一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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活字中毒者のアナタのためのブログです。

音楽の刷り込み

2007-10-02 04:27:24 | Essay

BRUNO
WALTER
CONDUCTS
MAHLER
SYMPHONY
NO. 1 IN D
"THE TITAN"
COLUMBIA
SYMPHONY
ORCHESTRA
(SONY MUSIC ENTERTAINMENT)


刷り込みといっても、ここでは印刷に関して述べようというわけではありません。
例のローレンツ(Konrad Lorenz, 1903 - 89)が、
「ガチョウが孵化させた雛は当然のようにガチョウの後について歩き、ガチョウを親と見なしているようにふるまった。」
という事実から発見した、
「特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する現象」
のことです。

それを比喩的に用いて、最初に聴いた曲の演奏が、その楽曲のモデル演奏になってしまう、ということを指摘したいのです。

小生の場合、このような楽曲の刷り込みに当たるのが、例えば、G. マーラー『交響曲第1番〈巨人〉』のB. ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏であり、M. ラヴェルの一連のピアノ曲における S. フランソワの演奏なのです(時代が分りますね)。

ですから、マーラーの交響曲の演奏にしても、ブーレーズ指揮のシカゴ交響楽団や、インバル指揮のフランクフルト交響楽団の演奏が、いくら良いと言われても、ちょっとピンとこないところがある。
ことほどさように、音楽の刷り込みは強烈なものがあります。
これ、どこまで一般化していいのかどうか分りませんが、まあ、ほとんどの人が体験するところじゃあないか。ということで話を進めます。

世の中に「名曲名盤」と称するものがあります(どこかマニュアル本と同じように、うさん臭いところが多々あるけれどね)。
けれども、実のところ、それを選んだ人の刷り込みによるものが、大部分じゃあないか、という疑いを捨て切れません。

その証拠(?)に、「名曲名盤」として挙げられているものの大部分が、かなり古い演奏だということがあります(人によっちゃあ、LP 時代や SP 時代のモノラル演奏を挙げるケースもある)。
いくらフルトヴェングラーやトスカニーニが名指揮者だからといって、今時それを世界最高の演奏として挙げるというのも、どうかと思うけどね。

骨董品の目利きになる一番いい方法は、一流の骨董品を数多く見ることだといいます。
しかし、音楽の演奏は、白鳳仏でもなければ、武蔵の枯木鳴鵙図でもない。むしろ、時代とともに生きているものでしょう。ここで、思い浮かべるべきは、利休が、朝鮮渡来の日常雑器に新たな美を見出して、珍重したという事実でしょう。
「批評とは、感性と理性とを二つの焦点とした楕円形である。」(ルネサンス期の賢人のことば)