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旧精神科医療は思想警察なのか?

なぜ日大なのか?なぜそんなに偉そうに世間を見下すことができるのか?)日大会見の司会者は元記者 集まったマスコミは“若造”に見えた?

2018年05月27日 | 子育て論

なぜ日大なのか?

アメフト自体、危険なスポーツでこのようなファウルトラブルは絶えない競技であることは過去の記事で「アメフトの起源がイルミナティであること」も含め説明しました。

アメフトを日本でもプロスポーツとして普及したいという思惑が働いているが、スポーツを広告塔にするためにチアリーダーとワンセットにするやり方は露骨すぎて日本では普及しない

今回は引き続き、「日大アメフトタックル事件」の続きを書いていきたいと思います。

結論から書きますが、日大とは、もともと、明治維新にともない、天皇中心とした大日本帝国を作るための神学研究所である

1882年に「皇典講究所」

なる研究機関を設立したことが始まりとなります。

その設立に尽力したのが、明治天皇が最も信頼を寄せていた有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)であり、長州藩(毛利家)の山田 顕義(やまだ あきよし)と、安芸藩(毛利家)の松野 勇雄(まつの いさお)により天皇家の歴史編纂という「皇道」という学問分野を確立しました。

つまり、江戸時代から大政奉還によって、天皇中心の国家を作る際の口実作りを皇典講究所で始めたということになります。

そして、それを「国学院」とい命名し、第2次世界大戦が終わるまで続いていきました。

そして、戦後GHQにより解体され、現在の国学院大学になっています。

「皇典講究所」

こそが、日本大学のルーツであり、皇典講究所とは国家神道、国学の始まりつまり、天皇崇拝の公的機関を指します。

今でこそ、日本大学は、私立大学という仮面をかぶっていますが、現在の天皇家の血統である総裁の有栖川と毛利家の山田 顕義という人物が関わって作った機関であるといえます。

毛利家と島津家の血統が天皇家に入っているという記事については以下のリンクを参考にしてください。

 島津家と毛利家が日本を支配していることの本当の意味。)

(日本を支配しているのは島津家と毛利家である。)

ですから、今回のような日大アメフトの事件があっても、「それがどうした?」程度なのです。

根っからの公務員気質といいましょうか、皇族気質なのです。

なぜなら、彼らが、国家神道という学問を作った中心機関なのですから。

逆に言えば、それを知ってか知らぬかはわかりませんが、マスコミが一斉に叩いたことは、明治時代なら、天皇を侮辱する国賊

「不敬罪」にあたるぐらいの感覚なのかもしれませんね。

時代錯誤も甚だしいですが、そういった感覚の人たちの集まりが日本大学の本性だといえます。

それでは順番に見ていきましょう。

まずは、日本大学の沿革について転載します。

・・・・・・・・(日本大学)

年表


明治 (1882年 - 1912年7月30日)
1882年(明治15年) 11月 - 旧所在地・東京市麹町区飯田町五丁目8番地に皇典講究所が開黌される[13]。
1889年(明治22年) 10月 - 日本法律学校を設立(法学部の前身)[14]。
1898年(明治31年)
3月 高等専攻科を設置[15]し、卒業生に日本法律学士の称号を授与。
12月 財団法人日本法律学校となり皇典講究所より分離独立する。
1901年(明治34年)10月 - 高等師範科(文理学部の前身)[17]を設置。
1903年(明治36年)8月 - 校則を改め大学組織となり、日本大学と改称[18]。
1904年(明治37年)
3月 専門学校令による大学となる(旧制専門学校)。商科(経済学部[19]および商学部[20]の前身)を設置。
1906年(明治39年)8月 - 初の留学生をヨーロッパへ送る[21]。
大正 (1912年 - 1926年12月25日)
大学令公布(1919年4月1日)
1920年(大正9年)
4月 大学令による大学設立(旧制大学)。私立大学で初めて女子の入学が許可される。学風および特色


建学の起源
当時、明治政府は欧米の列強と条約改正交渉を進めるために新しい法律の整備を急いでいた。

1889年2月11日、明治憲法の公布をきっかけに、欧米諸国の法律だけではなく、古典的な意味合いから日本独自の法律を教える学校を建設する必要性が高まっていった。

これに対応するように、同年10月4日、皇典講究所の校舎を借り受ける形で、現法学部の前身にあたる日本法律学校を設立したことに始まる。

沿革 略歴
国家神道を確立するべく、皇道を広く国民に教化し、神職資格を与える養成機関として発足した皇典講究所を母体とした。

法体系の編修が急がれ、もともとは講究施設の國學院に国法を創設するつもりであったが、その国法科を日本法律学校とする。

1898年(明治31年)3月に高等専攻科を設置。

財団法人となり分離独立し、文理学部の前身となる高等師範科を設置。

1903年(明治36年)に日本大学と改めた。

翌年、専門学校令に基づく大学、経済学部と商学部の前身となる商科を設置。1920年(大正9年)、大学令認可となる。この頃、私立大学の中では初めに女子の入学を認めた。6月、理工学部の前身となる高等工学校を開設。翌年、芸術学部の前身となる美学科を設置。翌月には、歯学部の前身となる歯科医学校を開校。その4年後に医学部の前身となる専門部医学科も設置。昭和に入って、学校教育法の施行へ伴い新学制に移行した。平成には両陛下が祭式に出席した。その後も、学部増設や組織改称を繰り返し、16学部そのうち87学科、20研究科、5付属病院が置かれる。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

皇典講究所の設立がきっかけとなっています。

皇典講究所とはいったい何か?設立経緯、関係者を見ていきましょう。

・・・・・・・・・・(皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)

1882年に明治政府が東京に設立した神職の中央機関であり、神道事務局に代わって神職の教育養成機関としての役割を担った。

1946年に宗教法人神社本庁の設立ともに解散し、大日本神祇会、神宮奉斎会とともに神社本庁へ統合した。

(1946年(昭和21年)1月23日、神道指令に伴い、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会の3団体が中心となり、神社本庁を設立した。)


沿革

明治時代に国家神道が成立した宗教政策で、大衆へ向けて皇道の教化活動を行う機関として開講された学校である[4][5]。1890年に組織により教育事業の拡大がされ、國學院が開校された。

設立とともに、神職の教導職兼務が廃止となって本務は祭祀に限定されることとなり、1884年には、教導職制度が廃止となる。

国家は、神道を非宗教として扱ったまま、神職は公的な国家祭祀を斎行していた。

やがて、財団法人に発展し、神道を国家の宗祀とした体裁が終わりを迎え、経営が困難になると、それまで神道人らの協力のもと、大日本神祇会、神宮奉斎会とともに神社関係の民間団体により共同経営された。

略歴
明治10年(1877年)頃、文明開化時勢の最中に大教宣布の不振、これに続く祭神論争によって、政府内から皇学の研究を目的とした学校設立の要望がされた。

明治15年(1882年)8月23日、明治天皇はその聖旨により、最も信頼を寄せていた有栖川宮幟仁親王を総裁に任命し有栖川宮から令旨が奉じられた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者が専ら国典を講究するため[10]として、11月4日、皇典講究所を飯田町に設立した[11]。

設立後も事業の一環として、明治22年(1889年)2月より皇典講究所講演を発刊した[12]。

大東亜戦争(太平洋戦争)後の昭和21年(1946年)1月25日に、GHQの圧迫により皇典講究所を解散し、財団法人國學院大學を設立。

なお、日本法律学校は、開校当初この皇典講究所の教室を夜間借りて講義を行なっていた。

日本大学は、皇典講究所との深い関係性から大正13年(1924年)に神道教師の再教育を目的として神道講座が開講され、神道教派聯合会(後の教派神道連合会)によって神道奨学会が組織された。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

1946年に宗教法人神社本庁の設立ともに解散し、大日本神祇会、神宮奉斎会とともに神社本庁へ統合した。

(1946年(昭和21年)1月23日、神道指令に伴い、大日本神祇会、皇典講究所、神宮奉斎会の3団体が中心となり、神社本庁を設立した。)

とあるように、森友学園問題で騒がれている「日本会議」に所属している右翼組織に吸収されたということになります。
これは時代の趨勢といいましょうか、いつまでも「天皇陛下万歳!」などといっているような時代錯誤をしていられなかったからだといえます。
ですが、ここ最近の政治情勢では右翼(天皇中心とした共産主義体制)が勢力を持ち始めてきたため、その敵対勢力の出雲族が怒って、森友学園問題や、日大アメフト危険タックル事件を持ち出してきたのかもしれません。
この「皇典講究所講演」を有栖川宮から令旨で「山田顕義ら内務省高官」と、「松野勇雄ら数名の国文学者」が研究(権威付け)し始めます。

山田顕義」「松野勇雄」とう人物について見ていきましょう。

1844年~1892年(天保15年~明治25年)長州藩士、政治家、陸軍軍人。初代司法大臣。松下村塾に学ぶ。尊王攘夷運動に参加。戊辰戦争で活躍。岩倉遣外使節団に随行。日本の小ナポレオンといわれ、明治維新期の軍人として新政府に貢献するとともに、新日本の建立者として、近代日本の法典整備に力を尽くした。皇典講究所(現・国学院大学)、日本法律学校(現・日本大学)の設立にも関わる。享年49歳

幕末期

戊辰戦争の図
文久2年(1862年)秋に上京し、藩主の跡継ぎである毛利定広の警護を務めるようになった。同年12月、高杉晋作・久坂玄瑞・志道聞多(のちの井上馨)・伊藤俊輔(のちの伊藤博文)・品川弥二郎らとともに攘夷の血判書(御楯組血判書)に名を連ねた[8]。文久3年(1863年)3月31日、孝明天皇の攘夷祈願の賀茂神社行幸に際して、御前警護のため毛利定広に随行した。4月11日の石清水八幡宮への行幸にも同様に随行した。八月十八日の政変では長州藩兵として堺町御門の警備を担当し大砲掛となるも、公武合体派に排除され、三条実美以下7人の尊皇攘夷派公卿の長州亡命(七卿落ち)に同行した[8]。しかし途中で兵庫から大坂経由で京都へ一旦戻り潜伏。後に長州へ帰国した。藩から遊撃隊御用掛に任命された。慶應1年(1865年)に普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学んだ[9]。※後に大村益次郎の遺志を継いで陸軍創設へ大きく貢献する

<中略>

明治維新


明治2年(1869年)6月、宮中において黒田清隆らとともに明治天皇に謁見、戦功を賞される。陸海軍参謀の任を解かれ、新官制(太政官制)施行による兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。8月、山口凱旋。顕義と改名。9月、維新の軍功により新政府から永世600石の禄を下賜される。しかし、大村益次郎の暗殺未遂により、藩命で急ぎ上京。病床の大村より日本近代軍制の創設について指示を受け、11月には兵部少輔久我通久と連署で大村の遺策をまとめた『兵部省軍務ノ大綱』を太政官に提出した。大村の継承者として大坂を中心とした兵部省確立に尽力する。

大村は大阪を視察中の同年9月に襲撃されて負傷し、11月に没した。大村の遺志を継ぎ、同じ長州出身の前原一誠、山田らが国軍の建設を進めようとしたが、省内の統制がとれず、仕事が停滞していた。国軍の建設が進展をみせたのは、欧州視察から帰国した山県有朋が兵部少輔(国防次官補)に、西郷従道が権大丞(局長の次)に就いてからであった[13]。

明治3年(1870年)、大村の計画に従い、大坂城跡に設置された大坂兵部省出張所と東京の本省とを往復する日々を過ごす。5月頃から畿内限定の徴兵制(辛未徴兵)施行の政府有力者に働き掛けを開始する。これも大村の計画によるものであった。9月には普仏戦争の観戦を強く希望するが、川村純義等他の兵部省員等も希望した為、省務の停滞を危惧した大久保利通等の指示により許可されなかった。この年、井上馨の養女で湯田温泉瓦屋の鹿島屋喜右衛門の長女龍子と結婚。(以上Wikipediaより)

・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

山田顕義自身、毛利家の重要人物ですし、皇族とも深いパイプのある関係者です。

そして、戊辰戦争では官軍の勝利に貢献し、明治維新の立役者、そして岩倉使節団にて欧米にも視察に行っています。(フリーメーソンに本格的に仲間入りをし、金稼ぎ、支配方法を教えてもらってきた)

さらに、陸軍と海軍を行ったり来たりしている、行ったり来たりできる力を持つ重要人物だったといえます。

明治天皇にも謁見しているため、決してそのあたりの下級武士ではありませんね。

また井上薫の養女と結婚していますが、井上は先祖は毛利元就の宿老である井上就在でまたまた、毛利家と深いかかわりを持っています。

そして松野勇雄」について見ていきますが、彼は広島藩で「幕末ドラマ赤穂浪士」で有名な浅野氏の家臣であり、浅野氏は、豊臣秀吉の正室である高台院(こうだいいん、生年は諸説あり - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))を輩出しています。

高台院>

彼女は戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

とあるように、「豊臣秀吉」直系の勢力の浅野氏とゆかりのある人物が国学者の安芸藩「松野勇雄」です。

・・・・・・・(松野 勇雄(まつの いさお、1852年5月17日(嘉永5年3月29日) - 1893年(明治26年)8月6日)

皇典講究所、國學院設立に尽力した国文学者。幼名・秀吉、通称・栄、または盛枝、達志、尚志、のち勇雄に定めた。

略歴・人物
備後国御調郡三原(現在の広島県三原市)生まれ。

父は広島藩三原城主浅野家の家臣で郡奉行に所属、平田篤胤没後の門人であった。

勇雄は幼少より国学、漢学を修めまた剣、弓、銃、砲の技を学んだ。

1864年浅野家の大砲方を拝命、1866年、藩校の授読を命じられその後、矢野郷校、三原郷校(藩校修道館分校)、竹原皇学校、三津皇学校の教授となった。

1872年大阪に出て翌1873年、立志を抱き上京し平田銕胤の学僕となる。

同年、宇佐神宮禰宜。1875年神道事務局編輯専務、大教院専務を兼任、『祝詞文例』等を編す。

1876年、生徒寮塾長兼務、皇大神宮権主典拝命。

奉職中、神宮神官の子弟の教育機関・神宮教院の生徒取締役に転ず。

これを基礎に拡大強化し本教館を興し全国規模で有志学生を募集。

落合直文、池辺義象等はこの折りの学生の一部。1877年権禰宜と進み本居豊穎の養子となったが、まもなく同家を去った。1879年神宮権禰宜を辞し、神道事務局に奉仕し漢学を講じた。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

日本大学が、毛利家と豊臣家とつながりました。

そして、今回被害者になられた選手がこちら。

そして、その父親が「大阪維新の会」の政治家でした。

維新の会は、松井一郎という大阪府知事で右翼の政治家の党です。

そして橋下徹という麻生太郎の関係者を政策ブレインとして置いている党でした。

詳しくは以下の記事を参照してください。

・・・・・・・・・(「森友学園」の周りには「日本会議」の関係者ばかりがウヨウヨと群がっている)

このように、「森友学園」の周りには「日本会議」の関係者ばかりがウヨウヨと群がっているのです。

となると、「日本会議国会議員懇談会」のトップである「麻生太郎」が「森友学園」のことを知らないはずがありませんし、むしろ「財務大臣」として深く関わっていたことは間違いありません。

そもそも、「麻生太郎」は「安倍晋三」だけでなく、「松井一郎」とも「橋下徹」とも個人的にとても深い関係があります。

「麻生太郎」が「日本財団」と深い関係にあることは以下の記事で書きました。

○「麻生太郎」と山口組と統一教会と北朝鮮とイスラム国。全ては裏で一つにつながっている。

そして、実を言うと「松井一郎」も幼い頃から「日本財団」とかなり密接な関係を持っているのです。

---------------------(以下、こちらから転載)

大阪維新の大阪府知事の【松井一郎】ってどんな人?



・橋下徹知事の側近中の側近議員だった

・松井一郎は、競艇場の照明など電気設備の利権を一手に握っている笹川グループの一員

・競艇利権は、松井知事の父親である元府議会議長の松井良夫元府議から引き継いだもの

・父親の良夫元府議会議長は、知る人ぞ知る故笹川良一の直系の子分だった人物

・笹川良一は、かつて「私は世界一金持ちのファシスト」と豪語した人物

・父親の良夫元府議会議長は笹川良一払い下げの超豪華なキャデラックを乗りまわしていた

・WTC移転問題ではだれよりも急先鋒になっている

・WTCも住之江競艇場も同じ南港。

笹川グループ競艇利権→松井良夫元議会議長→松井一郎府議(維新幹事長・世襲2世) →知事に当選

大阪府内のボンクラ高校在学中に傷害事件を起こし、本来なら退学処分になるところを大阪府議会議長だった父親の力で自主退学にしてもらい、笹川良一が理事をしていた福岡工業大学附属高校に特別枠で編入し福岡工大(偏差値39)を卒業したとか。

正直言って相当胡散臭い人物だと思います。バリバリ利権に目敏そうですね。

---------------------(転載ここまで)

こうなってくると、「松井一郎」が「麻生太郎」と個人的に知り合いでないわけがありません。

で、一方の「橋下徹」ですが、実は彼のブレーンが「株式会社・麻生」の監視役をやっています。

「株式会社・麻生」の監視役が、「橋下徹」のブレーンなのです。これまた恐ろしいほど近い関係ですね。

そのブレーンの名を「上山信一」といいます。詳しくは以下のリンクをご参照下さい。

○みずほ銀行・及川幹雄事件で再び注目される「ぎょうせい買収スキーム」、財務大臣・麻生太郎と大阪市長・橋下徹をつなぐ「意外な人物」が浮上: 東京アウトローズWEB速報版

○上山信一 – Wikipedia

〈上山信一〉


で、「橋下徹」も「松井一郎」もどちらも「大阪維新の会」のメンバーで、「森友学園」の理事長の長男も「大阪維新の会」の議員の私設秘書をやっていた……。

このように「麻生太郎」は単に「日本会議」というラインで「森友学園」と結ばれているだけでなく、「大阪維新の会」というラインでもしっかりと結ばれているのです。

つまり、こういうことになりますね。

■麻生太郎 →(日本会議)→ 籠池理事長

■麻生太郎 →(大阪維新の会)→ 籠池理事長の長男

■麻生太郎 →(第2次安倍内閣)→ 安倍晋三

■麻生太郎 →(日本財団)→ 松井一郎

■麻生太郎 →(大阪維新の会)→ 松井一郎

■麻生太郎 →(大阪維新の会)→ 橋下徹

このように「麻生太郎」は、「森友学園」に関わっているほとんど全ての人とかなり近い接点があります。

それなのに、「麻生太郎」と「森友学園」が全く無関係であるということは絶対にあり得ません。

しかし、マスコミはなぜかこの部分には一切触れようとしない。

これだけ見ても、マスコミがわざと「麻生太郎」のことを伏せて「森友学園」の件を報道していることは明らかです。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

奥野議員は、維新の会を離党して、日大を訴えることにしたそうです。

・・・・・・・(関学被害者の父「売名と言われるの嫌」 不出馬を伝える 2018年5月24日11時34分)

 アメリカンフットボールの日本大と関西学院大の定期戦(6日、東京)で、日大選手が関学大選手に悪質なタックルをして負傷させた問題をめぐり、被害者の父で大阪市議の奥野康俊さんが、所属する大阪維新の会大阪市議団の幹部に「次回(来年春)の大阪市議選に出ない」と伝えていたことがわかった。

「人生かけ問題向き合う」関学被害者の父、市議今期限り
 維新大阪市議団の大内啓治代表によると、奥野さんは21日に被害者の父として開いた会見の後、22日に電話で「『売名行為だ』と言われるのが嫌だ。純粋に息子とアメフトのために活動したい」と話したという。

 大内代表は「市議のまま活動することもできると思って慰留したが、最後は本人が決めることだ」と話した。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

ご愁傷様としか言いようがありませんが、私から言わせれば維新の会のような右翼団体で活動していたため、このように報復を受けたのではないかと思います。

私たちは自分の名誉のためや生活のために、知らず知らずのうちに悪に加担して「悪のために」生活しています。

強力な権力を持っている人たちは傲慢で人をいつも見下して悦に浸っています。

ですから、このような記者会見ができるのでしょうか?それとも単に悪のランクが低く、偽善を貫き通す実力がなかったのでしょうか?

・・・・・・・・・(長引く日大会見、司会者ブチ切れ 記者「ブランド落ちる」に「落ちません!」2018/5/23 22:50)

 


「打ち切りますよ?会見」――。日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックル問題をめぐる内田正人・前監督と井上奨コーチの緊急会見で、思わぬ注目を集めたのは「司会者」だった。

矢継ぎ早に飛ぶ質問に「やめてください」と繰り返したほか、報道陣が質問をしている最中に苛立って「一人で何個も聞かないで」と遮る場面もあった。こうした司会の言動に、ある記者は「日大のブランドが落ちてしまう」と指摘したが、当の司会は「落ちません!」と返した。


中央奥、ネイビーのスーツを着た男性が司会をつとめた

「全部やるんですか? 無理ですよ」
2018年5月23日20時に始まった緊急会見では、1度に2つ3つと続けて質問をする報道陣もいた。このような状況が繰り返されるうち、まだ質問内容を述べている最中にもかかわらず、司会者の男性が、

「もうやめてください。やめてください。一人で何個も聞かないでください。他の方も聞きたい方いっぱいいるんですから。やめてください」
と割って入った。しかしその記者は質問を続け、井上コーチも回答。その上でさらに質問しようとする記者に、司会は、

「やめてくださいって言ってるでしょう。打ち切りますよ?会見。他の方も聞きたい方いっぱいいるんですから」
と苛立ったように釘を刺した。

こうした場面は複数回にわたった。司会者は別の記者の質問でも、途中で遮る形で「そういった仮定の質問はやめてください」と一言。その上で、

「あの、もう21時30分を過ぎましたので、1時間30分以上やってますので、これでもう終わりにしたいと思います」
と突如として会見の終了を宣言した。これに記者が続けて欲しいと反論すると、司会者は、

「こんな何10人もいるのに、全部やるんですか? 何時間かかるかも分からないじゃないですか、無理ですよ。みんな手を上げているのに。あと30人、40人いるのに」
とやや苛立った調子で反論。これに記者が「1人1問にしますので...」などと懇願したが、司会者は聞き入れず「いや、もう終わりにします」。
「迷惑ですから」
その後、記者が「(前)監督に決めて貰いたい」と水を向けると、内田氏は「続けましょう」と一言。こうしたやり取りを受けて、司会者が不機嫌そうな調子で「1人1問ですよ」と話し、会見は続行した。

さらに質疑が続くと、司会者は「あと少しにしてください」「あと1人、2人くらいにします」などと発言。さらには「もうこれ以上やっても切りがないし、大体同じ質問が続いているので、これで会見を終わりにします」。

記者が「では別の質問をします」と食い下がると、

「違う質問だから良いというわけではありません」
「だから、全員からは聞けないですよ。十分に聞きました」
「同じ質問を何度も繰り返されたら迷惑ですから。(特定の記者を指して)あなたは発言するのを、喋るのを止めてください。これだけ聞いたら十分ですよ」
と怒鳴り気味で次々と反論。こうした司会者の強硬な態度に、報道陣から相次いで不満の声が上がった。

日大は今回の問題において加害者側にあたる。タックルした当該選手は、内田監督と井上コーチがタックルを指示したと22日の会見で証言。こうした立場にあるにもかかわらず、司会の男性は報道陣の追及にフラストレーションを露わにし、強制的に会見を終わらせようとした形となった。ある記者は、「司会者のあなたの発言で、日大のブランドが落ちてしまうかもしれません!」と声を上げたが、司会者は

「落ちません!」
と激高。続けて「余計なこと言わないでください」と述べると、報道陣からは大きな笑いが起きた。

こうしたやり取りの中で、内田氏が「まずは質問に答えたいと思います」と司会者に向けて宣言したことで、質疑が再開した。

なお、 会見の終了直後の22時過ぎ、ツイッターでの流行語を表すトレンドワードには、司会者との口論の中である記者が発した「日大のブランド」という言葉が登場していた。

 ・・・・・・・・・・(転載ここまで)

頭悪いですね。

自分たちが悪いと思っていませんし、人に頭を下げたり、謝罪したことがないからこうなるのでしょうか?

悪人たちは血族でスクラムを組み、「絶対に負けない仕組みを作ってきた」はずでしょうが、身内から裏切られては仕方ありませんね。

今の世の中は、損得だけで、自分の利害関係だけで動いていますから、いずれこのように身内から裏切り者が出て、破綻していくのだということを物語っています。

欲のために生きるとこうなるということを物語っています。

悪に生きる人は悪によって滅ぼされるのです。

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