精神科医療は思想警察なのか?

児童思春期病棟→精神科急性期病棟→精神科救急病棟→精神科訪問看護ST→PSW→特定保健指導員→看護教員。

看護の専門性って一体何だろうか?

2020年01月18日 | IM理論

『早く死にたい』

「楽に死なせて欲しい」

これが日本人の死生観です。

心のうちにある不安や寂しさ、孤独感を誰にも話さず、家族や医療関係者に囲まれながらも、「不安と孤独の中」で死んでいく。

自分の人生について振り返る、向き合うことほど恐ろしく、怖いものはないのが日本人なのです。

「自分の意志を持たず、ただ会社の奴隷になり、定年退職後は国、政府の奴隷となって年金生活を細々としてきただけの人生だった」

人生で一度も輝くことなく終わった、奴隷の人生だったと思いたくないからなのかもしれません。

 

「気をしっかり持つんだよ、死んじゃいやだよ」

危篤になって初めてかけられる声。

「危篤になる前から、私のことを大切にしてほしかったんだけど」

これが死ぬ前、臨死を迎える人の気持ちではないだろうか?

 

家族は配偶者は取り残される一時的な「寂しさ」

「これから自分はどうやって一人で生きていけばいいのか?」という残された不安

「かわいそう」といういちじて感情から、

「哀れみの言葉」をかけているだけなのです。

 

こういった危篤の場面での家族の様子を見ていると、どうしても危篤の人ではなく、

どこまでも、家族や配偶者の自己中心的な感情の発言が目立つと、私は感じます。

それもそのはず、

普段は、自己中心的に生きてきて、いざ配偶者や家族がいなくなる、死ぬとなると、「寂しい、残していかないで」となってしまうのです。

本当に相手のことをおもんばかるならば、「本当に人生良く頑張ってくれたね。結婚してくれて、家族になってくれてありがとう」

という素直な気持ちがになるはずです。

そして、その気持ちを病変したり急変するまで黙っていることはなく、「毎日恩返ししよう、毎日感謝しよう、毎日相手を喜ばせよう」と「実践しているはず」なのです。

私たちは「居なくなったら寂しい」「稼ぎ頭がいなくなったら明日から食べていけるだろうか?」「子供の世話をする嫁さんが死んだらどうやって家事育児していこうか?」という独りよがりで利己的な「情」「感情」に左右されて生きているのです。

しかも、そういった利己的な感情を満たすために、相手に良くすることを「愛」だと思って生きています。

私はこちらのブログや音声で、「真実」「愛」について知りました。

RAPT有料記事398(2019年8月19日)気持ちだけの愛を、主は愛とは認めない。行いと成果の伴った愛だけを、主は本物の愛だと認めて下さる。

RAPT有料記事394(2019年8月3日)主は全てのことを愛で行い、意味があって行っておられる。だから、どんなことがあっても主の愛を疑うことなく、義を貫き通しなさい。

 

愛とは、『相手のことをを24時間365日考え続け、どうしたら相手が喜んでくれるだろうか?だけを考え、喜ばせ続けることによって自分も喜びや幸せ、達成感を感じ続けること』です。

そして『常にギブアンドテイクの関係でなくては行けないため、倍に返していくことで維持することができる関係性』のことです。

男女の恋愛や家族愛などは、蝋燭の日のようなもの、お線香の炎、若者の恋愛は「花火のような一瞬のもの」でしょう。

それらは愛ではなく一時的な「好意」「すきになる」といった「愛情」でしかないためいずれその愛情は冷めてしまうのです。

「与えあう練習をしていないから」求めるばかりで「与えあい続ける喜びを知らないから」なのです。

決して、自分の欲望だけを満たそうとする、「自己中心的な考え」を元に行われるものではありません。

「24時間、365日、相手と気持ちが一つになっていなくては愛ではない」のです。

 

実は、私自身このような「愛」を知りませんでしたし、このように「愛を感じ続ける事がなかった」のです。

人間同士の愛の原動力があくまでも低次元な「欲望」をベースにしているからです。

 

人間よりももっと大きく、偉大な存在、何でも持っている存在から、常に愛が注がれている。

いつも愛してもらっているという事実に気付かずに生きてきたのです。

 

本当に、偶然が重なり続け、今の人生があるのです。

しかし、その偶然はどうして起こり得たのか?という事実を説明することができません。

 

このような落下物の事故は年間に数件起こります。

私たち人間は「常に死と隣り合わせの状況下で生活している」のではないでしょうか?

交通事故などは、ほんの数秒脇見するだけで、信号無視したり、対向車線にはみ出て正面衝突してしまいます。

こちらがどれだけ気を付けていても、相手側の運転手に一瞬魔が差してわき見や考え事でもしようものなら、正面衝突の大事故につながってしまうことはお分かりだと思います。

ですから、一度家を出て、再び帰宅するまでの間、無傷、無事故で帰ってこれる確立の方が低いと思います。

車を運転する人は一度、今日一日で通過した対抗車両の台数を数えてみると良いかもしれません。

対抗車両だけではありませんね。

後続する車も一瞬脇見をすれば追突事故を起こします。

「自分には関係ない」

「運が悪かったからだ」

人間はその事実を直視しません。

この瞬間、一瞬一瞬、奇跡的な確立で生きているのです。

正確に言えば、生かされているのです。

「地球の軸や軌道をコントロールしているのは誰でしょうか?」

「重力、引力は偶然できたのでしょうか?」

これらのことが偶然起こることであるならば、地球以外にも私たちと同じような人類がいてもおかしくありません。

しかし、そのような事実はないのです。

そう考えると、私たち人間は「どれだけ大きくて、一方的な愛で守られているか?」と気付くことができます。

「一瞬の偶然で、私たちの人生は終わってしまう」という事実、人間の一生の儚さも同時に理解できると思います。

 

私たちの一生は実は、こういった偶然、奇跡の連続によって支えられているのです。

しかし、この事実に人間は気付くことができません。

この恵みに感謝することができません。

「生きていることが、当たり前」となっており、自己中心的な欲を追及しようとばかり躍起になっています。

もしくは、奴隷のように会社勤めしたり、親の奴隷となり、義務的に学校に行き、生活の奴隷となり義務的にお金を稼ぎ、休日はただ疲れやストレスを処理するためにダラダラと怠惰に過ごしたり、寂しさを埋めるため、安心を得るために友人や異性との時間を過ごしたり、趣味に没頭しているだけで、束の間の休日が終われば、また「社会の奴隷のような日々」が始まるという事実を見て見ぬふりして日々すごしているのです。

「目的を持たず、会社や親から目的を与えられて生きているだけ」の奴隷のような人生を生きているのではないでしょうか?

私たちはいつの間にか「感謝すること」を忘れてしまいます。

「生かされていたことを忘れてしまっている」のです。

この地球があるから、私たちは生きていることができるのです。

 

いつからあったのでしょうか?

どういう目的で誰が造ったのでしょうか?

人間はとても傲慢で「自分にできない事は、他人もできない」と小さな物差しでしか考える事ができません。

そのくせ、有名な医者やスポーツしかできないアスリートや、広告力で有名になっただけの芸能人をカリスマ扱いし、それこそ「超人」「神」のような扱いをします。

医者や芸能人も有名アスリートも「地球を作ることや酸素を作ること、太陽を作ることもできない」のです。

人間は「目糞鼻糞を笑う」程度の差しかないのです。

どんな名医もアスリートも、一瞬の事故や事件で命を奪い取られてしまうのです。

 

ですから、「ただ人生を目的なく、だらだらと、安定志向だけで嫌々生きること」ほど勿体ないことはありません。

そして、それほど「辛く、つまらない人生はない」のではないでしょうか?

 

本当に心からやりたい事を見つけ、どうにかして自分の好きな事、夢中になれる事で、食べていけるように、生活していけるようにしていくこと、小さな個人事業でもいいため、世の中から必要とされることを始めていくことが、アイデンティティを確立したことになるのです。

ですから、他人からの評価やプライドを満たすために、公務員になったり有名企業に就職するといった愚策はとるべきではないのです。

大企業や大手銀行が人員削減、リストラする時代が来ました。

しかし、人生100年間、私たちは生活していかなくてはいけません。

衣食住を求め、いやいややりたくもない仕事をして義務的に過ごすということは「100年間奴隷を続けること」ほかありません。

「奴隷になること」が人生の目的となってしまっては、アイデンティティを確立したとは言えません。

「小さなことだが、私にしかできないことが見つかった。人間に生まれてきてよかった」

と思えるような目的をみつけ、目標立てて毎日必死に生きる事がアイデンティティを確立したと言えるのです。

「看護師、安定してるし、社会的地位も高い。看護師やってるというと社会的信用性も高いから」

「患者さんにありがとうって言われるとうれしいから」

その程度の理由で看護師を目指す人はアイデンティティを確立してません。

モラトリアム人間だと思います。

「あなたにしかできないことを実現するために、あなたの個性才能を生かすために、看護師になる必要がある」という前提で看護師を目指す、つまり看護師になることが手段であるならば、アイデンティティを確立したと言えるのです。

つまり、「看護師になったから人生の成功者になれる、一生安泰で幸せになれるという保証は1%もない」のです。

 

それこそ、「医療から見離された人を看病したい。励まし続けたい、希望を与え続けたい」ぐらいの気持ちがないなら

「何年かかってもいいから医師を目指すべき」だと私は思います。

「医療において看護は必要なもの」ですが、現代医療は医療あっての看護であるのです。

勘違いしてはいけません。

役割が違うだけと教わりますが、立場や責任も違います。

看護師に責任がないわけではありません。

安全管理、事故などに関して看護師は責任を負います。

「受け持ちの看護が悪いから良くならない」と文句を言ってくる患者はほとんどいませんが、治療が悪かったと文句を言ってくる患者や家族は枚挙にいとまがありません。

治療における結果に対しての責任は最終的には医師が負うのです。

 

病院において、お金がとれるのは、医師による医療行為であって、看護はあくまでもホテル代、入院医療費の条件なだけなのですから。

日本の医療システムが、看護が単独でなにかを実施しても何も生み出さないシステムを続けているのです。

 

それこそ、看護が国民皆保険制度や健康保険制度に依存せず、クライエントや患者から自由診療によって必要とされるまで専門性を高めることができないと、つまり、看護独自で自立した採算が取れるようにならなければ、本当の自立性はありません。

医学部入学という高いハードルを越えてきた人を教育する医師養成システムと、

とりあえず誰でも彼でも入学させて、量産していく「質より量」の看護師養成制度とで違いが出るに決まっています。

 

医師の知識技術の専門性、教育研修システムに看護は到底かないません。

国民皆保険制度が崩壊すれば、業務独占は見直され、直ちに看護師は不要となるでしょう。

 

医療法が緩和・改正され、保助看法が改正され、業務独占がなくなり、診療行為の補助を誰がやってもよくなれば看護は不要になります。

こういった法律は「患者の安全、適正な医療を守るため」といいながら、「医療従事者の仕事や生活、立場を守るための法律」でもあります。

 

看護業界は「看護の力」「看護の独自性」と言いながら、現実は「権限や診療報酬は医師のおこぼれにあずかっている」という矛盾の中で仕事をしています。

そして、100年1日のように、その現状は打破されず古い制度にしがみついています。

 

こういった古いものを守る、時代の変化についていっていない「独占市場」はいずれ崩されます。

それは近いうちに起こるでしょう。

内側から起こるのか?外側から起こるのか?は現段階ではわかりません。

 

看護によって回復しているのでなく、

土日は清拭しない、コミュニケーションも取らず身体面しか見ない、診療の補助、処置をしているだけなら、どこに看護の必要性があるのでしょうか?

 

教育に携わると、看護には専門性があるとハッキリわかります。

しかし、看護業界、トップがいつまでも医療業界に依存していては、いずれ医療ヘルパーと同等とみなされ、淘汰されていくのは明らかでしょう。

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