中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

四合院の魅力、めかくしの壁「影壁」

2020年03月11日 | 中国文化

中国の伝統文化において、四合院の中で「影壁」(目隠しの壁)の設置は、単に装飾機能に限られるのではありません。四合院の建設をする時、風水で言う、気の流れを確保しないといけませんが、気の流れは、直進させてはならないのです。四合院の門の外、左右両側にある影壁は、気を収斂(しゅうれん)させるのに有利で、門の内側にある影壁は、気をS字形に迂回して進ませ、ゆっくりした気の流れの速度を確保し、気を拡散させることがありません。故宮の中では、宮殿内のほとんど全ての四合院で影壁が設置され、壁は木製、石製、瑠璃瓦製などがあり、たいへん凝っています。

木製影壁

またそれとは別に、清代の満州族の人々の間には、門前の影壁は、天を供養する位牌であるという言い伝えがあります。これは、清朝を建てた憨王、ヌルハチが、建国前のある時、他国との戦闘中にひとり逃げ帰る途中、畑仕事をしていた老人に助けられ、また一群のカラスが舞い降り、身を隠すのを助けたという故事から、彼が年老いて後、全ての満州族の家の中庭に「索倫杆」(「神竿」とも言う)を立て、その上に丸い升を付け、天とカラスを祭る肉を置くように命令し、またそれぞれの家の門前に影壁(目隠しの壁)を建て、天への位牌とし、正月、節句と親族が亡くなった時に供養するようにしたというものです。

瀋陽故宮清寧宮前の「索倫杆」

このように、清代の満州族の人々の家の門前の影壁は、天を供養する位牌であることを表しているという説があります。とはいえ、実は影壁が出現するのは、この伝説よりはるか昔にさかのぼり、陝西省岐山鳳雛村の西周遺跡にある、中国最古の四合院跡の表門の外に、既に影壁の残存がありました。影壁は幅広い範囲の四合院式住居に設置されており、帝王の宮殿の庭園、宗教寺院から官邸や役所に至るまでの建物の門前には影壁があります。

北京の四合院住宅の影壁は、このように、表門の門外に建てられたものと、表門の内側の、門と中庭の間に建てられたものとがあります。

1.大門外の影壁

「三号門の外の、古いエンジュの樹の下には目隠しの壁(影壁)があり、壁は黒い所は黒、白い所は白に塗られていて、真ん中には二尺(約60センチ)四方の赤い「福」の字が書かれていた。祁家の門外には目隠し壁は無く、胡同中のどの家にも目隠し壁は無かった。」老舎の『四世同堂』の中で、私たちは、明らかに表門の外に設置された影壁は、貧しい人の住む家の門の前に建てられたものではないと感じることができます。

門外の影壁は王府の大門や等級の高い広亮大門の外にあります。こうした影壁は一般に「一」の字形、もしくは「八」の字形であり、中間がすこし高く、両端がすこし低くなっています。

「一」の字形影壁

「八」の字形影壁

いくつかの規模の比較的大きな屋敷の大門の前方には、一定の空間が確保されていて、影壁を建てる場所になっていました。そこは大門と向かい合っていて、大門の外の左右の牌楼(アーチ形の門)や建物と、門前広場を構成しています。北京では、門前に影壁のある四合院は少なからず存在し、とりわけ「東富西貴」(北京の東城は、水運による物流の動脈であった通恵河の船着場に近く、商品の積み下ろしにも便利が良いので、大商人たちがこのあたりに住んだ。一方、西城は皇族の住む王府や満州八旗の一族の屋敷が宣武門内外から西四、或いは什刹海、后海、中海、前海の周辺に集中していたことから)である東城、西城地区に分布していました。

北海公園北岸の九龍壁は、有名な影壁です。これは木造構造に似せた彩色の瑠璃磚の影壁で、壁全体で彩色瑠璃磚を424枚使っています。九龍壁の北側には、曾ては大円鏡智宝殿(四合院式の廟宇。元は東側にある西天梵境というラマ教寺院の羅漢堂であったものが、その後、単独の寺院として独立)があったのですが、1900年に八か国連合軍の北京侵攻により焼き払われ、ただ九龍壁のみが残存したものです。

北海公園「九龍壁」

門外の影壁は、知らず知らずのうちに公共の道路を自分の住宅の領域内に入れてしまう効果があり、通行人が通るのを禁止されてはいないものの、人々に他人の家の領域で、自分が他人の家の領域に侵入しているかのように感じさせる効果があります。

門外、道路の向かいに作られた影壁

門外の影壁は、大門の向かいにあるものの他、大門の両側にあるものがあり、西長安街の中南海新華門の外の両側のように、両側に長い影壁となっています。北京では、およそある程度の規模の四合院になると、表門には、その向かいに影壁があった他、門の両側にも影壁がありました。

中南海新華門と両側の八の字形影壁

 

2.大門内の影壁

大門の内側の影壁は、まっすぐ大門に向き合い、左右は屏門になっています。影壁の形式から言うと、「独立式」と「借山式」の二つに分かれます。「独立」と言うのは、その前提として、設置される場所の空間が広いことで、とりわけ倒座房の前の中庭は奥行きが長くなっています。独立式影壁は、地面から上方に磚が積み上げられ、下面は須弥壇形をしていて、その上が壁になっており、青レンガを磨いて柱、桁、垂木、瓦当(丸い軒瓦の先端部分)などの形状にしています。影壁の中心部分は、白色の石灰を塗られたり、斜めに磚を積んで、中心部分は磚でレリーフの図案を突出させたり、吉祥の語句を書くようになっています。独立式の影壁は、見た感じが押しつぶされた家屋のようになっています。

独立式影壁

借山式のものは、東廂房の山墻(山形の壁)を影壁にしたもので、多くは中心が平らで、中に吉祥の字句が書かれ、下面には一般に須弥壇がありませんが、頭部には必ず軒が出ています。

借山式影壁

影壁の中には、二の門の入口や西廂房の北側の山形の壁のところに設けられたものもあります。その理由は、中庭への門が中庭の西南の角に設けられているためです。

北京西方の古刹、戒台寺の牡丹院の中に、太湖石を積み上げて作った築山花壇式の影壁があります。ここは曾て明清両王朝の皇帝の行宮で、清の光緒年間、恭親王がここで長期間暮らし、ここを大改造しました。この築山花壇式影壁は高さ3メートル、長さ6メートル、太湖石は高低入り混じり、窪んだり出っ張ったりし、多くの穴がそのまま残され、形状は築山のようで、それゆえ築山影壁と名付けられました。影壁の前は花壇になっていて、影壁と一体となり、これにも太湖石が積み上げられ、5メートルの長さがあります。この築山花壇式の影壁は衝立の作用をするだけでなく、これ自身がひとつの景観となり、たいへんユニークです。これは北京の伝統的な四合院と江南の園林芸術を巧みに結合させた産物です。

戒台寺牡丹院築山花壇式影壁

壁形の大多数の影壁は、壁の上に多少の装飾ができるだけで、九龍壁のように全身上下全てを装飾することはできません。このことは、たとえ宮殿建築であっても同様です。装飾の配置についてみると、多くが、壁面の中心と四隅の角に集中しています。中心を「盒子」(器、うつわ)、四つの角を「岔角」(角、かど)と言います。装飾内容から見ると、各種の獣の紋や植物の花卉が描かれ、その題材は広範に亘ります。けれども用いるテーマは、しばしば建築内容に関わるものが選ばれます。例えば紫禁城内の皇帝、皇后が居住する養心殿、養性殿では、敷地内の瑠璃の影壁の中心の「盒子」(器)は、「オシドリがハスに寝そべる」絵で、海棠の花形の「盒子」の中に、二羽のオシドリが水に浮かび、周囲はハスの葉、花托、花が描かれています。

紫禁城養心殿の影壁

いくつかの王府、寺院、役所の建物では、影壁にただ彩色の瑠璃の磚で壁の頂上、斗拱、梁を作り、梁や壁本体は瑠璃の磚で縁取りをし、真ん中は赤色の漆喰の壁面とし、中心の「盒子」と四隅の「岔角」は黄色や緑の瑠璃の磚で装飾しています。きれいで、さっぱりしているのが、多くの民居の影壁の特徴です。また、影壁の前に植物の花や太湖石を置くことで、影壁全体が生き生きとしてきます。護国寺街の梅蘭芳故居はこの手法を採用しています。装飾の無い門内の影壁の前には、青笹が植えられ、梅蘭芳の半身像が置かれています。黒色の大理石の基壇の上に、白玉の像が配され、青笹に引き立てられた梅蘭芳の姿は、訪れた人に忘れがたい印象を残しています。

護国寺街梅蘭芳故居の影壁前の装飾

影壁は、表門の外にあれば、その家の門の勢いを強め、門内の影壁は、調和、安穏の作用があり、幽玄な環境を生み出します。影壁本体だけでなく、地面、仕切り門(屏門)、影壁の前の鉢植え、蓮の花や金魚鉢も、その手助けをします。来訪者がひとたび門をくぐると、先ず目に入ってくるのは、さっぱりとして気品のある、つやつやした影壁や、よく茂った草花であり、視覚的な美しさを感じることができます。



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