「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。」(「ヨハネ伝福音書」第1章)物を書く人のみならず、ことばを使っている人は誰しも拳拳服膺すべきものが、ここには含まれているでしょう。
「神」というと、どうしても宗教じみてくるけれども(小生、クリスチャンではありません)、ここは「人間の認識は〈ことば〉なくしてありえない」と捉えても良いでしょう。
「そもそも」なんていうと、大仰になりますが、われわれの世界認識は、〈ことば〉による分節を理解するところから始まります(それが「限界を作っている」といえば、そうなんですが)。
虹は連続した光のスペクトルです。それをどのように分節化するかは、各言語によって違ってくる。
日本語では、たまさか7つに分節しているだけで(これもどうやら幕末以降の認識みたい)、
「「ローデシアの一言語であるショナ (Shona) 語ではcipsuka, citema, cicena の3色、ウバンギの一言語であるサンゴ (Sango) 語では vuko と bengwbwa の2色、リベリアの一言語であるバッサ (Bassa) 語でも、hui と ziza の2色にしか区切らない」(丸山圭三郎『ソシュールの思想』)とのこと。
ことほどさように、「ことば」は世界認識の基礎となるわけです。
ですから、この認識がいい加減だと(虹くらいならまで、まだいいけど)、他者に通じないことばを発することにもなる(「言」=「ロゴス」ならざる世界を「ことば」で語るという、「詩」なる表現行為もありうるが)。
さて、物書きは、あらゆる事物(「こと」=「現象、行為」、「もの」=「物理的存在」)は「ことば」で表現できるはずだ、という信念がなければ、1字たりとも書けないでしょう。
そして、その表現がいかに有効に/誤解少なく、他者(受け手、読者)に伝わるか、という「技」を磨くわけです。
以上は、物書きだけではなく、多かれ少なかれ、ことばを使っている限り、誰にでも必要なことでしょう。
……というようなことを、今回の宰相辞任で感じたのであります。
何しろ政治家も、ことばを「商売」として使っているのですから(タイトルと内容、結論が違ってしまいました。御海容を乞う)。
丸山圭三郎
『ソシュールの思想』
岩波書店
定価:4,200 円 (税込)
ISBN978-4000012201
音楽を習ってた頃、いろんな音色を作ることを訓練させられました。それらを使って色々組み合わせて音楽を作るのが演奏家の仕事だって言われましたが、物書きさんと一緒ですねぇ。
子供の頃私が12色の色鉛筆、お姉ちゃんが24色だったのでメチャクソ腹が立ったことがありました。ぜったい24色の方がきれいに書けるって思って、いつか48色の色鉛筆を手に入れてやろうなんて思ってましたが、大人になって実際に手に入れたらやっぱり使いこなせないモノですねぇ(^_^;)
色とか音とかもそうだけど、言葉だって共通の概念がないとなかなか本質を理解しずらいものでしょうね。
アベサン、やめるのならウソでも良いから、壇上で演説中にぶっ倒れて救急車で運ばれるパフォーマンスでもすりゃぁ、あんだけ叩かれなかったのにねぇ(^w^)
言葉は文化であると同時に文化とは言葉なのだ、と。
そして、なにより面倒くさいのは、言葉を考える道具が言葉そのものであるってことですねえ。
あべちゃんは、いっそのこと、記者会見の席上、「緑色の宇宙人が追いかけて来るよ~」くらいなこと言って退場して欲しかったですね。あの会見自体、どうせ前代未聞なんですから。
ご存知かと思いますが、
普通のカラー印刷物は、
青(シアン)、赤(マゼンタ)、黄(イエロー)、黒(ブラック。一般的には「スミ(墨)」と言う)の4色の網点で
表現されています。
小生が編集のしごとをしている時の話。
「この写真、色が濃いですね。
シアンが強過ぎるんじゃないですか?」
「いや、マゼンタかブラックが強いんだろうよ」
「本当ですか?」
「だって、昔から言うじゃないか。
『こいは、しあんの他』って……」
お後が宜しいようで。
では、また。
>ぼくが大学1年のときに
とのことですが、
小生はいつ読んだか、記憶がまったくありません。
今回、ちょっと書棚(残念ながら「書庫」とは言えない)から
取り出してきたんですけど、
内容もあまり記憶が定かではありません。
最近、本の内容をまったく覚えていないので、
愕然とすることが多いのですよ
(ああ、ノートを取っておけば良かった……)。
けれども、同じ本が何度でも楽しめるのは、
安上がりでいい、
などとこじつけの強がりを言っております。
では、また。