中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

沈宏非のグルメエッセイ: 【対訳】鴛鴦茶(おしどり茶)

2010年12月12日 | 中国グルメ(美食)
 今週も、週末は中国語の軽い読み物を読みましょう。沈宏非のグルメエッセイ。今回は,鴛鴦茶。これは香港のローカルの喫茶店で出てくる、ミルクティーにインスタントコーヒーを混ぜた不思議な飲み物。マンニンやパークンといったローカル・スーパーには、粉末の鴛鴦茶も売っています。お土産にどうぞ。

                          鴛鴦茶

■ 鴛鴦和茶都是国粋,前者代表濃情和忠貞,后者象征降解与散淡。但是当這両様東西做了一処時,便似有“鴛鴦綉了従君看,莫把金針度与君”的懸疑存焉。

・鴛鴦綉了従君看,莫把金針度与君: 正しくは“鴛鴦綉出凭君看,莫把金針度与人”。意味は“被綉好的鴛鴦任凭欣賞,就是不要把針黹zhi3手藝教予別人”。(おしどりの刺繍を自由に見ていただくのは良いが、この裁縫の技術を他人に教えではならない。)詩の形を取っているが、中国の昔からの処世術を表すことわざ。“金針”は縫物に使う金属製の針のこと。

 鴛鴦(おしどり)と茶は中国文化の精華である。前者はこまやかな愛情と貞節を代表し、後者は緊張を解き、心安らいだ状態の象徴である。しかしこの両者が一つに集まると、「鴛鴦の刺繍を君に見せるとも、金針を君に渡すことなかれ」との懸念が生じる。

■ 厮混在一起鴛鴦和茶,以“鴛鴦茶”之名行走江湖。其実,在没有喝過這茶之前,我們早已于一九八零年代早期在一出名叫《虎口脱険》(la grande vadrouille,1966年出品)的法国片里聴過了它的伝聞。電影一開始,有一執行代号為“鴛鴦茶”任務之英国轟炸中隊于巴黎上空跳傘,相約従天上掉到地上最舒服(一家土耳其浴室)同時又是最危険(軍遍布)的地方之后,以一首名叫《鴛鴦茶》的歌曲為接頭暗号。但見一派霧気茫茫之中,光着身子的英国男人幽霊般四処游蕩,并且把這支“鴛鴦茶”鬼鬼祟祟地唱了又唱,吹了又吹。

・厮混 si1hun4 いっしょに混じり合う
・行走江湖 各地を渡り歩く。各地に広まる。
・la grande vadrouille フランスの喜劇映画。日本語名:《大進撃》。
・土耳其浴室 トルコ風呂。蒸し風呂である。
・接頭 連絡をとる
・鬼鬼祟祟 gui3gui3sui4sui4 陰でこそこそする

 「おしどり」と茶がいっしょに混じり合い、“鴛鴦茶”の名は各地に広まっている。実際、この茶に接するより以前に、私たちは1980年代の初期に《虎口脱険》(la grande vadrouille,1966年作品)というフランス映画でこの名前を聞いた。映画が始まるとすぐ、暗号名“鴛鴦茶”の任務を執行するイギリスの爆撃中隊がパリ上空からパラシュートで落下し、天上から、地上で最も快適な(一軒のトルコ風呂)、そして同時に最も危険な(ドイツ兵がいたるところにいる)場所に舞い降り、《鴛鴦茶》の歌を連絡をとる際の暗号とした。しかし蒸気がもうもうと立ちこめる中、素っ裸の英国男性が幽霊のようにあちこちをぶらぶらと動き回り、陰でこそこそとこの歌のメロディーを歌ったり、口笛で吹いたりした。

* ここで言う“鴛鴦茶”は、アメリカのブロードウェー・ミュージカルの中で歌われた、“Tea for Two”(日本語名:二人でお茶を)のことです。映画の中国語訳の時、“鴛鴦茶”と訳されたようですが、本来の“鴛鴦茶”の意味合いとは、いささか異なります。

■ 相信大多数的中国観衆当時在記住了《鴛鴦茶》的同時,也首次目撃了桑拿浴。因縁際会,上述場景在許多年以后使大行其道的中国桑拿浴室始終帯有某種驚険的様式和喜劇的色彩。

 大多数の中国の観衆は当時《鴛鴦茶》のことを憶えたのと同時に、初めてサウナを目にしたことと思う。因果はめぐり、上で述べた情景は、それから何年かして隆盛を迎える中国のサウナに終始ある種のスリルのある様式と喜劇的色彩を帯びさせることになった。

* 北欧式のサウナと、古代からあるトルコ式の蒸し風呂とは、結構違いがあるような気がしますが。

■ “鴛鴦茶,鴛鴦茶,你愛我,我愛你……”其実這“茶”大有来頭。它的原創第一泡,為作曲家Vincent Youmans于1925 年為百老滙一音楽劇所写的一首歌TEA FOR TWO, 三年后,肖斯塔科維奇以此段旋律写了一首爵士風格的管弦楽版同名作品。与肖氏対TEA FOR TWO的管弦楽改編及其所謂“爵士”風格相比,我覚得対于TEA FOR TWO的漢訳顕然来得更為成功。然而,更有創意的是香港人,大約在TEA FOR TWO于百老滙問世的那個時期,他們真的発明了一種全世界絶無僅有的飲料,全称是“鴛鴦奶茶”,簡称“鴛鴦”。由于通常是凍飲,故茶餐庁里又名“凍鴛鴦”。

・来頭 来歴。いわれ
・Vincent Youmans ヴィンセント・ユーマンス
・TEA FOR TWO 二人でお茶を
・絶無僅有 [成語]ごくまれである。またとない。ただ一つしかない。
・茶餐庁 香港式の喫茶店。飲み物だけでなく、様々な食べ物を出す。

 「鴛鴦茶、鴛鴦茶、あなたは私が好きで、私はあなたが好き……」、実はこの「お茶」にはいわれがある。この最初の一杯は、作曲家ヴィンセント・ユーマンスが1925年ブロードウェー・ミュージカルのために作曲したTEA FOR TWOであり、三年後、ショスタコービッチがこの旋律を使ってジャズ風の管弦楽の同名の曲を作曲した。ショスタコービッチのTEA FOR TWOの管弦楽へ編曲したいわゆるジャズ風のスタイルと比べ、TEA FOR TWOの中国語訳は明らかにより成功していると私は思う。しかし、より創造力のある香港人は、TEA FOR TWOがブロードウェーで発表されたほぼ同じ時期に、世界に二つと無い飲み物を発明した。そのフルネームは“鴛鴦奶茶”と言い、略称を“鴛鴦”。通常は冷やして飲むので、“茶餐庁”では“凍鴛鴦”と呼ぶ。

■ “鴛鴦奶茶”的制造方法如下:氷紅茶半杯,氷珈琲半杯,同時倒入另杯中充分攪渾,即成。飲用時,根据各人口味加入適量煉乳。“鴛鴦”的味道実在難以形容。一個喝慣了茶的,会覚得它更像是一杯茶館里焼出来的珈琲;一個喝慣了珈琲的,興許就認為這是一杯在珈琲館泡出来的茶,而“鴛鴦”所散発出来的那種双性恋的気息,甚至在不同性取向的人喝来,相信亦会帯来各不相同的感触。味覚在同一時間内被両種経験左右着,飄浮揺曳,多少有一点像林語堂筆下懐春少女的那一種“対象模糊的煩悩的感覚”。也只有在香港這種地方才能創造出這種茶,就像聴一個香港人説話,当他流利地把粤語和英語混為一談時,聴起来既不是粤語也不是英語,倣佛是属于第三種語源里的一種熟悉而又陌生的方言。

・攪渾 jiao3hun2 かき回して濁らせる
・興許 xing1xu3 あるいは。もしかしたら。
・飄浮 piao1fu2 揺曳yao2ye4 ゆらゆら漂う
・懐春 huai2chun1 思春。少女が性に目覚める

 “鴛鴦奶茶”の作り方は次の通り: アイスティーを半杯、アイスコーヒーを半杯、同時に別のカップの中に入れて充分にかき混ぜれば、出来上がり。飲む時、お好みで練乳を適量加える。“鴛鴦”の味は実に形容し難いものである。茶を飲み慣れた人にとっては、茶館で淹れられたコーヒーのように感じられるかもしれない。コーヒーを飲み慣れた人にとっては、珈琲館で淹れられたお茶のように思えるかもしれない。そして“鴛鴦”から発散される両刀使い的恋愛の息吹は、異なる性的愛好を持った人が飲むと、きっとそれぞれ異なった感触をもたらすことさえあるに違いないと思う。味覚は同一の時間内で二つの経験により左右され、ゆらゆら漂い、林語堂が著す思春期の少女の「対象の漠然とした不安感」のようなところも多少ある。また香港のような場所でこそ作り得た茶であるので、香港人が話をするのを聞くように、彼が流暢な広東語と英語を交えて話をする時の、聞いてみると広東語でも英語でもなく、あたかも第三の言語の、よく知っているようでもあり全く聞いたこともないような方言のような感じがする。

■ 曾見到一北京男人在某電視脱口秀里説到他在温哥華一家香港人開的茶餐庁里的不幸遭遇:因在餐牌上見到“鴛鴦奶茶”,便好奇点了一杯,茶上来后,却発現此“鴛鴦奶茶”和隣座的“奶茶”看上去完全一様,当即向店家質疑,答曰:“‘鴛鴦奶茶’其実与普通奶茶無異,唯一的区別在于,前者插両根吸管,此即‘鴛鴦’之所以得名者。”

 以前、北京の一人の男性があるTV番組で早口でまくしたてていたが、彼はバンクーバーの香港人がやっている茶餐庁でひどい目にあったそうである。メニューに“鴛鴦奶茶”とあったので、好奇心にかられて一杯注文したところ、運ばれてきてから、“鴛鴦奶茶”は隣の人が頼んだミルクティーと全く同じであることが分かった。すぐに店主に質問すると、その答えは、「“鴛鴦奶茶”は実は普通のミルクティーと同じで、唯一違うのは、前者はストローを二本挿してあることで、だから“鴛鴦”と名前がついている」というものだった。

■ 老実講,我不太相信香港人敢這麼蒙事儿,“鴛鴦奶茶”乃香港的首本名飲,家喩戸暁,即使移民加国做了野鴛鴦,也不至于野成這様。鴛鴦可以戯水,“鴛鴦奶茶”則断無戯人之理。好在這位爺的想象力有限,否則,凭“鴛鴦奶茶”之名而質疑以“何故是牛奶而不是鴛鴦的奶”,茶餐庁老板就只好死給他看了。更為駭人聴聞的是,有台湾人已将港人原創的“鴛鴦奶茶”発揚光大,在台式“波霸奶茶”(在奶茶中加入数十顆寧波湯団大小的淀粉球)的基礎之上,進一歩梱綁bang3了“鴛鴦”,推出了一款名叫“波霸鴛鴦”的飲品……我希望上面的那位苦主万勿光顧,無論如何。

・蒙事 meng1shi4 ごまかす。知ったかぶりをする
・家喩戸暁 jia1yu4hu4xiao3 [成語]誰もがよく知っている。津々浦々に知れわたる。
・駭人聴聞 hai4ren2ting1wen2 [成語]聞く人をびっくりさせる。世間をぞっとさせる。
・発揚光大 [成語]大いに発揚する。大々的に広める。
・寧波湯団 寧波湯圓。“湯圓”はモチ米の粉で作った小さな団子で、甘いシロップで煮てお椀に入れて供する。白玉団子のようなもの。
・梱綁 kun3bang3 縄で(人を)縛り付ける

 正直なところ、私は香港人がこんなごまかしをするなんて信じられない。“鴛鴦奶茶”は香港ではじめて名付けられた飲み物で、誰もがよく知っている。たとえカナダに移民して「野良おしどり」になっても、こんな野放図になり下がるわけがない。おしどりが水と戯れるからといって、“鴛鴦奶茶”が人をからかっていいなどという道理は断じてない。幸い、このじいさんの想像力はここまでで、そうでないと、“鴛鴦奶茶”の名前から「どうして牛乳を使って、おしどりの乳を使わないのか」と聞かれた日には茶餐庁の主人は死んでみせるしかないではないか。更に人を驚かせたのは、台湾人が、香港人が元々生み出した“鴛鴦奶茶”を大いに広め、台湾式の“波霸奶茶”(ミルクティーに数十粒の寧波湯圓くらいの大きさのでんぷん粉で作った球を入れたもの)を元に、これと“鴛鴦”を結びつけ、“波霸鴛鴦”という飲み物を売り出したことだ……どうかあの苦渋をなめた人、決してこんなものに手を出さないように。

■ 奶茶的名字和玫瑰的名字一様,不同的人有不同的解読,即使奶茶本身亦復如此。老舍先生在小説《二馬》里写道:“老馬要是告訴普通英国人:‘中国人喝茶不擱牛奶。’‘什麼?不擱牛奶!怎麼喝?!可怕!’人們至少這様回答,他要是告訴社会党的人們,中国茶不要加牛奶,他們立刻説:‘是不是,還是中国人懂dong3得怎麼喝茶不是?中国人替世界発明了喝茶,人家也真懂dong3得怎麼喝法!没中国人咱們不会想起喝茶,不会穿綢子,不会印書,中国的文明!中国的文明!唉,没有法子形容!’”其実,把TEA FOR TWO訳成“鴛鴦茶”不但有信,還略不輸文采。不過,対于“鴛鴦”這両個漢字的理解,粤語却明顕偏離主流,即在“成双作対”和“好事成双”的大前提下,強調的并不是“永結同心”,而是差異,鴛是鴛来鴦是鴦,転換為現今常用的外交詞滙,大概就是“求同存異”。比方説,一個広東人若誤穿了両只不同顔色的袜wa4子,或者戴錯了両只不同款式的手套,另一個広東人便会笑他穿了“鴛鴦袜wa4”或戴了“鴛鴦手套”,這種表達方式非但毫不“鴛鴦”,甚至大有“乱点鴛鴦譜”的意思。

・玫瑰 mei2gui マイカイ。バラの仲間でハマナシの近縁種。日本語訳にする時にも、バラと訳すべきかどうか迷うが、中国でも用法に人によって違いがあるようである。
・擱 ge1 入れる
・成双 対になる
・作対 反対する。敵対する。
・求同存異 [成語]共通点を見つけ出し、異なる点は残しておく

 “奶茶”という名は“玫瑰”同様、人によって解釈が異なる。たとえ“奶茶”自身を本来の意味に戻したとしても。老舎先生は小説《二馬》でこう書いている。「老馬が普通のイギリス人に「中国人はお茶にミルクを入れない」と言ったところで、「何?ミルクを入れないって!どうやって飲むの?恐ろしい!」人々は少なくともこう答えるだろう。彼がもし社会党の人たちに、中国茶にミルクを入れてはいけない、と言ったら、彼らは直ちにこう言うだろう。「そうだろう、やっぱり中国人はどう茶を飲むか知っているだろう?中国人は世の中の人々に代わって茶を飲むことを発明し、他の人たちも飲み方を本当に理解した。中国人がいなかったら、私たちは茶を飲むなんて思いつかなかったし、シルクを着ることもなかったし、本を印刷することもできなかっただろう。中国文明!中国文明!ああ、形容しようがない!」実際、TEA FOR TWOを“鴛鴦茶”と訳したことは、意味が合っているだけでなく、文才も決して悪くない。しかし、“鴛鴦”という二つの漢字の理解について、広東語は明らかに主流からそれていて、「対になって反対する」、「良いことが続いて起こる」ということを大前提にしていて、強調しているのは「永久を誓っていつも心を一つにする」のではない。そして違うのは、鴛は鴛、鴦は鴦とし、昨今の外交用語を転用すれば、おおよそ「共通点を見つけ出し、異なる点は残しておく」ことである。例えば、一人の広東人が間違って左右違う色の靴下を履いたり、左右で異なる手袋をはめてしまっていたら、それを見た別の広東人は笑って、あいつは“鴛鴦”の靴下を履いたり、手袋をしていると言うだろう。こうした表現は少しも“鴛鴦”的でないばかりか、“鴛鴦”ということばをでたらめに使っているとさえ言える。

■ “鴛鴦于飛,畢之羅之。鴛鴦在梁,戢ji2其左翼。”(小雅)早在詩経時代,鴛鴦就是一夫一妻制的模範榜様,但是鴛鴦并不像伝説中那様飛則同振,游則同嬉;栖則連翼交頸,一只死了,另一只就終生“守節”,甚至抑郁而死。鴛和鴦都没那麼痴情,那麼You jump,I jump。事実上,鴛鴦平時都是各過各的,其成双作対及其双栖双飛,只是在配偶時期才表現出来的一種親密姿態而已,一旦交配完成,用不着棒打,立馬就各自東西,形同陌路。至于繁殖后期的産卵并撫育幼雛的工作,皆由鴦這個単親媽媽一力完成,鴛完全是搞gao3完了就走人。是故,以鴛鴦来做一夫一妻制的吉祥物雖然勝在直観,却実在很不吉祥,当然亦不無真実。誠如鄭板橋所言:“鴛鴦二字,是紅閨佳話,然乎否否。多少英雄儿女態,醸出禍胎冤薮,前殿金蓮,后庭玉樹,風雨摧残驟。”算下来,唯有港産的“鴛鴦茶”,才比較貼切地再現了鴛鴛鴦鴦們歴来所奉行的這種杯水主義的愛情観。

・抑郁 yi4yu4 憂鬱。鬱憤。
・痴情 chi1qing2 ひたむきな愛情。ひとすじに思い続ける愛情
・鄭板橋 清代の画家、書法家。江蘇・興化の人。
・禍胎 huo4tai1 禍根。災いの原因となるもの。冤薮 yuan1sou3 =冤家 仇(かたき)。“薮”は人や物が寄り集まるところ。

・前殿金蓮 南朝・斉の廃帝・東昏侯の妃であった潘妃の故事に由来し、ある時東昏侯が地面に金箔で蓮の絵を貼らせ、その上を潘妃に歩かせたところ、歩く姿がしなやかで美しく、歩くたびに蓮の花が生じるように見えたことから。“金蓮”には纏足の意味もある。

・后庭玉樹 南朝陳の后主 陳叔宝の作った宮体詩《玉樹后庭花》から。陳叔宝は陳の滅亡に際しても、宮中で愛姫の張麗華といっしょにいたと言われている。“后庭花”は江南地方に生える植物で、庭園で多く栽培されたことから“后庭花”の名がある。花は紅白の二色で、特に白色の花が樹に玉の冠をかぶせたように見えることから“玉樹后庭花”の名がある。

・摧残 cui1can2 打ち壊す
・驟 =驟然 zhou4ran2 にわかに。たちまち。
・貼切 tie1qie4 (言葉遣いが)適切である。ぴったり当てはまる

・杯水主義 革命後のソ連で生まれた一種の性道徳の観念で、従来の伝統的な貞節観念を打ち壊し、性欲はあたかも喉の渇きを癒すために一杯の水を飲むように簡単で平常なことだという考え方。

 「鴛鴦はつがいで飛ぶので、一つの網で二羽とも捕まえることができる。鴛鴦は渓流にいる時は、共に左の翼をたたみ、互いに寄り添う。」(小雅)早くも詩経の時代、鴛鴦は一夫一妻制の模範であったが、鴛鴦は決して伝説のように飛ぶ時はいっしょに羽根を広げ、遊ぶ時は共に遊び、樹の上で休む時は翼を連ね頸を交え、一方が死ねば、他方は終世貞節を守り、甚だしきは鬱々として死に至る、などということはない。鴛も鴦もお互いをひたむきに愛し、あなたが飛べば、私も飛ぶ、などということはない。実際は、鴛鴦は、平時は各々が別に過ごし、対になって共に樹の上にいたり共に飛ぶのは、産卵期につがいを作る時だけに表われる親密な姿で、一度交配が終わると、棒で叩かなくても、直ちに各々が別個に行動する。繁殖後期の産卵と雛を育てるのは、皆“鴦”の方がシングルマザーとして全力でやり遂げ、“鴛”の方は交尾が終わったらさっさといなくなる。それゆえ、鴛鴦を一夫一妻制の吉祥物とするのは直観的にはすばらしいが、実際はたいへん不吉で、またそれが事実である。誠に鄭板橋が言ったように、「鴛鴦の二文字は、新婚の閨房の佳話と言われているが、そうだろうか。いや、事実は違う。これまでどれだけの英雄の男女のいとなみが、災いの原因や恨みを生みだしてきたことだろう。前殿では潘妃の金蓮に譬えられるなよなよと歩く姿が見られ、后庭では陳叔宝の《玉樹后庭花》が舞われていたと思ったら、風雨が来て(王朝が滅亡し)、忽ち全てを打ち壊してしまった。」こうして見ると、香港産の“鴛鴦茶”だけが、おしどり達がこれまで行ってきたこうした“杯水主義”の愛情観をぴったりと再現していると言えそうである。


【原文】沈宏非《飲食男女》南京・江蘇文藝出版社2004年8月


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中国語の表現: 簡潔な文で如何に表現を豊かにするか

2010年12月10日 | 中国語

 今回のテーマは“簡練”jian3lian4。耳慣れないことばですが、文章が簡潔で、構造や言葉遣いがよくこなれていることを指します。
 如何に無駄なことばを省いて、文が冗長になるのを防ぐか。簡潔な表現の中で、如何に意志を伝えていくか。これは非常に大切なことだと思います。是非書いた文章は何度も読み返し、不用なことばはできるだけ省き、わかりやすい語句を使うことを励行してください。

                  三 簡練 (簡潔で練れていること)

 文の“錘煉”(鍛え磨く)というのは、簡潔な表現で豊かな内容であることを追い求めることを言う。“言簡意賅”yan2jian3yi4gai1(言葉は簡潔であるが意は尽くされている)を求めることである。
 
 魯迅は早くからこう言っていた。
 “写完后至少看両遍,竭jie2力将可有可無的字、句、段刪shan1去,毫不可惜。”
(文を書き終ったら少なくとも二回は読み返し、極力有っても無くてもよい字、文、段落を削除して、少しも惜しまない。)
(魯迅《答北斗雑誌社問》) 

 毛沢東は《反対党八股》の中で魯迅の話を引用し、こう指摘している。
  “我看重要的文章不妨看它十多遍,認真地加以刪改,然后発表。”
(私は重要な文章は何十遍読み返しても良いと思っている。真剣に添削し、それから発表する。)

 またこう言った。
  “句法有長到四五十個字一句,其中堆満了‘誰也不懂dong3的形容詞之類’。許多口口声声擁護魯迅的人們,却正是違背魯迅的啊!”
(一つの文が長いものは四五十字にも達し、しかもその中には誰にも理解できない形容詞の類が大量に使われている。多くの口々に魯迅の考えを擁護している人たちが、実は魯迅に背いているのだ。)

 彼は皆にこう要求した。
  “写得短些,写得精粹些。”
(文はできるだけ短く、練れて無駄がないようにするべきだ。)

 文が簡潔でよく練れて無駄がないようにするには、以下の四つのことができていなければならない。

(一) 冗長(冗贅rong3zhui4)にならないようにする

 文の冗長には以下の三つの情況がある。
1.語句の重複
   (1) 我們技術革新小組,在新廠長的幇助下,花了十五元買了一些器材,
    苦戦了四十天,我們小組終于制成了自動分揀包装机。

   (2) 這次下郷調査是向広大貧下中農学習的一個極好的机会。

 例(1)では“我們技術革新小組”と“我們小組”は重複している。後ろの“我們小組”を削除するべきである。例(2)は“個”と“一個”が重複しており、どちらか一方を削除すべきである。

2.意味の重複
   (3) 他満臉雅気,天真爛漫,手里在下棋,眼睛却朝四周 東張西望地看熱閙。
・東張西望 [成語]きょろきょろ見回す

   (4) 中秋節的夜晩,月亮分外的圓,分外的大,分外的明亮皎潔
・皎潔 jiao3jie2 (月が)白く光っているさま

 例(3)の“東張西望”には“朝四周”の意味が含まれている。“朝四周”は削除するべきである。例(4)では“明亮”と“皎潔”の意味が重複している。どちらか一方を削除すべきである。

3.余分な語句がある
   (5) 夜晩臨睡覚時,林紅脱下穿在身上的一件玫瑰色的毛背心逓給道静:
    小林,你身体很壊,把這件背心穿在身上吧。

   (6) 這些新農具経過有関部門技術鑑定后,大部分都在全省内進行推広。

 例(5)では、“穿在身上的一件”と後ろの“在身”は何れも削除することができる。例(6)の“進行”は削除することができる。

 語句が冗長になる原因は、主に以下の通りである。
 一、美辞麗句を並べ(“堆砌詞藻”dui1qi4ci2zao3)たがる。人によっては文を書く時にいつも同義語を並べ、意味の上の重複を作ってしまっている。

 二、ある種の語句を濫用し、文に既に述語があるのに、その上に“進行”、“発生”などの語句を追加し、文にくどい感じを与えてしまっている。

 三、文を書く時にすばやく書きあげ(“一揮而就”という成語がある)、書いた後にほとんどチェックをしないため、余計な語句が削除できていない。

 四、いくつかの語句の運用で習慣ができてしまい、“用手去拿東西”、“用眼去看他”、“用脚去踢球”という言い方をしがちである。しかし“拿東西”は当然“手”を用いるのは人々の共通の常識であるので、わざわざ“用手去拿東西”と言う必要はない。
 こうした用法は、成語で言う“習非成是”、つまり間違ったことが習慣となって、間違いとは認められなくなっている。しかし、厳格に言えば、冗長現象である。

 冗長を防ぐには、文を書く時、語句の使用、文の組み立てを周到に考えないといけない。文を書いた後は、魯迅の言うように“至少看両遍,竭jie2力将可有可無的字、句、段刪shan1去,毫不可惜。”とするべきである。

(二) 長い文を短く縮める (化長為短)

 冗長な語句では、しばしば“句法長到四五十個字一句”という状況が見られ、その中には形容語句の類の、中国語で言う“大肚子”(身重や大食感でお腹がふくらんでいること)な語句が大量に使われている。こうした“大肚子”な文は、主に修飾語が長すぎ、読むのに苦労するし、話しづらい。例えば:
   (7) 張小玲是我初中時期的,后来一塊儿在内蒙插隊,現在又在同一個
     工廠工作的同学

 この文の問題は“我初中時期的”と“同学”の間に二つの分句を長い修飾語として挿入してしまったことで、それをやめて、三つの短い分句に分けてしまうとわかりやすくなる。つまり:
      張小玲是我初中時期的同学,我們后来一塊儿在内蒙插隊,現在又在
    同一個工廠工作。
とすると、流れが自然になる。

 一方、適度に語句を重複させるのも、長い文を引き締める効果を持つ。例えば:

   (8) 我也許写得太簡単,我并没有充分写出我的感情,甚至在帝国主義的
    鉄蹄践踏着上海土地的時候甚至在英国“三道頭”命令我挙起双手等候
    検査的時候甚至在法国守兵声叱罵不許我走過兵営正門前的時候
    甚至在日本海軍路戦隊兵士封鎖虹口馬路禁止通行的時候甚至在英美
    水手喝酔酒在大街上擲酒瓶打人、侮辱婦女的時候甚至在日本侵略軍
    包囲租界進行大搜捕的時候甚至在美国吉普車在馬路中横衝直撞輾死
    行人、美国兵坐車不給銭打死三輪車夫的時候,我仍然充満信心地反復
    念着:上海,美麗的土地,我們的!

・三道頭 昔の上海の租界の外国人の警察の署長。制服の腕章に三本の横棒の印があったのでこう呼ばれた。

 これは二百字近い長文であるが、“甚至……的時候”という分句を繰り返し並列させる構造を取ることにより、散漫なようで実は全体が整っており、長いようで一つ一つの短い分句はリズムがあり、読んでみても決して苦痛ではない。

 また、提示成分を使って文が冗長になるのを防ぐことができる。例えば:
   (9) 那些拿起槍来献身革命斗争的工農子弟,那些用先進思想武装起来的
    戦士們,我感到他們是最可愛的人。

 例(9)では、二つの名詞性の詞組、“工農子弟”、“戦士們”を先に提示し、その後で代詞“他們”によってこれらに代えることにより、文の中心を突出させ、しかも文の構造が冗長になるのを防いでいる。

(三) 構造を凝縮する

 文の構造を凝縮するのは、文を簡潔にする良い方法である。ここでは主に分句や詞組の中の重複する語句を削除し、“連合詞組”を作って文に組み込む。これにより、文は簡潔で洗練され、明快で力強くなる。例えば:
   (10) 在把農村経験運用到城市中来的時候,必須考慮城市企業的特点,
    不応該也不可能照搬農村的具体做法。

 上の文で“不応該”、“不可能”を分けると二つの分句になる。(“不応該照搬農村的具体做法,也不可能照搬農村的具体做法。”)二つの分句にすると、読んでみた時にだらだらしてしまりがない感じがする。“不応該也不可能”という連合詞組にして文に組み込めば、文はまとまり、洗練され、簡潔で力強くなり、ことばの勢いを強める作用がある。

   (11) 但是文藝作品中反応出来的生活却可以而且応該比普通的実際生活
    更高,更強烈,更有集中性,更典型、更理想,因此就更帯普遍性。

   (12) 運動戦的特点之一,是其流動性,不但許可而且要求野戦軍的大踏歩
    的前進和后退。

   (13) 他没法,也不会,把自己的話有頭有尾的説給大家聴。

 このような文の様式では、関連語句がことばの勢いを強める機能をする。通常用いられる関連語句は、“也”、“和”、“或”、“而且”、“并且”、“不但……而且……”などで、連合詞組の中は、通常、並列、選択、受け渡しなどの関係になっている。

  このような文の様式は、五四運動による文藝近代化により、外国語の文の様式の有用なものが吸収され、先ず書面語の中で発展してきた。適切な形で連合詞組として採用され、表現の上では緻密さと周到さを得ることができ、言語的にも簡潔で洗練され、力強い。

(四) 文意を引き出す (“提煉句意”)

・提煉 ti2lian4 (化学的、物理的な方法を使って化合物や混合物から)取り出す。抽出する。

 文意を引き出し、強調する方法はたいへん多いが、ここでは主に二つを取り上げる。

1.反義構造を利用し、深い思想内容を表現する
 反義構造を利用し深い思想内容を表現するというのは、字面から見ると矛盾しており、相互に排斥し合うようであるが、細かく噛み砕いて味わってみると、実はつじつまが合い、合理的である。例えば:
   (14) 上級把一切早都規劃好咯。我們主動搬出大本営,誘敵深入。這様,
    一方面便于我們集中兵力在運動中各個殲滅敵人;一方面使面臨的戦場
    成為一個戦略鉗qian2制地,拖住敵人几十万机動兵力。是的,我軍退出
    大本営是為了保衛大本営

・殲滅 jian1mie4 殲滅する。全滅させる。
・鉗制 qian2zhi4 制圧する

   (15) 経過内心斗争,経過痛心的自我批評,林道静終于提起自己的行李,
    走出了那間給了她幸福又使她無限痛苦的公寓房間。

 以上の二つの例は、反義語より成る反義構造を使って複雑な思想内容を表している。この様式は、ことばは簡単であるが意を尽くしており([成語]言簡意賅yan2jian3yi4gai1)、深く考えさせられる([成語]発人深省fa1ren2shen1xing3)。例(14)の“退出”と“保衛”、例(15)の“幸福”と“痛苦”がそうで、何れも豊かな内容を表し、意味深長([成語]“耐人尋味”nai4ren2xun2wei4)である。

   (16) 深滬不是戦場也是戦場。几百年来,呻吟于虐政和沙魔之下的人民,
    満懐美好的想望,前仆后継,同人禍天災進行了勇猛頑強的搏斗。

・深滬 shen1hu4 福建省南部の泉州市の東南に位置する晋江市に属する人口5万人弱の町で、東南アジア華僑の主な出身地のひとつ。
・呻吟 shen1yin2 苦しみうめく。
・前仆后継 qian2pu1hou4ji4 [成語]前の者が倒れたら後の者が続いていく。先人の屍を乗り越えていく。
・人禍 ren2huo4 人為的な災害。人災。
・搏斗 bo2dou4 格闘する

   (17) 這些奇異的信其実并不奇異。它只不過記録了両個偶然相識的
    中国孩子絶非偶然的命運。

 上記の二つの例では、否定副詞により構成される反義構造を用いて、複雑な思想内容を表現している。

2.否定副詞を利用し思想の深化や躍進を反映する

 ここでは否定副詞を用いて既に述べた対象を否定し、その後、新たな表現対象を提起する。新たな表現対象は、先に述べた対象に比べ、意味の上で深化、躍進している。

   (18) 假若你看到我們的戦士,用自己的双手不,用自己的意志創造的
    “地下長城”,你才更加驚訝呢。
・驚訝 jing1ya2 事の意外さに驚く。

   (19) 在這“森林”的周囲,還疏疏落落地立着几株棕櫚。它們雖然是生長
    在盆里,年紀軽,叶子修長而柔嫩,但是亭亭玉立,清麗動人,一看到
    它們你就不禁要想起它們的故郷――南海之濱。不,你還似乎聴到
    那儿的浪涛声和随着這浪涛声音一起飄来的漁歌;……

・疏落 shu1luo4 まばらである。ちらほら
・亭亭 ting2ting2 (樹木が)まっすぐに伸びているさま
・玉立 yu4li4 姿が美しいたとえ/亭亭玉立:ほっそりとして美しい姿

 上の二つの例は、否定副詞を用いて二つの文、或いは文の中の二つの成分をつなぎ合わせ、意味が次第に深化するのを表したり、意味の躍進を表したりしている。このような表現方式は、文の長短にかかわらず、変化に富ませ、簡潔明快で、文章を活発で生き生きとさせる。

   (20) 我有好几天不,一個多月,不到他那儿去了。

   (21) 林道静不,路芳 ―― 我総叫不慣你這個新名字,所以惹了禍。

 前のことばが口をついて出た([成語]“脱口而出”)ので、後ろですぐさま訂正している。意味の深化や躍進は表わさないが、描写が生き生きと真に迫り([成語]“活霊活現”)、人物の表情や態度が目に浮かぶようである。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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中国語の修辞: ことばの使い方への心配り

2010年12月07日 | 中国語
 日本語の作文とも共通しますが、良い文というのは、細かいところまで配慮の行き届いた文だと思います。ここではそれを文が“周密”であると表現しています。具体的には:1.修飾語をうまく使う。2.書き漏れが無いよう気をつける。3.対比表現などの表現技法を使う。4.文中の各成分が互いに呼応するよう気をつける。それでは具体的に例を挙げながら見ていきましょう。

                       二 周密
      (ことばの使い方が緻密で、細かいところまで心配りがされていること)

 文を推敲する時、文のつながりや流れに注意するだけでなく、文の組立てがしっかりしていて細かいところまで心配りがされているか注意しなければならない。

(一) 修飾語に注意する

 文の組立てを正確でしっかりしたものにするには、修飾語を慎重に選択し使用しなければならない。修飾語は文の中で主に描写と限定の働きをする。文のちょっとした違い、特別な意味合いは、しばしば修飾語を通して表現される。例えば“事情”ということばの範囲は広く、意味は漠然としている。前に修飾語の“很小的”を付けると、“事情”の性質を表すことになる。更に修飾語“一件”を加えると、“很小的事情”の数量が確定する。更に修飾語“去年冬天発生的”を加えると、“一件很小的事情”が発生した時間を指し示す。このことから、修飾語は文を細密、正確に磨き鍛える(“錘煉”)上で、たいへん有用である。

 更に例えば:
   (1) 人民是什麼?在中国在現階段,是工人階級,農民階級,城市
   小資産階級和民族資産階級。

  “人民”というのは一つの歴史範疇であり、異なる国、異なる歴史の段階により、“人民”の包含する内容はそれぞれ異なる。ここで言っているのは新中国が成立したばかりの時代の“人民”の含む範囲である。したがって“在中国”、“在現階段”という修飾語を加えることで、文全体がより厳密で正確になっている。

 文によっては必要な修飾語が欠けているため、意味がはっきりと表現されていないものがある。
   (2) 我們做青年工作的同志必須堅決支持青年的要求,維護青年的利益

 “要求”と“利益”の前に必要な修飾成分が欠けており、意味がはっきりと伝わらない。それぞれ修飾成分を加え、“支持青年的合理要求,維護青年的正当利益”と言えば、ずっと正確で厳密になる。

   (3) 她十几年来利用業余時間読完了高中和大学的全部課程

  “大学”にはいろいろな学部、学科の専攻があり、“読完大学的全部課程”と言っても意味がはっきりしない。“全部課程”の前に“有関専業的”という修飾成分を加えることで、表現が正確で緻密になる。

(二) 書き漏れがないように注意する

 一つの文に、必要な成分が欠けていたり、成分が不完全であると、当然意味の正確な伝達に影響する。意味の表現を緻密で正確にするため、文の中の必要な成分が粗略に扱われる(“苟簡”gou3jian3)のを防がなければならない。 

 以前、ある刊行物の投稿規定(“稿約”)に、次のような一文があった。
     “来稿一律退還,油印、複写或鉛印的稿本不退。”

 この文は内容の表現が不十分である。“来稿一律退還”(応募原稿は一律返却する)、それでは人々は投稿して何をするのだろうか?応募原稿は一律返却するのに、どうして“油印、複写或鉛印的稿本不退”(インク印刷、コピー、活版印刷した原稿は返却しない)のだろうか?明らかに必要な成分が欠けている。次のようにすると、意味がはっきりする。
     “来稿如不採用,除油印、複写或鉛印的稿本不退外,其余一律退還。”

 また例えば:
   (4) 普通学校在業余学校兼職或兼課的,由業余学校另給一定報酬。

  “兼職或兼課的”のは“普通学校”の教師である。この文の主語には、必要な中心語が欠けている。“普通学校”の後ろに、“的教師”を加えなければならない。

   (5) 在運動会期間,記者們写下一篇篇通訊報道,向人們介紹運動員們平時 
   如何刻苦鍛煉,今天又怎様以堅韌ren4不抜的毅力創造了好成績。

・堅韌不抜 jian1ren4bu4ba2 堅忍不抜。どこまでも耐え抜くこと。

 “介紹”は名詞を賓語として伴わなければならないが、“鍛煉”、“創造”という動詞で終わっているため、文が完結していない。ここでは“成績”の後ろに“的事迹”、或いは“的情況”を加えることにより、“運動員們”以下が一つの名詞句となり、こうしてはじめて文全体が完結する。

   (6) 插図中闖王、尚炯、高夫人等形象個性鮮明真実生動,莫不因為
   ∥画家把理解原著精神和深入到米脂、商洛山一帯去体験生活,積累
   大量速写素材,在生活中探求人物形象和画面∥的縁故

・闖王 chuang3wang2 ここでは李自成のこと。米脂は陝西省最北部の内蒙古自治区との境界地区の黄土高原にあり、李自成の故郷である。
・速写 スケッチ

 この文は、倒置型の複文で、因果関係の構造になっている。“插図中闖王、尚炯、高夫人等形象個性鮮明真実生動”は結果であり、“是……縁故”はその原因である。この原因を表す分句の中の“画家把……画面”は“縁故”の修飾語である。この修飾語は主述詞組であるが、構造に欠陥がある。ここで述べられているのは“画家”のことであるが、介詞“把”による長い名詞句で表わされている“人物形象和画面”をどうするのか、という動作の記述が欠けている。“画面”の後ろに“結合起来”というような動詞を加えてやれば、文の構造が完全なものになる。

 ここから、文の構造が完全かどうかは、意味の表現が十分なされているかどうかということに重大な関係があることが分かる。構造の複雑な長文の場合は、特に文の構造が完全であるかどうかに注意しなければならない。

(三) 全ての文の表現は“周密”であること

 ことばで客観的な事物を反映する時、できるだけ各文が表現する意味が全面的で細かいところまで配慮(“周密”)し、人に鮮明で強い印象を与えるようにしなければならない。例えば:
   (7) 我們対于落后的人們的態度,不是軽視他們,看不起他們,而是親近
   他們,説服他們,鼓励他們前進。我們対于在工作中犯過錯誤的人們,除了
   不可救薬者外,不是采取排斥態度,而是采取規勧態度,使之翻然改進,
   棄旧図新。

・翻然 きっぱりと
・棄旧図新 [成語]古いものを捨てて新しく脱皮する。誤った道を抜け出し新しい道を歩む

 ここでは二つの文が何れも“不是……而是……”と正反両面から道理を述べており、論理が“周密”であるので、読む人に強い印象を与えることができる。

 このような“周密”な表現方式は、政治論文などでよく使われる。こうした表現は、並列構造の複文や、単文の並列構造の中で使われる。使われる形式は主に三つある。

 一つは、肯定と否定の併用の形式。例えば“不是……而是……”、或いは“是……而不是……”といった文型である。

 二つ目は連合複文で、通常“又……又……”、“不但……而且……”、“不僅……反而……”といった文型である。時には、接続詞“同時”、或いは“一方面……另一方面”といった関連語句を用いて接続することもある。

 三つ目は対比性のある語句を用いる方法で、特に反義語を使って言いたいことを表すことがある。例えば:
   (8) 我們的路線是正確的発展路線,一方面要反対陳旧的保守的観点
   另一方面又要反対空洞的不切実際的大計劃。這就是財政経済工作中
   両条戦線上的斗争。

   (9) 不応該肯定我們的一切,只応該肯定正确的東西,同時,也不応該
   否定我們的一切,只応該否定錯誤的東西。在我們的工作中間成績是
   主要的,但是缺点和錯誤也還不少。

(四) 文の成分がきちんと呼応(“照応”)していること

 文が“周密”で“厳謹”(いささかも疎かなところがない)であるには、文の各成分の関係や配置が適切でなければならない。先ず前提説明があり、後ろでそれを引き継ぎ呼応する(“前有交代,后有照応”)。このような文の表現する意味は完全でまとまっており、“渾然一体”となっている。例えば:
   (10) 過了好一陣,他発現我頭低在胸前,肩膀抽動,使用双手抓住我的
   肩膀猛烈地揺着説:難過有什麼用?流涙有什麼用?他們倒下,我們活着
   的人再継続干!這就叫前仆后継!這就叫前仆后継!

・抽動 けいれんする。ひきつる
・前仆后継 qian2pu2hou4ji4 [成語]先人の屍を乗り越えて行く

   (11) 有時,望着莽莽蒼蒼的大地,我騎着思想的野馬奔馳到很遠的地方,
   然后,才又収住繮jiang1縄,緩歩回到眼前燦爛的現実中来

・莽莽蒼蒼 mang3mang3cang1cang1 広々として果てしがない
・繮縄 jiang1sheng 手綱

 例(10)は、前の文で“我頭低在胸前,肩膀抽動”と言い、続いて後ろの文では“難過有什麼用?流涙有什麼用?”と言っているが、これら両者は呼応していない。前の文で描写が無いと、後ろの文で言っても結論にならない。後ろの文で呼応が無いと、前の文の描写は行き場を失う。一方、例(11)では、前の文で“騎着思想的野馬奔馳”と言い、後ろの文で“収住繮jiang1縄,緩歩回到眼前燦爛的現実中来”と言っており、お互いに呼応しており、文の意味が完全で、よく配慮されている。

 文中の成分の呼応に注意を払われないと、しばしば文の意味は相互矛盾を引き起こすことがある。例えば:
   (12) 那一条条小泥路甬道辺,書声琅琅,飄蕩在静謐的校園上空。

・甬道 yong3dao4 (庭の中などの)れんがを敷いたり石畳の小道
・琅琅 lang2lang2 明るく澄んだ読書の声。朗朗
・飄蕩 piao1dang4 (空中や水中を)漂う
・静謐 jing4mi4 静謐(せいひつ)。静かである。ひっそりしている。

   (13) 您在這新的長征路上将如何前進呢?是退却,是躊躇,還是勇往直前呢?

 例(12)では、最初に“小泥路”とあるのに、続いて“甬道”が出てくるのは、自己矛盾を起こしている。“書声琅琅”と言ってから“静謐的校園”と言うのもおかしい。これらは、文の成分がちゃんと呼応していないことで発生した間違いである。例(13)では、最初に“如何前進”と言っているのに、後に“退却”、“躊躇”といったことばが出てくるのは、前後の関係が途切れてしまっており、互いに呼応していない。これらの文はもちろん表現が周密で完全な文と言うことができない。

  呼応(“照応”)は文の内部の成分の組立ての上だけでなく、文と文の間の引き継ぎ(“交代”)や呼応の上でも出現する。
 冰心の《小桔灯》の出だしの部分で、彼女はある友人の家に行ったところ、友人の部屋に至るまでの情景は次のようなものだった。
    “一段陰暗的仄仄ze4ze4的楼梯,進到一間有一張方卓和几張竹凳deng4、
   墻上装着一架電話的屋子,再進去就是我的朋友的房間,和外間只隔着
   一幅布簾。”
 続いて、彼女はこう書いている。
    “過了一会,又听聴見有人在挪nuo2動那竹凳deng4子。我掀xian1開簾子,
   看見一個小姑娘……正在登上竹凳,想去摘墻上的聴話器。”

 ここで作者はいくつかの物を取り上げている:竹凳deng4、電話、布簾。これらが皆呼応し、文の組立てにいささかも疎かなところが無く、表現はたいへん周密である。

   (14) 従从双龍洞到冰壺洞有石級。平時没有鍛錬爬了三五十級就
   気呼呼的,両条腿一歩重一歩了,両旁的樹木山石也無心看了。
   爬爬歇歇直到冰壺洞口,也没有数一共多少級,大概有三四百級吧。

・石級 石段
・気呼呼 息が荒くなってぜえぜえいう

 この一節は、前後の文の呼応がたいへん緊密である。先ず“平時没有鍛錬”と言い、続いて“爬了三五十級就気呼呼的”と言っている。だから“爬爬歇歇”(休み休み登り)、結果、“没有数一共多少級”(全部で何段も登らなかった)のである。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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沈宏非のグルメエッセイ: 【対訳】大いに“火鍋”を語ろう(2)

2010年12月06日 | 中国グルメ(美食)
  沈宏非の語る中国の冬の味覚、“火鍋”。前回の続きを、ご覧いただきます。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

■ 論火鍋,北京不止涮羊肉,韓国料理店的牛肚火鍋以及延吉鮮族人売的朝鮮狗肉火鍋,也好吃得很。其実,包括涮羊肉在内的北派火鍋都有一个特点,就是主料単一,湯底不繁,直奔主題,与川、粤形成了鮮明的対照。牛肚火鍋,主料就是牛肚、面条,至于狗肉火鍋,除了実打実的狗肉之外,最多也就是添点狗腸、狗肝,湯料也是狗肉湯,再加入豆腐、蔬菜、粉条之類,爽与不爽,一半取决于辣与不辣的“狗醤”。

・実打実 shi2da3shi2 うそ偽りがない

 火鍋について言えば、北京は涮羊肉だけでなく、韓国料理店の牛肚(牛の臓物)火鍋や延吉出身の朝鮮族が商う朝鮮風犬鍋も大変おいしい。実際、涮羊肉を含む北京式火鍋にはひとつの特徴がある。つまり、主な食材が単一であり、スープの中身は単純で、まっすぐ主題を追いかけており、四川、広東とは明らかな対照を形作っている。牛肚火鍋は、主な材料が牛肚(牛の臓物)、麺であり、犬鍋に至っては、実質本位の犬肉以外、最大限加えたとしても犬の腸、犬の肝までで、スープも犬肉のスープ。これに豆腐、野菜、春雨の類を加え、さっぱりしておいしいか否か、その半分は辛いのと辛くないのがある「狗醤(犬ミソ)」で決まる。

■ 不管是不是从北方遊牧民族処“騎来”,火鍋的確是一種很中国的飲食方式,而且非常地具“亜洲価値”。

 北方の遊牧民族のところから「馬に乗ってやって来た」にせよそうでないにせよ、火鍋は確かにたいへん中国的な飲食方式であり、非常に「アジア的価値」を備えている。

■ 如果説飲茶是広東人的身份認同,那麼全体中国人的身份認同,就是火鍋。世界上很少有一个種族,像中国人這様熱愛火鍋,当然,法国人偶尓也会来一道“布艮地鍋”,至于瑞士的芝士巧克力火鍋,其実更像是一道甜品,尽管上述地区的年平均气温都遠低于中国。

 もし飲茶を広東人のアイデンティティーだと言うなら、中国人全体のアイデンティティーは火鍋である。世界中でも、ひとつの民族が、中国人のように火鍋を熱愛するというケースは稀である。もちろん、フランス人もたまには「ブルゴーニュ鍋」をやるし、スイスのチーズやチョコレートのフォンデュに至っては、その実、デザートのようだ。これらの地域の平均気温は、何れも中国よりずっと低いにもかかわらず、である。

■ 在御寒和求鮮的表面証据之下,国人対火鍋的傾情,可能還有以下這几个心理上的原因:

 寒さを御し、材料の鮮度を追求するという表面上の理由で、中国人が火鍋に情熱を傾けるのは、或いは更に以下のいくつかの心理的な原因があるかもしれない。

■ 第一,熱閙,非常地熱閙,非常地“大一統”;前几年従香港伝入的所謂“個人火鍋”,雖然便宜,却終不成気候,原因就在這里。

・気候 qi4hou4 好ましい結果。成功。/成不了気候:ものにならない

 第一、にぎやかさ、非常ににぎやか。「大団円」。数年前、香港から伝わった、いわゆる「ひとり火鍋」は、便利ではあるけれども、ついには流行らなかった。その理由はここにある。

■ 第二,非但人気与火気斉旺,而且時間与快楽俱長。除了満漢全席之外,火鍋無疑是中餐里最能消磨時間的進食方式,尤其是四川的麻辣燙,出于対湯料的信仰,一鍋湯熬得愈久,一桌人吃得越酣,此乃川菜的基本常識。前一陣子有報道説,四川有一个騙子,専門誘騙外籍遊客做東請吃火鍋,上当的老外毎有察覚而欲撤離,該騙徒皆以“火鍋吃得越久越好吃”相阻留。

・熬 ao1 煮る
・酣 han1 気持ちよく存分に飲む。心ゆくまで~する。
・做東 ごちそうする。おごる。
・上当 shang4dang4 わなにはまる。だまされる。
・老外 田舎者

 第二、人々の雰囲気と鍋の火が共に盛んであるだけでなく、時間と快楽も共に長く続く。満漢全席を除いて、火鍋は間違いなく中国料理の中で最も時間を消耗することのできる食事方式である。特に四川の麻辣燙は、スープの材料に対する信仰から出て、鍋のスープを長く煮れば煮るほど、テーブルの人が心行くまで堪能できる、というのが四川料理の基本常識となっている。ちょっと前のニュースで、四川に詐欺師がおり、専ら外地からの旅行客を誘い、だまして火鍋をおごらせようとした。騙された人はそれと気づき、その場から立ち去ったが、くだんの詐欺師一味は「火鍋は時間がたてばたつほどおいしくなる」ため、そこに留まっていたそうである。

■ 毎一次在一家火鍋店圍炉三個小時以上,酒酣耳熱之際,我就会不期然地去想,“醤缸”恐怕是一個過時的東西了,現在,無論如何也該輪到了“涮”。挙目皆“涮”也,亦無物不可赴“涮”,多麼熱閙,多麼無休無止,多麼的無厘頭。

・酒酣耳熱 jiu3han1er3re4 ほろ酔い機嫌
・挙目 ju3mu4 目を上げて(見る)。

 毎回、火鍋屋でコンロを囲むこと3時間以上、ほろ酔い加減になると、私はふと思うことがある。“醤缸”(タレ入れの甕)はおそらく時代遅れのものだ。今はとにかく「しゃぶしゃぶ」をする番だ。眼を上げると、皆「しゃぶしゃぶ」をしている。「しゃぶしゃぶ」できないものは無い。こんなににぎやかで、こんなに絶え間なく、こんなに無秩序である。

■ “醤缸”的統治久矣,子曰:“不得其醤,不食”(《論語・郷党篇》)。然而,終于有這麼一天,火鍋消解了“醤缸”,最起碼,醤料在火鍋席上只占有従属的地位,鍋里鍋外的衆声喧嘩,才是后現代的性格。

・消解 xiao1jie3 (疑いや懸念が)氷解する。消える。
・喧嘩 xuan1hua2 がやがやとやかましい。騒がしい。

 “醤缸”の支配は久しい。子曰く「その醤を得ずんば、食せず」と(《論語・郷党篇》)。しかし、遂にはこんな日が来るだろう。火鍋から“醤缸”が消え、タレは火鍋の席で従属的な地位を占めるだけになる。鍋の中も鍋の外も人々の声ががやがやと喧しい。こうなってこそ次世代的である。

* 確かに、スープに味がついていなければ、タレは重要ですが、鴛鴦火鍋のようにスープに十分味のついているものでは、タレはそれほど意味がありません。沈宏非がここで言っているのは、そういうことなのでしょうか。

■ 也有一些人極端地厭悪火鍋,例如以精食著称的袁枚。

 しかし一部では、極端に火鍋を嫌っている人もいる。例えば、精緻な食で有名な袁枚である。

■ 《随園食単》有“戒火鍋”一節:“冬日宴客,慣用火鍋,対客喧騰,已属可厭;且各菜之味,有一定火候,宜文宜武,宜撤宜添,瞬息難差。今一例以火逼之,其味尚可問哉?近人用焼酒代炭,以為得計,而不知物経多滚gun3総能変味。或問:菜冷奈何?曰:以起鍋滚gun3熱之菜 ,不使客登時食尽,而尚能留之以至于冷,則其味之悪劣可知矣。”

・喧騰 xuan1teng2 騒ぎで沸き返っている
・得計 de2ji4 計画がうまくいく。思い通りになる。

 《随園食単》に「火鍋を戒める」という一節がある。「冬の宴客は、火鍋をよく使うが、客に対しわあわあと沸きかえり、既に忌まわしいものである。且つ各々の料理には、一定の火加減があり、とろ火が良いもの、強火が良いもの、減らすのが良いもの、加えるのが良いもの、瞬時にはその違いがわからない。今、試みに火で以てこれを強いれば、その味を尚問うことができるだろうか?最近の人はアルコールを燃やすことで炭に代え、思い通りになると思っている。然るに食物が何度も煮立たせると必ず味が変質してしまうことを知らない。或いは問う、料理が冷めてしまったらどうなる?曰く最初に鍋が煮立ち、熱くなった料理を、客がその時食べ尽くさず、中に残って冷めてしまったものは、その味の劣悪であることを知るべきである。」

■ 就烹飪及待客之道的基本原則而言,袁枚的説法,字字到位,句句中肯。站在食客的立場,対于火鍋,我却是一則以喜,一則以悲,所喜所悲,皆因熱閙而起。

 料理を作ることと接客の方法の基本原則から言えば、袁枚のことばは一字一句もっともである。食客の立場に立てば、火鍋に対し、私はうれしくもあり、悲しくもあり、悲喜こもごもは皆そのにぎやかさから起こる。

■ 熱閙或喧嘩的種種場面,不独火鍋。問題在于,不管哪一路的火鍋,総是離不開醤料,醤油、姜絲、辣椒、沙茶醤之類,只是最基本的,此外尚有数不清的醤料小碟,星羅棋布地擺満了餐桌。而吃火鍋的手持器具,起碼在両種以上,動作幅度和頻度極大,那所涮之物,随波逐流,随時有溺水失踪的危険,在転瞬間消逝了踪影。在深不見底的老湯里打撈垂釣,難度不亜于在巴倫支海底搜索失踪的俄羅斯潜艇。与此同時,還得不時調節火力,控制火候,三頭六臂,七手八脚,只是把厨房搬上了飯桌,局面之混乱,始終処于失控的辺縁。

・星羅棋布 xing1luo2qi2bu4  [成語](星や碁石のように)多く広く分布している
・打撈 da3lao1 (沈没した船や水死体を)引き上げる
・垂釣 chui2diao4 釣り針を垂れる。魚を釣る
・三頭六臂 [成語]三つの頭と六つの腕。非常に優れた能力を持っているたとえ。三面六臂。
・七手八脚 [成語]だれもかれもが一度に手を出す。寄ってたかって何かをする
・辺縁 bian1yuan2 すれすれ。きわどい状態。

 にぎやかさや、がやがやとうるさい各種場面は、ひとり火鍋に限らない。問題は、どんな火鍋にせよ、タレから離れることができない。それは醤油、生姜の細切り、唐辛子、サテソース(南方でよく使われるピーナッツ・ベースの調味料)の類が、最も基本的なものに過ぎず、この他、数え切れないタレの小皿があり、綺羅星の如くテーブル一杯並べられている。一方、火鍋を食べる時の手に持つ器具は、最低二種類以上、動作の幅と頻度は極大で、湯にくぐらせる物は、スープの波に随い流れていってしまい、常に溺水・失踪の危険があり、あっという間に跡形も無く消えてしまう。深く底の見えない長く煮込んだスープの中から引き上げたり吊り上げたりするのは、ベーリング海の海底で、失踪したロシアの潜水艦を捜索するのと、その難度は劣らない。これと同時に、常に火力を調整し、火加減をコントロールし、三面六臂、寄ってたかって、まさに厨房をテーブルに持ってきたようなもので、局面の混乱、終始制御不能に陥るぎりぎりの状態におかれている。

* なるほど。確かに各種具材、各種調味料、道具類が所狭しと並べられた情景が目に浮かびます。さしもの、日本なら、ここで鍋奉行が登場し、肉の煮えすぎとかに、注意を飛ばすところでしょうか。

■ 聞鼙pi2鼓而思良将。毎当這種悲喜交集的時刻,我就渇望能有一个鉄腕人物従天而降,力挽狂瀾,牢牢地把握火鍋的大方向。

・聞鼙pi2鼓而思良将 《礼記》出典のことば。“鼙鼓”pi2gu3というのは軍中で使われる大小の太鼓のことで、古代には出陣や各種の指示を伝えるのに使われた。王政にある者は、戦陣の太鼓の音を聞くや、直ちに自分の配下でそれぞれの局面でふさわしい武将の名前が思い浮かぶという意味。

・力挽狂瀾 li4yi4kuang2lan2 “挽”:挽回する。“狂瀾”:猛烈な波浪。危険な局面を全力で挽回しようとすること

 軍鼓を聞いて良将を思う。こういう悲喜こもごもの時に当たるたび、私は鉄腕を持つ人物が天から降りてきて、劣勢を力ずくで挽回し、しっかりと火鍋の大方向を把握してくれないか、と願う。

* これは明らかに、沈宏非は鍋奉行の出現を熱望されています。中国では鍋の時にあれこれ口を挟む人はいないのでしょうか。

■ 前年冬天的一个雪夜,我和一伙人在東四的“忙蜂”喝到昏天地,又被裹脅至東直門謀“麻辣燙”。恍惚間,但覚座中一女指揮若定,使卓面上自始至終秩序井然。口腔麻痺,声音漸遠,心中惟存一念:我的下半生,就交給你来安排吧。

・昏天地 [成語]意識がぼうっとするさま
・裹脅 guo3xie2 (悪事を働くよう)脅迫する
・井然 jing3ran2 整然としている。きちんとしている。

 去年の冬のある雪の夜、私と何人かの仲間は東四の「忙蜂」で意識朦朧となるまで飲み、また脅かされて東直門の某「麻辣燙」に連れて行かれた。意識はぼんやりしていたが、座中のひとりの女性がきっちり取り仕切り、テーブルの上は終始秩序立っているのがわかった。口は麻痺し、声は次第に遠のいて行ったが、心の中でただひとつ思ったことは、私の後半生をあなたに任し采配してほしい、ということだった。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

 沈宏非も最後は酔い潰れてしまいましたが、鍋というのは寒い季節に人の心を豊かにし、団欒を進めてくれるものです。中国人だけでなく、日本人も、韓国人も、皆この点では共通の文化を持っていると言えるでしょう。


【原文】 沈宏非 《食相報告》四川人民出版社 2003年

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沈宏非のグルメエッセイ: 【対訳】 大いに“火鍋”を語ろう(1)

2010年12月05日 | 中国グルメ(美食)
 鍋料理が美味しい季節になってきました。中国で鍋といったら羊のしゃぶしゃぶや重慶火鍋に代表される“火鍋”です。今回は、沈宏非のエッセイの中から火鍋について、中国語、日本語の対訳でご覧いただきます。中国語学習の息抜きになれば、と思います。

                   大話火鍋 (大いに鍋料理を語ろう)

■ 朔風漸起,新涼入序,第一時間想到的,就是火鍋。

・朔風 shuo4feng1

 北風 北風が次第に吹くようになり、新たな寒さが緒に就くと、先ず思いつくのが鍋のことである。

■ 漢族的飲食文化,差異不可謂不大。不過,地不分南北東西,人不分男女老幼,火鍋是一致的愛好。即使是処処標新立異的新新人類,“哈鍋族”亦大有人在。

・標新立異 [成語]新しい主張を唱え、異なった意見を表明する
・哈ha1……族 例えばアニメなどの日本文化が好きな“哈日族”のように、何かが好きでたまらない人たちのこと。

 漢民族の飲食文化は、その違いが大きくない訳ではない。しかし、場所の南北、東西を問わず、人の老若男女を問わず、“火鍋”は誰もが一致して好きなものだ。たとえあちらこちらに新しい主義主張を唱える新人類であっても、「鍋好き」はたくさん存在する。

■ 火鍋本不属于漢族,当年随清兵入関而伝入中原。在宮里,乾隆不僅無火鍋不歓,六次南巡途中,皆着地方接待単位沿途備火鍋伺候。另一種流行的説法是,早在公元六一八至九零六年間,火鍋就開始了由北向南的伝播,李白之“胡姫美如花,当炉笑春風”説的就是涮shuan4羊肉 的情景。也是学者認為,火鍋出現于成吉思汗時代,由蒙古而東北。

・入関 ここでは、明末、将軍・呉三桂が守っていた北京北方の居庸関を開いて降伏し、清軍が入京し、明が滅んだことを指す。“関”は北方の塞外と都の北京を隔てる居庸関のこと。
・伺候 ci4hou 世話をする

  “火鍋”は元々漢民族には属せず、清の兵隊と共に居庸関を越え、中原に伝わった。宮中では、乾隆帝は鍋料理が無いと機嫌が悪かっただけでなく、六度の南方視察の途中、どの地方の接待部署も火鍋を用意し、ご機嫌を取った。もうひとつの説は、西暦618年から906年の間、鍋料理は北から南へと伝わったというもので、李白が「胡姫の美は花の如し、炉に当たりては春風を笑す。」と言ったのは、羊のしゃぶしゃぶをする情景である。また、“火鍋”はジンギスカンの時代に出現し、モンゴルから東北部に伝わったと考える学者もいる。

* “当炉”を「炉に当たる」と訳しましたが、ここで言う“炉”は下から石炭で火を焚いた鍋のことで、「鍋を囲む」という意味だと思います。ウェートレスは“胡姫”ですから、西域から来た美女だったのでしょう。内陸の長安は、冬は氷点下まで気温が下がりますから、温かい鍋料理に春を感じ、思わず笑みがこぼれます。

■ 無論如何,這種被広東人称為“打辺炉”的進食方式,已由最初単純的涮shuan4肉濫觴至無所不涮shuan4。只是火鍋的基本形態依然故我:一口鍋(陶、瓦、金属、玻璃),底下生火(炭火、電火、柴火、蜡火、酒精、煤气),鍋里有水(高湯、麻辣或薬材湯),水一滚gun3,就開涮shuan4,万変不離其宗。

・濫觴 lan4shang1 ものごとの始まり。起源。
・故我 gu4wo3 昔のままの自分
・万変不離其宗 [成語]形式上いろいろ変わっても本質は変わらない

 とにかく、このような広東人が言うところの“打辺炉”という食事方式は、最初は単純に肉を湯にくぐらせることから始まり、遂には何でもかんでも湯にくぐらせて食べるというまでに至った。但し、火鍋の基本形態は依然として昔のままである。真ん中に煙突の突き出た鍋(陶器、素焼き、金属、ガラス製がある)の、底で火を焚きつける(熱源は炭、電気、薪、ロウソク、アルコール、ガスがある)。鍋にはスープを入れ(高湯(中華ハムや鶏や豚の煮出しスープ)、麻辣(四川風唐辛子スープ)、或いは漢方薬材の入ったスープ等がある)、水がぐらぐら沸いたら、食物を湯にくぐらせる。万事が変化しても、この点だけは変わらない。

*“打辺炉”:文字通り訳すと、ストーブの傍らで食事をする、となりますが、これも李白の詩の“当炉”と同様、「鍋を囲む」という意味だと思います。

■ 広東人対“打辺炉”的酷愛,往往令外地人詫異。作為一種苦寒地帯的飲食,竟然大行其道于“愆qian1陽所釈,暑湿所居”的嶺南,実在令人費解。

・詫異 cha4yi4 不思議に思う。いぶかる。
・嶺南 “五嶺”(越城嶺、都龐嶺、萌渚嶺、騎田嶺、大庾嶺の総称で、湖南、江西の南部から広東、広西との境界の地方)以南の地という意味で、広東・広西一帯を指す
・費解 fei4jie3 分かりにくい。難解である。

 広東人は“打辺炉”がたいへん好きで、しばしば外地人を不思議がらせる。酷寒地帯の飲食であったものが、意外にも「厳しい陽の光が広がり、暑さや湿気の甚だしい」嶺南の地で隆盛であるのは、実にわかりにくい。

■ 其実,嶺南的冬天也是冷的,雖然気温皆在摂氏十度左右,却有另一番銷魂蝕骨的冷法,那種湿湿的陰冷,未曾在広東過冬者很難体会。御寒的同時,粤人“打辺炉”的另一个動机,乃是貪図食物的新鮮与生猛。凡新鮮之物,肥牛、魚蝦、龍蝦、象拔蚌、生鮑、魚頭、猪脳 、狗肉、甲魚、鶏、鵞腸、驢肉、蛇段,肉丸以及各種蔬菜,几乎无所不用来“打鍋”。

・銷魂蝕骨 xiao1hun2shi2gu3 魂を奪われ骨を蝕む。程度が甚だしく、気持ちが沈む様。

 実際は、広東の冬は寒く、気温は摂氏10度前後だが、却ってうんざりして気持ちを萎えさせる冷え方である。そのじめじめした曇り空の寒さは、広東で冬を過ごしたことのない者にはわかりづらい。寒さを御すると同時に、広東人が“打辺炉”をするもうひとつの動機は、他でもなく新鮮で生きの良い食物を貪ることだ。およそ新鮮な物であれば、肥牛(脂身のついた牛肉)、エビ、ロブスター、象拔蚌(ミル貝)、生の鮑、魚頭(鰱魚lian2yu2レンギョの頭)、豚の脳みそ、犬の肉、スッポン、鶏、ガチョウの腸、ロバの肉、蛇のぶつ切り、肉団子、各種の野菜と、およそ鍋に入れないものは無い。

* “象拔蚌”xiang4ba2bang4というのは、広東の海鮮レストランで出てくる巨大な二枚貝で、身は薄切りにして供されます。足を出した形が象の鼻に似ているから、このような名前になったのでしょうか。“魚頭”はいわば魚のアラの料理。豆腐と共に煮た“魚頭豆腐”が有名ですが、通常、淡水魚を使い、特にレンギョの頭を使うことが多いようです。

■ 有殺錯無放過,有涮shuan4無類,很容易就磨滅了個性。説到個性,我認為京派的“涮shuan4羊肉”、川式的“麻辣燙tang4”,遠在“打辺炉”之上。

 殺し損なって入れることができなかったり、何でもかんでも湯にくぐらすのでは、あっという間に個性を失ってしまう。個性と言えば、私は北京式の“涮羊肉”(羊のしゃぶしゃぶ)、四川式の“麻辣燙”(唐辛子と山椒のスープの鍋)は“打辺炉”よりはるかに優れていると思う。

■ 与粤式打辺炉以及四川的麻辣燙相比,京式的涮羊肉,属于火鍋大系里另一派的掌門。

 広東式の“打辺炉”、四川の“麻辣燙”と比べ、北京式の“涮羊肉”は“火鍋大系”の一方の頭目である。

■ 這一派,不妨称之為“単一品種派”,即独沽一味,只涮羊肉。与此同時,湯底也簡単得多,除了羊肉之外,外置的調味料是成敗的要害。

・沽 gu1 売る/ 独沽一味:一つの風味、料理だけを売る

 この一派は、「単一品種派」と呼んで良い。つまり一つの風味だけで勝負する。ただ“涮羊肉”だけを売る。同時に、スープの中身もずっと簡単で、羊の肉を除くと、鍋から出した後つける調味料が勝敗の分かれ目である。

■ 最適宜涮食的羊肉,取自内蒙古錫林郭勒盟十四個月大的小尾頭綿羊,選料之后,切割更考師傅,因為只有切得薄,才可一涮即熟。過去夸誰家的涮羊肉好,一半是在称賛師傅的刀工。別猜,我説的就是“東来順”。現在好了,科技的進歩打破了手工的壟断,一概改用机器,毎五百克可以切出一百片,比人手切的還薄。

・壟断 long3duan4 独占

 しゃぶしゃぶに最も適した羊は、内蒙古錫林郭勒盟の生後14ヶ月の小尾黒頭綿羊である。食材を選んだ後、肉のカットでは更に職人を選ばないといけない。なぜなら、肉が薄くないと、一度湯をくぐらせただけで食べごろにならないからである。かつて、どの店の涮羊肉がおいしい、というのは、半分は親方の包丁さばきへの賞賛であった。言うまでも無く、私が言っているのは“東来順”のことだ。今は良くなった。科学技術の進歩が手作業の独占を打ち破り、どこでも機械を使うようになり、500グラムで100枚の肉を切り出すことができ、人の手で切ったものより薄くなった。

■ 説老実話,其実我并不特別喜歓吃這一片片的薄薄的東西,論羊肉,我只喜歓大塊的。但是,只要是冬天,只要人在北京,我就非得去涮上几回。空气里都是涮羊肉的味道,還有煤煙,那才是北京。一旦聞不到,整个人頓時就安全感尽失,惶惶不可終日。

・惶惶 huang2huang2 びくびくするさま/惶惶不可終日:恐怖のあまり生きた心地もしない

 正直に言うと、私はこの一枚一枚の薄い物が特別好きなわけではない。羊について言えば、私は塊の肉の方が好きだ。しかし、冬になり、北京にいる時は、私は何回かはしゃぶしゃぶしに行かない訳にいかない。空気に“涮羊肉”の臭いがあり、石炭の煙がある、それこそ北京なのだ。その臭いがしないと、人々は忽ち不安になり、びくびくして生きた心地がしなくなる。

■ 是故,我只在北京的街頭露天地開涮,不管有多冷。百年老店以及時髦的這居那居的,無不人山人海,頭頂上火炉乱飛,脚底下油膩横流,怕死了,再説那里面的暖气也譲我窒息。我喜歓在住処就近找一家小店,条件只有両个:

・人山人海 [成語]黒山の人だかり

 それゆえ、私はどんなに寒くても、北京の街頭の露天の店でしゃぶしゃぶを食べることにしている。百年の老舗とか流行のこの店、あの店というのは、黒山の人だかりでなくても、頭の上をコンロの炎が飛び交い、足元は油でギトギトしていて、おっかない。また、そういうところの暖房も、息が詰まりそうだ。私は宿舎の近くで小ぶりな店を捜すのが好きだ。条件はふたつだけ。

■ 第一,羊肉尚可;第二,可在戸外進行。

 第一、羊の肉の質がまあまあ。 第二、屋外で食べられること。

■ 此外,再来一瓶紅星牌二鍋頭,就用不着理我了。

 それ以外に、紅星ブランドの二鍋頭(白酒)が一瓶あれば、もう私をほっておいていただいて結構。

* 二鍋頭は、北京に行かれたことのある方はご存じでしょうが、高粱等を原料に作られた度数の高い白酒、いわば北京の地酒です。値段も安い、庶民の酒です。

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 続きは、次回で。お楽しみに。

【原文】 沈宏非 《食相報告》 四川人民出版社 2003年

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