。飼主の威を借りて吠えまくっていたのが、いつの間にか肝心の買主が違うペットを可愛がろうとしているではないか。北朝鮮に対しても、盛んに吠えまくっているうちに、米中韓では6カ国協議の再開に向けて外交交渉を進めているではないか。日本が思い込んでいるほどアメリカは日本のことを思っていない。自国の利益が最優先だ。こんなことは冷静に考えれば誰でもわかるのではないか。気が付けば国防軍を持った世界の孤児、そんな事態が現実味を持った懸念として浮かんでくる。

 『壊滅的状況』の日本が世界のわけてもAEAN諸国の真の信頼と尊敬を得ようと思えば、世界の孤児、アジアの孤児で、思い込みの孤高に佇んでいるだけでは駄目である。日本が尊厳を持って生き抜けるのは、先に行った平和憲法を掲げ戦争放棄の理念を掲げることと、自主独立の外交を堂々と進めることだと思う。但し、『受身』だけでは駄目で、また空疎な理想論だけでは実現しない。そのためにどうするかは、以下第3の論点の通り。

 第三の論点は、憲法9条を持ち、広島・長崎そして福島の経験を持つ日本であるからこそ可能と重みがあるが、反核、反戦そして自主独立の平和主義をもっと積極的に世界にアピールし、具体的なアクションとして国連の事務総長を日本から送り出し、ノーベル平和賞の日本からの輩出を積極的に目指す。それらのことは日本の安全を保証する最大の担保となる。かつてアメリカの国務長官であったパウエル氏は、本人は反対であったといわれているが、イラク戦争を指揮した。彼が最近、「核抑止力とは究極は核兵器を使うということだ、核抑止論者は広島を見るべきだ」とか「核兵器は人類を滅ぼす」と言い、核抑止力を批判し核兵器の廃絶を堂々と主張している。ひょっとするとノーベル平和賞候補となるかもしれない。どうして日本の政治家や叡智たちはそういったことが出来ないのか。権力者の情報を垂れ流すだけで、今回のパウエル発言にも無視を決め込んでいるマスコミの退廃は大きな原因であろうが、そういった人材が日本にいないのではない。憲法9条の会は2004年の発足以来幅広い活動を続け、多くの人材を輩出している。いわゆる『右より』といわれる人でも、真の意味で自主独立を言い、核兵器の絶滅を主張されている人物も多くいる。被爆国、福島を経験した日本は、思想信条の違いを超え平和を希求する国民性であり、それを唱える叡智は豊富である。何故、世界での評価が弱いのか。それは、戦後日本の歴代の為政者が、アメリカの属国として、アメリカに遠慮して日本の国是としての平和を世界にアピールしてこなかったからであると思う。しかも、本来ならばそういった世論を大いに喚起しリードして行かねばならないマスコミが、権力に迎合するといった退廃堕落の有様で、日本の国際的信頼を貶めていると言っても言い過ぎではないだろう。

 日本は、世界の平和構築のために先頭に立って貢献し、国を挙げて思想信条を超えてノーベル平和賞の人材を輩出し、ひいては国連の事務総長を輩出する、それぐらいの腰の据わったパフォーマンスをするべきであるだろう。『日本が国際紛争に巻き込まれた時、それは日本の相手国に非があるのが世界の常識』といわれるほどの地位を築いて欲しいものであるし、それが可能な条件である日本の平和へのアドバンテージは、確実に実らせて欲しいと思う。

  『壊滅的状況』の日本からサステイナビリティ・ディベロップメント(Sustainability Development)の日本への転換は、世界の諸国わけても近隣のASEAN諸国との平和・友好関係のもとでの実の有る経済・文化の交流を進めることであり、そこで日本の役割を十分に果たすことであると思う。『壊滅的』になってしまった根本原因は排除しなければならない。同時に日本のSustainability Developmentは、そのような理念やポリシーによってバランスよく実現されていくだろう。

 

 世界や日本のあるべき姿や課題をメッセージにしてきた。世界や日本は少し大きいので、次回以降は、R学園が再び光り輝き、元気になる為の提言を述べたい。

(続く) 

 

「一押しBook」

 

書名:立命館大学紛争の5ヶ月 1969

著者:写真 小原輝三、1948年生、立命館大学文学部卒業、学校法人立命館職員(2008年退職)、『写真集 向銭看時代 中国1988年~1997年 豊かになれる人から豊かに』出版、2013年没

文 鈴木元、1944年生、立命館大学経済学部卒業、学校法人立命館職員(退職)、主な著書『立命館の再生を願って』

出版社:文理閣 1800円+税、生協ブックアンドサービスで取り寄せ可能

内容:

 私が大学に入学する前年の1967年頃から全国の大学で学園紛争が勃発し瞬く間に広がって行った。若者たちの『怒り』で表現されていることがあるが、それは学園紛争の本質とは異なる。ただ、世界中の国々でいわゆる若者たちの『怒り』は燎原の火のごとく立ち昇った。フランスのパリでは、カルチェラタンにバリケードを築き、解放区を謳歌する若者たちが『革命』を叫んだ。アメリカでは『いちご白書』(Strawberry Statement)に象徴される学園紛争が多発した。その背景にはアメリカによるベトナムへの侵略戦争があり、泥沼で出口の見えない侵略戦争への若者たちの厭戦気分とニヒリズムがあった。

 マスコミは、学園紛争を全共闘とか新左翼といった一部の暴力的潮流を象徴化しシンボル化してきた。しかしそれは正しい歴史認識では全くない。ベトナム戦争反対といった平和の課題や大学管理運営法反対といった政治課題もあったのだが、基調となる本流は全国の大学の民主化のための闘いであった。私はその渦中に、主体的に飛び込んだ。本書は、立命館の学園紛争を民主化闘争の立場からの写真記録と論説である。学園紛争を知らない若者にも是非見て頂きたい本である。

 

イソの評価:★★★★☆ 若い人には★★★★★

蔵書:イソ蔵書(貸し出し随時)、生協のブック・アンド・サービスで取り寄せ可能

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胃癌日記87

2013-07-31 18:27:06 | 闘病

胃 癌 日 記 87

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 

 そんな中で、4月20日にはまたまたサークルのハイキングで、京都北山の峰床山に行った。

 

 峰床山は標高970メートルで、京都府下で2番目に高い山。峰床山は山頂付近に八丁平という高層湿原を抱き、多様な動物や植生に恵まれた大変素敵な山域だ。未だ我が子が小学生であったときに、八丁平までだったがファミリーハイキングでも来たことがあるし、友人のMと来たり単独やらで合計4回来ており、よく知っている山なのだ。今回は25年位振りになるのか、5回目のハイキングだ。

 

 朝7時45分に出町柳発のバスに乗って、葛川校バス停で下車しそこから登山が始まる。最初30分程は林道を歩くが、25年前とは随分変わってしまった感じがする。当時はずっと川沿いの右岸に道が続いていたはずだが、林道は何回か橋を渡り右岸、左岸と辿っていく。林道終点からは川を渡り暫くは小さな沢沿いに左岸を辿り、途中で渡渉し尾根を辿るのは覚えているが、渡渉地点や道の様子は全く変わってしまっている。道そのものが変わってしまっているのだろう。これはベテランのAリーダーに全幅の信頼を寄せるのが正解だろうと思った。

 

 かつてはハイキングの人気コースで、道もはっきりと付いていたが、今はルートファインディングに結構気を遣う。暫く尾根筋に近い道を登り続けると、一登りしたかなあという感じで、中村乗越という展望の良い峠に出る。ここから振り返れば比良連山が正面に拡がる。蓬莱山から武奈が岳が一望。行く先のほうには八丁平が有る。八丁平は高層湿原で30年前は自然がたっぷりと残っていて、廻りには栗の木があり猿やリスが遊びマムシがうじゃうじゃといた。今は早春で標高も900メートルで、木々の新芽も未だ出ておらず、枯れ木のような殺風景な立木が群生している。マムシも未だ冬眠から覚めていないのか、『マムシに注意』の看板はあるが、全く見かけない。それよりも何よりも、肝心の湿原が渇水状態で細くなってしまっている。細い川の流れがあってその周辺が湿原状態。以前は京都の尾瀬沼かというほど立派な湿原に、動物やいろんな植生に覆われ、本当に自然一杯の素敵な所だったのだが、この渇水状態はもう10年以上前頃かららしい。

 

 ベンチの有る辻で少し休憩の後、八丁平を周回する道をたどり、峰床山へと向かう。同志社大学ワンゲル小屋跡を過ぎ、頂上へ繋がる尾根道に入る。尾根道に入るところが三叉路で、峰床山と反対に少し行くと展望ポイントがある。ここからは、京都北山の南部が一望。目の前の足尾谷を挟んだ向こう側、南には京都府最高峰972メートルの皆子山が対峙する。西のほうを臨むと花背方面に雲取山、もう少し西は送電鉄塔が目印の桟敷が岳、さらにはるか西は愛宕山に地蔵岳。向きを変えて東を見れば小さくリフトの鉄塔も見える蓬莱山、その左の北のほうには西南稜に続く武奈が岳。もう、山の景色満喫だ。

 

 暫く景色を堪能した後引き返し、尾根道を辿るとまもなく標高971.5メートル、京都府第2位の峰床山山頂に着いた。丁度昼前に頂上着で、昼食を食べひと時談笑。昼食後八丁平の周回道をぐるっと回って辻に戻り、登ってきた道を帰った。のんびり歩いてゆっくり戻ったが、3時には登り口の葛川校バス停に着き、3時50分発の近若バスで樫田へ。4時40分JR樫田駅着、ここで解散し、4時50分発のJRで帰路へとついた。

 

 

 4月27日の日曜日は、長い間モニターが着かなくなり壊れていた携帯電話を買い替え、ショップに行って新しい携帯電話にデータを移し変えた。久しぶりにすっきりした気分だが、機械が変わり使い慣れるまで一苦労しそうだ。月末30日は、職場の若手の異動で、壮行会を兼ねたカラオケパーティ。大いに盛り上がったのはいいが、私は酒を飲まないので、盛り上がりに合わせるのが大変だった。

(続く)

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胃癌日記86

2013-07-29 17:26:59 | 闘病

胃 癌 日 記 86

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 -4月は仕事の合間を縫って、お花見・ハイキング三昧-

 2013年度の開始、4月に入ると暖かい日が続いた。

 4月5日は職場の若手を中心に、恒例の平野神社の夜桜見物に行くこととなった。若手8人とその他で総計11名。花見茶屋の囲いの中のゴザに陣取って、和気藹々と語り会い、日頃の鬱憤を晴らした。桜はすばらしく咲き乱れ申し分の無い花見のシチュエーションとなった。が、私は酒を一滴も飲まず、みんなのテンションがどんどん上がっていくのに取り残されて、少しづつ空しい思いにもなってくる。まあ、それでも賑やかな宴会が繰り広げられた。若手といっても全員女性なので、賑やかなことこの上ないが、罵詈罵声というわけではないので、楽しかった。午後10時前に散会。

 さて、2日後の4月7日の土曜日は、学生時代の同期の同志による恒例の花見会。昨年は鴨川河畔で花見をしたが、猛烈な寒の戻りに加えて雨までばらつきだして、散々な思いをしたこともあり、今年は最初から三条の料理屋集合とした。昨年10月の尾道旅行以来の再会でそれぞれの近況報告。まあ、殆どのメンバーが65歳絡みになってきて、ハッピーかアンハッピーかよくわからないが、リタイアがらみの話題が多かった。私は、胃癌のその後の経過や、術後にめげず月2回のハイキング、毎週のジム通い、読書のことやリタイア後のライフワークのことなどを話した。いつものように女性陣は元気溌剌で、人生何時だって前向きに生きているようだ。われわれが学生時代は男女比は9:1という感じだったが、活動的な学生は女子学生のほうが圧倒的に多く、本日の集いにしても8:3だが女性が目立つ。

 楽しい飲食と懇親の後花見本番で、まずは白川から切通しから祇園甲部、女紅場へ。現在大学教員をしていて京都の街や町衆に博識なM君の薀蓄を聞きながら逍遥。切通しでは、偶然M君の教え子の女子学生に出会い、しばしみんなで談笑後記念写真を写してもらう。祇園甲部から花見小路を抜け、場違いなJRAの祇園場外馬券売り場の前を通り建仁寺へ。ここでもM君の薀蓄を聞いた後、町屋の路地の間を通り東山安井神社へ。この神社は縁結びではなくて『縁切り』にご利益が有る。M君によると『縁切り』というのは『悪縁切り』で酒やタバコや博打などから『縁切り』で、その上で『良縁』が成就するそうだ。ご利益を期待してか、多くの人がお参りしていた。若い女性が圧倒的に多いが、絵馬を見ていると深刻な内容のものがいくつもあった。そこから東山通を横断し、石塀小路を通り北政所・ねねの寺といわれる高台寺に行き、円山公園に向かう。

 『清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢うひと みな美しき』

 と、与謝野晶子が詠んだのは、産寧坂(さんねんざか)から、この辺りの道だった。

 祇園の塔を過ぎ、学生時代に集会やらでよく来た円山音楽堂まで来た。時間も午後4時前となり、コーヒーでも飲もうということで、長楽館へ入る。長楽館は100年以上前の建造物で、当時タバコ王といわれた村田翁の建立とのこと。京都市有形文化財に指定されている。長楽館は予約制で格式も高く、普通は入られないらしいのだが、ここでもM君は『顔』が利き、何とか11名分の席を確保してもらった。ゆっくりと美味しいコーヒーを味わいながら、今秋の懇親会での再会を約束し、今年もまた楽しかったお花見の集いも終わった。

 12日夜には、学会の有志が集い、今般大阪の大学に副学長として赴任してきたF君の歓迎会があった。F君は私の大学時代の同期で以前には学会の会長も経験している。身近なところで活躍する仲間が増えて、大いに刺激になる。

 14日の日曜日は職場での春の遠足と称して、懇親ピクニック。コースは昨年と同じ銀閣寺門前集合大文字山から如意岳に登り東山を歩いて南禅寺で湯豆腐の昼食、その後哲学の道を歩き銀閣寺まで戻るコース。桜は大分散ってしまって、遅咲きの八重桜が咲き残っている。今年はI君と愛娘Mちゃんも含め、職場女子会をメーンに10名の参加。そして、今年は大文字山で豚汁を作って食べようということになった。仕事の分担は女子会が切った材料、I先生が鍋のコッフェルと乾杯用飲み物、私がガスバーナーと水2リットル×2本と箸等もろもろ。如意岳山頂の三角点の有るちょっとした広場で豚汁を作る。場所と道具をセットするのは私、豚汁を作るのは元シェフのI君、乾杯の段取はI先生と、男性陣はこまめに動き、ここでも主役は女子会。賑やかに乾杯をして、美味しい豚汁を全員が楽しんだ。

 奥丹で湯豆腐をいただいた後、I先生と子連れのI君は帰路に着き、残った女子会と私は哲学の道を銀閣寺へと戻った。今年も楽しい春の遠足だった。

 ぐっと昭和の雰囲気が漂う職場というか女子会は、温かみがあって私は好きだ。

  仕事は、最近は大阪勤務が多く学生と話す時間が多い。多くの若々しい新しい感性に触れ、勉強にも新しい課題発見にもなり、これからの仕事というか大げさに言えばライフワークに取組んでいくモチベーションに繋がり、気持ちが充実する。

(続く)

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パライソメッセージ20130726 No.21

2013-07-26 18:19:23 | メッセージ

パライソメッセージ20130726 No.21

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パライソメッセージ 2013.07.26 N0.21

 Mail : isokawas@goo.jp

     Blog : http://blog.goo.ne.jp/isokawas

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 「パライソメッセージ20130726 No.21」を送ります。「不要だ」「余計なお世話だ」といわれる方は、お手数ですがその旨ご連絡お願いします。

【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:何故日本は『壊滅的な』状況になってしまったのか⑤ 

 『壊滅的』な状況から、日本のサステイナビリティ・ディベロップメント(Sustainability Development:持続可能な発展)はどうあるべきなのか。私は、その骨格となるのは平和外交と新自由由主義からの脱却であると思う。

 外交について言うと、日本には平和憲法があり憲法9条がある。しかし世界の国々は平和憲法があるにもかかわらずイラクへのPKO派遣などを行っている日本に対して、いぶかしい思いを持ち、少なからぬ不信を抱いているのが現状だろう。先進工業国も途上国、紛争当事者の国も、日本への評価はアメリカの強固な同盟国といった見方であろう。同盟というのは国際的には軍事同盟のことであって、平和『同盟』という概念は存在しない。平和の場合は友好条約や協定であり、対等平等の関係の具体的約束となる。日米軍事同盟における双方の権利・義務は具体的には日米安全保障条約で規定される。しかし、それは決して対等平等ではなく、日米地位協定に見られるように片務的、屈辱的軍事同盟である。

 日米地位協定とは安全保障条約つまり軍事同盟の前提となる協定で、米軍は日本の国土の『好きな場所を自由に』(第6条)『日本の負担で』(思いやり予算)『自由気ままに』(治外法権)使用することが出来る、というものである。協定を根拠にして在日米軍基地があり、沖縄の基地があり、断罪されない治外法権の米兵による犯罪行為が過去から重ねられてきた。  

 一方、現在アジアの23カ国の中で、アメリカと軍事同盟を結んでいるのは日本と韓国だけである。冷戦時代のアジアには、SEATO(東南アジア条約機構)といった反共軍事同盟が存在し、多くの国が参加していた。しかし1990年代の旧ソ連の崩壊後冷戦が終息し、SEATOも実質的に機能しなくなり消滅していく。ASEANは、当初反共同盟的色合いで、ベトナム戦争に派兵したフィリピンが当初の加盟国であったりして、長い間大きな進展は無かった。しかし今日では当のベトナムも参加し、新聞でも報道されるように10カ国が加盟し、東南アジアの地域統合体としての役割を果たし、その政治力・経済力は国際的にも大きな影響を持っている。ASEAN全体のGDPは日本のそれの40%くらい、人口はEU全体よりも多い。ASEAN諸国ではフィリッピンをはじめ全ての国から米軍は撤退し、中立的な連合体として周辺地域に影響を広げ、ドル経済圏、EUに続く第3世界としての存在感を増している。

 日本はASEANの発足当初から関係は深かったが、2000年前後から中国、韓国が加わりASEAN+3、2000年以降はオーストラリア、ニュージーランド、インド等も加わり経済連携が進められているが、自由貿易協定は中国が先行した。日本はアメリカの対中国政策に配慮したのかここでも中国に遅れをとり、逆転されてしまった。

 さて、日米軍事同盟だが、肯定論者は中国、北朝鮮の脅威に対抗する抑止力として必要と論じている。日本と韓国だけがアジアでアメリカと軍事同盟を結んでいるが、片務的、屈辱的軍事同盟は日本だけである。世界でも顰蹙を買っている屈辱的、片務的軍事同盟を解消するのは2つの道しかない。つまり憲法9条を改訂し自主独立の軍隊を持ち、韓国のようにアメリカとは形式上『対等の』関係で軍事同盟を締結するのか、それとも軍事同盟そのものを廃棄するのか、である。当然のことだが、独立国が自衛権を有するのは当然のことであり、そのことは否定しない。

 私は、軍事同盟そのものを廃棄し、自主独立の日本を希求することが日本のこれから生きるべき道であると確信する。理由は3点。

 第一に、戦後の日本が世界の中で評価され、大きな経済成長を達成してきたのは、日本が憲法9条を持ち戦争をしない国であるということが世界の、わけても途上国での信頼を得る大きなバックグラウンドであったいうことである。今日本の世界からの信頼は大きく揺らいできている。イラクへの継続的派遣、安部自民党による憲法改悪の企て、中国の領土問題を巡る大義の無い振る舞いや北朝鮮の動向を煽り立てたり、橋下の慰安婦問題本音発言に絡め歴史を捏造しようとしたりで、安物のナショナリズムを煽り立てることによって、周辺国のみならず世界の国々から大きな懸念と顰蹙をかっている。先日、テレビ討論で自民党の石破幹事長は『軍法会議』に言及した。現在の自衛隊は『軍隊』ではなく、法的には通常の法体系で律せられる。それでは駄目なので、軍に関する規則や命令への服務を律する『軍法会議』が必要で、命令に背いたり脱走、離脱等の場合最高刑で処分する、つまり死刑ということである。このことは安倍首相も思いを共有しているのだろう。テレビ討論以降、弁明も否定も一切行っていない。これには一部の報道で、現職自衛官でさえ『われわれは専守防衛を宣誓して自衛官になった』と言い、大いなる懸念を表明しているとのこと。

 こういった日本の右傾化、ナショナリズムの鼓舞、戦争が出来る国への転換が、外国からどう見られるのか。憲法改悪、再軍備にうつつを言っている間に、ASEANにおける経済協定は中国に持っていかれている。そのアメリカが日本を飛び越えて中国と同盟を結ばない保証は何も無い。そのほうがアメリカにとっては明らかにメリットがあるだろう。片務的・屈辱的日米軍事同盟は破棄することが、世界の中で日本が生き延びていくこと、日本再生にとって重要であると思う。

 第二、第三の理由は次回以降。

(続く)

 

「一押しBook」

 

 

書名:知の逆転

著者:吉成真由美インタビュー編、MIT卒業、ハーバード大学院修士(脳科学専攻)、NHKディレクターからサイエンスライター

出版社:NHK出版、2012年12月初版、903円(税込み)

内容:

 この本は、吉成氏が6名のアメリカの叡智にインタビューしたものを編集している。ジャレド・ダイアモンドは科学と宗教を脳科学から分析、ノーム・チョムスキーは資本主義、権力をアメリカ社会批判から延べ、科学の可能性に論述。オリバー・サックスは脳、音楽、教育と遺伝子などを論じ、マービン・ミンスキーはロボット工学、人工知能の可能性を『なぜ福島にロボットを送れなかったか』という問いかけから述べている。トム・レイトンは数学者が数学を武器に前人未到のサイバーワールドを展開し、アカマイを設立しスティーブ・ジョブズから賞賛される。DNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンは科学研究の将来の可能性、ダーウィンと神の関係、真実、教育、尊厳死を語る。

 現代の世界には哲学が無いと、私は嘆いている。新自由主義は、資本主義・自由主義からの後退的・退廃的反動へまっしぐらである。その様相はブラック企業に象徴的なように、封建制、いや奴隷制への逆戻りさえ思わせる。そんな世界的な殺伐とした刹那的トレンドの中で6名の叡智は、大変貴重で筋の通った『哲学』を語っており、これは人類に対するサジェッションに値すると思う。是非お勧めの一冊。

イソの評価:★★★★★

蔵書:イソ蔵書(貸し出し随時)

(続く)

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胃癌日記85

2013-07-24 19:17:24 | 闘病

胃 癌 日 記 85

-スキルス胃癌手術から1年半の日々-

 -サークルでのポンポン山ハイキング・仕事・夜桜見物-

 3月23日は、サークルでのポンポン山ハイキング。今回のハイキングはサークルの定年退職者を送る企画の一環で、和気藹々と。

 朝8時30分東向日駅集合、8時42分のバスに乗って善峰寺、そこから杉谷集落を通り10時45分にポンポン山頂上。記念写真小休止後高槻方面へ。12時15分に本山寺で境内から少し離れたアスファルトの道端で昼食。13時50分神峯山寺。そこから舗装道路を歩き摂津峡に入り、摂津峡を抜けて15時20分に摂津峡温泉の翔風苑に到着、温泉入浴。まずは順調なハイキング。

 本日はその後サークルの定年退職者を送る会で、高槻市内の料理屋へと行き、17時過ぎから宴会開始。今回のゲストのHさんを労い、楽しい2時間あまりを過した。

 仕事のほうは相変わらず忙しい。大阪での仕事も多く、ばたばたしている。3月の20日から、「パライソメッセージ」を書き出した。その理由は、私も現役が来年の3月までとなり、ここにきて自分の存在の証を置いておきたい、といった思いになってきたことである。あと1年でフェードアウトしていくわけだが、自分としてはハッピィ・リタイアといった思いは無い。まだ遣り残したものの方がはるかに多い。そんな思いで次への展開のステップを刻む意味で、メッセージを残そうといったような思いで有る。「パライソメッセージ」は、週間にして、職場の皆さん、心を許す仲間たちや先輩諸氏にメールで配信し、ブログにもアップしていく。

 3月30日の土曜日には、お彼岸に行きそびれたお墓参りに行った。夕方からは連れ合いと長女と孫Tとの4人で、万博公園に夜桜見物。今年は温かい日が殆ど無かったが、ここ数日で急に桜が満開になってしまった。お弁当を仕入れて、夜桜を見物して、ライトアップされた桜の木の下でお弁当。

(続く)

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胃癌日記84

2013-07-23 17:40:30 | 闘病

胃 癌 日 記 84

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 

 霊山寺を出て県道を走り、3時前に鳴門の大塚美術館に着いた。駐車場に着いた時には雨模様で、シャトルバスを待つ間に本降りになってきた。2時50分美術館着。大体駆け足で1時間ちょっとで見学ができると計画していた。

 大塚美術館は、バロックやルネッサンス期以降の世界の名画はほぼ全てといっていいほど、精密・精巧な陶板画に再生されており、見る前は『所詮レプリカ』と、実はたかをくぐっていた。ところが実際に見だすと陶板画の精密なことや、独特の光沢を持ってしかも色が焦ることなく、展示するシチュエーションの作りも半端でなく壮大で、一つ一つの陶板画のすばらしさもさることながら、展示空間の演出に大いに魅せられた。1時間ちょっとの見学時間かと思っていたが、結局閉館時間ぎりぎりの午後5時まで駆け足で、コーヒータイムもなくひたすら見学。それでももう少し時間が欲しかった。

 大塚美術館を出て、再び大鳴門橋をわたり淡路島へ。県道を走り午後5時40分に南淡路ロイヤルホテル着。南淡温泉にゆったりと浸り、おいしい和食を頂き、一日目は終了した。

 翌21日は朝から温泉に入り、朝食後早めに出発。一日目の淡路サービスエリアで貰ったスタンプラリーがあり、本日は予定の行動プラスオプションでスタンプラリー。

 朝一番に開館前の大鳴戸橋記念館に入り込み、スタンプをゲット。続いて、『たこせんべいの里』に立ち寄り、スタンプゲットと土産を仕入れる。続いて蓮華寺へ。蓮花寺へは入り口の道が分からず、県道から生活道路に入り込み、細い道を迷路のように走り、結局地元のおばあさんに道を尋ねて、やっと辿り着いた。真言宗の閑静なお寺で、そう大きくはないが五百羅漢を納めたお堂があり、鍵が開いていたので中に入りお参りした。

 蓮華寺を出て、一旦海沿いを走り慶野松原を過ぎて11時10分に五色町の、高田屋嘉兵衛記念館で資料見ていると、管理のおじさんが、われわれの為に、と言っても狭い記念館はわれわれ以外に客もいないが、ビデオを上映してくれた。続いてウェルネスパーク五色。ここにも高田屋嘉兵衛の記念館のような建物があった。五色町は高田屋嘉兵衛と『菜の花の沖』の町だった。続いて海岸沿いの道路を走り、淡路瓦や線香といった淡路島の特産品を製造する会社を通りすごし、群家から内陸に入り伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)へ。この神宮は由緒も深く、イザナギノミコとトイザナミノミコトの日本創造の地とのこと。閑静で重厚な神宮であった。そのあと売店のおばさんに勧められて、丘の上のラッパ水仙の栽培畑を見学。

 伊弉諾神宮を出て、再び海岸通に戻り北上し、野島断層記念館着。ここは1995年の阪神淡路大震災の震源地に建てられた記念館で、私は実は1996年にママチャリで淡路島一周をした時に一度訪れている。1995年は個人的には大きな転機の年で、思いは深い。

 今回は2度目の訪問で、連れ合いと一緒。また少し違った思いで再びの見学。遅めの昼食をレストハウスでした後、記念館を見学した。あの1995年の忌まわしい思いが甦ってきて複雑な思いがする。私は仕事もあり神戸へよく行ったが、一面焼け野原となってしまった青木や長田の駅前商店街を、何故だか「ごめんな、ごめんな・・・」と心の中でつぶやきながら、泣きながら通り過ぎて行ったのが、ついこの前のように思い出された。

 連れ合いともども少しウェットな気分になったが、約1時間の見学後再び海岸道路を北上し、暫く走って内陸に入り、15時に、淡路花さじきのフラワーランド着。山の上に展望台があり、大阪湾側の斜面は一面のお花畑。この季節は菜の花が群生し、一面黄色い絨毯。展望台の直ぐ下の花壇には菫が咲いていた。

 40分の見学の後、いよいよ帰路につく。1泊2日の鳴戸・淡路島の旅もこれでおしまいで、連れ合いともども余韻に少し浸りながら、海岸通をぐるっと周って淡路インターチェンジから高速淡路道に乗り、明石大橋をわたり瀬戸内道、中国道を経由して、17時40分に帰着。思い出に残る楽しい旅も終わった。

 この日は卒業式があり、帰着後再び外出で、卒業謝恩パーティに参加し若者たちの門出を祝った。

(続く) 

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胃癌日記83

2013-07-22 18:46:22 | 闘病

胃 癌 日 記 83

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

 

 -学会研究集会への参加と、3月のファミリーハイキング-

 

 相変わらず多忙な日々が続く。3月16日は私が所属する日本CD学会の関西支部研究集会に参加した。研究集会では3本の発表があった。いずれもキャリアデザイン支援の実践からの報告で、真摯な取り組みであり改めてたくさんのことを学ばせていただいた。全ての報告に対して、意見や質問を積極的にして理解を深めた。ただ、報告の中でコーチングの手法にかなり違和感を持つものがあり、その旨発言し意見表明をした。

 翌3月17日はファミリーハイキング。朝5時50分に起床して準備し、7時40分に出発。家からは連れ合いと下の孫と私の3人。国際会館のバスターミナルで次女と合流し、本日のコースは岩倉から瓢箪崩山と金毘羅山の連続登山で、その後大原温泉に入浴する予定だ。

 

 バスターミナルから歩き出し岩倉の街中を行く。実は本日地図を忘れてきてしまった。そのため岩倉の街中の舗装道路を歩き続けるのだが、どうも登山口へのアプローチが分からない。何回か道を聞きやっとのことで登山口へのアプローチが分かり、10時15分に上り口である林道入り口に辿り着いた。約40分の遅れ。ファミリーのブーイングも高鳴りし、スタート早々前途が案じられることとなってしまった。

 

 この日はファミリーの体調が整わず、予定時間の回復どころかだんだんと遅れが出始め、やむなく行程途中で昼食とし、昼食後は後半の登山である金毘羅山を断念することとした。前回の雨天と道迷いといい、金毘羅山は縁が無いのかなあと、すこし残念な気持ちだ。

 

 結局、江文峠から江文神社へ、そこから再び舗装道路を寂光院まで歩き、大原の里温泉に浸かる。温泉は良いのだが、本日のファミリーハイキングは、地図で道迷い、体調整わず、長い舗装道路歩きでおおむねブーイングで不評だった。来月挽回しようと思う。

 

 

 

 -淡路島旅行-

 

 3月は年度替りの月で、成り行きで仕事は多忙になるし、さらに輪を加えて2月の企画のデータ集計やらアンケート集計。おまけに歓送迎会とやらで超多忙となる。この超多忙の隙を見つけて、連れ合いと1泊2日で淡路島に旅行に行くこととした。水仙も終わり、今特に淡路島での見所といったものは無いのだが、年度末の『けじめ』のようなものか。日程は3月20日と21日。

 

 20日朝車で出発。快調に高速道路を走り10時過ぎには明石大橋をわたり淡路島へ。ただし本日は更に走り、大鳴門橋を超えて四国鳴門市に行き観光してから淡路島に戻る計画。11時過ぎに大鳴門橋をわたり11時20分頃板野インターチェンジを降りた。そこから県道を少し戻り、四国八十八ヵ所第二番礼場極楽寺にお参り。休日だが閑静な寺で、本堂、太子堂にお参りし庭を散策する。極楽寺を出て再び県道を走り、ドイツ館に行く。ドイツ館は第一次世界大戦時のドイツ軍捕虜を収容した施設の跡地に、日独友好の記念に建立された。捕虜に対する人道的待遇や地元の住民との交流の記録が多く展示され、中でも捕虜がオーケストラを結成し、ベートーベンのシンフォニーを演奏していた記録が豊富で、大変興味深かった。ドイツ館で昼食のおにぎりを食べ、続いて第一番霊場霊山寺にお参りした。霊山寺にはこれで4回目のお参りで、第一番の霊場らしく、落ち着いた寺だが『さあ、行くぞ』といったような活気も感じさせる境内の雰囲気もある。霊山寺では、お遍路グッズを売っている売店にも立ち寄り、あれこれと連れ合いに説明しながら、1998年から始めた四国八十八ヵ所参りの時の発心の気持ちを思い出していた。

(続く)

 

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