中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国語の音韻による修辞(2)

2010年05月16日 | 中国語

  前回、音韻や平仄による、中国語の音韻上の修辞について見たが、今回は、音節の均衡、文のリズムの問題、音声による感情伝達の問題、について見ていきたい。
 テキストの原文は、胡裕樹主編《現代漢語》重訂本 上海教育出版社1995年である。

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                    (二)音節の均衡

 中国語のことばには、単音節、二音節、多音節のものがあるが、二音節のことばが大多数を占める。多くの二音節のことばは、しばしば単音節の同義語を見つけることができる。このようにして、ことばを選ぶ時、音節の長短から適当なことばを選択することができる。
 一般に、単音節のことばは単音節のことばと配合し、二音節のことばは二音節のことばと配合する。例えば、“花”と“花朶”、“鮮花”は同義語だが、私たちは、“白花”、“紅花”というが、“白花朶”、“紅花朶”とは言わない。また、“白色的花朶”、“紅色的花朶”と言うが、“白色花”、“紅色花”とはあまり言わない。“花開”と言うが、“鮮花開”とは言わず(詩歌の中では或いはこのような言い方があるかもしれない)、“鮮花盛開”と言うが、“花盛開”とは言わない。“読書”と言うが、“書”を二音節の“書報”に変えると、“閲読書報”と言わなければならない。“句型”と言うが、“句”を二音節の“句子”に変えると、“句子類型”と言わなければならない。
 単音節、二音節のことばの配合は、これらのことば自身の配合の問題であるだけでなく、これらのことばの置かれた言語環境が関係する。
例えば:
(13)因為勝利,我們的驕傲情緒……可能生長。……務必使大家継続地保持謙虚、謹慎、不、不躁的作風……。

(14)我們含泪佇立桔子洲頭,漫歩湘江峭岸;清水塘,岳麓山,徘徊板倉小径,依恋韶山故園……万千思緒,随山移水転。
・佇立 zhu4li4 長時間立つ。たたずむ

 例(13)の“驕傲”は二音節の語で、主に“情緒”という二音節の語と釣り合わす為に二音節になっている。後半の文で、単音節の“驕”が使われているのも、“不”と組合せて二音節とし、“謙虚”、“謹慎”、“不躁”といった二音節の語と形式が対称となるようにするためである。
 例(14)の“佇立”と“漫歩”、“回”と“登”、“徘徊”と“依恋”も、それぞれ二語ずつが呼応している。

 ここから、音節の均衡は二つの面を表していると言える。一つは文の中の音節のつながりが急に長くなったり短くなったりして、落ち着かなくなってはならない。一つはフレーズ(節)の音節が呼応することで、文の構成が整い、形式的な美しさが要求される。

                   (三)リズムの鮮明さ

 リズムに注意を払うのは詩歌の基本的な要求である。詩歌の歌いあげる情感は平板なものではなく、波乱や起伏があり、これを文字に訴えることにより詩歌のリズムになるのである。
 郭沫若はこう言っている。“大概先揚后抑的節奏,便沈静我們。先抑后揚的節奏,便鼓舞我們。這是一定的公例,鐘声是先揚后抑的,初扣的時候頂強,曳着的裊裊的余音漸漸微弱下去。海涛的声音是先抑后揚,初起的時候従海心漸漸卷動起来,愈卷愈快,卷到岸頭来,‘拍’的一声打成粉砕。因為有這様的関係,所以我們聴鐘声和聴海涛的心理,完全是両様。”(だいたい、先に高揚し後に抑制されるリズムは、私たちを落ち着かせる。先に抑制し後に高揚するリズムは、私たちを奮い立たせる。これは一定の法則であり、鐘の音は先に高揚し後に抑制され、初めに掛けられた時が最も強く、引きずられながらゆらゆらとした余韻が次第に弱くなっていく。海の波涛の音は先に抑制し後に高揚し、始めは海の中から次第に巻き起こり、巻き上がれば上がるほどスピードがつき、岸に到って、「バン」と音をたてて粉々になる。このような関係にあるので、私たちは鐘の音を聞く時と海の波音を聞く時の心理は、完全に正反対である。)
“節奏的確是有這両種効果的,一種是鼓舞我們,一種是沈静我們。聴軍歌、軍号、軍鼓時的感覚,是前的一種。聴儿歌、簫声、賛美歌時的感覚,是属于后的一種。抒情詩也自然生出両種派別。譬如惠迭曼(Whitman)的詩是鼓舞調,太戈儿(Tagore)的詩是沈静調。”(リズムは確かにこのような二種類の効果があり、一つは私たちを鼓舞し、一つは私たちを冷静にする。軍歌や軍隊ラッパや軍隊ドラムを聞く時の感覚は前者である。童謡や簫の音色や賛美歌を聞く時の感覚は、後者に属する。叙情詩も自然と二種類のグループに分かれる。例えば、ホイットマンの詩は気持ちをウキウキさせるが、タゴールの詩は気持ちを落着かせる。)
(郭沫若《論節奏》(《文藝論集》P233-234 人民文学出版社1979年)

 およそリズムを構成するには、二つのたいへん重要な関係を離れることができない。一つは時間の関係、一つは力の関係である。時間の関係は、しばしば句式の長短として表現される。力の関係は、しばしば音声のアクセントとして表現される。
 一般的に、長編詩は勇壮な勢いを形成するのにふさわしく、短編詩は活発で軽快な状況を表現するのにふさわしい。
例えば:
(15) 炮声響了,
       你立刻昂然站起来!
    一会儿,下隧洞,
       一会儿,登山崖,
    一会儿,進工事,
       一会儿,上炮台:
    一会儿,看長天,
       一会儿,望大海:
    你発出的炮火
       像閃電般把敵人的陣地劈開。

 これは、郭小川《大海浩歌》の中の一節で、彼は長編詩で自分の豪快で勇壮な気持ちを表現するのが巧みで、ここに一節の短い詩の行を挿入し、躍動するリズムにより、機知に富んだ機敏な動作を、生き生きと活発に、ありありと紙上に表現している。

 音声のアクセントは詩の中にリズムを形成する。これは声調の要素を除き、主に語法的なストレスを用い、ストレスを強調することで詩歌の旋律の中に強弱の異なるリズムを作り出す。
例えば:
(16) 哪,外面是声音声音
    生命在招呼着生命。
    解放自由永久的平等,
    奴隷奴隷們在搏争光明。

 リズムを表す基本単位は“音歩”或いは“頓”と呼ばれる。中国語では一般に二音節、或いは三音節を“一頓”とし、単音節或いは四音節以上のものは稀である。
(17) 五月的 ―― 鮮花 ―― 開遍了 ―― 原野,
    鮮花 ―― 掩蓋着 ―― 志士的 ――鮮血。
    為了 ―― 挽救 ―― 這垂危的 ―― 民族,
    他們 ―― 曾頑強地 ―― 抗戦 ―― 不歇。

(18) 昔時 ―― 不見 ―― 此処 ―― 山青,
   
野花 ―― 焼紅 ―― 嶺頭的 ―― 流雲,
   
而今 ―― 杜鵑花 ―― 謙遜地 ―― 譲位,
   
偶遺二三 ―― 点綴在 ―― 新辟的 ―― 田

 “頓”の区切りは、音声上の間歇に着眼し、したがってしばしばことばの意味の区分とは一致しないところが出てくる。リズムの要求により、時にはひとつのことばを二つの“頓”に分けて置くことがある。
例えば、“一衣帯水”は“一衣 ―― 帯水”と読まれ、“一衣帯 ―― 水”と読むことはできない。“為他人作嫁衣裳”は“為他 ―― 人作 ―― 嫁衣 ―― 裳”と読まれ、“為 ―― 他人 ―― 作 ―― 嫁衣裳”と読むことはできない。
 一般に、詩歌には相対的に安定したリズムがあることを要求される。一首の詩の中で各行の“頓”の数はだいたい同じであることが望ましく、そうでないと雑然とした感じになる。

  詩歌のリズムの中で、ある音頓の感情を強めるため、音頓の後に“襯字”(chen4zi4 口調をそろえたり、メロディーに合わせるために加えられる字)が加えられる。“襯字”は一般に語気詞や助詞で、ことばの勢いを強める作用がある。賀敬之の《回延安》の中では大量の“襯字”が使われている。
例えば:
“心口呀莫要這麼害的跳,灰塵呀莫把我的眼睛擋住了”,
“千万条腿来千万只眼,也不够我走来也不够我看!”
“楊家嶺的紅旗呵高高的飄,革命万里起高潮”,
“身長翅膀吧脚生雲,再回延安看母親!”
ここで“呀”、“来”、“呵”、“吧”は皆“襯字”である。

 詩のリズムを調和させるため、詩歌の中では“虚詞”(機能語。文法上の働きをするだけで、単独では文成分にならない単語。副詞、介詞、接続詞、感嘆詞、擬声語をいう)を活用しなければならない。もし詩の中が全て二音節のことばであると、聞いていて気持ちが悪く、平板で味気なく思える。郭小川は嘗てある作者が詩の末尾に二音節のことばを使っていることの欠点を批評したことがある。その詩の各行の末尾には、“利箭、快刀”、“火箭、導弾”、“狂卷、叫囂”等のことばが用いられていた。彼は簡潔に一字の語にするか、二字の語の間に接続詞を加えるべきで、そうでないと美しい旋律が構成できないと考えた。(郭小川《談詩書簡(二)》(《談詩》P30-31、上海文藝出版社1978年)

 詩歌の中だけでなく、散文でも、続けざまに二音節のリズムを置くのは避けるべきである。二音節の組合せでは、一二の虚詞を加えるだけで、文が生き生きとし、平板ではなくなり、変化に富んで情趣がある(中国語で“錯落有致”cuo4luo4you3zhi4)。
例えば:
(19)有些報道文章,比社論或新聞還重要,比副刊雑誌上文章,也更能吸引読者,不僅給人印象真実而生動,還将発生直接広汎教育効果。……同是知識経験和文章,在将第三者綜合表現上,得失就可見出極大差別。
 上例で、“還将発生直接広汎教育効果”に二つの虚詞を加え、“還将発生直接而広汎的教育効果”とすれば、ずっと言い易く、且つ聞き易くなる。
 同様に、“得失就可見出極大差別”を“或得或失就可以見出極大的差別”と変えることにより、文はずっと生き生きとしてくる。

                (四)音声による感情伝達

 私たちは、時にはことばの音声を利用し、状態を模倣し感情を伝えることで、文章をもっと生き生きとさせることができる。 客観的な事物を描写する時、音を重ねたことば(“畳音詞”)を使うことで、文章の形象性を増加させることができるだけでなく、文章の音楽性を増加させることができる。
例えば、朱自清の《荷塘月色》で、
(20)曲曲折折的荷塘上面,弥望的是田田的叶子。叶子出水很高,像亭亭的舞女的裙。層層的叶子中間,零星地点綴着些百花,有裊娜地開着的,有羞渋地打着雑儿的;正如一粒粒的明珠,又如碧天里的星星,又如剛出浴的美人。微風過処,送来縷縷清香,仿佛遠処高楼上渺茫的歌声似的。這時候叶子与花也有一些的顫動,像閃電般,霎時伝過荷塘的那辺去了。叶子本是肩并肩密密地挨着,這便宛然有了一道凝碧的波痕。叶子底下是脉脉的流水,遮住了,不能見一些眼色;而叶子却更見風致了。
 このようにしとやかで美しい月明かりのハスの花を、大量の“畳音詞”を使うことで、一幅の生き生きとして人を引きつける絵画、一曲の美しく響く楽曲のように、人に言語芸術の美しさを享受させている。

 事物の動く情景のイメージを再現するため、しばしば擬声語を用いて音声を模倣して描くことで、人にその場にいるような感じを与えることができる。
例えば:
(21)紅的高粱,白馬牙玉茭,揚着風,一陣陣煙霧騰騰,馬蹄答答響,石碾子咕嚕嚕轉着跑,人臉晒紅了,汗珠在眉峰上閃光,灰塵披満衣衫,声音却分外歓暢、洪亮。

(22)窓外,雨声漸瀝,雷声不断,雨点打在白玉階上,梧桐叶上,分外地響。風声緩一陣,緊一陣,時常把雨点吹過画廊,敲在窓上,又把殿角的鉄馬吹得丁丁冬冬

 擬声語は自然風物の音声の描写を表現するだけでなく、人物の描写で声や姿、笑顔を表し、人に、生き生きとして、真に迫っているように感じさせる(中国語で“維妙維肖”wei2miao4wei2xiao1、“栩栩如生”xu3xu3ru2sheng1 )。
例えば、老舎《女店員》で:
(23)斉凌云:其実呀,我并不像你們想的那麼神気!念初中,在中間休息了一年,
        初中畢業,又没考上高中!你看媽媽那个挖苦我呀!
        (学媽媽的語調)啊,一朶鮮花似的大姑娘,敢情是个大草包啊
        連高中都考不上!我神気什麼呀!
 自然風物の描写について言えば、真に迫って風物を描いたり、周りの雰囲気を際立たせるのを助け、人物の声の描写については、性格を描き、話の筋を進めるのを助ける。

 時には、ことばの音の同じもの(“諧音”)を利用し、別の意味を引きだすことのできることがある。あるものは人に冗談を言って面白いように感じさせ、あるものは人に意味深長に感じさせる。私たちは日常生活でよく人がこう言っているのを聞くことができる。: “干部干部,先!”“要向看,不要向看!”等々。
 このような状況は、文学作品の中でもよく見かけることができる。例えば:
(24)病人恢復了健康。畸零人成了正常人。正直的人已成政治的人。他的進歩顕著。

(25)鉄良随即套上了双铧犁,聚蘭交代説:“你雖然也聴老梁同志説了,究竟没実験過,別性急。机器,‘急气’越急越气。”

 時には人物をうまく描写するため、正確に語気詞や感嘆詞を運用することが必要である。人物の表情や態度、喜怒哀楽が、しばしばひとつの語気詞や感嘆詞により生き生きと表現することができる。(中国語で“活霊活現”huo2ling2huo2xian4。 生き生きとして真に迫っている)
(26)“好了,好了!”看的人們説,大約是解勸的。
    “好,好!”看的人們説,不知道是解勸,是頌揚,還是煽動。

(27)“我出十塊銭,請你們准我進農民協会。”小劣紳説。
   “嘻!誰要你的臭銭!”農民這様回答。

 例(26)は、魯迅《阿Q正伝》の中で阿Qと小Dが喧嘩した時の傍の観衆の態度である。“好了,好了!”は語気詞“了”を用い、彼らが二度と喧嘩しないよう希望している。 “好,好!”は語気詞“了”を用いておらず、彼らが引き続き喧嘩するよう煽動しており、意味の違いはたいへん大きい。
 例(27)は感嘆詞“嘻”を用い、農民の封建地主階級への軽蔑と嫌悪を表現している。

 文学作品の中には人物の異なる表情や態度を描くのに、尚更語気詞や感嘆詞の運用と切り離せない。
 魯迅の《祝福》を例に言うと、祥林嫂がこっそり「私」に、人が死んだ後、魂はあるのかと聞いた時、躊躇して考えが決まらない「私」は、こう答えた。“也許有罷 ―― 我想。” “罷”の字一つで、口ごもっている様子が形象的に表現されている。
 次に祥林嫂はこう聞いた。“那麼,也有地獄了?”“阿!地獄?”「私」の驚きや、どうしてよいかわからず途方に暮れる(中国語で“無所措手足”wu2suo3cuo4shou3zu2)様子が、ありありと紙上に表現されている。
 しかし祥林嫂は尚手を緩めない。“那麼,死掉的一家人,都能見面的?”“唉唉,見面不見面呢?”この時の「私」は、いいかげんにお茶を濁しているかのようだ。
 三つの語気詞と感嘆詞は真に迫って「私」の困り果てた様子を描写し、祥林嫂の古い伝統観念への疑問と反抗に対し、強く反対している。
 また、小説の中で、何度も“啊呀”という感嘆詞を用いて衛老婆子を描いている。時にはそれを用いて自分の「不満」を表現し、時にはそれを用いて祥林嫂の姑の言い逃れを表し、時にはそれを用いて祥林嫂の嫁入りへの抵抗の驚嘆を表し、時にはまた祥林嫂の反抗行為の理解し難いことを表現したり……これら全てが生き生きと彼女のような、風向きを伺う才に長け(中国語で“善観気色”shan4guan1qi4se4)、口がうまく舌がよく回る(“巧舌如簧”qiao2she2ru2huang2)性格の特徴を表現している。


【原文】胡裕樹主編《現代漢語》重訂本 上海教育出版社1995年



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