「日本刀が武士の主要武器であった」とするのは、「創られた伝統」に過ぎない。
それでは、その「伝統」を創ったのは誰だろうか。
ここで考えたいのは、「剣術」(当時は「兵法」)が発生したのが戦国時代も後半であるという点。言うまでもなく、「剣術」とは「刀剣で人を殺傷する技術」にほかならない。日本の戦闘が遠戦志向で、主要な武器が弓矢や鉄砲、槍であるのに、なぜ「剣術」が生まれたのか。
それは、刀剣が必要とされる場合を考えてみれば分るだろう。
一つは軍功の証としての「首取り」。
二つ目としては、接戦における「自己防御」である。
ここで、鈴木眞哉『謎とき日本合戦史』(講談社新書)を引けば、
戦国時代の「接戦は、一方が崩れるか、崩れかかったときに起きることが多く、戦死者も追い討ちされる過程で多くでた」
のである。そのため、我が身を守る手段として刀剣が、初めて必要になる。
ここで想起されるのが、「剣術将軍」と呼ばれた室町幕府第13代将軍足利義輝である。良輝は塚原卜伝に剣術を習い、松永弾正の軍勢に御所を攻められた時、刀剣を振って獅子奮迅の働きをしたが、ついに利非ずと自刃したという。
この頃に、ほぼ剣術の流派が出そろい、慶安4(1651)年江戸幕府3代将軍徳川家光の武術上覧で、一つの頂点を迎える。
しかし、江戸時代に入り平和な時代が続くと、「剣術」は自己防御としての実用の技から、精神性を強調するものとなる。刀剣ですら、官僚化した大部分の武士にとって、実用性を失ったからである。
禅と結びついた「剣術」は、道統意識もそこから取り入れ、それぞれの流派の権威と、権威がもたらす身分や生活をどう継承し、どう維持するかを最大の眼目とする「沈滞期」に入るのである。
史料的な裏付けを提示できないのが残念であるが、どうやら、この時代に「日本刀が武士の主要武器であった」という「創られた伝統」が生まれたように思う。
そして、幕末争乱期には一種の「武芸復興期」を迎え、その観念が強められる。
また、明治時代に入り、「明治武士道」が生み出されるのとほぼ同時に、陸軍が「火兵主義」から「白兵主義」に方針を転換する。それとともに、「日本刀信仰」とでもいうような観念が広まる……。
以上が、現在、小生の考えている日本刀に関する「創られた伝統」が生まれた概略なのであるが、いかがであろうか。
それでは、その「伝統」を創ったのは誰だろうか。
ここで考えたいのは、「剣術」(当時は「兵法」)が発生したのが戦国時代も後半であるという点。言うまでもなく、「剣術」とは「刀剣で人を殺傷する技術」にほかならない。日本の戦闘が遠戦志向で、主要な武器が弓矢や鉄砲、槍であるのに、なぜ「剣術」が生まれたのか。
それは、刀剣が必要とされる場合を考えてみれば分るだろう。
一つは軍功の証としての「首取り」。
二つ目としては、接戦における「自己防御」である。
ここで、鈴木眞哉『謎とき日本合戦史』(講談社新書)を引けば、
戦国時代の「接戦は、一方が崩れるか、崩れかかったときに起きることが多く、戦死者も追い討ちされる過程で多くでた」
のである。そのため、我が身を守る手段として刀剣が、初めて必要になる。
ここで想起されるのが、「剣術将軍」と呼ばれた室町幕府第13代将軍足利義輝である。良輝は塚原卜伝に剣術を習い、松永弾正の軍勢に御所を攻められた時、刀剣を振って獅子奮迅の働きをしたが、ついに利非ずと自刃したという。
この頃に、ほぼ剣術の流派が出そろい、慶安4(1651)年江戸幕府3代将軍徳川家光の武術上覧で、一つの頂点を迎える。
しかし、江戸時代に入り平和な時代が続くと、「剣術」は自己防御としての実用の技から、精神性を強調するものとなる。刀剣ですら、官僚化した大部分の武士にとって、実用性を失ったからである。
禅と結びついた「剣術」は、道統意識もそこから取り入れ、それぞれの流派の権威と、権威がもたらす身分や生活をどう継承し、どう維持するかを最大の眼目とする「沈滞期」に入るのである。
史料的な裏付けを提示できないのが残念であるが、どうやら、この時代に「日本刀が武士の主要武器であった」という「創られた伝統」が生まれたように思う。
そして、幕末争乱期には一種の「武芸復興期」を迎え、その観念が強められる。
また、明治時代に入り、「明治武士道」が生み出されるのとほぼ同時に、陸軍が「火兵主義」から「白兵主義」に方針を転換する。それとともに、「日本刀信仰」とでもいうような観念が広まる……。
以上が、現在、小生の考えている日本刀に関する「創られた伝統」が生まれた概略なのであるが、いかがであろうか。