心のハンドル操作方法 幸せに生きるための教習所

旧精神科医療は思想警察なのか?

満州国による繋がりがメディアを占拠している、タモリ、小沢健二(小澤開作)、安倍晋三(岸信介)

2018年05月28日 | 世の中はヤクザ、暴力団が牛耳っている

「人生とは後悔するために過ごすものである」

タモリほどの影響力のある人物が言えば「ほー、なるほど」と思ってしまいますが、そんなことはありません。

人生の目的は「幸せになること」です。

私がブログを書く理由の一つに

「この世の権力をきわめて限定的な一族が握っており、真面目に頑張っても報われない社会である」という現実を皆さんに知ってもらうとともに

そんな社会を我々庶民が変えていけるようにするための情報発信ツールとして使っているということがあります。

私のブログを読んで

「有名人への単なるやっかみだ」「ひがみ根性だ」

と思われるかたもおられるかもしれませんが、そういう方はあまりにも世の中の事を知らなさすぎるだけだと思います。

現実的に彼ら支配層は、何千年も昔から、脈々と続く血縁関係で政治、経済、芸能を支配し、庶民を騙し、税金をぼったくり山分けできるシステムを構築してきました。

私たちが学ぶ歴史とは、まさに、彼らが一族同士の利権争いをみているだけなのです。

私たちは、真実を知って、彼らのこういった悪だくみを知り、彼らと同じような土俵で戦わず、悪に対して善で対抗していかなくてはいけません。

彼らと同じように、悪に対して悪の力で対抗しても、取り込まれるのが落ちなのです。

このブログを通して、悪人のやり方を知って、取り込まれないように生きていくだけでも幸せな人生をおくることができるヒントになるかもしれません。 今回は、タモリが自分の名前のルーツを「NHKブラタモリ」で話しました。 

このタイミングでオンエアされる意図はわかりませんが、本名が「森田一義」であり、一義は「田中儀一元首相」から祖父がとって命名したということを話しています。

その記事は以下の通りです。

・・・・・・・・・・・(タモリ、本名の由来に驚きの声「不思議なご縁」2018年5月27日 5時0分 ザテレビジョン タモリが山口・萩を訪れた/2014年ザテレビジョン撮影)

 

5月25日に放送された「ブラタモリ」(NHK総合)で、タモリが山口・萩を訪問。道中、タモリが自身の名前のルーツを明かす一幕があった。

 

世界遺産の街を散策するタモリと林田理沙アナ。今回の旅のお題は「萩は なぜ世界遺産になった?」。

江戸時代の街並みを残し、年間240万人が訪れるという萩。そんな萩の町から4人の総理大臣が誕生しているという。

萩博物館館長の清水満幸氏からその4人を聞かれたタモリは「まず伊藤博文、それから山県有朋、あと誰だ…桂太郎もここか! もう一人…」というところで悩み始める。

すると清水氏は「もう一人の総理大臣の生まれたところっていうのは、実はここにありまして」と記念碑を紹介。

タモリはそこで残りの一人が田中義一であることを思い出した。

田中義一は第26代内閣総理大臣で、萩の下級武士の家に生まれた人物。そんな田中義一、実はタモリの名前と意外なつながりが。

タモリは「僕『一義』というんですけども、この田中義一を祖父が尊敬してて、本当は“森田義一”になる予定だったんです。

ところがこの姓名判断の字から、その『義一』っていうのは、上の画数と下の画数の落差が大きいんで、頭でっかちな子供になるっていうんで、それじゃあっていってひっくり返して『一義』になった。この人なんです。

そのうち森田がひっくり返って“タモリ”になって…全部がひっくり返った人生なんです。これも何かの縁ですね」としみじみ記念碑を眺め、写真に収めた。

林田アナも「そうだったんですか!」と驚きの表情を浮かべていた。

ネット上では「芸名の由来は、田中義一にあったんだ」「不思議なご縁に、ビックリ」「名前のルーツが萩にあるとは」「ひっくり返った人生なのタモさん」など大きな話題となった。

次回のブラタモリは6月2日(土)夜7時30分より放送。「伊豆・下田」を散策する予定。(ザテレビジョン)

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

ここでのキーワードは満州、大東亜共栄圏、「小沢健二と石原寛治」「森田真(祖父)と森田一義」「岸信介と安倍晋三首相」とがつながります。そして、これらを繋ぐのが、満州国なのですが、そもそも満州国は宗教国家として樹立された経緯があります。

それでは関連する記事を紹介いたします。

・・・・・・・・・(タモリの地図——森田一義と歩く戦後史  近藤正高)

満洲の友達の輪?
最終回を前にして大物ゲストがあいついだ『笑っていいとも!』だが、3月20日の「テレフォンショッキング」のコーナーに小沢健二がゲスト出演したのに続き、翌21日には安倍晋三が現役首相としては初めて『いいとも!』に生出演した。

小沢のファンなら聞いたことがあるかもしれないが、彼の祖父・開作は戦前に満洲(現在の中国東北部)で民族主義者として活躍した歯科医だった。これに対して、安倍の外祖父で元首相の岸信介は、戦前の一時期、日本の傀儡国家「満洲国」において計画経済を推し進めた官僚だったことはよく知られる。そう、小沢と安倍、いずれの祖父も満洲とは浅からぬ因縁があるのだ。もっとも、小沢開作が漢・満洲・蒙古・日本・朝鮮の「五族協和」による独立国家を満洲に樹立するべく奔走し、その夢破れて北京へと去ったのは1935年頃であり一方、岸信介が満洲に渡ったのが1936年だから、両者のあいだに直接的な関係はなさそうだ。そもそも開作たちの理想を骨抜きにし、結果的につぶしたのが満洲国の官僚たちだったことを考えると、開作と岸は敵対する立場にあったともいえる。

じつは、『いいとも!』の司会のタモリもまた、満洲とは縁が深い。本人が語ったところによれば、祖父は南満洲鉄道(満鉄)・熊岳城ゆうがくじょう駅の駅長であったという(「タモリ先生の午後2006。」第8回 「ほぼ日刊イトイ新聞」)。

満鉄が設立されたのは1906年。その前年に日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約によりロシアから鉄道路線(東清鉄道南部支線)の一部と、その周辺の土地を譲り受けた。満鉄設立とともに「満鉄付属地」と呼ばれるようになったその区域内では、清国の行政権がおよばず、治外法権が認められた。満鉄はそこで土木・教育・衛生にかかわる行政を担うことになる。それだけに満鉄における駅長は、一介の鉄道会社の役職というレベルを超え、地域的にも重要な地位にあったといえる。

タモリの祖父が駅長をしていた熊岳城は、遼東半島の北部に位置する温泉地である。路線でいえば、遼東半島南端の港湾都市・大連(満鉄本社も所在した)から北へ、長春(のちの満洲国の首都「新京」)とを結ぶ満鉄本線の一駅で、満鉄はその周辺に農業学校や農事試験場も開設していた。タモリは糸井重里との対談で、満洲育ちの母親が《熊岳城はよかったよねぇ、フルーツの町で! いちばんおいしかったのはラ・フランスね?》と言っていたと語っているが(「タモリ先生の午後2006。」)、それも新しい農産物の導入が盛んな土地だったからだろう。

満洲にいい思い出しかない家族
タモリは終戦からちょうど1週間後の1945年8月22日生まれ、出身地はよく知られるように福岡市である。だが、幼い頃より祖父をはじめ家族から満洲の話を聞かされて育ったという。その内容をタモリ自身が語ったのを読んでいると、どうも家族の満洲体験は、彼の精神形成に少なからぬ影響を与えているような気がしてならない。ひょっとするとタモリにとって満洲は、現実の故郷である福岡とはべつに、精神的故郷というか“偽郷”ともいうべき存在として位置づけられるのではないだろうか。

もちろん「偽郷」なんて言葉は辞書にはない。私の考えた造語である。しかし満洲国が1945年8月18日の崩壊以降、中国では「偽満」と呼ばれ“なかったこと”にされている事実を踏まえれば、この言葉はタモリにとっての満洲を表すのにぴったりのように思うのだ。ここでは「“偽郷”としての満洲」という仮説のもと、タモリと満洲とのかかわりを見ていきたい。

タモリは自分の家族について、作家の村松友視(「視」は正しくは「示」と「見」を組同み合わせた字)との対談「天才タモリのお母さん」(文藝春秋編『ビッグトーク』所収。初出は『オール讀物』創刊55周年記念増刊号、1985年12月)でかなりくわしく語っている。そこでは、祖父が満鉄の駅長であったこと、また一族が全員、満洲に渡っていたことが明かされた。とりわけ注目したいのは、タモリの祖父母と両親は《昭和十三年か十四年か、太平洋戦争前に日本に帰ってきてますから、引き揚げ船に乗らないし、一切の苦しい思い出がないんですよ。満州のいい思い出しかない》という発言だ。

「満洲のいい思い出しかない」というのは、森田一義というタモリの本名の由来からいっても納得がいく。これは祖父が命名したものだそうだが、大半の日本国民が敗戦のショックに打ちひしがれるなか、生まれたばかりの孫の名前を、陸軍軍人・政治家として中国政策に大きな影響を残した元首相・田中義一からとったというのは、やはり満洲にいい思い出がなければできないことだろう。ただし、「義一」ではなく「一義」となったのは、姓名判断で「義一では頭でっかちな人間になる」と言われたからだという。このことは、『いいとも!』のゲストに名前の読みが同じミュージシャンの斉藤和義が出演したときなど、本人からたびたび語られている。

<田中義一>

タモリによれば、祖父は引き揚げ時に財産をすべて処分し、帰国後は借家を7軒(数まで覚えているのが細かい)と山林(山林といっても木がなかったという)を買い、それで収入を得ていたようだ。そして「趣味で」勤めていたという福岡の中洲検番で芸者の手配をしていた以外は、一切仕事はしないまま86歳で亡くなった。まさに悠々自適の後半生をすごしたといえるが、それも満洲での体験なしにはありえない。それだけに、祖父をはじめ森田家の人たちはしょっちゅう満洲の話をしていた。

いかに日本がつまらんかということを喋ってるわけですよ。近所付き合いは窮屈だし、土地も狭い、食べ物はまずい、人間がせこい。そして中国の地名ばかり出てくるんです。だから小学校の時、北満の地図を見ても、全部地名を知ってました。
(「天才タモリのお母さん」)
地名を覚えてしまったというのが、後年のタモリの地理好きの片鱗を感じさせる。それはともかく、満洲を持ち上げ、日本をくさすというのは何も森田家の人たちにかぎったことではない。たとえば、敗戦後に満洲からの引き揚げ経験を持つ日本テレビプロデューサーの市橋明子は、祖国日本にたどり着いて、生活設備の劣悪さを不思議に思ったという(草柳大蔵『実録満鉄調査部』上巻)。

満鉄の、たとえば付属病院にゆくと、給湯装置は完備していたし、医療器具は自動化された減菌装置のトンネルからベルトで流れてくるのだった。  満鉄本社には六百台のタイプライターが唸りをあげ、電話はダイヤル即時通話であり、大豆の集荷数量・運送距離・運賃はIBMのパンチカードシステムで処理され、特急「あじあ号」は六両編成で営業速度百三十キロをマークしていた。しかも冷暖房つきである。ついでにつけ加えれば、ロシア語の二級ライセンスを持つもの四千五百人、中国語や英語を話せるものは、いや、話せないものはほとんど皆無といった状態である。
(草柳、前掲書)
満洲の生活設備や都市のインフラが当時の日本とくらべていかに発達していたかについては、これ以外にも多くの本で指摘されている。

もちろん、日本人の満洲体験と一口にいっても、職業や年代、居住地域(都市部か農村部か)によってその中身は異なるし、とくに引き揚げた時期が太平洋戦争末期のソ連参戦の前か後かでの違いは圧倒的に大きい。ソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された者もいれば、混乱のなかで肉親と離ればなれになり、中国人に引き取られて育った子供たち、のちにいう中国残留孤児も多数出た。

タモリの恩人であるマンガ家の赤塚不二夫も、満洲で生まれ育ち、終戦後、奉天(現・瀋陽)から母と妹弟と命からがら祖国に引き揚げてきた体験を持つ。憲兵だった父はシベリアに抑留されたそうだ。世代というのもあるのだろうが、赤塚のアシスタント出身者には、高井研一郎・古谷三敏・横山孝雄・北見けんいちと幼少期を中国大陸ですごした者が目立つ。後年、赤塚ら引き揚げ体験を持つマンガ家同士で行なった座談会では、もし親とはぐれていたら残留孤児になっていたと、皆が口々に語っている(中国引揚げ漫画家の会編『ボクたちの満洲』)。

満洲で生まれ育った経験は赤塚の精神形成にどんな影響をおよぼしたのか。赤塚は自分にかぎらず、戦前・戦中に中国ですごした日本人は、「没法子(メーファーズ)」、日本語でいえば「しかたがない」といった感覚を身につけたと語っている。

日本の中ではみんながギスギスして生きていくっていうのがある。ところが、満州育ちっていうのは、なんか適当で、アバウトで、「どうでもいいや」「なるようになるさ」って生きちゃった、みたいなのがある。要するにせこせこした生き方より、おもしろくて、のんびりした連中が好きなんだ。
(『ボクたちの満州』)
「没法子」、赤塚マンガの名ゼリフで言い換えるなら「これでいいのだ」となるだろう(というか、どうしてもそう言い換えたくなる)。このおおらかさが、上京したタモリを自宅に居候させることにもつながったのではないか。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

タモリを売り出したのが、漫画家で既に成功していた赤塚不二夫だといわれています。

彼とタモリとの関係は、満州繋がりとなるわけです。

タモリ⇒赤塚不二夫 (満州つながり)

満州国の建国の目的とはいったい何だったのか?見ていきましょう。

そうすると出口王仁三郎が出てきて、大本教と繋がり、大本教からは谷口雅春が出て、生長の家を作っています。

その生長の家の村上正邦が日本会議を作り、その日本会議が天皇を中心とした共産主義国家を作ろうと企んでいます。

そのつながりについては以下の記事を参照にしてください。

・・・・・・・・・(ニューエイジと満州と大本教と蝦夷共和国。背後にいるのは同じ一族。)

この「満州国」についてさらによく調べてみると、「満州国」を建国しようとした真の黒幕は、実は「旧日本軍」ではありませんでした。彼らは単なる使い走りに過ぎなかったのです。

では、その真の黒幕とは誰だったのか……?

驚くなかれ。実は「大本教」の教祖「出口王仁三郎」だったのです。

「出口王仁三郎」が「満蒙」という地に、一つの宗教国家を作ろうとした……。

しかも、全世界的に……。

それが「河豚計画」のそもそもの始まりだったのです。

---------------------(以下、こちらから転載)

王仁三郎は、中国道院・世界紅卍字会の協力のもとに数人の側近と共に入蒙(満州・蒙古)する。

王仁三郎は、中国道院との提携によって道院の宣伝使としての資格をもっていたので宗教の布教には支障がない。

そこで「まず宗教的に進出するのだ」と語り、宗教的・平和的に蒙古を統一し、東亜連盟実現の基礎を打ち立てたいと考えていた。

しかし、出口宇知磨に渡した手紙には、「ことの成否は天の時なり・・・王仁30年の夢いまやまさに醒めんとす・・・」と記されていた。(前掲書*1)成功する確率は低いと見ていたのであろう。

「王仁蒙古入記」によると、「蒙古王国の建設よりひいて新疆、チベット、インド、シナの全土を宗教的に統一し、東亜連盟の実行を成就し、ついでロシア、シベリアにその教勢をひろめ、パレスチナのエルサレムに再生のキリストとして現れ、欧米の天地に新宗教的王国を建設し、国祖の使命を完成せん・・・」。

王仁三郎は、蒙古だけでなくさらに西に進軍することを考えていた。この構想に、協力してきた人々もたまげてついていけなくなるのであった。

後日王仁三郎は語っている。

「蒙古から中央アジアをへて太古のエデンの園、太古のエルサレムへの世界の源をたずねにいくつもりだった。

人類文明の源アルメニアについては、わしの『霊界物語』にくわしくあらわしてある。ノアの方舟のひっかかっとる山へも登る気やった。

いまの人類史の始点にさかのぼると、もうひとつまえのムー大陸時代の文明の研究ということがやかましゅうなってくるだろう。馬にのって、くる日もくる日も走りまくった。

一週間ほどして、もうだいぶエルサレムも近づいたやろと地図をみてがっかりした。針で突いたほどもうごいておらん。地球というものはなんと大きなもんやろう」。

関西の一流財界人の集まりである清交社主催の「出口王仁三郎氏にものを聞く会」での答えであった。

王仁三郎は、張作霖の配下でチャハル方面の実力者、盧占魁の兵に守られ、霊界物語(大正10年の第一次大本事件後に王仁三郎が書いた第二の経典)と西王母の衣装(能楽『西王母』の主役が身にまとう衣装。西王母は女の神様で、中国古典に出てくる救世主)を積んだ車を引いて、自身は盧占魁から贈られた白馬にまたがって蒙古草原を進軍して行った。

王仁三郎は、ダライ・ラマだ、ミロクだといって進軍する。各地で「聖者来る」といううわさがひろまり、人々が群れ集まって王仁三郎を拝んだという。

もくろみは、端緒についたかにみえた。

しかし、事態は暗転する。満州の独裁者張作霖は、盧占魁の勢力が拡大することに危機感を募らせ、討伐軍を派遣する。盧占魁は捕らえられ殺される。

王仁三郎は、捕らえられ銃殺一歩手前までいく。あえなく、蒙古王国は潰え去ったのであった。わずか4ヶ月ほどの夢物語であった。しかし、日本ではやんやの喝采が巻き起こったのだった。

---------------------(転載ここまで)

で、この「出口王仁三郎」の宗教国家を作ろうという目論見に、日本軍が乗り、「河豚計画」を構想したというわけです。

○河豚計画 – Wikipedia

で、この「河豚計画」には「世界紅卍会」が協力したようですが、この「世界紅卍字会」のメンバーが以下になります。(ちなみに、私は今回の対談の中で「紅卍会」のことを「べにまんじかい」と呼んでいますが、正しくは「こうまんじかい」です。ただし、「べにまんじ」の方がわかりやすいので、これからも対談では「べにまんじ」と読むと思います。)

---------------------(以下、こちらから転載)

■主な会員

・出口王仁三郎 
・出口すみ
・内田良平
・張海鳳
・陳漢森
・今小路了円
・浅野和三郎
・林出賢次郎
・岡田茂吉
・植芝盛平
・堀川辰吉郎
・谷口雅春
・出口日出麿
・出口直日
・安岡正篤
・笹川良一
・笹目秀和
・中西旭
・五井昌久
・伊與田覺
・呉清源
・西園寺昌美

---------------------(転載ここまで)

今回の対談では、このメンバーの中でも特に「植芝盛平」のことを取り上げています。

○植芝盛平 – Wikipedia

なぜ、この「植芝盛平」のことを取り上げたかというと、「ニューエイジ・ミュージック」の作曲家「ジョン・デンバー」がなぜか「植芝盛平」の作った「合気道」に入れ込んでいたからです。

もちろん、これは単なる偶然ではないでしょう。

前回の記事でも書きました通り、「ニューエイジ」はその後、日本では「スピリチャル」として受け継がれていったのですが、この「スピリチャル」を日本に普及させたのが「大本教」です。

○RAPT×読者対談〈第84弾〉自己啓発もスピリチャル系も悪魔崇拝。

○RAPT×読者対談〈第85弾〉江原啓之・美輪明宏から始まったスピリチャルブームもすべてはルシファー信仰。

で、「植芝盛平」も例に漏れず「大本教」の信者でした。

ということは、「植芝盛平」も「ジョン・デンバー」も、結局は同じものを信じていたということになります。ということは、「ジョン・デンバー」にとって「植芝盛平」は信仰の先輩になるのです。

だからこそ、「ジョン・デンバー」は「植芝盛平」の作った「合気道」に入れ込んでしまったわけですね。

で、この「植芝盛平」は「戊辰戦争」にも参加しています。

○戊辰戦争 – Wikipedia

「戊辰戦争」とは明治政府と「奥羽越列藩同盟」との戦いのことで、この戦いに敗れた「奥羽越列藩同盟」の一部の勢力が北海道に逃げ、その後、北海道に「蝦夷共和国」なる国家を建国しようとしました。

○蝦夷共和国 – Wikipedia



しかし、その勢力もまた明治政府と「箱館戦争」で戦って負けてしまいます。

○箱館戦争 – Wikipedia

で、この「奥羽越列藩同盟」の勢力の一つに、かの有名な「白虎隊」があったわけですが、この「白虎隊」のドラマのエンディング・テーマとして「ニューエイジ・ミュージック」の音楽家「ケルティック・ウーマン」の曲が使われたとのこと。

(ちなみに、「白虎隊」のドラマは数多くのテレビ局が制作しています。「ケルティック・ウーマン」の曲が使われたのは、テレ朝のドラマでのことです。詳しくはこちら)

で、その曲の名を「ユー・レイズ・ミー・アップ」と言って、フィギュアスケートの「荒川静香」がこの曲を使って演技をしたため、日本でも一躍有名になりました。

で、「植芝盛平」に話を戻すと、彼は「武田惣角」という人物から「大東流合気柔術」なるものを学んでいます。

○武田惣角 – Wikipedia

で、この「武田惣角」はもともと「清和源氏」であり、その祖父は「西郷頼母」という人物に「陰陽道」を教えています。(対談では教わったと話していますが、逆でした。申し訳ございません。つまり、「武田惣角」の祖父は陰陽師だったということですね。)

○西郷頼母 – Wikipedia

で、この「西郷頼母」もまた「箱館戦争」で明治政府と戦っていますし、「武田惣角」の父もまた「会津戦争(戊辰戦争の一つ)」で明治政府と戦っています。

つまり、「植芝盛平」とその一族は、どこからどう見ても「蝦夷共和国」の建国に加担していたということです。

(ちなみに、今回の対談の中で私が疑っていた通り、「西郷頼母」と「西郷隆盛」は何らかの親交があったようです。多分、彼らも同じ一族なのでしょう。詳しくは以下のリンクをご参照ください。)

○「西郷頼母」と「西郷隆盛」の間に親交があった!? – 平成の虚無僧一路の日記

で、現代においても、イルミナティの連中は性懲りもなく「北海道と青森」にまたも「蝦夷共和国」を建国しようとしています。詳しくは以下のリンクをご覧ください。

○ジョン・タイターの予言は既に着々と実現しています。「蝦夷共和国」はユダヤ人を北海道に移住させる「河豚計画」の一環として誕生する予定です。

しかも、その目的は「偽ユダヤ人」を北海道に移住させるためです。

つまり、第二次大戦中に「満州国」でやろうとして失敗したことを、今度は「北海道と青森」の地でやろうとしているのです。

そのためでしょうか。青森の「弘前市」の市章には、「紅卍会」のシンボルマークがそのまま使われています。



もしかしたら「弘前市」こそが新たに建国される「蝦夷共和国」の首都になるのかも知れません。

で、この「弘前市」生まれの人物の中に「りんごの木村さん」がいて、さらには「日本メソジスト教会」を作った「本多庸一」がいます。

そして、この「本多庸一」もまた「戊辰戦争」に参加していますし、「青山学院」の二代目院長にも就任しました。

「青山学院」といえばフリーメーソンのカレルギーと結婚した「青山みつ」で、「青山みつ」といえば「東出融氏」の親戚でしたね。詳しくは以下のリンクをご参照ください。

○RAPT×読者対談〈第75弾〉あらえびす・東出融の正体(1)

で、「青山学園」のある東京の「青山」も、青森県の「弘前市」も、どちらも西洋風の雰囲気が漂っています。

〈旧弘前市立図書館〉


s_青山学院間島記念館
〈青山学院大学〉


やはりどちらの地域も「カレルギー」のような西洋人のフリーメーソンが関わっていたということかも知れません。(ちなみに、対談でお話している「盛美園」は弘前市ではなく、平川市でした。申し訳ございません。)

実際、フリーメーソンの前身である「テンプル騎士団」が、昔から「青森」に注目していたことが分かっています。(詳しくは以下のリンクをご覧ください。)

○ジョン・タイターの予言は既に着々と実現しています。「蝦夷共和国」はユダヤ人を北海道に移住させる「河豚計画」の一環として誕生する予定です。

しかも、「青山」は「青」い山と書きますし、「青森県」も「青」い森と書きます。これは単なる偶然でしょうか?(笑)

ちなみに、この「弘前市」生まれの「本多庸一」はキリスト教徒と自称しつつも、やはり本物のキリスト教徒ではありません。

というのも、彼はキリスト教徒の代表者として政府の関係者とともに会合を開いているのですが、ウィキペディアにはそのときの様子について、以下のように書かれてあるからです。

---------------------(以下、こちらから転載)

1912年(明治45年)2月25日に、内務次官床次竹二郎の企画で、神道、仏教、キリスト教の三派の会同ために政府関者と各宗教の代表が出席した。

政府は原敬内務大臣らが出席、キリスト教代表として、本多と宮川経輝、千葉勇五郎、井深梶之助ら7名が出席した。

翌日、三派の大乗が再度会合して、決議案を検討した。キリスト教側はこの会同に進んで協力して、神仏二教と同等の待遇を受けたことを喜んだ。これを、三教会同という。

---------------------(転載ここまで)

仏教と神道の神といえば、その最高神は「国常立尊」であり、すなわち「ルシファー」のことです。

で、その「ルシファー」は、キリスト教の神である「ヤハウェ」にとって最大の敵です。

そして、当然のことながら、キリスト教徒にとっても「ルシファー」は最大の敵です。

それなのに、この「本多庸一」はその「ルシファー」と「ヤハウェ」が同等の待遇を受けたからといって喜んだというのです。

はっきり言って、これはクリスチャンとしてあるまじき行為です。まさに神を冒涜する行為です。

これだけ見ても、「本多庸一」が本物のクリスチャンでないことは明らかです。彼も確たる「悪魔崇拝者」なのです。

しかも、「本多庸一」のつくった「日本メソヂスト教会」はその後、「日本基督教団」に吸収合併されることになりましたが、その「日本基督教団」の統理となった「富田満」も、教団設立の際、「天照大神」と「天皇」をわざわざ拝みに行っています。

以下、ウィキペディアの「日本基督教団」の記事になります。

---------------------(以下、こちらから転載)

■伊勢神宮参拝

1942年1月11日、富田満統理は伊勢神宮に参拝して、天照大神に教団の設立を報告した。

「富田統理は十日夜行にて出発し、鈴木総務局長を帯同して十一日朝、伊勢大廟に参拝せられた。而して我が国における新教団の発足を報告し、その今後における発展を希願せられた。」

■天皇に拝謁

1942年11月26日、富田満統理は昭和天皇に拝謁。

「畏くも天皇陛下におかせられては軍団多事の際、政務殊の外御多端に亘らせ給うにも拘らず、特別の思召をもって26日午前10時宮中において各教宗派官長、教団統理者に拝謁仰付けられた。」

富田満統理は、この日の光栄を次の如く謹話した。

「本日特別の思召を以って私共宗教団体の代表者に対し、拝謁を賜りましたことは、宗教界においては全くはじめての光栄でありまして宏大深遠なる聖慮の程洵に恐悦感激に堪えないところであります。

申すまでもなく今日は大東亜戦争完遂のため、我国は総力を挙げてこれに邁進しているのでありますが、私共は特に宗教報国のために感奮興起して愈々一致協力祖国のため、大東亜共栄圏建設を目指して、凡ゆる時難を克服して行かねばならないと思います。

この日の感激を銘記して超非常時局に當り、匪躬の誠を致して聖恩の万一に答え奉らんことを期せねばならないと存じます。」

---------------------(転載ここまで)

「天照大神」とは、これまた聖書の神「ヤハウェ」に敵視されている「アシェラ」のことです。そして、天皇もその「アシェラ」を崇めていましたし、「国常立尊=ルシファー」をも崇めています。

それなのに、その天皇と会うことができたことを「光栄」だと言い、その栄誉をムダにしないためにも、天皇のために「大東亜共栄圏構想」を絶対に成功させなければならないとキリスト教の信者たちの前で述べたとのこと。

この「富田満」もまた完全なる悪魔崇拝者に違いありません。つまり「天皇」の一味だったのです。

で、「本多庸一」とともに欧米に訪問した人物の一人に「井深梶之助」がいて、彼は明治天皇のすり替えに加担したとされるキリスト教の牧師「フルベッキ」とともに聖書の「文語訳」を完成させたとのこと。

ウィキペディアにも、「(井深梶之助は)文語訳聖書の旧約聖書にヘボン、グイド・フルベッキ、P・K・ファイソン、松山高吉、植村正久らと共に協力して、明治21年(1888年)に完成する」とはっきりと書かれてあります。(出典はこちら)

ちなみに、「フルベッキ」が天皇のすり替えに加担したという話については、ネット上では「デマ」だという話でもちきりになっていますが、これが「デマ」でないことは、このブログの賢明な読者の皆さんであれば重々お分かりのことと思います。

○フルベッキ群像写真 – Wikipedia


なので、ここでは敢えて「フルベッキ」のことについて述べることはしません。

しかも、この「フルベッキ」の下で、かの有名陰謀論者「副島隆彦」の先祖である「副島種臣」が英語を勉強していたそうです。

ウィキペディアにも「1861年から1862年にかけては佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けている」とはっきりと書かれてあります。(出典はこちら)

ということは、「副島隆彦」の先祖もまた「大室虎之祐」を明治天皇に担ぎあげた一味だったということになります。つまり「副島隆彦」もまた「田布施一族」なのです。

副島隆彦とは何者か – kojitakenの日記

有名陰謀論者の「中丸薫」も「紅卍会」のメンバー「堀川辰吉郎」の孫で、「副島隆彦」も「田布施一族」の子孫。思った通り、有名暴論者はみんなイルミナティの一員ということになりそうです。

どうりで彼らがまともな話をしてくれないわけです。

で、さらに話を続けると、「本多庸一」の仲間の一人に「井深梶之助」がいて、彼もまた「日本基督教団」の指導者であり、「明治学院」の二代目総理。

で、この「井深梶之助」の一族からソニーの創業者「井深大」が誕生し、「井深大」が「マハリシ」のつくった「超越瞑想」を福利厚生の一つとして早い時期から取り入れました。

---------------------(以下、こちらから転載)

日本では、超越瞑想は自己啓発のはしりのような意味を持ち、1980年代中頃にはサラリーマンを中心としたストレス解消法として広められ、企業の福利厚生としても取り上げられた。

労働省産業医学総合研究所の研究(衛生学学会1987原谷隆史/古川千勝)などがきっかけになり、ソニー、京セラなどが企業導入したが、その背景には、井深大、稲盛和夫などのトップの影響があった。

日本の企業による瞑想研修は海外にも影響し、IBM、ゼネラルモーターズなどの大企業も研修として採用したが、バブル崩壊や、超越瞑想と同じく瞑想、ヨガ、空中浮揚を行ったオウム真理教による一連の事件の影響で、その後、瞑想研修は下火になっていった。

---------------------(転載ここまで)

見事に「マハリシ」と「大本教」と「田布施」と「ソニー」とが一つにつながってしまうわけです。

しかも、「マハリシ」の作った「超越瞑想」は、先日もご紹介した「ロハス」のマーケットと非常に密接な関係があります。

というのも、ウィキペディアには以下のように書かれてあるからです。

---------------------(以下、こちらから転載)

超越瞑想は、広範囲にわたって効果が研究されてきた瞑想法の一つであり、1970年代の最初の研究以来、350以上もの研究論文が科学誌に掲載されてきた。

補完・代替医療(補完的健康アプローチ)としても注目され、アメリカ国立衛生研究所からの助成金を受けて、不安感・高血圧・心臓発作・脳卒中などに関する超越瞑想の研究が行われている。

超越瞑想の団体では、超越瞑想の効果が科学的根拠に基づくことが主張されているが、従来の研究は支持者によるものが中心で、その研究方法と結果の妥当性に疑問がもたれている。(とはいえ、瞑想実践の意義が否定されているわけではない。)

また、ある都市または国家の1%以上が超越瞑想を行うと(超越すると)、犯罪の減少、穀物の収穫量の増加などの社会へのよい影響「マハリシ効果」があることが統計的に示されているとしているが、因果関係は証明されておらず、チェリー・ピッキングや盲信、データのねつ造が指摘されている。

(註:「EM菌」と同じく、何でもいいことが起きれば、「超越瞑想」と関連付けたがる人がいたわけでしょう。)

TM運動(超越瞑想の普及運動)は、精神的運動、新しい社会的運動とも呼ばれるが、宗教であるという見解もあり、学者のほとんどはそう認識している。

一方、超越瞑想の団体は現在、超越瞑想は宗教ではなく、心と体をリラックスさせるテクニックであると主張しており、そう捉える人も多く、超越瞑想が宗教的な行為であるか否か、普及団体が宗教的な団体であるか否かはしばしば議論の的になっている。

アメリカでは、超越瞑想のテクニックとその理論面である「創造的知性の科学」を公教育に導入することが政教分離の原則に反するとして裁判が行われ、1979年に敗訴している。

(註:「マクロビ」と同様、本当に心身の健康に役立つというよりは、単なる思想の一つのようです。)

最近は、超越瞑想の学校導入に反対する声は少なくなっているという意見もあり、民間の資金によって、アメリカの18の学校が超越瞑想を取り入れている。

超越瞑想は、理論面である「創造的知性の科学」、独自のアーユルヴェーダを含むマハリシ・ヴェーダ健康法(英語版)、インド占星術、インド風水(マハリシ・ヴァーストゥ(英語版))、ヨーガなどと共に世界中で教えられている。

関連組織は、超越瞑想の普及・教育を行う組織、企業に提供する組織、アーユルヴェーダ製品の製造・販売会社、金融会社、不動産ディベロッパー、再生可能エネルギーや持続可能な農業を推進する団体などがあり、関連サービス・関連商品を提供する巨大組織に成長している。

---------------------(転載ここまで)

で、以下のウィキペディアの記事を見ての通り、「超越瞑想」の関連組織は「ロハス」の5大マーケットとほとんど同じものです。

---------------------(以下、こちらから転載)

■LOHASの5大マーケット

頭文字をとってSHAPEと呼ばれている

Sustainable Economy(持続可能な経済)
グリーン都市計画、SRI、省エネルギー商品、代替エネルギー、フェアトレード等。

Healthy Lifestyle(健康的なライフスタイル)
自然食品、サプリメント、オーガニック、マクロビオティック等。

Alternative Healthcare(代替医療)
ホメオパシー、アーユルヴェーダ、自然治療、東洋医学、鍼治療、レイキ等。

Personal Development(自己開発)
メンタルトレーニング、スピリチュアル、ヨガ、ピラティス、瞑想法、自己啓発、アート、能力開発等。

Ecological Lifestyle(エコなライフスタイル)
リフォーム、環境配慮住宅、家庭用品、エコツーリズム等。

---------------------(転載ここまで)

で、「ニューエイジ・ミュージック」の音楽家の一人「坂本龍一」も、「ロハスクラブ」の理事に就任しています。

---------------------(以下、こちらから転載)

■ロハスクラブ

有限責任中間法人。ロハスクラブの活動内容は、「ロハス商品の審査・承認」、「ロハスマークの発行・許諾」、「ロハスデザイン大賞の運営」「ロハス・ライセンスビジネスの展開」と発表されている。

代表:小黒一三(トド・プレス代表、『ソトコト』編集長 J-WAVE『LOHAS TALK』ホスト)

理事:坂本龍一(音楽家)、福岡伸一(分子生物学者・青山学院大学理工学部教授)、大井法子(弁護士・虎ノ門総合法律事務所)、長友啓典(アートディレクター・K2)

---------------------(転載ここまで)

どうやら「マハリシ(ニューエイジ)」と「ロハス」は完全に一体になっているようです。

こうなってくると、我々は「健康・自然・環境・エコ」といった耳障りのいい言葉に騙されないように十分に気を付けなければなりません。

前回の記事でも書きました通り、「ニューエイジ」は「神智学」から誕生していて、その「神智学」は悪魔教のオカルト学に他ならないのですから。

ちなみに、「坂本龍一」が現在のように大きくのしあがってきたのは、やはり彼の先祖に大きな理由があったようです。

---------------------(以下、こちらから転載)

1952年、東京都中野区に生まれた。

父は河出書房の編集者で、三島由紀夫や野間宏、中上健次などを担当した坂本一亀。

母は帽子デザイナーで銀座の宝石商に勤務。

祖父は実業家、第五高等学校と京大とで池田勇人と同級で生涯の親友として付き合い、池田首相の葬儀に友人代表として弔辞を読んだという。

---------------------(転載ここまで)

彼の父親が「三島由紀夫」や「中上健次」と仕事上の交流があって、祖父が日本の首相「池田勇人」と交流があった……となれば、その子供(孫)の「坂本龍一」がのしが上がるのは当然のことと言えます。

「吉川晃司」もそうでしたが、このような大物には生まれたときから大きな晴れ舞台が用意されているというわけです。

また、対談の中でもお話しています通り、「ジブリ」映画のほとんどのサントラを担当している「久石譲」も「ニューエイジ・ミュージック」の音楽家として名を連ねています。

○日本のニューエイジ・ミュージシャン – Wikipedia

「ジブリ」といえば、社長の「星野康二」が創価大学出身でしたから、やはり「創価」も「マハリシ」とつながりがあるのでしょうか。

○星野康二 – Wikipedia

まあ、あるに決まっています。

何せ「マハリシ」の作った「超越瞑想」は「マントラ・ヨーガー」の一種であり、「マントラ」とは「真言」という意味であり、「真言」といえば「真言宗」であり、「真言宗」といえば「高野山」であり、「高野山」といえば、そのシンボルマークが「八葉蓮華」であり、その「八葉蓮華」を「創価学会」もシンボルマークとして使っていますからね。詳しくは以下のリンクをご覧ください。

○RAPT×読者対談〈第85弾〉江原啓之・美輪明宏から始まったスピリチャルブームもすべてはルシファー信仰。


また、「ダブル村上」と呼ばれた「村上春樹」と「村上龍」も、「ニューエイジ」を普及させるための広告塔だったということが、今回の対談ではっきりと分かりました。

特に「村上龍」は「坂本龍一」と大の仲良しで、しかも二人とも、なぜかその名前に「龍」と付いています。「龍」といえば……。

そして、「村上龍」はやたらと「LSD」をネタにした小説を書きまくっています。例えば、以下のような……。


どうして「イビサ島」をネタにしたのだろう、と思っていたら、結局、村上龍も「ニューエイジ」の信奉者で、「イビサ島」では「ニューエイジ」にとって必要不可欠な「LSD」が、世界中で規制された後も多用されつづけていたからです。

---------------------(以下、こちらから転載)

■現在のLSDの状況

世界中で規制され、ヒッピーのムーブメントが去った後、LSDの使用は激減した。

日本では、LSDが麻薬に指定された次の年である1971年においてはLSD事犯が麻薬取締法違反で検挙された人員のうち45.5%を占めるものであったが[78]、1986年においては1.2%にまで減少している。

しかし、1980年代後半にスペインのイビサ島のクラブでプレイされていた楽曲をイギリスのDJ達が本国に持ち帰ったことから起こったセカンドサマーオブラヴのムーブメントや1990年代前半に起こったアシッド・ハウスリヴァイバル等において再びLSDは(多幸系のドラッグとともに)多用されるようになった。

現在LSDはクラブで使用されるドラッグとして、覚醒剤や大麻、MDMAと並ぶ地位を確立している。


〈イビサ島のクラブ〉


LSDの多くはアメリカ、ドイツ、スペインで作られており、アメリカで作られたものはイギリスに、ドイツで作られたものはイスラエルに、そしてスペインで作られたものが世界中に流通していると言われている。

また、医療分野においては再びLSDを治療薬として活用するための実験が、NPO組織「幻覚研究協会 (MAPS)」の支援の下、スイスで2008年より始まっている。

---------------------(転載ここまで)

清原 和博が「覚せい剤」で捕まったときには、マスコミがあれだけ大騒ぎするくせに、その一方で、村上龍のような有名な作家が「LSD」を礼賛するような小説を書いても、社会から容認され、さらにはテレビに出て尊敬される……。

この世の中のモラルの基準が、どれだけいい加減なものかがよく分かります。

ちなみに、上の転載記事に出てくる「LSDを治療薬として活用するための実験」を行っているNPO組織「MAPS」は、「ロスチャイルド」のお膝元の「スイス」にあり、そのロゴマークは以下のような「ホルスの目」です。(出典はこちら)



やはりイルミナティの連中は、「大麻」と同じく、「LSD」をも世界中に広く普及させたくて仕方がないようです。

本当、「はた迷惑」もいいところです。もしかしたら、この「はた迷惑」という言葉も実は「秦氏」から来ているのかも知れません。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

満州国の建国が宗教国家のためであるという証拠が書かれています。

出口王仁三郎つまり大本教で、

満州国、ニューエイジ、ロハスに関わる人物、坂本龍一とタモリの対談もされています。

音楽談義していますが、彼らは満州繋がりです。

さらに、小澤開作はジャニー喜多川とも親戚ですから彼らも満州国、ニューエイジ、大本教でつながってしまっています。

・・・・・・・・・・(2017-04-11 小沢健二とジャニー喜多川が遠縁だったメモ)

昨日の記事を書くにあたり佐々木希さんは調べなかったくせになぜか小沢健二さんについて調べはじめたりしてたんですよね。完全に「あっリス!」の世界。いやいや純粋な興味の差ですよ。そこで「ん? んんん……?」とひっかかる点があり、家系図を書き始めました。思いつきの汚い手書きの敬称略で失礼します。



小沢健二さんとジャニー喜多川さんが一枚の家系図でつながった!


 小沢さんから見ると、ジャニーさんは「大叔母の夫の甥っ子の妻の弟」です。遠いにもほどがあるな。あ、「大叔母の夫の甥っ子の妻」にあたるのがメリー喜多川さんですよ。藤島ジュリー景子さん相手だともうちょいシンプルに「大叔母の夫の又姪(まためい)」で説明できます。


 だからなんだという話なんですけど(小五の夏の自由研究は小説版Zガンダムの人物相関図でした)。血のつながりもないですし。オザケンさんは小澤征爾さんがいて「おじいちゃんは右翼の大物(本人談:小澤開作氏のこと)」な父方がよく話題に上がりますが、実はこのジャニーさんもいる母方のほうが閨閥きわまってて親戚中がWikipediaの項目をお持ちです。こわい。親戚をたどっていくだけで日本の政財界巡りができますので、『ある光』を捧げられている母方の「北海道の牧場のおじいちゃん」あたりからお時間の許す限りどうぞ。

下河辺孫一 - Wikipedia

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

ジャニー喜多川は小沢健二の親戚で、おじいさん小澤開作が有名な右翼。

そしておじさんの下河辺牧場を経営している下河辺孫一とは何者なのでしょうか?

・・・・・・・・(下河辺孫一(しもこうべ まごいち)

1909年(明治42年)2月5日 - 1997年(平成9年)10月10日)は、日本の実業家で、下河辺牧場の創業者。下河邉 孫一の表記もある。

生涯
元日本鉱業(現・JXTGエネルギー)社長・下河辺建二の長男として東京府(現・東京都)に生まれた[1][2][3][4]。東京帝国大学獣医科実科(実科は1935年に東京高等農林学校として独立、現・東京農工大学)卒業後宮内省に入省御料牧場の獣医師として5年間勤務の後独立して成田市に下河辺牧場を開業し、サラブレッドの育成に努めた。戦後北海道沙流郡門別町(現・日高町)に支場を開設して長男の下河辺俊行が経営にあたった。1975年(昭和50年)成田空港建設に伴い牧場を香取郡栗源町(現・香取市)に移転した。孫一の死後、下河辺牧場は日高支場が中核となり、栗源町の本場は「下河辺トレーニングセンター」と改称した。

家族
父・建二は大阪府の医師・下河辺俊斎の次男[1][2]、弟は芦田均の娘婿で日製産業(現・日立ハイテクノロジーズ)の社長を務めた下河辺三史[1][2][3][4]。

妻・敏子は三沢信一の次女[4]。三沢の三女はイギリス文学者の藤島昌平に嫁いだため[5]、孫一と昌平は義兄弟となった。

小説家・評論家の藤島泰輔は昌平の甥[5]。孫一・敏子夫妻の次女・牧子はドイツ文学者の小沢俊夫に嫁いだ[3][4][6]。

ミュージシャンの小沢健二は俊夫・牧子夫妻の次男なので下河辺孫一の孫にあたる[6]。

山下汽船(現・商船三井)常務や山栄船舶社長等を歴任した漆野寿一は孫一の義弟[1][4]。都市計画家の下河辺淳は従弟

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

一族でうまくやっていますね。

裏口感プンプンですね(笑)普通の獣医師が御料牧場で勤務なんてできるのでしょうか?

そして下河辺一族で牧場を経営して、競馬のサラブレッドを育成しているそうです。

そして下河辺家には久原房之助なる人物が親戚でかかわっており、日産や日立の前身を気付いた人物です。

・・・・・・・・・(久原 房之助 (くはら ふさのすけ)

1869年7月12日(明治2年6月4日) - 1965年(昭和40年)1月29日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員当選5回(16、17、18、19、25回総選挙)。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任。

日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出。「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与した。戦後はA級戦犯容疑者となり、公職追放となった。

戦後は日中・日ソ国交回復会議議長などを務めた。また、現在の大東急記念文庫の基礎を築いた。正三位勲一等。萩市名誉市民。

父久原庄三郎(1840年 - 1908年/天保11年 - 明治41年)、母文子の四男として長州・萩城下の唐樋町(現在の山口県萩市)に生まれた。幼名は房三郎。のち房之助と改名。兄は日本水産の母体を作った田村市郎。叔父は藤田財閥の藤田伝三郎。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

下河辺孫一の父建二が藤田組で働いていた時に知り合ったのが「久原 房之助」です。久原の叔父が藤田財閥の藤田伝三郎。

<藤田伝三郎>

前後しますが最期に小澤開作です。

・・・・・・・・(小澤 開作(おざわ かいさく)

1898年12月25日 - 1970年11月21日)は、日本の歯科医師、民族主義者。

山梨県出身。東京歯科医専(現・東京歯科大学)卒。宣撫工作に従事するため満州・長春へ赴任。1928年に満州青年聯盟を、1932年に満州国協和会を結成し、さらに1937年には中華民国新民会を結成して活動した。戦後、しばらく歯科業を離れていたため、他の業種に携わるも上手く行かず、結局、神奈川県川崎市で歯科医院を開業した。

満州事変の立役者であった板垣征四郎と石原完爾とは同志であり、第三子には両者の名を取って征爾(小澤征爾のこと)と名付けた。満州での立場は満州国を日本の植民地や傀儡国家としてではなく、五族協和の王道楽土として実現させようとする熱烈な理想主義者であった。宣撫官の最高責任者であった八木沼丈夫とは、中国人を同胞として尊重しようという部分では一致していたものの、細部において理念が異なったため、関係は険悪であった。また息子の俊夫によると「日本から満州に来た官僚の中で一番悪いのは岸信介だ。地上げをし、現地人は苦しめ、賄賂を取って私財を増やした。だから、岸が自民党総裁になったときにこんなヤツを総裁にするなんて、日本の未来はない」と語っていたと述べている[1]。1940年に雑誌『華北評論』を創刊、日中戦争の非を唱える。

戦後、浅利慶太のつてによる、中曽根康弘(のちの首相)の紹介で、当時、アメリカ司法長官であったロバート・ケネディと会見し、「このままいくとベトナム戦争は失敗する」と、かつての日本が満州国で民政をおろそかにした例を挙げて指摘した。これにロバート・ケネディは意見書の提出を求め、その後ハワイで書き上げたものを提出した。

・・・・・・・・・・(転載ここまで)

笑っていいとも、に司会のタモリ(祖父森田真 満州繋がりで)小沢健二⇒安倍晋三⇒木村拓哉(ジャニー喜多川)でテレホンショッキングで紹介されたそうです。

これで彼らは繋がってしまいます。

そして、この世の中はまたもや小さな一族に牛耳られていて、庶民たちはその劇場を見させられているのです。

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2 コメント

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Unknown ()
2019-07-17 17:38:20
自分も満州に行ってた祖父がいるから日本を牛耳れるのか…(困惑)
こういうブログって精神に異常がないと書けないんだなと思った(小並感)
返信する
 (ikemenmassan)
2019-07-18 04:46:11
祖先が満州に行っているからといって、みんながみんな栄えることはできないですよ。
あなたのように、他人のブログにわざわざ誹謗中傷しにくるような能力の低い人、何も取り柄のないような人はさすがに、日本を牛耳れないでしょう。

あなたも、世の中のために社会の役に立つような仕事ができると良いですね。
返信する

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