一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「全体小説」へのまなざし

2007-10-03 04:10:32 | Criticism
「全体小説」ということばがあります。
今では、あまり使われなくなった文藝用語ですが、次のような意味をもったことばです。
「サルトルが提唱し志向した小説の方法で、人間の生きている総体的な現実をトータルなままで、ひとつの文学作品として表出しようとする試みである。19世紀の小説でいえばトルストイの『戦争と平和』やスタンダールの『赤と黒』など、20世紀の前期の小説でいえばプルーストやジョイスらの成果に支えられて出てきたもので、サルトルの『自由への道』はその実験的作品であるといわれていた。日本では、野間宏は『青年の環』で、大西巨人は『神聖喜劇』で、この方法を試みた。」(「今井公雄のホームページ」より)

「今では、あまり使われなくなった」と述べましたが、それでは、現在では「全体小説」の方法論に有効性がなくなったのでしょうか。
もし、有効性がなくなったとすれば、それは読者の関心が、「総体的な現実」ではなく「微分化された〈私〉」の個々の局面に、より多く向かっているからなのでは、と思えます。

ですから「総体的な現実」なるものが持つ厖大なリアリティに、たとえ一部の読者であろうとも興味が持続する限り、有効性は失われていない、と言えるでしょう。
それは、いわゆる純文学の世界ではなく、歴史小説などの世界にこそ、生きているのではないでしょう。

引用先の他の部分には、司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を全体小説という視点から批評するとどうか、という可能性に触れていました。

『翔ぶが如く』の場合には、西南戦争という事件を捉えるには、必然的に多面的な見方が必要になってくる、という事情があります。
ただし、司馬作品の場合には、戦争に直接関わったわけではない人々には触れようともしない、という司馬氏の通例としての欠点があります(例えば、石牟礼道子『西南役伝説』などを見れば、お分かりになることでしょう)。

ことほどさように、歴史に関して興味関心のある人々には、いまだに過去の現実が個々のリアリティを超えた、厖大な記憶の集積である、という考え方があります(イデオロギー・フリーな立場から歴史を見れば、必然的にそうなってくる)。
となれば、読む側のみならず書く側にとっても、いまだに全体小説は有効性を失っていないともいえるでしょう。

そこで、小生の場合について若干触れれば、大長編で全体小説を試みる(「大きな物語」)より、個々に視点を変えた中編/短編をつらねた連作(「小さな物語」の集積)の方が、書きやすいのではないか、と思っています。

はたして、それが上手くいくかどうかには、歴史(あるいは個々の事件)に関する見方/考え方が重要になってくる気がします。
反面教師として『翔ぶが如く』を読み直してみましょうか……。

石牟礼道子
『西南役伝説』
朝日選書
定価 2,657 円 (税込)
ISBN4-925219-48-0