中国語学習者のブログ

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《紅楼夢》の中の節句行事(1)

2011年08月28日 | 紅楼夢

 

紅楼夢第53回寧国府過年祭宗廟

 

 春節、端午節、中秋節という中国の伝統的な節句は、人々の生活に深く根ざしたもので、今日でも季節の節目としてこれらの節句を過ごしますし、様々な伝統行事が行われています。
清代の小説《紅楼夢》の中では、旧時代の上流階級の人々が、これらの節句をどのように過ごしていたかが書かれています。
この《紅楼夢》の中で描かれた伝統節句というテーマで、中国中央電視台の人気番組、《百家講壇》の中で周嶺という方がお話をされています。この《紅楼夢中的節日》の文章版が、《百度文庫》に収められていました。今回から数回に分け、この内容について、見ていきたいと思います。
周嶺(1950~)は、中国科技財富雑誌社社長、南海石油控股有限公司董事局主席という実業家として活躍していると共に、《紅楼夢》研究、いわゆる紅学の学者でもあります。

■[1]
《红楼梦》中描写的节日有许多,如端午,元宵,中秋等,都是中国的传统节日。然而其中曹雪芹给予重中之重的描写的仍是春节。而我本次研究的正是这传承文化。
首先,先来看看春节。
根据周汝昌先生《红楼纪历》,红楼梦前八十回的故事,发生在十五年的时间段里。其中第十三年,占的篇幅最多,从十八回后半到五十三回,前后跨了三十五回,差不多将近八十回的一半。
十八回的后半讲的是贾元春省亲,五十三回就说到,又到一年的年尾了。既然写的是十五年当中的故事,一定是过了十五个年。十五个年,大部分都是略写的,详细写过年,写得最多的是五十三回到五十四回,也就是第十三年的年尾,到十四年的年初。
五十三回,一开始就讲,王夫人和凤姐在忙年事。接着,就是贾珍看着丫头,仆妇,小厮,抬供桌,洗供器,开祠堂,打扫房屋,准备祖宗的遗真影像,准备过年了。
过去过年,和今天过年的说法,略有不同。在中国,过年这个庆祝活动,已经有四千多年的历史了。但是,称做春节,大概只有近百年的事。过去也有春节这个说法,但这个春节指的是立春,不是大年初一,不是这一段节庆的时间。

・周汝昌 1918年4月14日——2012年5月31日。紅楼夢研究の第一人者だった。
・省親 xǐngqīn 帰省する。里帰りする。
・鳳姐 fèngjiě 王熙鳳のこと。賈璉の妻。

[和訳]《紅楼夢》中で描写された節句はたいへん多く、端午、元宵、中秋などは、皆中国の伝統の節句である。しかしその中で曹雪芹がとりわけ重視して描いたのはやはり春節である。そして私が今回研究したのも正にこうした伝統的に継承された文化である。
 先ず、春節を見てみよう。
 周汝昌先生の《紅楼紀歴》によれば、《紅楼夢》の前半80回の物語は、15年の時間の間に起こったことである。そのうち13年目が、割かれた紙面が最も多く、18回後半から53回まで、前後35回を跨り、80回のほぼ半分近くを占める。
 18回の後半で述べているのは、賈元春の里帰りで、53回まで来て、また一年の終わりの話になるのである。15年の間の出来事を書いている以上、15年が経ったのは間違いない。15年の間、大部分が簡略に書かれていて、年越しのことが詳しく書かれているのは、最も多く書かれているのは53回から54回までで、つまり13年目の年末から14年目の年初について書かれている。
 53回は、最初から、王夫人と熙鳳が年越しの準備をする話である。続いて、賈珍が若い女中、年かさの女中、小僧に会い、供物台を運び、お供えの器を洗い、祠堂を開けて、お堂の掃除をし、祖先の遺影を準備し、年越しの準備をした。
昔の年越しは、今日の年越しのやり方とは、いささか異なる。中国では、年越しという節句の行事には、4千年余りの歴史がある。しかし、それを春節と称するのは、おおよそここ百年の事に過ぎない。過去にも春節という言い方はあったが、それは立春のことを言い、農歴の1月1日ではなく、この日を中心とする祝日のことではない。

■[2]
过年,过春节,第一件要做的事情,就是忙年。过去中国是一个农耕国家,是一个农耕社会。到了冬天,进入农闲,曹操有诗说:孟冬十月,锥不入地,流澌浮漂。意思就是说,这个时候地也冻了,水也冻了,所有的农具都收起来了,农活都干完了,劳累了一年,收成也上来了,猎物也收到家里来了,因此,大部分时间,大家都在忙于庆祝和休息,久而久之,就形成了一个非常特殊的民间习俗。就是选择一段时间,大举庆祝一下,要庆祝,就要准备庆祝活动所需要的东西,发展到后来,就变成了“忙年”。
忙年,要忙很多天,基本上入了腊月,忙年就开始了。所以,红楼梦里,进入腊月以后开始忙年,正是反映了这样一个久远的风俗。
农历腊月里,最重大的节日之一,就是十二月初八,这一天,在古代被称为“腊日”,俗称“腊八节”。而这一点在第十九回有着记录,其所记配方:各色米豆加五种菜果(红枣、栗子、花生、菱角、香芋)。而香芋则另比“香玉”,代指林黛玉。由贾宝玉的一个故事引出。这一点记载和我们现在的腊八粥存在差别。所以从这之中也可发现在当时同样有吃腊八粥过节的习俗。那么过完腊八之后就要开始忙年了,俗话说“二十三糖瓜粘,二十四扫房子”其中的“糖瓜粘”就是祭灶。
出这两项主要活动以外还有采买年货等活动,而在红楼梦中还有两项曹雪芹着重进行了描写。一种是恩赏银子。他们家是世袭的官,因为祖上有功,所以有银子可领。于是在五十三回中就有了贾蓉去领银子的一段。即以下一部分:

・孟冬 mèngdōng 旧暦10月。“孟”は季節の最初の月のことを言った。
・澌 sī 尽きる
・浮漂 fúpiāo 浮かび漂う。

[和訳] 年越し、つまり春節を過ごすのに、第一にやらないといけないことは、年越しの行事である。嘗て中国は農耕国家であり、農耕社会であった。冬になると、農閑期になり、曹操の詩に言う:「旧暦の10月は、寒さで錐も地面に突き刺さらず、川の流れは尽きて、氷が浮かび漂う。」その意味は、この季節には、地面も凍り、水も凍ってしまうということ。全ての農具を片づけ、農業の仕事は全てやり終え、一年間がんばったので、収穫も上げることができ、猟で得た獲物も家に持ち帰った。したがって、大部分の時間を、皆が収穫のお祝いと休息に使った。長い年月のうちに、特別な民間の風習が形成された。つまり、ある一定の時期を選んで、大勢でお祝いをした。お祝いをするには、お祝いに必要な物を準備しなければならなくなり、それが発展して、後に“忙年”、つまり年越しの準備となった。
“忙年”とは、何日も忙しくしなければならず、基本的に12月に入ると、年越しの準備が始まった。したがって、《紅楼夢》では、旧暦の12月に入ると年越しの準備が始まり、正にこのような古くからの風俗が反映されているのである。
農歴の12月で、最も重要な祝日の一つは、12月8日であり、この日のことを、昔は“臘日”と言い、俗に“臘八節”と言った。この点については第19回に記載があり、“臘八粥”の材料を記してある:様々な米や豆に五種類の木の実(干しナツメ、栗、ピーナツ、菱の実、サトイモ)を加えた。“香芋”(サトイモ)は“香玉”と音が同じで、林黛玉のことを指す。賈宝玉が話したお話から引用されている。この記載は現在の臘八粥とは違いがあるが、この話の中から、当時も同様に臘八粥を食べて節句を祝う風習があったことが分かる。“臘八”が過ぎると年越しの準備が始まり、俗に「23日には糖瓜(麦芽糖で作った瓜型の飴)を竈に貼り付け、24日には部屋を掃除する」と言う。このうち、“糖瓜粘”(糖瓜を竈に貼る)とは、竈の神様をお祭りすることである。
これら二つの主要な行事以外に年越し用の品物を買う仕事があり、《紅楼夢》では更に二つの事を曹雪芹が重点的に描いている。一つは恩賞の銀子である。彼らの家は世襲の官吏であり、祖先に功績があったため、銀子を受け取ることができた。第53回に、賈蓉が銀子を受け取りに行く場面がある。それは、次の一節である:

■[3]
一时贾珍进来吃饭,贾蓉之妻回避了。贾珍因问尤氏:“咱们春祭的恩赏可领了不曾?”尤氏道:“今儿我打发蓉儿关去了。”贾珍道:“咱们家虽不等这几两银子使,多少是皇上天恩。早关了来,给那边老太太见过,置了祖宗的供,上领皇上的恩,下则是托祖宗的福。咱们那怕用一万银子供祖宗,到底不如这个又体面,又是沾恩锡福的。除咱们这样一二家之外,那些世袭穷官儿家,若不仗着这银子,拿什么上供过年?真正皇恩浩大,想的周到。”尤氏道:“正是这话。”二人正说着,只见人回:“哥儿来了”。贾珍便命叫他进来。只见贾蓉捧了一个小黄布口袋进来。贾珍道:“怎么去了这一日。”贾蓉陪笑回说:“今儿不在礼部关领,又分在光禄寺库上,因又到了光禄寺才领了下来。光禄寺的官儿们都说问父亲好,多日不见,都着实想念。”贾珍笑道:“他们那里是想我。这又到了年下了,不是想我的东西,就是想我的戏酒了。”一面说,一面瞧那黄布口袋,上有印就是“皇恩永锡”四个大字,那一边又有礼部祠祭司的印记,又写着一行小字,道是“宁国公贾演荣国公贾源恩赐永远春祭赏共二分,净折银若干两,某年月日龙禁尉候补侍卫贾蓉当堂领讫,值年寺丞某人”,下面一个朱笔花押。贾珍吃过饭,盥漱毕,换了靴帽,命贾蓉捧着银子跟了来,回过贾母王夫人,又至这边回过贾赦邢夫人,方回家去,取出银子,命将口袋向宗祠大炉内焚了。

[和訳] ある時、賈珍が入って来て食事をしたが、賈蓉の妻は席をはずした。賈珍はそれで妻の尤氏に尋ねた:「私たちは正月の恩賞はもらえるのだろうか?」尤氏は言った:「今日、私は蓉ちゃんに受け取りに行ってもらいました。」賈珍は言った:「我が家はこの幾ばくかの銀子を当てにするまでもないが、どれだけ今上陛下の御恩を受けたかということだ。早々に受け取って来て、あちらのご隠居様にお目にかかり、ご先祖様にお供えをすれば、上には帝の御恩を賜り、下にはご先祖様に感謝申し上げたことになる。私たちがよしんば一万の銀子をご先祖にお供えしたとしても、結局これほど体面が保て、御恩を被り幸福を賜ったことにはならない。けれども私たちのような数軒の家を除いて、ああいう世襲の貧乏役人の家では、この銀子を当てにしないと、どうやって年越しをすることができるだろう。本当に帝の御恩は大きく、よくお心遣いがなされたことよ。」尤氏は言った:「本当にその通りで。」二人がこう話をしていると、「お坊ちゃまがお戻りになりました。」と取り次ぎの者が言った。賈珍はそれでこちらに来るよう言いつけた。賈蓉は黄色い布の袋を捧げ持って入って来た。賈珍は言った:「今日はどのような案配であったか?」賈蓉は作り笑いをして言った:「今日は礼部ではお配りにならず、光禄寺の庫裏でお配りになるというので、また光禄寺に行ってようやく受け取ることができました。光禄寺のお役人方は皆、父上によろしく、しばらくお会いしていないので、本当にお会いしたいとのことでした。」賈珍は笑って言った:「あの者達がどうして私のことを思うものか。年末になったので、私から贈り物を期待しているか、さもなければ酒を飲ませてほしいのさ。」そう言いながら、その黄色い布袋を見ると、その上には“皇恩永錫”(帝の恩を永遠に賜う)の四文字が印刷され、その一方の端には礼部祠祭司の印があり、また小さな文字でこう書かれていた:「寧国公・賈演、栄国公・賈源には、永遠に春祭に全部で二分、銀に換算して若干両を恩賜し、某年月日に龍禁尉候補侍衛、賈蓉が代理で受け取った。本年当番の寺丞、某人」その下に朱筆で花押がなされていた。賈珍は食事を済ませ、口を漱ぐと、靴と帽子を着替え、賈蓉に命じて銀子を捧げ持ってついて来させ、ご隠居様と王夫人のところへ行き、更に賈赦と邢夫人のところへ行き、それから家へ帰ると、銀子を取り出し、布袋を宗祠(祖廟)の竈で燃やすよう命じた。

■[4]
第二项,田庄交租。这一段在之后的乌尽孝交租中有一段描写,并且这租还很多,一大长串的礼品单看的让人眼花。而其中二者的对话可以看出一点曹雪芹的隐笔就是有雹灾,涝灾,让佃户都很贫困了,但是还要送上这么一大堆东西,两千五百两银子,外加给这些哥儿姐儿的活物,那么这个年佃户是怎样过的?大家可想而知。而这也是他想要表达的“朱门酒肉臭,路有冻死骨”的思想。从中也可以看出这些达官显贵和一般的贫苦小民比较起来,悬殊是如此之大。
那么贾府这样的家庭又是如何过这个年的呢?至次日,更比往日忙,都不必细说。已到了腊月二十九日了,各色齐备,两府中都换了门神,联对,挂牌,新油了桃符,焕然一新。中国人历来就有过除夕祭祖的习俗,一来为了纪念祖先,二来则是祈求祖宗保佑子孙平安等等,那么对于贾府这样的大户达官显贵人家,又是如何祭祖的呢?那么贾府的祭祖地方在哪呢?宁国府从大门、仪门、大厅、暖阁、内厅、内三门、内仪门并内塞门,直到正堂,一路正门大开,两边阶下一色朱红大高照,点的两条金龙一般。

・田庄 tiánzhuāng 昔、官僚や地主が農村で所有していた畑や庄園。小作人に耕作させて、地租を取る。
・佃戸 diànhù 小作人
・朱門 zhūmén 朱塗りの門。金持ちの家。
・桃符 táofú 昔、新年に表門の左右二枚の扉の真ん中に掲げた桃の木の板で、上にはそれぞれ、神荼shēnshū、郁塁yùlǜという名の神様が描かれていた。

桃符

・煥然一新 huànrányīxīn 面目を一新する。“煥然”はめざましいさま。
・暖閣 nuǎngé 昔の屋敷で暖房の効率を良くするため、広い部屋の中を仕切って作った部屋。

[和訳] (年越しの行事で)二番目にやらなければならないのは、田畑からの地租の徴収である。この部分は、この後、烏尽孝が地租を納めるところで一連の描写があるが、しかもこの地租はたいへん重く、長大な贈り物のリストには、見る者は目を回す。その中の二人の対話から、曹雪芹は暗に雹の被害や、水害で、小作人はたいへん困窮していることを描いていることが分かる。その上にたくさんの贈り物や、2500両の銀子をしなければならず、更に息子や娘を人身御供として差し出し、小作人達はどうやって暮らしていけばよいのだろうか。誰でも想像がつく。そしてこのことも、曹雪芹が表現しようと思った、「金持ちの家には、酒や肉が腐るほど有るのに、道には凍えて死んだ人の屍が転がっている」という思想である。ここからも、官吏となり富を得た人と一般の貧しい庶民を比べると、その格差はかくも大きいことが見て取れる。
それでは、賈府のような家庭ではどのように年越しをしたのだろうか。翌日になると、それ以前より更に忙しくなることは、細かく言うまでもない。12月の29日になると、各種の正月用品の準備が整い、寧国府、栄国府の両家では、門神、対聯、看板を交換し、桃符を新しく描き直し、面目を一新した。中国人は伝統的に大晦日を過ごす時に祖先をお祭りする風習があり、一つには祖先を記念する為で、二つ目には祖先に子孫の平安を乞い願う為であり、それでは賈府のような大きな家で、役人になり富貴を極めた家では、どのように祖先をお祭りするのだろうか。賈府が祖先をお祭りする場所はどこにあるのか。寧国府は大門から儀門(大門の内側の儀礼門)、大庁(大広間)、暖閣、内庁(奥の間)、三の門、内儀門、更に目隠しの門があって、母屋に通じていて、ずっと正門を開くと、両側の階(きざはし)の下は一面に朱色に輝き、二匹の金の龍を描いたかのようである。

■[5]
除夕一大早贾母就带了一堆诰命夫人大清早的去皇宫朝贺,在皇宫辞岁之后,贾母就回到宗祠。诸子弟有未随入朝者,皆在宁府门前排班伺侯,然后引入宗祠。宁府西边另一个院子,黑油栅栏内五间大门,上悬一块匾,写着是“贾氏宗祠”四个字,旁书“衍圣公孔继宗书”。两旁有一副长联,写道是:
肝脑涂地,兆姓赖保育之恩,
功名贯天,百代仰蒸尝之盛。
亦衍圣公所书。进入院中,白石甬路,两边皆是苍松翠柏。月台上设着青绿古铜鼎彝等器。抱厦前上面悬一九龙金匾,写道是:
“星辉辅弼”。
乃先皇御笔。两边一副对联,写道是:
勋业有光昭日月,功名无间及儿孙。
亦是御笔。五间正殿前悬一闹龙填青匾,写道是:“慎终追远”。旁边一副对联,写道是:
已后儿孙承福德,至今黎庶念荣宁。

・抱厦 bàoxià 本殿の前に一段突き出したようにやや小ぶりの部屋、屋根を作る建築様式で、宋代には“亀頭屋”と呼ばれたが、清代には“抱厦”と呼ばれた。

抱厦

・誥命夫人 gàomìng fūrén 皇帝から位を授けられた女性。
・大清早 dàqīngzǎo 早朝から。朝っぱらから。
・肝脳塗地 gānnǎo túdì [成語]命を投げ出す。命を犠牲にする。
・兆姓 zhàoxìng 万民。一般民衆。
・勲業 xūnyè 功業。功績の顕著な事業。
・光昭日月 guāngzhāo rìyuè 日の光があまねく衆生(生きとし生ける者)を照らす。《易経》にあることば。
・無間 wújiàn 途切れがない。
・黎庶 líshù (=黎民)民衆、庶民。

 

[和訳] 大晦日の朝一番に、ご隠居様は位を授けられたご夫人方を何人も引き連れ、早朝から宮廷へ朝賀に行き、宮廷で歳末のご挨拶をしてから、ご隠居様は宗廟に戻って来た。親族の子弟でいっしょに宮廷に行かなかった者は、皆寧国府の大門の前に並んで控え、ご隠居様の後に宗廟に導き入れられた。寧国府の西側にもう一つ塀で囲った一角があり、黒いペンキで塗られた柵の内側には間口五間の大門があり、上には扁額が掲げられ、「賈氏宗祠」の4文字が書かれ、その傍らに「衍聖公・孔継宗書」と書かれていた。両側には一副の長い対聯があり、それにはこう書かれていた:
自分の命を投げ出しても、万民の為、子供達が無事育てられるという恩恵にあずかれるようにしよう。
功名は天下に鳴り響き、代々祭祀の煙は盛んで絶えることがない。
これも衍聖公の書であり、敷地の中に入ると、白い石を敷き詰めた通路があり、両側は青々とした松とコノテガシワの並木である。本殿前の舞台には青緑色の古い銅の鼎や彝などの器が置かれていた。本殿の一段前に突き出た屋根の下には九匹の龍の描かれた金色の扁額が掛っており、こう書かれていた:
「(賈家は)綺羅星のように輝き、(皇室の為に)補佐をする」
これは先代の帝のお筆によるものである。両側には一副の対聯があり、こう書かれていた:
功績は日の光が全てを照らすように明らかで、功名は絶えることなく子孫にまで及ぶ。
これもまた帝のお筆である。五間の広さのある本殿の前には猛り狂った龍を描いた青い扁額が掛り、こう書かれていた:「人生について謹んで考え、先賢が残してくれたものを追求する。」両側には一副の対聯があり、こう書かれていた:既に後世の子孫は幸福や恩恵を受け継ぐ。今日に至るまで、民衆の為、その栄寧を願う。

■[6]
俱是御笔。里边香烛辉煌,锦幛绣幕,虽列着神主,却看不真切。只见贾府人分昭穆排班立定:贾敬主祭,贾赦陪祭,贾珍献爵,贾琏贾琮献帛,宝玉捧香,贾菖贾菱展拜毯,守焚池。青衣乐奏,三献爵,拜兴毕,焚帛奠酒,礼毕,乐止,退出。众人围随着贾母至正堂上,影前锦幔高挂,彩屏张护,香烛辉煌。上面正居中悬着宁荣二祖遗像,皆是披蟒腰玉;两边还有几轴列祖遗影。贾荇贾芷等从内仪门挨次列站,直到正堂廊下。槛外方是贾敬贾赦,槛内是各女眷。众家人小厮皆在仪门之外。每一道菜至,传至仪门,贾荇贾芷等便接了,按次传至阶上贾敬手中。贾蓉系长房长孙,独他随女眷在槛内。每贾敬捧菜至,传于贾蓉,贾蓉便传于他妻子,又传于凤姐尤氏诸人,直传至供桌前,方传于王夫人。王夫人传于贾母,贾母方捧放在桌上。邢夫人在供桌之西,东向立,同贾母供放。直至将菜饭汤点酒茶传完,贾蓉方退出下阶,归入贾芹阶位之首。凡从文旁之名者,贾敬为首,下则从玉者,贾珍为首,再下从草头者,贾蓉为首,左昭右穆,男东女西,俟贾母拈香下拜,众人方一齐跪下,将五间大厅,三间抱厦,内外廊檐,阶上阶下两丹墀内,花团锦簇,塞的无一隙空地。鸦雀无闻,只听铿锵叮当,金铃玉珮微微摇曳之声,并起跪靴履飒沓之响。一时礼毕,贾敬贾赦等便忙退出,至荣府专候与贾母行礼。

・神主 shénzhǔ 位牌
・昭穆 zhāomù 宗教の制度やしきたりに則り、廟宇や墓所での世代や長幼の順によって並ぶ序列。
・焚池 fénchí 祭祀で線香やお供えを燃や燃やす器。

焚池

・挨次 āicì 順を追って。順次。
・長房長孫 chángfáng chángsūn 正妻、或いは第一夫人が生んだ最初の男の子、すなわち“長子”、そしてこの“長子”とその正妻、或いは第一夫人が生んだ最初の男の子、すなわち「嫡孫」のことを“長房長孫”という。
・左昭右穆 zuǒzhāo yòumù 昔、室内の座席の順位は東向きを最上席、次いで南向き、北向き、西向きとした。よって始祖は部屋では東向き、二世、四世、六世は始祖の左側、すなわち南を向き、これを“昭”と言った。三世、五世、七世は始祖の右側で、北を向いたので“穆”と言った。
・俟 sì 待つ。
・拈 niān 指先でつまむ。
・廊檐 lángyán ひさし(の下)
・丹墀 dānchí 宮殿の前の朱塗りの階(きざはし)。
・花団錦簇 huātuán jǐncù [成語]色とりどりに着飾った華やかな一団。
・鴉雀無聞 yāquè wúwén カラスや雀の鳴き声も聞こえない。たいへん静かなことの形容。
・鏗鏘 kēngqiāng 楽器のリズミカルな音。音楽のような音や声。
・叮当 dīngdang [擬声語]金属や磁器がぶつかり合う、ちりんちりんという音。
・玉珮 yùpèi 玉の装身具
・揺曳 yáoyè ゆらゆら揺れる
・颯沓 sàtà 多くの人の足音の形容。


[和訳] 何れも帝のお筆である。お堂の中は蝋燭が赤々と輝き、錦の掛け物や刺繍をした幕が掛り、位牌が並んでいるのだが、はっきりとは見えない。ただ賈府の人々がしきたりに則り並んで立っているのが見えただけである。賈敬が祭祀を主催し、賈赦はそれに付き従い、賈珍は爵を献じ、賈璉、賈琮は帛を献じ、香を捧げ、賈菖、賈菱は礼拝用の絨毯を広げ、焚池の番をした。青衣の人々が音楽を奏で、爵を三献し、拝礼が済むと、帛を燃やし酒をお供えし、礼拝が終わると、音楽は止まり、退出した。人々はご隠居様の周りに付き従い本殿へ登った。遺影の前には錦の幕が高く掲げられ、色とりどりの屏風で保護され、蝋燭の炎が赤々と輝いていた。正面には寧国府、栄国府それぞれの始祖の遺影が掛けられ、それらは皆金のウワバミの刺繍のある礼服を着、腰には玉を帯びていた。両側には更に何軸かの祖先の遺影が掛けられていた。賈荇、賈芷らは内儀門から順番に並んで立ち、その列は本殿のひさしの下まで続いた。敷居の外側には賈敬、賈赦、敷居の内側にはそれぞれの女性の親族が控えた。一家の召使たちは皆、儀門の外にいた。お供えの料理が到着する毎に、儀門まで運ばれ、賈荇、賈芷らが受け取ると、順番に手渡しで階(きざはし)の上の賈敬の所まで送られた。賈蓉は「嫡孫」であるので、彼だけが女達といっしょに本殿の敷居の内側に居た。賈敬が料理を捧げ持って来る度に、賈蓉に手渡され、賈蓉は妻に手渡し、それは又、煕鳳、尤氏などの手を経て、お供えのテーブルの前まで運ばれ、ようやく王夫人の手に渡った。王夫人はご隠居様にお渡しし、ご隠居様は料理を捧げ持つとテーブルの上に並べた。邢夫人はお供えのテーブルの西に、東を向いて立ち、ご隠居様といっしょにお供えの料理を並べた。料理、ご飯、スープ、お菓子、酒、茶を渡し終わると、賈蓉は退出して階(きざはし)を降り、賈芹を階位の首位とする列の中に戻った。凡そ名前の偏に「文」(“攵”)の付く者は、賈敬を首位とし、その次は名前に「王」の付く者で、賈珍を首位とし、その次は「草」冠の者で、賈蓉を首位とし、長幼の順、男女に分かれ、ご隠居様が香をつまんで拝礼されるのを待って、皆が一斉に跪くと、広さ五間の広間、三間の前殿、ひさしの内外、朱色で塗られた階の上も下も、色とりどりの着飾った人々が、あたりを埋め尽くして、少しの隙間も無かった。鳥のさえずりも聞こえず、ただ金属がぶつかり合うチリンチリンという音、金属の鈴や玉の装身具がかすかに揺れる音や、礼拝で立ち上がったり跪いたりする時の靴の足音が聞こえるだけだった。礼拝が終わると、賈敬、賈赦らは急いで退出し、栄国府へ行くと、ご隠居様のお戻りを待って挨拶をした。

(次回に続きます)













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